金沢区の神社(20170916)

 台風18号 (タリム)の影響もあって、朝から雨降りとなった本日、近場の神社を巡ってみました。


【諏訪大明神(日光大権現)】
 ヨークマート六浦店のすぐ裏に鎮座する諏訪神社です。拝殿内の扁額によれば、日光大権現も合祀されているようです。


【洲崎神社(天王社)】
 長浜の鎮守であった大六天社に由来し、その後日枝神社、稲荷神社2社、十二天社を合祀したと伝えられる洲崎神社です。境内社には天王社、また隣の地足山龍華寺側には獅子殿があります。


【町屋神社】
 旧名は牛頭天王社で、洲崎神社境内の天王社が御旅所となっています。


【金澤八幡神社】
 新版かねざわの歴史事典によれば、『寺前八幡神社』となっており、創建は鎌倉時代と伝えられ、寺前一、二丁目と金沢町の鎮守社です。本殿の裏には榧の木が2本ありました。


【稲荷社】
 金澤八幡神社の境内社です。


【子聖大権現】
 称名寺近くの子の権現社です。新編武蔵風土記稿には『子權現社(除地)字中ゾウショニアリ小社ニテ七尺ノ覆屋ヲ造レリコレモ藥王寺ノ持』とありますので、小さいながら文化文政期(1804-29年)以前からこの地を見守っていたことがわかります。


【君ヶ崎神社】
 新版かねざわの歴史事典によれば、『君ヶ崎稲荷』となっている稲荷神社です。拝殿の屋根瓦のキツネは微笑んでいるように見えました。


 今日は、雨振りの一日でしたので、その他撮影した写真は少しでした。


【参考】
 夕照祭(一日目)
 アワ Setaria italica
 ヒガンバナ Lycoris radiata
 嶺松寺念仏供養塔跡
 カヤ Torreya nucifera


洲崎神社略誌
村社 洲崎神社略誌
祭神 誉田別命(ハンダワケノミコト)
配神 大山咋命(オオヤマクイノミコト) 倉稲魂命(ウカノミタマノミコト) 大田命(オオタノコミト) 磐長比売命(イワナガヒメノミコト) 第六天神
由緒
 当社は元富岡村と柴村の間に長浜と字せるところあり、現今は野口記念館のある所にして昔時は十八町(約2km)も海に突出し、今に長浜千軒と口碑に残れる程にて人家稠密し殷賑を極めしが、応長元年(一三一一年)激浪の為洗い滅ぼされし住民の一部本村に移住す。依って産土神たる鎮守大六天社も同時に此処に移し造営す。
 現今の社は天保九年1838年六月十二日の再建にして、明治維新の際、神仏混交を廃せられ洲崎神社と改称す。而して社の鎮守地は他の神社と異なり古き頃より、家津良町道路の真ん中にあり、誠に珍しかりしが明治三十七年二月九日横浜金沢間道路改修に付き現場に移転す。
 明治四十年十二月県の訓令第四十九号により四十一年十一月境内の拡張をし明治四十二年五月拝殿を増築し社殿完成す。明治四十三年八月十五日本村泥亀鎮座村社日枝神社(祭神大山咋命)同社末社稲荷社二社(祭神一社、倉稲魂命、一社、大田命) 合併許可八月三十日処分済み成る。
大正三年二月二十四日同泥亀姫小島無格社十二天社(祭神磐長比売命)を合併許可三月十日処分済み成る。
対象十年十二月十六日神奈川県告示第三七三号を以て神饌幣帛料供進社列させられる。

天王社 祭神 健速須佐之男命(タケハヤスサノオトミコト)
由緒
 元は町屋村と共同催事を行い来たりしが為、洲崎龍華寺前天王河岸に地を卜して旅所となし小社をおけり、1809年文化六年四月両村協議の上牛頭天皇を二社に分かつ、1817年文化十四年正月旧引摂院の境内の一部を、天王地と定めて此処に移転造営す、現今の社なり。
氏子地区 金沢村洲崎(現今の洲崎、平潟、乙舳区域である)


獅子の由来
 此の雄獅子、雌獅子は今から百六十年前の嘉永二年(一八四九年)六月に、時の彫刻師後藤利兵衛によって、製作されたもので、洲崎部落の秘蔵品として大切に保管されました。
 制作方法は下地を布で固め、その上にウルシを三べん塗って、唇、耳、鼻、下は朱色で、その他は緊迫を張り目玉は真鍮メッキで仕上げました。
 大きさは(縦、横、高さ)三尺(九〇センチ)でした。
 費用は当時の金で二十両三分かかったそうですが、此の費用は部落の人たちから調達したのでしょう。当時の戸数は九六軒で人口は三五六人でした。
 此の獅子は太平洋戦争以前には、年に一度の祭礼に、若衆四人によって担がれ、雄獅子、雌獅子一対になって、町内を厄除けのために廻りました。
 はやり病(ハシカ)等の子供さんは、お獅子の口を開け二、三回噛まれる形にしていただきますと、不思議にも早く良くなり、町内の守り神様としても多くの方々から尊信されておりました。
 平成四年に再修理がなされ現在に至っております。
                  平成二十年五月吉日


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