逗子から大船へ

 先週は、港南台から大船へ歩いてみましたが、今日は逗子から大船に向かって散策してみました。
【主な経路】
(新逗子駅)-九木-浄明寺-雪ノ下-扇ヶ谷-山ノ内-(大船駅)


【庚申塚】鎌倉市浄明寺3丁目12-52

市指定有形民俗資料 庚申塚(いなり道)一基
 昭和五一年十二月十四日指定


【鎌足稲荷神社】鎌倉市浄明寺3丁目9-3

  鎌足稲荷神社 Kamatari Inari Jinja
[ご祭神]稲荷大神 Inari no Ôkami
[ご神徳]商売繁盛、殖産興業、家内安全、心願成就、厄除、開運
[由緒]
 大織藤原鎌足公は乳児の時、稲荷大神さまから鎌を授けられ、以来、常にお護りとして身につけ、大神さまのご加護を得られました。大化元年(645)、中大兄皇子(後の天智天皇)らとの協力のもと蘇我入鹿を討って大願を成就された。鎌足公は、翌大化2年(646)東国に向かわれ、相模国油井の里に宿泊されました。その夜、「あなたに鎌を授けて守護してきたが、今や入鹿討伐という宿願をなし遂げたから、授けた鎌を我が地に奉納しなさい。」との神告があり、お告げのままに鎌を埋納し、祠を営んでお祀りしたのが、当神社の始まりです。鎌倉の地名は、鎌足公が鎌を埋納したことによるとされています。
 「お稲荷さま」というとキツネをイメージする人もいますが、キツネは稲荷大神のお使いであって、稲荷大神そのものではありません。
As an infanr, Lord Fujiwara-no-Kamatari was given a sickle by the Inari no Ôkami. By keeping the sickle with him at all times as a charm, Lord Kamatari was granted the protection of the deity. In 645 A.D. hr joined Nakano-ôe-no-ôji (later the Emperor Tenchi) to vanquish the noble Saga-no-Iruka and thus succeeded in fulfilling his greatest wish/ Lord Kamatari then headed a message from the Inari no Ôkami, who told him, “I gave the sickle to you and have protected you ever since, but now you have archieved your greatest wish by defeating Iruka, so you must return the sickle to me and to the land.” Doing ad he was bidden, Lord Kamatari buried the sickle, and this action and his prayers offered up to the god were the beginnings of the Kamatari Inari Jinja. The place name Kamakura id said to signify the lacation where Lord Kamatari buried the sickle, or <<kama>>.


【右大師道碑】鎌倉市二階堂935


【法華堂跡】西御門2丁目

国指定史跡 法華堂跡(ほっけどうあと)(源頼朝墓・北条義時墓)
 この平場は、鎌倉幕府第2代執権の北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。北条義時は、父の時政や姉の政子らとともに源頼朝による開創を助けました。承久3年(1221)の承久の乱においては後鳥羽上皇方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権としてより強固なものとなりました。
 義時は貞応3年(1224)に62歳で没しました。『吾妻鑑』には、源頼朝の法華堂の東の山上を墳墓の地とし、そこに新法華堂(義時の法華堂)を建てたことが記されています。
 義時の法華堂は鎌倉時代の終わりには途絶えたようですが、平成17年(2005)に行われた発掘調査により、8.4m四方の平面正方形の建物跡が確認され、『吾妻鑑』の記述が裏付けられました。
         平成24年3月 鎌倉市教育委員会


 法華堂跡
 三浦泰村の墓
 毛利季光の墓
 島津忠久の墓
 碑を支える玄武
 大江廣元の墓


【(西御門)白旗神社】鎌倉市西御門2丁目1-24

   白旗神社 由緒記
一、祭神  源頼朝公
一、例祭日 一月十三日
一、
 この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって髻の中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。
 正治元年(1179)一月十三日頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し、仏事を執り行い多くの武将も参列した。
 現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和四十五年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。
 持仏……守り本尊として、常に身近に置いて信仰する仏像。


   源頼朝の墓 The grave of Minamoto Yoritomo
 源頼朝は、治承四年(1180)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦二年(1185)に平家を滅ぼしました。また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下三丁目附近)に開いて武家政治の基礎を築きました。
 正二元年(1199)に五十三歳で没すると、自身の持仏堂である法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。
 現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪が整備したものとそれます。
     鎌倉市


In 1180, Minamoto Yoritomo raised an army in order to overthrow the Heike clan, and with Kamakura ad his headqurters, he defeated the Heike clan in 1185.
in addition, the creation of the Kamakura Shogunate in Okura (approximate current lacation – Yuki no Shita 3-chome) established the foundations of the Samurai system of government in Japan.
In 1199, at the age of 53 Yoritomo passes away and was laid to rest at his own place of worship, Hokkedo, which then became a very holy place as his gravesite, Hokkedo was later abolished, however traces of its location remain around the top of this hill.
It is said that the current pagoda in the site was erected by the Shimazu feudal lord, Shimazu Shigehide.


国指定史跡 法華堂跡(ほっけどうあと)(源頼朝墓・北条義時墓)
 この平場は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。治承四年務(1180)平家追討のために挙兵した源頼朝は、同年鎌倉へ入りました。元暦2年(1185)に平家を。文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、鎌倉を拠点とする武家による全国的な政権の基礎を築きました。以降、江戸時代が終わるまで、約700年間にわたり、武家による政権が続くことになります。
 建久10年(1199)に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、のちの時代の武士たちからもあつい信仰を集めました。
 鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存続しましたが、17世紀の初頭までには堂舎がなくなり、石造りの墳墓が建てられました。現在の墓域は、安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪によって整備されたものです。
         平成24年3月 鎌倉市教育委員会


【築山稲荷】鎌倉市雪ノ下3丁目1-32


【旗上弁財天社】鎌倉市雪ノ下2丁目1-3

   旗上辨戝天社御由緒記
 治承四年(一一八〇)八月源頼朝公は伊豆国に源家再興の旗を上げ、石橋山の戦いに敗れて房総に転じ、十月鎌倉に移るや直ちに鶴岡八幡宮を創建し、居館を定めて平家討伐の本拠とした。
 夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(一一八二)大庭景義に命じ境内の東西に池を堀らしめ、東の池(源氏池)には三島を配し、三は産なりと祝い、西の池(平家池)には四島を造り四は死なりと平家滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。
 そして東の池の中に辨戝天社を祀ったのが当社の始めで、明治初年の神仏分離の際境内にあった池の堂塔と共に除かれた。その後昭和三十一年篤信家の立願によって再興され、さらに昭和五十五年九月鶴岡八幡宮創建八百年を記念して、江戸末期文政年間の古図に基づき現在の社殿が復元されたのである。
 因みに辨戝天信仰は、鎌倉時代既に盛んで妙音芸能の女神福徳利戝の霊神として世に広く仰がれている。当社に祀られていた辨戝天像(重文)は鎌倉彫刻の代表傑作で、種々の御神徳が如実に具現された人間味溢れた御神像である。
祭日   例大祭 四月初巳の日  祈願祭 毎月巳の日
旗上奉納
 二引の白旗に御神号を記したのが用意してあります。お申込み下さると願意氏名を記し、祈祷して奉納し、毎月神前に掲げます。
旗上祈祷
 源頼朝公旗上げして後、遂に大願成就した神徳により開店、事業拡張を始め家内安全、商売繁盛、必勝祈願、病気平癒、縁結び等の申込みを受け付けております。
政子石拝観 古来縁結びの霊能があり、姫石とも称し世に知られている。


【紅葉神社】鎌倉市雪ノ下2丁目1


【白旗神社】鎌倉市雪ノ下2丁目1


【鶴岡八幡宮】鎌倉市雪ノ下2丁目1

   鶴岡八幡宮
御祭神 応神天皇
    比売神
    神功皇后
当宮は源頼朝公が前九年の役平定後、康平六年(一〇六三)報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる。治承四年(一一八〇)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の八幡宮を遥拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉還し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に努めた。建久二年(一一九一)大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝公は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整えた。以来当宮は武家の守護神として北条・足利・後北条・徳川各氏も社領等の寄進、社殿の修造を行い篤く尊崇した。
  主な年中行事
▼歳旦祭    一月一日
▼大祓     六月・十二月晦日
 古神礼焼能祭 半年間の罪穢を祓清め、また古い神札やお守りを焼能する
▼ぼんぼり祭  八月立秋前日~八月九日
▼例大祭    九月十四日~十五日 旧暦八月十五日の放生会にちなむ
▼流鏑馬神事  九月十六日 頼朝公により始行された勇壮神事
▼御鎮座祈年祭 十二月十六日 建久二年当宮鎮座日(旧暦十一月二十一日)
         御神楽を奉奏する


 鶴岡八幡宮拝殿
 ビャクシン Juniperus chinensis (市指定天然記念物)
 大イチョウ Ginkgo biloba


【祖霊社】鎌倉市雪ノ下2丁目1


【丸山稲荷社】鎌倉市雪ノ下2丁目1


【新宮神社】鎌倉市雪ノ下2丁目18

  今宮
 四條天皇延應元年鎌倉中處々喧譁闘争ノ事アリ特ニ其ノ五月廿二日ニハ大騒動ヲ起セシト云フ茲日後鳥羽院ハ隠岐ニ崩御シ給フ由リテ斯ハ其ノ怨念ノ然ラシメシ所ナラントテ寶治元年四月大臣山ノ西麓ニ今宮ヲ建テ其院ノ尊霊ヲ勧請シ奉リ順徳院及ヒ護持僧長賢ヲ合祀セラル長賢は承久ノ後官軍ニ属シテ奮戦後捕ハレテ陸奥ニ謫セラレシ者ト云フ今宮ハ又新宮ト書ス。
   昭和四十年 十二月  鎌倉町青年團


【道元禅師顕彰碑】鎌倉市雪ノ下2丁目8

 曹洞宗高祖 永平道元禪師七百五十回大遠忌に値り、我等遠孫茲に心を一にして、禪師鎌倉行化の事跡を些か詳らかにしその恩澤に報いんとする。
 高祖越前入山後五年目の寶治元年(一二四七)八月三日、時に禪師四十八歳、永平寺開基大檀那波多野義重公(越前志比庄の地頭、京都六波羅探題評定衆)よりの鎌倉下向の懇請黙し難く、公の先君鎌倉幕府三代将軍源實朝公供養の爲同年十一月十五日奉修せる鶴岡八幡宮放生會の佛縁を期してか、永平寺叢林を始めて離れ、漸くのこととして鎌倉行化の途に着く。
 禪師がその師、天童如浄禪師の遺誠を固く守り、権門に近づくことを極力厭い能くよく留意し、「只菅打坐」の法燈を行持されたことを拝するとき、この行化は必ずしも心に添うものではなかったと推察される。然し、翌寶治二年三月十三日、永平寺歸山までの凡そ半年餘、その羽多野公の邸を始め名越白衣舎等鎌倉近在の諸處に在って、執権北条時頼公竝びに妻室など、道俗諸縁の求めに應じ、説法授戒等の化導を爲し正傳の佛法を弘められたと傳えられる。以後一生不離叢林のの志を益々強め、世壽五十四歳を以て遷化されるまで、永平寺に在って門弟等を教化示誨された行實等に觸れるとき、感慨深いものを覚えるのは、我等法孫のみであろうか。
 尚 時下って室町時代五山僧の記したものの中に、執政に日々懊悩する時頼公に對して、禪師が大政奉還出家入道を淡々と提言されたと見い出されることは、禪師の佛法中心第一の立場を物語って餘りあろう。
 終わりに、禪師鎌倉滞在中に詠じられたと傳わる和歌を刻し報恩の丹心を表す。
          大本山永平寺監院 南澤道人 撰
  維持 平成十四壬午平年三月吉辰謹拝健之


【青梅聖天社】鎌倉市雪ノ下2丁目7-8

  青梅聖天社
 双身歓喜天(そうしんかんぎてん)(鎌倉市指定文化財南北朝時代作)を本尊に祀ります。
 当歓喜天様は、『新編鎌倉志』巻之三に「鎌倉ノ将軍一日疾劇(やまひはなはだ)シフシテ。時ナラズ青梅ヲ望マル、諸所ヲ尋ヌルニ、此宮ノ前ニ俄ニ青梅実ノル、是ヲ将軍ニ奉テ、終ニ疾癒(やまひいへ)ヌ」とあり、青梅(おうめ)聖天とよばれました。
 歓喜天は退聖歓喜天とも称され、仏教を守護し、邪悪を除去し、諸願を成就させてくれる尊体として信仰されてきました。
 御本尊は男神と女神が「相抱き正位」して顔をみつめあう姿に造られた珍しい像で、歓喜天信仰を考える上でも貴重な文化財です。
 一般には夫婦和合の利益あり、などとも説かれておりますが、足柄峠の『聖天堂』と同様に、峠を往来する人びとの安全を願ってのことでした。
     平成九年十月十三日 市文化財指定
          小福呂坂 町内会


 青梅聖天社
 稲荷社(青梅聖天社境内社)
 石仏(小福呂坂)
 石塔群(小福呂坂)


【志一稲荷】鎌倉市雪ノ下2丁目3

 庚申塔(鶯山)


【岩窟不動尊】鎌倉市雪ノ下2丁目2-21

 庚申塔群


【八坂神社】鎌倉市扇ガ谷1丁目15


【稲荷大明神】鎌倉市扇ガ谷4丁目1-9

   お稲荷様
 世にお稲荷様と申上げている稲荷神社は倉稲魂神(うがのみたまのかみ)をお祭りしたもので今から約千三百年の昔、和銅四年の二月の初午の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。
 この神様は稲がなるイナリの別名が示すように五穀の生育やすべての産業を育成する広大な御神徳のある神ですからあらゆる人々の信仰をうけ全国各地の神社や邸内に祭られています。
 鎌倉で由緒ある稲荷は隠里稲荷で鎌倉風土記によると源頼朝が伊豆の蛭が小島にいたとき病の床につき三晩続けて同じ白ひげの老人の夢を見ました。その老人の言うとおりに薬を飲みますと病はなおりこれが縁で幕府ほ開くことが出来たということです。この白ひげ老人が隠里稲荷の化身であったということです。
 お稲荷様は大切にお祭りしましょう。
     英勝寺


【鎮守稲荷大明神】鎌倉市扇ガ谷2丁目12


【岩船地蔵堂】鎌倉市扇ガ谷3丁目3

岩船地蔵堂
 亀ヶ谷辻(かめがやつじ)に建つこの堂は、古くから頼朝の娘大姫(おおひめ)を、供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。
 木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相模陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵者當時大将軍頼朝公御皇女之守本尊也』との記述があり、続けて元禄三年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が記されています。『北条九代記』にも許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。
 このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに虹をさす木造地蔵尊を前立像として安置し、供養いたしました。
 心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通りください。
  平成十三年十一月吉日     海蔵寺


【亀ヶ谷切通】

 亀ヶ谷切通
 地蔵尊:鎌倉市扇ガ谷3丁目11
 六地蔵


【第六天】鎌倉市山ノ内1523

「第六天」の由来
 建長寺の四方鎮守には、中央五大尊と八幡(東)・熊野(北)・子神(西)・第六天(南)があり、第六天は上町に鎮座する。
 延宝二年(一六七四)の徳川光圀『鎌倉日記』に「円覚寺ヲ出テ南行シテ、第六天ノ森ヲ見ル」とあり、また、延宝六年(一六七八)の建長寺境内図(伝徳川光圀寄進)には、「四方鎮守第六天と記されている。
 社殿に納められた建長寺第一一八世真浄元苗(しんじょうげんみょう)筆の」天保二年(一八三一)の棟札によって、宝永四年(一七〇七)に建立した社殿の破損が著しいため、村人が願い出て再建したことが知られる。
 社殿の形式は一間社流造(ながれづくり)で、幕末社殿としては古風を尊重した造りといえよう。
 社殿内には第六天像が中心に祀られ、前列には持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王像が安置されている。いずれも江戸時代の作で、小像ながらも彫技は丁寧で量感に満ちた佳作である。
 第六天は仏教では他化自在天と称し、魔王の如き力を持つといわれ、神道では第六天神、すなわち、第六番目の神と認識されている。
 神奈川県内にし第六天を祀る社が一八〇社以上あり、厄除けの神や方位神として信仰される。
 現在、建長寺の四方鎮守の中で、その位置と沿革が明らかなのは第六天だけで、建長寺研究上の重要な資料であるばかりでなく、地域にとっても貴重な文化遺産として永く後世に伝えたい。
 また、第六天は上町の氏神でもあり、例祭は毎年七月十五日から二十二日にかけて行われる。
  平成七年六月吉日
     鎌倉市教育委員会 文化財保護課
     鎌倉市山ノ内上町町内会
             加藤利雄 謹書


【稲荷大明神】鎌倉市山ノ内1473


【安倍晴明大神碑】鎌倉市山ノ内


【一福弁財天尊】鎌倉市大船1丁目1


【鹽釜神社】鎌倉市台1丁目5-15

  鹽竈神社
御祭神御由緒
 鹽竈神社の御祭神は
 塩土老翁神(しおつちのおぢのかみ)(別宮)武甕槌神(たけみかづちのかみ)(左宮)経津主神(ふつぬしのかみ)(右宮)の三神を御奉祀する。延命長壽・産業開發。海上守護・安産守護の神・武德の神として御神德高く広く崇敬尊信せらる。
  掲載日七月十日


 以下、本日撮影のその他の写真です。

【参考】
 ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii subs. thunbergii f. thunbergii (鶴岡八幡宮東鳥居)
 ユリカモメ Larus ridibundus
 カワラバト Columba livia
 ビャクシン Juniperus chinensis 鎌倉市指定天然記念物(昭和三十八年七月十七日指定) (鶴岡八幡宮)
 イチョウ Ginkgo biloba (鶴岡八幡宮)
 タチツボスミレ Viola grypoceras (青梅聖天社)
 イヌホウズキ Solanum nigrum
 ケチヂミザサ Oplismenus undulatifoliu
 ツワブキ Farfugium japonicum
 トネアザミ Cirsium incomptum
 ホトトギス Tricyrtis hirta
 スミレサイシン Viola vaginata
 カタヒバ Selaginella involvens

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