戸塚区、保土ケ谷、西区、神奈川区の坂道を巡る

 今日は、昨日の続きで、弘明寺駅を起点に坂道を辿りながら横浜駅まで歩いてみました。気づくと、以前に辿ったのとは逆方向の旧東海道沿いの道のりでした。
  三浦半島の坂道 石塔 神社



 品濃坂は、朝早く江戸を発ち、日暮れまでに戸塚宿へ向かう旅人には宿場町までもう一歩の所です。一方、江戸方面へ向かう人にとっては最後の急な登り坂で、この難所を超えれば境木の立場まであと一息でした。海も見えてきて、江戸への想いを馳せていたかもしれません。


  福壽観音縁起
願主福原政二郎氏は当東戸塚地区を開発し併せて新駅を誘致以って当地方の発展と住民の福利に寄与せんと発願昭和三十八年以来実に十有五年の長期に亘言語に絶する有ゆる苦難を乘りこゑ終に現在の様相を見るに至りたるもので之偏に氏の強く正しき信念と弛まざる精進並に誠意の至らしむるところ也氏は夙に敬佛崇祖の念篤く特に観音菩薩を信仰依って以って過去に於ける幾多の困難を克服し得たるのも又生死の境を彷いながらも不思議に生き抜いてこらりた事も新駅設置や開発の一大事業を成し得られたのも之みな観音様の御加護に依るものと深く感謝茲に報恩謝徳の念を以って一宇を建立本尊菩薩を奉安福壽観音と名銘申し永遠に此の地の守護と民福の加護とを願うもの也と願くば念彼観音の妙智力に依り火盗災難永く消除し方民愈々福壽を増長して諸縁吉祥ならん事を
          合掌


  東戸塚駅沿革概略記
東戸塚駅は遠く大正の初めに遡り爾後幾度か設置の機運を生じたるも、関東大震災並に戦争等の爲中断しおりたるところ昭和三十八年嘗て内務省官吏の経歴を持つ辨護士で新一開発株式会社社長の福原政二郎氏が土地区画整理事業に依る開発を計画、同時に新駅設置運動を再燃せしめたるもので、当時何でも反対と言う非常に困難な時代の風潮を乗り越して昭和四十年頃より周辺地区各所に祖の無開発の機運を醸成し前田、秋葉、名瀬下。長作、信濃中央及び西の各地区を夫々区画整理事業の方式に基づく開発を爲し昭和五十二年九月漸くにして國鉄当局より東戸塚駅設置の旨が発表されるに至ったものの、偶当駅は請願駅なるが故を以て駅前広場用地並に駅舎総工費は全額地元負担と言うひとであった爲。東西の駅前広場用地及び鉄道敷地として壱萬三千貮百四拾平方米を無償提供すると共に其の工費訳参拾億圓の内、県市負担の五億圓を除く貮拾五億圓を右福原政二郎氏が負担。実に当駅は将に同氏個人で造り成したるものと稱しても過言ではなく、其の功誠に顕著にして其の徳は讃えて餘り有り、茲に沿革槪略を記し永く後世に之を伝え以て市民の道標と爲さんとするもの也
又眼下に望む壱千九百八拾年代にふさわしい近代的な駅と、是を中心に東西を結ぶ自由通路を基盤とした都市構造は、巧に其の地形を生かした全國でも稀に見る貮拾壱世紀を魁する街造りであり之偏に福原政二郎氏の大胆にして且つ明晰な頭脳と類稀なる実行力とによって初めて成し得たるものと言うべきである。
          合掌


●旧東海道・焼餅坂
 旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名:牡丹餅坂ぼたもちざか)」と呼ばれています。武蔵国と相模国の国境にあたる権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所でした。このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来になったと言われています。


 焼餅坂は当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約百六十m)の坂道でした。坂の傍らの茶店で、焼餅を商っていたので焼餅坂と名付けられたといいます。別名牡丹餅坂ぼたもちざかとも呼ばれています。戸塚を描いた浮世絵には山坂や焼餅の絵がしばしば登場します。


保土ヶ谷観光名所 境木地蔵由来
 ここ境木は武蔵相模の国境で江戸時代にはそのしるしが建てられていて境木の地名はそれからおきたといわれています。
 また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり名産の牡丹餅を食べながら旅の疲れを休めることができて大変賑ったとも伝えられています。
 境木の名を有名にしたものは地蔵で江戸の人達にも崇敬され今でも境内に寄附された燈籠が残っています。
 なおこの地蔵には次のような珍しい伝承があります。即ちいつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち「俺は江戸の方へ行きたい運んでくれたらこの海を守ろう」と告たので漁師達が江戸へ運ぶ途中此の境木で動かなくなった為村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところそれから村が繁昌したということです。
 地蔵堂の鐘は明治になって野毛山の時の鐘に使用され横浜市民に大正の大震災まで親しまれました。
 平成元年十月四日
  岩間町 見光寺


横浜市地域史跡 権太坂 平成十五年十一月四日 登録
  この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験するきつい登り坂でした。
 日本橋から四番目の宿場であった保土ケ谷宿まではほぼ江戸内湾沿いの平坦地でしたが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂となります。
 『新編武蔵風土記稿』に、名前の由来は、道ばたの老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の遠いこの老人は自分の名前を聞かれたと思い、「権太」と答えたため、とあります。また、坂の上から目の下に見える神奈川の海は大変美しかった、とあります。
 旅人にとっては印象深い場所になり、浮世絵などにも描かれる保土ケ谷宿の名所ともなりました。
 平成十六年三月  横浜市教育委員会


  ビール坂
 神戸町には、明治・大正時代から昭和にかけて、この辺りに湧き出る清水を利用してビールを製造する会社や後に日本最大となる製瓶工場がありました。それが坂の名前の由来といわれています。


【参考】
 品濃坂
 ヒャクニチソウ Zinnia elegans
 福寿観音:戸塚区品濃町554-1
 谷宿坂
 庚申塔:戸塚区平戸4丁目16
 焼餅坂
 東海道五拾三驛-戸塚焼餅坂
 境木の大欅 ケヤキ Zelkova serrata
 シュウメイギク Anemone hupehensis
 ホトトギス Tricyrtis hirta
 境木地蔵尊:保土ケ谷区境木本町2
 江戸名所図会-境木
 権太坂
 輪王坐像(如意輪観音?):保土ケ谷区権太坂1丁目3-9
 タブノキ Machilus thunbergii (保土ケ谷公園)
 銀杏坂
 道祖神(?)(光榮山法性寺)
 イチョウ Ginkgo biloba (光榮山法性寺)
 ビール坂
 神戸坂
 神中坂
 くらやみ坂
 台の坂
 山谷天神
 天神像(山谷天神)
 山谷沢稲荷(山谷天神境内社)

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