今年も花桃の丘へ-青葉区、都築区の名木古木など

 早咲き系の桜の開花が落ち着いたので、今日は元石川の花桃の丘を訪ねました。
【花桃の丘】青葉区元石川町


【主な経路】
(あざみ野駅)-花桃の丘-新石川-荏田-牛久保西-大棚町-勝田-茅ケ崎-(センター南駅)


横浜市指定名木古木
【影顕山西勝寺】青葉区新石川1丁目10-8
 イチョウ No.49430


 エノキ No.50344(青葉区荏田町328)


【養老山真福寺】青葉区荏田町432-8
 イチョウ No.49434
 カヤ No.49435


【劔神社】青葉区荏田町822
 エノキ、サクラ、ケヤキ(2本)
 名木古木の指定番号表示がありませんでした。市民グラフヨコハマ115号(2001)に記載のあったサワラについては確認できず、伐採跡があるので滅失と思われます。


【弘願山長徳寺】都筑区牛久保西3丁目9-1
 ヤマモミジ No.60009

 市民グラフヨコハマ115号(2001)に記載のあった『ヤマグミ』の樹種を確認したかったのですが、そもそも存在を確認できませんでした。


【鵜目山清林寺】都筑区大棚町250
 シラカシ No.49387
 イチョウ No.49390
 エノキ No.49389

 No.49389のエノキは、表示板だけ残されていました。


【大杉山龍福寺】筑区大棚町495
 ケヤキ No.51045、51046

 アラカシとコブシは確認できませんでした。


【勝田山最乗寺】筑区勝田町1277
 イチョウ No.48171
 ハクモクレン No.48172


【慈眼院壽福寺】都筑区茅ケ崎東1丁目7-1
 ヤマザクラ No.59014
 シラカシ No.59015


【豊川稲荷神社】青葉区元石川町5269


 庚申塔(2基):青葉区元石川町3543-51


【驚神社】青葉区新石川1丁目24-9

   驚神社
鎮座地 横浜市緑区新石川一丁目二十四番地九
由緒
 創立年代詳かならざるも、往古より延喜式所載の武蔵國石川牧の総鎮守ナリしと云ふ。其の当時、石川牧の地域は頗る広汎にして旧都築郡内は旧山内村石川・同荏田・旧中川村大棚・同茅ヶ崎・同中里村黒須田・同大場・同鐵・同麻生・同鴨志田・同早野・同王禅寺・橘樹郡内は旧向丘村菅生・宮前村土橋・同有馬・同馬絹・同野川・同梶ヶ谷等の大字に亘れるものゝ如し。依て昭和十四年横浜市に合併当時まで、此の石川に秣場と称する馬料共有地五十餘頼朝の臣畠山重忠篤く崇敬せりと云へり。明治六年十二月村社に列し、昭和十年五月二十七日拝殿を再建し、全く社殿の面目を一新し昭和五十七年拝殿屋根を銅板葺に改修、当神社の名称は右の如く馬を大切にいる意から馬を敬う即ち「驚」がついたものと云ふ。
御祭神 素戔嗚尊
 此の大神は伊邪那岐神の御子にして天照大御神の御弟神に坐して農業・漁業・山林の守護神として全国的に篤く崇敬されし神なり。又、清明を尊び人命救助の神、罪を祓う神、荒神鎮斎、鎮疫神としても崇められし神なり。
恒例祭 歳旦祭   一月一日    午前〇時式典執行
    祈年祭   二月十七日   午前十時式典執行
    例祭    体育の日の前日 午前十時例祭式典執行
    七五三祭  十一月中旬   午前十時式典執行
    勤労感謝祭 十一月二十三日 午前十時式典執行


  驚神社力石の由来
 此の力石は、江戸時代中期より明治初期にかけて氏子の若人が、神社の境内に於て卵形の石をかつぎ力を競うため、記念として奉納されたものといわれて、関東のみならず西国にも其の風習があった。その指標とするところは、かつぐことによって神の霊験を知る石占であるとされる。
 当社に伝わる此の石は、大明神元文四己末年皇紀二三九九年西紀一七三九年下石川村と明記され四十貫五百目と註されている。
 実に桜町天皇の御代八代将軍徳川吉宗の治世にあたり、珍しく古い年代に属する。
 かつぐことの出来た人名は之を刻んでいないか明治大正以後、石川草相撲の名行司とうたわれた飯島勇吉が之をかついだのを最後とする。
 下石川村とあるは恐らく下谷中村の両部落、即ち宮元を指すものと思われる。蓋し石川村の発祥地ともいうべきか。
   昭和四十九年七月吉日
   平成十六年九月吉日
   奉納者 あざみ野 金子健一
   新石川 横溝智美


横浜市指定無形民俗文化財
 牛込獅子舞(うしごめししまい)
     平成三年十一月一日指定
     保存団体 牛込獅子舞保存会
     「牛込獅子舞」は、平成十三年二月十三日、横浜市指定文化財が解除され、神奈川県重要文化財に指定されました。
行われる時期及び場所
 十月九日 緑区あざみ野一丁目三十番三号 神明社
 十月十日 緑区新石川一丁目二四番九号  (おどろき)神社
 牛込獅子舞し、関東・東北・信越地方に分布する一人立ち三頭獅子舞(さんとうししまい)の横浜における代表的存在です。約三〇〇年前、元禄年間の悪疫流行の際に始まると伝えられています。丘陵を隔てた川崎市高津区初山の獅子舞と芸態や歌詞が酷似しており、十八世紀中頃に移入されたものと推定されます。
 獅子頭(ししがしら)は三個で、剣角(けんかく)巻角(まきづの)を持つ雄獅子二個と宝珠(ほうじゅ)を頂く雌獅子一個とからなり、鶏の毛で飾り、赤い布を垂れます。武蔵野一帯に分布する頭と同系に属します。
 舞手三人は裁著(たつつけ)・白足袋・草履ばきで、締太鼓をつけ、バチを打ちながら舞います。その他に、はい追い(幣負い)、ササラ子、万灯持(まんとうもち)、小万灯持の各役が加わります。
 以上の役につくものは牛込地区で生まれた成年までの男子に限られ、獅子役の三人とはい追いは長男の役とされています。この他にホラ貝三人、笛数人。歌上げ数人は大人で、牛込地区の古老があたります。
 当日は獅子宿で支度して、道行きの曲に合わせて神社まで練って行き。神前に祭詩を述べてから、曲に合わせ三角形になったり、一列になったりまた円形になって舞います。「わが国で、わが国で、雨が降るげで、雲が立つ。おいとま申していざ帰る。」と祭神に舞い終りの挨拶をします。
  平成四年三月  横浜市教育委員会


【伏見稲荷社】青葉区荏田町328


【下宿庚申塔】都筑区中川3丁目38

   いわれ(由来)
 この庚申塔は、その昔寛政五年(西暦一、七九三年)徳川時代中期に荏田村下宿の婦人達によって建てられたもので当時盛んだった庶民信仰の一つに疫病、厄払いの為六十日ごとの庚申(かのえさる)の日に講中の人(女)が集まって眠らずに祈願し、一夜を過ごす風習(ならわし)があったそうです。
 ここは昔栄えた大山街道の道筋で江戸を()った旅人の一日目の宿場の入口でもあり道標(みちしるべ)としても親しまれてきました。又、交通安全、幼童安穏(あんのん)の神としても知られ遠方から訪れる人もあります。本年下宿講中の仲間が集まり昔を偲び心のよすがにもと古びた(ほこら)を改築いたしました。
  平成六年十一月  下宿庚申講


【養老山真福寺】青葉区荏田町432-8

 真福寺(現本尊千手観音立像)は、ここより北方3.4km離れた処にありましたが、老朽化により当時観音堂(本尊千手観音立像)であった当地に大正10年(1921)真福寺(本尊薬師如来坐像)並びに釈迦堂(本尊釈迦如来立像)を移し、それぞれの本尊を客仏として安置しました。
 本尊の木造千手観音立像(一木造)は、県重文で平安時代末期の作。ふくよかな顔、肩、下腹部・腰の線、衣文の浅い彫り口とともに全体に藤原時代の作風を見せています。手は八臂で、一部に彩色の痕跡が見られます。十二年毎の子歳に開帳される秘仏です。
 客仏の木造釈迦如来立像(寄木造)は、国重文で鎌倉時代の作。頭髪は縄をまいたような形で、首まで衣が覆い、複雑な衣文を鋭い彫法でたくみに美しく掘り出し、顔はやさしい表情をたたえた清凉寺式釈迦とよばれる形式の仏像です。県内には、この他に国重文の指定を受けている称名寺像(金沢区)と極楽寺(鎌倉市)がありますが、全国的にも数少ない釈迦像の一つです。
     (社)横浜国際観光協会
     横浜市教育委員会文化財課
          平成4年3月


   釈迦如来立像 昭和八年一月二十三日 国重要文化財指定
  木造 寄木造 鎌倉時代
 本造は、京都清凉寺本尊を摸刻した像で、頭髪は縄をまいたような形で、首まで衣が覆い、複雑な衣文は鋭い彫法でたくみに美しく彫り出し、顔はやさしい表情をたたえた清凉寺式釈迦とよばれるものである。
 県内には、この他に称名寺像と極楽寺像が重文の指定を受けているが、全国的にも数少ない釈迦像の一つである。
   千手観音立像 昭和四十一年七月十九日 県重要文化財指定
  木造 一木造 藤原時代(平安末期)
 本像は、真福寺本尊で、前面は頭から裾まで一木の木で彫られ、天冠や頭髪をていねいに彫り、顔はふくよかで、衣文も藤原様式で統一されている。一部に彩色の痕跡があり、もとは彩色像で見事であったと思われる。
  昭和四十八年十一月   緑区役所


横浜市指定無形民俗文化財
 荏田真福寺の奉納絵馬および奉納額等 一括二〇八点
     平成十五年十一月四日 指定
     所有者 宗教法人 真福寺
 荏田は近世において大山街道の宿場として賑わいを見せていた所で、また近在の農村の物資集散地でもありました。真福寺という名称は大正年間に改めて付けられた付けられたもので、それ以前は観音堂と呼ばれており、荏田の住民だけでなく、近在の農村からも信仰を集め、多くの絵馬が奉納されました。(観音堂本尊は木造千手観音立像(県重文)で、小机三十三子歳観音霊場として子年のみにご開帳される秘仏です。)
 現在残されている絵馬で最古の紀年銘をもつものは、寛政十二年(一八〇〇)のもので、同年の絵馬が三枚あります。絵馬は個人が願望を実現するために奉納したものと考えられ、村人が仏の前で拝む姿を描いた絵馬、馬そのものを描いた絵馬などがあります。
 絵馬以外に、宝暦十年(一七六〇)の紀年銘を含む奉納額、扁額、算額、また珍しい奉納物として藁蛇があります。
 現在、大絵馬を中心に七十四点が、真福寺本堂内に飾られ、残りは横浜市歴史博物館に収蔵されています。
  平成十六年三月  横浜市教育委員会


【稲荷社】青葉区荏田町432


【劔神社】青葉区荏田町822

  劔神社誌
 新編武蔵風土記稿は当社について曰く「村の中央字榎木谷にあり劔明神と号す当所の総鎮守なり本地不動の像今は別当観福寺に安置せり本社に上屋を設く云々」また伝説に曰く「昔陸奥国より炭を商うもの鎌倉へ往来して鍛冶のもとへかの炭を売ること年久しければ鍛冶もかの商人が来ることを謝して己が作りたる刀一口を贈れり。商人よろこびてこれを携へ国へかえらんとしてここをすぎ泉谷の辺りにとどまりて路のつかれをしばしやすめんといこいしに喉のかれたりしかばありあう泉を掬して呑けるに酒に酔いしごとく、覚えず倒れ伏したりしを側なる松の木の上より大蛇ねらいよりて呑んとす時に携えたる刀自ら抜き出て蛇を斬殺しけるにそ、かのもの危き命をたすかりしとなん。よりて劔を祀りて劔明神と号す云々」と。この伝説は八俣の大蛇退治の伝説に類似し草薙劔を彷彿せしめるとともに、祭神を素戔嗚尊として崇めていることなどからして開拓神ないし農業神として祀られ鎌倉時代の創建になるものと云われている。
 かつて当地は宿谷戸赤城社、小黒谷戸明神社、同八幡社、柚木谷戸熊野社、渋沢谷戸十二社の五社の谷戸宮が鎮座坐し、四谷戸が年番にて祭礼を執行うを常とした。
 その後大正三年これら四谷戸五柱の大神を当社に合祀し同十一年当社は神饌幣帛供進社に指定されたのである。現存する拝殿は明治二十七年に奥社は昭和四十六年に各々建立されたものである。


【地蔵堂】都筑区大棚町414


【大杉山龍福寺】筑区大棚町495



【参考】
 モモ Amygdalus persica
 イチョウ Ginkgo biloba
 カヤ Torreya nucifera
 エノキ Celtis sinensis
 ケヤキ Zelkova serrata
 サクラ Cerasus sp.
 ヤマモミジ Acer amoenum subsp. matsumurae
 ハクモクレン Magnolia denudata
 シラカシ Quercus myrsinifolia
 ヤマザクラ Cerasus jamasakura
 カロライナジャスミン Gelsemium sempervirens
 タイワンツバキ Gordonia axillaris
 スモモ Prunus salicina
 枝垂れ梅 Armeniaca mume f. pendula
 ボケ Chaenomeles speciosa
 ギンヨウアカシア Acacia baileyana
 ホトケノザ Lamium amplexicaule
 ヒサカキ Eurya japonica
 寒緋桜(かんひざくら)Cerasus campanulata
 ジンチョウゲ Daphne odora
 バイモ(アミガサユリ) Fritillaria thunbergii
 ハナニラ Ipheion uniflorum
 蕗の薹(フキ) Petasites japonicus
 河津桜(かわづざくら)Cerasus x kanzakura ‘Kawazu-zakura’
 エヒメアヤメ Iris rossii
 二ホンスイセン Narcissus tazetta
 サザンカ Camellia sasanqua
 ツルニチニチソウ Vinca major
 トサミズキ Corylopsis spicata
 オナガガモ Anas acuta
 ヒイラギナンテン Mahonia japonica
 ユスラウメ Prunus tomentosa
 スナックひまわり:都筑区牛久保東3丁目22
 シキミ Illicium anisatum
 ウグイスカグラ Lonicera gracilipes
 オナガ Cyanopica cyanus
 キンカン Fortunella spp.

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