午の歳に因んで、これまで撮影した馬頭観音の写真を整理していて、三浦半島域にも結構多数の馬頭観音碑のあることに気付きました。文字塔が庚申塔群に紛れて整理されていることの多い馬頭観音碑ですが、座像、立像も少なからずありますし、全国的にみれば造塔密度の高い地域であるのかも知れません。
今日は、記憶の中で馬頭観音が多数集められている4か所を見てきました。
【馬頭観音マップ】(三浦半島近辺)
田浦馬頭観音堂:田浦町3丁目95
馬頭観音が6基集められていて、そのうち4基が文字塔で、残りの2基が坐像です。正面左の座像は三面八臂、右は一面二臂でいずれも馬口印と思われる印を結んでいます。三浦古尋録、田浦町誌に記載がないので、昭和以降の時代に集められたものと思われます。
なお、田浦町5丁目64にも田浦観音堂があります。以前は馬頭観音像が祀られていたとの記録があるのですが、再建後は聖観音像に変っています。
馬頭観音:浦賀3丁目20
県道208号線沿いに7基が集められて、全て文字塔です。造立年は明治、大正、昭和となっていますので、最近まで信仰を集めていたことがわかります。
馬頭観音:浦賀1丁目11-6
3基あって、左が三面六臂の座像、中央は摩滅が著しいのですが、こちらも恐らく同じ三面六臂の座像です。右は文字塔で『南無阿弥陀佛』と書かれていて、その下には『馬牛』の文字も有りますので、観音菩薩(Amitābha)の化仏が阿弥陀如来とされていることからも、これも馬頭観音ではないかと思われます。
浄林寺馬頭観音堂:馬堀町4丁目14
馬頭観音碑は全部で13基、うち2基が菩薩像です。中央の像は三面六臂の立像、一番右は三面六臂の座像です。これら周辺から集められた思われる塔碑の他に、観音堂内には三面二臂の立像があるのですが、こちらは昭和以降の再建時に作られたものと思われます。
『馬堀』の名称の由来も含めて、三浦古尋録にも記載があり、江戸後期には馬頭観音堂のあったことが確認できます。ただし、注意深く読むと馬頭観音の信仰自体の導入時期については記載がありません。『馬堀の地名があるので馬頭観音信仰が広まった』のか、『馬頭観音信仰の浸透した地域なので馬堀』の伝説が作られたのか、については憶測の域を出ないと思われます。名馬『イケヅキ』についても、頼朝が飼育していた名馬と名前が同じであることまでは確かですが、『馬堀のイケヅキ』が頼朝と関係があったかについては、源平盛衰記、東鑑などの幕府側の史料(内海,1969; 菅野,2021)からは読み取れないようです。
馬頭観音:坂本1丁目1-4 (2017-10-28)
石碑が20基以上集められていて、うち少なくとも2基が座像です。(左1基は如意輪観音かも知れません)
創設者 横須賀運送組合 昭和五年九月十七日
この坂は、とても急な坂でしたので、上り下りの馬力(荷馬車)が大変難儀をしました。ここでたおれた馬の霊を慰めるため、有志の手で馬頭観音が建てられ区した。
横須賀市中央地域文化振興懇談会
平成二年三月
【まとめ】
馬頭観音(Hayagrīva)の像は、憤怒の形相を顕にすることが多く、他の観音化身(聖、十一面、千手、如意輪、不空検索、准胝)とは異なり、菩薩というより明王に近い性格を持っているとされています。観音信仰自体は、初期大乗仏教の頃、即ち紀元一世紀頃には成立していた(三友,2007)と考えられていますが、馬頭観音については、それよりかなり下った七世紀までに成立したとされ(干潟, 1950)、その後まもなく八世紀には我が国にも伝来していた(田中・星山,1986)ことが分かっています。造塔の最盛期は江戸時代だったようですが、昭和になってからの造立も確認できますので、最近(あるいは現在)まで信仰されていたと言えます。
我が国に於ける観音菩薩石塔に関する包括的な論文は見当たらないのですが、少なくとも三浦半島域では、他の観音化身に比べて馬頭観音碑が圧倒的に多く見られます。地蔵菩薩と同様に路傍の石碑、特に文字塔が多いのですが、地蔵菩薩では一般的な立像は稀で、姿を刻した像では三面六臂の座像が多いようです。なお、千葉県(旧上総国)では多く確認されている『馬乗り型』(上村,2018)は、これまでのところ全く見かけていません。
これまで撮影した馬頭観音碑の位置をプロットしてみると、三浦半島の西海岸では少ないように見えるのですが、馬頭観音碑の調査をしていたわけではいため、網羅的でなかったからかも知れず、特徴と言えるかどうかは不明です。仮説としては、西海岸が当時の文化交流の主要路であった浦賀道から逸れていたためかも知れません。
下記に現地の案内板を転記します。
馬頭観音堂
平安末期、上総国(千葉)の暴れ馬が村民に追われ浦賀水道を泳ぎ渡り、小原台に着いたという伝承があります。のどが渇いた荒馬は蹄で地を掘ると清水が湧き出し、のどを潤すと駿馬に変わりました。そこを「蹄の井」と呼び、「馬堀」の地名の由来となりました。
馬は美女鹿毛と呼ばれ、衣笠城主。三浦義澄から源頼朝に献上され生唼
後に宇治川の合戦で、佐々木高綱は生唼を拝領し梶原景季の麿墨
堂には馬の蹄鉄や手綱が奉納され、競馬の騎手が必勝祈願に訪れています。
浄林寺の本堂には馬頭観音が祀られています。
大津行政センター市民協働事業・横須賀Cアカデミー
馬頭観世音菩薩縁起
当山一帯の地は古来より観世音菩薩のご出現になられる霊地であると言い伝えられて参りました。
その昔房州嶺岡に「今の千葉県江見町のあたり」に凶暴な馬が現れ住みつき村人はこの馬を「荒潮」と名付け恐れて近寄りませんでした。しかしこの馬がしだいに畑の作物を荒らすので村人が追い払うことを決めました。馬は村人から逃げ海中に飛び込み当時の相模の国、小原台の地にたどり着きました。絵馬は疲れ渇きを癒すために傍らの岩を足で掘った処、清水が湧きだしその水で渇きをいやし見事に駿馬に生まれ変わりました。この噂を聞いた当時の領主三浦荒次郎義澄はこの馬を捕獲し時の将軍源頼朝公に献上したところ大変お慶びになられ、「池月」と命名されました。寿永二年、宇治川の合戦に際し頼朝公はこり池月を佐々木四郎高綱に与えられ「平家物語」に語られるように梶原景季の相場「麿墨」と先陣の争いとなりこの世に名声を残すことになりました。当初の馬堀という地名はこれにより起こり、馬の掘った井戸は霊水が今も尚尽きることがありません。
浄林寺第卅七世祥誉泰隆代
平成十四年四月吉日 横須賀市馬堀町 浄林寺
浄林寺(浄土宗)
創建は永正二年(一五〇五)で本尊の阿弥陀三尊は江戸期の承応三年(一六五四)の柵です。
三浦地蔵尊第三番、三浦薬師第五番札所で地蔵尊は十二年毎の卯年にご開帳され、薬師は三三年毎で次の開帳は二〇五〇年の予定です。
三浦観音第二十番札所でもあり、馬頭観世音菩薩が本堂に祀られ、坂上の馬頭観音堂には、「馬堀」の地名の由来となる名馬生唼
境内には三浦半島では珍しいムクロジの名木があります。ムクロジはサポニンを含んでいるのでインドでは石鹸を意味し日本では種は羽根つきの玉に、果実は石鹸の代用として使われてきました。
大津行政センター市民協働事業・大津探検くらぶ
以下は、関連文献からの引用です。19世紀初頭に成立した『三浦古尋録』が元になっている様ですが、その元文献等は不明です。
【三浦古尋録(文化九
○馬堀浄林寺鎌倉光明寺末寺
○靑楼
○馬堀蹄ノ跡トテ坂中ニ有是ハ元暦ノ頃上総ノ国ニ出生シケル荒馬海上ヲ游
【新編相模国風土記稿(天保12
○浄林寺 七重山寶壽院と號す、浄土宗鎌倉光明寺末 三尊彌陀を本尊とす、開山は廓譽と云ふ 寂年を失ふ、觀音堂近き頃回禄に罹りたれば本尊十一面觀音は假に庫裏に置けり、
【古老が語るふるさとの歴史 南部編(1982)】
馬堀の由来と名馬「生唼」
今から八百年ほど前の元暦年間の事。ある日の夜、上総の国(現在の千葉県)から一頭の荒馬が、東京湾を泳いで、小原台に住みつきました。
この馬は、鹿毛
ところが、小原台は小高い丘なので食べ物には不自由しませんでしたが、水がありません。美女鹿毛は毎日毎日、水を求めてさまよいましたが見つからず、とうとう疲れて渇きで倒れてしまいました。
やがて夢の中で観音様のお告げを聞き、目を覚ました美女鹿毛は、お告げに従って山裾を蹄で掘りました。すると不思議にも、そこからきれいな清水がこんこんと湧きだしたのです。美女鹿毛は、この水を飲んで元気になりました。
このことから里の人は、馬が蹄で掘ったということで「蹄の井戸」と呼ぶようになり、自分たちの里を「馬堀の里」というようになりました。
蹄の井戸の水を飲んだ美女鹿毛は、もとの荒々しさはすっかりなくなり、性質の良い、おとなしい馬になりました。里の人達はこの馬を生け捕り、領主の三浦義澄に献上しました。義澄は一目見るなり今までにない名馬と驚き、「荒潮」と名付けて大事にしました。
後になって、義澄は荒潮を源頼朝に献上しました、頼朝もこの馬を見るなり大そう気に入り「生唼」と名付け秘蔵したといいます。
宇治川の合戦で先人の名乗りを上げた佐々木四郎高綱は、戦いにおもむく時、頼朝に懇願して生唼をもらい、この馬に乗ったおかげで誉を得ることができたのだといわれています。
【横須賀こども風土記(1988)】
馬堀の浄林寺あたり
浄林寺 馬堀小学校の正門のわき、防衛大学校への登り坂の左手にあります。浄土宗の寺で、山号を七重山
三浦札所第二十九番に数えられています。境内の入口左手には、身の丈一メートル二〇センチの地蔵様が祀られており、近くにあるある馬頭観音とのかかわりから、馬齢や蹄鉄(馬のひづめの底につける鉄具で、ひつめの磨滅や損傷、あるいは滑走を防ぐためにつかわれる)などが奉納されています。奉納されたものの年号をみると昭和二年と記されたものもあり、まだそのことろは、馬がかなりたくさん三浦半島にいたことがわかります。また、三浦薬師の第五番に数えられています。
蹄の井と馬頭観音 文化九年に刊行された「三浦古尋録」という書物によれば、相州の大津村(現在の馬堀小学校前の防衛大学校入口で。浄林寺山門のすぐ上)に「馬堀
ところで、水を掘りあてた「美女鹿毛」は、この水を飲むなり、もとの荒々しさはすっかのなくなり、性質のよい、おとなしい馬になったので、その後、領主の三浦市を通して鎌倉の源頼朝に献上されたいわれています。そして、源頼朝は、この献上された馬に生唼
のちの時代になって、「蹄の井」の水は百日咳にきくといわれ、近くの人ばかりでなく、諸国まで知れわたり、実に霊験あらたかであることから、堂を建て、馬頭観音を安置するようになったといわれています。現在の〱は昭和三四年に落慶したものが昭和六〇年五月に火災にあい、後に建てられたものです。
【横須賀雑考(1968)】
四 馬堀の里
横須賀市馬堀中学裏に小原台や二葉方面に登って行くいく坂道がある。その登り道の途中左側に馬頭観音さんを祀った小さな御堂があり、その下に「蹄の井」と呼ばれる小さな泉がある。この和泉の水は百日咳によくきくというので近在近郷から「お水頂戴」とてビンょ持って汲みに行く。
元暦年間のころ、上総の国の嶺岡近在に生まれた鹿毛の荒れ馬が、ある夜のことはるばる東京湾を泳ぎ渡って走水に着いた。そして小原台を目指してかけ登り森の繁みに姿を消して雑草や笹の葉などをたべて棲みついた。里人たちは時々この馬を見かけることがあり、口をそろえて美しい馬だとほめていた。いつとはなしにこの馬を「美女鹿毛」と呼ぶようになった。
この美女鹿毛は森には食べ物があっても何しろ高い土地だけに飲み水に困ってこれを求めていた。毎日のように坂を下ったり上ったりうちらこちらと水を求めさまよっていた。そのうちにあまりの疲れと渇きのためとうとうさほどの荒馬もぐったりとなり、昏睡してしまった。
やがてこの馬は観音さんの霊夢に感じて目が覚め元気を取りもどした。夢のお告げに従って蹄で傍の岩を掘れば何と不思議のことに掘ったところから清水がこんこんと湧き出てきた。喜び勇んでこの水を飲んで渇を癒すことがてきた。これ以来さしもの荒馬も性質がすっかり変っておとなしくなったということである。この蹄で掘ったというのが今に残る「蹄の井戸」で、地名の馬堀もこれから起こったものだという。(三浦古尋録)
五 名馬池月(あるいは生唼)
自ら掘った蹄の井の清水を飲んでおとなしくなった美女鹿毛を、里人達はこれを生け捕って領主の三浦荒次郎義澄に献上した。喜んだ義澄はすぐさま矢部の館に届けさせて乗ってみた。ところが義澄は今までにない名馬だと驚いて、早速この馬にまたがって衣笠の館に父義明を訪ねてこの馬についてのいきさつを物語った。これを聞いた大介義明は「これこそ武運の吉兆」だと喜び義澄にその飼育を命じ、荒潮を泳ぎ切って来た馬とて、「荒潮」と名付けた。
後年、義澄は源頼朝の命を受けて佐原十郎義連に云いつけ、この荒磯を走水の海に乗入れ六浦の津まで行きそこからさらに鎌倉に進んで頼朝に献上させた。頼朝もこの荒磯を愛して「生唼」と名づけて秘蔵していた。
宇治川の合戦に先陣の名乗りをあげた佐々木高綱は、先に頼朝に懇望してこの生唼をもらいそのために名誉を得たのだということである。(三浦古尋録)
【三浦三十三観音】
【文献】
干潟龍詳 (1950) 馬頭観音考, 哲學年報, 10, 1-13, 10.15017/2328848, Accessed: 2025-12-31.
田中義恭・星山晋也 (1986) 馬頭観音 (In 目で見る仏像「観音菩薩」目で見る仏像シリーズ3), 77-83, 東京美術, 東京.
三友健容 (2007) 観音菩薩と普門品, 法華文化研究, 33, 125-136, URL: http://hdl.handle.net/11266/00008654, Accessed: 2025-12-31.
加藤山寿(1967)校訂三浦古尋録、菊池武, 小林弘明, 高橋恭一 校訂、横須賀市図書館、横須賀、p34-36.
横須賀市市長室広報課(1982) 馬堀の由来と名馬「生唼」 in 古老が語るふるさとの歴史 南部編、p209-210、横須賀市市長室広報課、横須賀.
辻井善弥(1988)横須賀こども風土記中巻, 横須賀市民文化財団、横須賀、p22-24.
蘆田伊人(1685)巻之百十五 三浦郡巻之八 衣笠庄、In 蘆田伊人編、大日本地誌大系㉓新編相模国風土記稿第五冊、p316.
安田初雄 (1959) 中世以前の東北の牧馬, 人文地理, 11(5), 389-402,479, DOI: 10.4200/jjhg1948.11.389, Accessed: 2025-12-31.
上村繁樹 (2018) 工学演習を通した木更津市の石造仏の分布図の作成, 木更津工業高等専門学校紀要, 51, 7-10, DOI: 10.19025/bnitk.51.0_7, Accessed: 2025-01-03.
菅野文夫 (2021) 文治5年奥州合戦三題-『吾妻鏡』演習から-, 岩手大学文化論叢 第10輯, 1-10, URL: https://iwate-u.repo.nii.ac.jp/record/15371/files/rss-n10pp1-10.pdf, Accessed: 2025-01-01.
植月 学・覚張隆史・櫻庭陸央・船場昌子 (2021) 中世南部氏の馬利用─根城跡出土馬の動物考古学・同位体化学的研究─, 帝京大学文化財研究所研究報告, 20, 233-246, URL: https://cir.nii.ac.jp/crid/1520293202223136768?lang=ja, Accessed: 2025-01-01.
内海弘蔵 (1969) 10、佐々木生唼を賜る・源平盛衰記, 121-179, In 古文評釋, 東京成美堂、東京, URL: https://dl.ndl.go.jp/pid/877530/1/66, Accessed: 2025-01-01.
真鍋元之 (1978) 三浦の三十三観音(かくれた名刹シリーズ), 142p, 鎌倉新書, 東京,
横須賀文化協会(1968)四馬堀の里、五 名馬池月、横須賀雑考、p132-133, 横須賀文化協会, 横須賀.
松浦豊 (1985) 三浦半島の史跡と伝説(写真で綴る分シリーズ 神奈川 4), 215p, 暁印書館, 東京.
【その他、本日撮影】
馬堀より望む富嶽
ムクロジ Sapindus mukorossi
カナリーヤシ(フェニックス) Phoenix canariensis
イソギク Chrysanthemum pacificum


