ニヶ領用水を辿って

 漸く残暑が終りつつある今日は、多摩川から取水されているニヶ領用水に沿って下りながら散策してみました。

 維管束植物の分類【概要小葉植物と大葉シダ植物裸子植物被子植物(APG-IV体系)】【生物系統樹


【参考】○:本日、初撮影種
 ニヶ領上河原堰
○ヒルムシロ Potamogeton distictus
 オオニワホコリ Eragrostis pilosa
 チカラシバ Pennisetum alopecuroides
 アオサギ Ardea cinerea
○チュウダイサギ Egretta alba modesta
○コウガイセキショウモ Vallisneria X pseudorosulata
 ハグロトンボ Calopteryx atrata
 ヨシ Phragmites australis
○オオイヌタデ Persicaria lapathifolia
○シロフクロタケ Volvopluteus gloiocephalus Syn. Volvariella speciosa
 ウキクサ Spirodela polyrhiza
○オオカナダモ Egeria densa
 マメアサガオ Ipomoea lacunosa
 ミニヒマワリ Helianthus annuus cv.
 オオスカシバ Cephonodes hylas
 キバナコスモス Cosmos sulphureus
○コナギ Monochoria vaginalis var. vaginata
 ルコウソウ Ipomoea quamoclit
 マゴイ Cyprinus carpio
 イヌタデ Persicaria longiseta
 ジュズダマ Coix lacryma-jobi
 ツユクサ Commelina communis
 ヌルデハイボケフシ白膠木・葉・疣・毛五倍子
 メリケンガヤツリ Cyperus eragrostis
 ノダフジ Wisteria floribunda
 イチョウ Ginkgo biloba 川崎市まちの樹50選保存樹木No.3175(右),3176(左):永池山長念寺
 クスノキ Cinnamonum canphora 川崎市まちの樹50選:登戸稲荷社
 ケヤキ Zelkova serrata 川崎市まちの樹50選:登戸稲荷社
 ノダフジ Wisteria floribunda:丸山教本庁
 クスノキ 川崎市まちの樹50選::丸山教本庁
 光のしじま:作 井上 (ばく)
 浅間社(登戸富士塚):川崎市多摩区登戸2919
 庚申塔:浅間社(登戸富士塚)
 南武線
 石塔群(船島福地蔵):宿河原1丁目27
 フウセンカズラ Cardiospermum halicacabum
 地蔵尊:宿河原1丁目9
 船島稲荷社
 カワラバト Columba livia
 二ヶ領宿河原堰
○ウグイ Tribolodon hakonensis
○ゲンゴロウブナ Carassius cuvieri
○ナガブナ Carassius auratus Subsp. 1
○ニゴイ Hemibarbus barbus
 フヨウ Hibiscus mutabilis
 ワタ Gossypium hirsutum
 サツマイモ Ipomoea batatas
○ミツバハマゴウ Vitex trifolia
 ショウジョウソウ Euphorbia heterophylla
 ヒメノウゼンカズラ Tecomaria capensis
 ヒガンバナ Lycoris radiata


国登録記念物 ニヶ領用水(にかりょうようすい)
 登録年月日:令和2(2020)年3月10日
 登録面積:82,236.07㎥

 令和2(2020)年3月、ニヶ領用水は多摩川に水源を有する最古級の農業用水であることや、開削以降利用する村々が協力して維持管理を行ってきた歴史があることなどから、その価値が認められ、大部分が国登録記念物に登録されました。
二ヶ領用水の誕生
 古くから大雨が降るたびに洪水や氾濫を繰り返す多摩川は、川沿いであっても灌漑利用が困難でした。小泉次太夫は、多摩川流域の灌漑治水事業に取組む徳川家康の命により、慶長4(1599)年から用水の開削工事を開始し、江戸時代初期の慶長16(1611)年、ニヶ領用水が完成しました。この名称は、稲毛領・川崎領のふたつの領地にまたがって開削されたことの由来します。以降、ニヶ領用水は現在の多摩区から川崎区までの農地を潤してきました。
田中休愚(きゅうぐ)による大改修
 完成から約100年が経った江戸時代中期になると、二ヶ領用水は各所で老朽化が目立つようになりました。そこで、享保10(1725)年から、川除御普請(かわよけごふしん)御用の田中休愚により大規模な改修工事が行われ、用水を分配する「久地分量樋(くじぶんりょうひ)」や「上河原取入口圦樋(かみがわらとりいれぐちいりひ)」などが新たに設置されました。その結果、江戸時代中期から後期にかけて周辺の新田灌漑面積は60ヶ村、約2,000haまで広がりました。
近代化する用水施設
 明治時代後期には施設の老朽化に加え、相次ぐ災害により二ヶ領用水は大きな被害を受けました。そこで、昭和11(1936)年から、用水路工事をはじめとする改修工事が開始されました。昭和16(1941)年には、それまでの分量樋に代わり、当時としては最も理想的で正確な自動・定比の分水装置である円筒分水が建設されました。
農業用水・工業用水を経て現在へ
 昭和に入り市内の工業化が進むと、二ヶ領用水は日本初の公営工業用水として、川崎の工業を支える役割を果たすようになります。
 一方、昭和30年代半ばの急激な都市化により、多くの生活用水が流入し、水質の悪化が問題となりました。こうした状況から、周辺住民による二ヶ領用水再生に向けた市民運動が盛んになり、日常的な市民の努力や下水道の整備などによって、水質は改善していきました。
 こうして二ヶ領用水は、農業用水や工業用水しての役割を経て、川崎市の発展の礎を築いたシンボルとして現在でも親しまれています。
多摩区の用水利用
 多摩区には、多摩川から二ヶ領用水への取水口である上河原堰と宿河原堰があります。建造時から昭和の初めまでは蛇籠堰(じゃかごぜき)という竹籠と砕石で造る堰でしたが、用水の不足により維持修繕費が多額にのぼることなどから、昭和20(1945)年には上河原堰、昭和24(1949)年には宿河原堰がコンクリート堰堤へと改修されました。
   令和3(2021)年3月 川崎市教育委員会


ニヶ領宿河原堰(にかりょうせきがわらぜき)
ニヶ領宿河原堰のあゆみ
 二ヶ領用水開削に着手したのは、江戸時代以前の1597年のことで、徳川家康の農業生産を高めるために小泉次太夫に命じ、1611年に完成しました。
 この二ヶ領用水に多摩川の水を取り入れ易くするために、宿河原に堰が設けられましたが、当時は竹製の蛇籠で造られていました。
 1949年(昭和24年)5月、安定した取水量を確保するために、コンクリート製の堰に改築されました。この時に造られたのが旧・宿河原堰で、ほとんどが固定部(洪水時も堰の高さが変わらない)でした。
 1974年(昭和49年)9月、台風16号による出水により狛江市側の堤防が決壊し、民家19軒が流されるという大きな災害が発生しました。
 1994年(平成6年)から川崎市と建設省(当時)の共同により治水安全の向上と水辺環境等なも配慮した改築工事に着手し、1999年(平成11年)3月に現在の宿河原堰が完成しました。
洪水を安全に流す
 治水安全の向上を図るため、旧堰より堰の高さを2m切り下げ、洪水時の水位を大幅に下げること裸子ました。
水辺環境や景観への配慮
 一方、宿河原堰周辺は交通の利便性からも多くの人々の憩いの場となっているとともに、堰上流の湛水面は多様な生物の生息域となっていました。このため、切り下げた堰に2mのゲートを設け可動堰とすることにより、日常は旧堰と同じ湛水面を確保し、堰周辺の豊かな水辺環境の保全にも配慮しました。
 また、起伏式ゲートの採用や堰下流側の水の流れの工夫などにより、旧堰が創出していた景観や雰囲気にも配慮した構造としました。
◇「土木学会デザイン賞2010 優秀賞」を受賞◇
 新しい堰は、起伏式ゲートを採用することにより、視界を遮ることなく、上空への広がりを確保し、自然石や特殊型枠を使用し石張り風に仕上げることで人口構造物のイメージを軽減しました。これらを含めたさまざまな工夫が総合的に評価を得て、受賞しました。   国土交通省 関東地方整備局 京浜河川事務所 2012.3作成


船島稲荷社のゆかり
聖なる母多摩川の川辺に古くは中の島現在は船島と云うふるさとがある、此の地を開拓した我等の祖先は堤の近くに信仰の氏神として稲荷社を祀った治水興農の守護神として爾来幾百年しはしば暴風雨水害に見舞はれ度々境内を移したりした、昭和十二年境内には決壊し樹令数百年に及ぶ神木は流され社殿は水浸しとなるも常に霊験加護を信じ神徳に浴さんとする氏子の信仰心を結集し社を復興して今日に到ったのである、稲荷社の歴史を信仰をもちつゝ自然と共に生きてきた吾等の祖先の足跡とも考へられる「日の本は神の国なり神まつる昔のてぶり忘るゝなゆめ」とその歌にあるように今も参詣人がたえないのである教聖初代不動教会長関山盛衆師も有力な信者の一人である、先に氏子一同相計り本殿を近代風に改築し神徳を礼賛し今亦拾周年を迎へる当り玉垣をめぐらして神域を整え景仰の誠を捧げ遺風を顕彰しようとするものである茲に一文を草し以て崇敬の念を表する所以である。
   昭和五十四年十一月吉日
     船島稲荷社改築拾周年記念委員会
          委員長 田中交司 選併書

※:出展は明治天皇が詠んだ
「わが國は神のすゑなり神まつる 昔の手ぶり忘るなよゆめ」であったと思われる。太平洋戦争前までは教科書に載っていた歌のようなので、建碑当時の年配者にはよく知られていたと推測されます。

【文献】
藤井伸二, 勝山輝男, 狩山俊悟 and 牧 雅之 (2027) コウガイセキショウモの野生化個体群を神奈川県と岡山県に記録する, Bunrui, 17(1), 43-47, DOI: 10.18942/Bunrui.01701-05, Accessed: 2024-09-21.
糟谷大河, 丸山隆史, 池田裕, 布施公幹 and 保坂健太郎 (2018) 日本新産種 Volvopluteus earlei(ハラタケ目,ウラベニガサ科), 日菌報, 59, 47-52,DOI: 10.18962/jjom.jjom.H30-06, Accessed: 2024-09-22.
Rylková K, Kalous L, Bohlen J, Lamatsch DK, Petrtýl M (2013) Phylogeny and biogeographic history of the cyprinid fish genus Carassius (Teleostei: Cyprinidae) with focus on natural and anthropogenic arrivals in Europe, Aquaculture, 380-383, 13-20, DOI: 10.1016/j.aquaculture.2012.11.027, accessed: 2024-09-22.
信濃教育會編 (1939) 第二課 敬神崇祖、in 青年學校終身及公民教科書巻一-本科男子五年制用、p.8-14、PDF: , accessed: 2024-09-23.

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