小倉を巡って(2019.10.10)

 新幹線待ちの二時間ほどの間に小倉城の周辺を廻ってみました。
【八坂神社】


【猿田彦社】
   猿田彦社(庚申堂)
御祭神 猿田彦命
祭礼日 十月十一日
御由緒 詳しくは不明、元は拝殿に向かって右前に鎮座されていたが、平成二十年の境内整備にともないこの所に御遷座された。これを記念として当日を祭礼日としたものである。その時、「庚申堂修復」としたためられた棟札が出て来たが、新たに今回の御遷座の謂われも合わせて納め御遷座をした。


【三本松高倉稲荷神社】
三本松高倉稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神
   豊受大神又は保食神と申上げ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、火難防止並びに鍛冶職、細工師の守護神であります。
由緒
 神社紀によりますと、永録四年の創建(西暦一五六一年)とありますが、もっと古い延暦年間(西暦七八二年頃)旧小倉城三の丸に祀られてありました。興亡一〇〇〇年盛衰はありましたが天正六年大友宗麟のため兵火にあい社殿も残らす焼失してしまいました。
 旧片野村の三本松の枝に稲荷の神霊が顕はれたのでこの神の再現であるとして以来氏神としてこの地(祇園の森)に祀られたのであります。
 細川忠興公が小倉築城後祇園社の分霊(現八幡神社)南殿に勧請された後、祇園の旧跡の故事により浮殿(御旅所)を新設し、修繕経費ほ全て領主の負担としました。以来小倉祇園祭の廻り祇園には東の御旅所として知られ旧藩時代ら明治大正昭和と受継がれ人々からは三本松の御稲荷さんと敬神されて今日に至っております。
          敬白


【水之御祖社】
   水之御祖社(みずのみおやしゃ)
御祭神
御井神(みいのかみ)鳴雷神(なるいかづちのかみ)水速比女神(みずはやひめのかみ)
   祭礼日 十月二十一日
御由緒 神社、社務所の奥の床下に古井戸があり、その底に祀られていた御井神を、また出雲の大原群聳える八雲山より鳴雷神を、また日向の高千穂峡の槵觸(くしふる)神社の近くの天の真名井(あめのまない)より水速比女神の御神霊を奉戴し、合わせて水之御祖社として建立する。これを記念して祭礼日とする。またこれより後、古井戸はしかるべき埋設された。


【菅原神社】

  菅原神社由緒記
一.祭神 正殿 菅原道真公
     相殿 豊日別尊他八柱
一.由緒
 本社、天満宮ト号シ小倉城主小笠原忠眞公特ニ尊崇深ク、慶安元年二月大イニ祠宇ヲ改造シ社領ヲ附シ神宝数品ヲ奉納シテ城下民ノ繁栄ヲ祈ル。寛文元年二月忠眞公実ニ拝殿ヲ建造シ和歌ヲ奉納シ、盛大ナル祭典ヲ行ウ。
貞享四年二代藩主忠雄公社殿ヲ現今ノ地ニ移シ本殿・幣殿・拝殿ヲ新ニ建立シ、社前ニ浮鵞ノ池ヲ造ル。
 明治維新神佛分置ノ制トナリ菅原神社と改稱ス
 明治十三年六月散財神社五社ヲ合祀ス
一.神事 入学祭     三月二十五日
     春祭(御神幸祭) 四月二十四日・二十五日
     夏祭      七月二十四日・二十五日
     納筆祭     七月二十五日
     新嘗祭     十一月二十五日
     月次祭     毎月一日 二十五日


   菅原神社(古船場天神島鎮座)
祭神
 菅原道真(雷神、慈悲の神・正直の神、極楽往生を守護する神、信義を守る神、学問・文学の神)を主神とし、
 豊日別尊(トヨヒワケのミコト)(豊前・豊後の国の国神)
 水分尊(ミクマリのミコト)(水の神)
 大山咋命(オオヤマクヒのミコト)(山の神)
 景清霊(カゲキヨのミタマ)(清水の神・目の神)
 市寸島比賣命(イキシマヒメのミコト)(海の神)
 豊總耳皇命(トヨトミミのスメラミコト)(聖徳太子)
 木花咲耶媛命(コノハナサクヤヒメのミコト)(山の神の娘・草・木・花の神)
 宇迦之魂尊(ウカノミタマのミコト)(五穀の神)お稲荷様
 猿田彦命(サルタヒコのミコト)(産業・交通の神)
を祀る神社で
神社の創建  右大臣・菅原道真公は延喜元年(九〇一)四月廿五日、太宰権帥(だざいごんのそつ)として京都より大宰府へ左遷され、筑紫へ向かわれる途中、神嶽(かんたけ)川のほとり、とある小島に一休みされ、風光明媚な企救(きく)の浦を賞でられた跡と伝え、菅公亡き後、その遺徳を偲び一祠を建立したのが始まりです。今に『天神島』との地名を残している。-以来幾百星霜、この地の変遷とともに、その時々の人々の篤い信仰をうけ、農業・漁業・商業・産業また交通の神々を祀る末社を配し、小倉府内(城下町)の氏神として信仰を集め、明治十三年六月、国策によりこれらの末社(吉野社-古船場・松尾社-紺屋町・生目八幡神社-鍛冶町・高住神社-鍛冶町)を合祀し、今日に至っています。
神社の歴史  ここ小倉の地は、古来交通・軍事上の要衝の地である為、各時代を通じて幾多の抗争の場となり、南北朝期には中・小豪族の構想、戦国期にし島津・大友・毛利氏の抗争の場となり特に大友宗麟はこの小倉の地を焼き払ったと伝う。しかしながら「本社」は庶民の天神信仰に支えられ、その度に再建された。慶長七年(一六〇二)一月細川忠興が小倉城築城の砌り、一小祠となっていた「本社」を瀧本院と共に配祠し、城下民の信仰をすすめ、さらに寛永九年(一六三二)二月小笠原忠実が十五万石の藩主として入城後、婦人永貞院の尊崇特に厚く、若君(二代藩主忠雄(ただかつ))の養育に学問の神・菅公の教訓を以って当ったことにより、忠実は慶安元年(一六四八)二月には拝殿を造築し、「威徳寺」の尊号と扁額を奉納し、この年九月廿五日には特に盛大な祭典を執行した。改めて国守となった二代藩主忠雄は、幼少よりの成育の願解(がんとき)をなし、以来「若君」の養育祈願は累代に及び、城下民もこれに習い、子女のすこやかな成長を願う城下民の「養育守護」の神としても信仰を集めた。
 当時、神社においては春の例祭は「菜の花祭り」と称され、菜の花の生花を捧げる行事が行われ、城下民の子弟は手習師匠に引率され、礼儀正しい参拝がにされた。
 幕末に至り、慶応二年(一八六六)八月一日の戦火-これを小倉では「御変動」と称している。-で小倉の町共々焼失したことに加え、明治初年の「神佛分離の制」の混乱で、神苑(しんえい)の維持も困難となり、御神体は一時、中津軍国分村(現在の京都(みやこ)群国分寺)に遷座されたが、明治二十五年(一八九二)九月、当時の初代小倉市長吉沢直行・初代企救郡長津田維寧外十数名の熱心な請願をきっかけとして、全小倉の氏子。信徒の手に依り入社地に立派に再建され(神社棟札記)さらに現社殿は昭和三十七年に再建された。
 この様に、ここ小倉の天神島に千数十年前当時の村人の手に依り祀られて以来、神社は、現
在まで小倉の地に生きた人々と共にその盛衰を経て来た。


 以下、その他の写真です。


【参考】
 小倉城
 勝山公園
 夏(1984 朝倉響子):小倉北区古船場町1-35
 魚町銀天街

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