鶴見区の名木古木を巡って- part1

 今日は鶴見区の名木古木を尋ねました。確認できたのは16本でした。
横浜市の名木古木  石塔  神社等  ひまわり


 スダジイ No.201868 (鶴見区市場上町3-15)
 イチョウ No.48026 日枝神社:鶴見区矢向4-16-8
 イチョウ No.48027 明王山不動院真福寺:鶴見区上末吉1-15-10
 スダジイ No.49018 駒岡八幡神社:鶴見区駒岡3-40-1
 イチョウ No.48028 宝元山無量院正行寺:鶴見区駒岡3-31-18
 イチョウ No.49015 駒岡神明社:鶴見区駒岡3-9-1
 イチョウ No.49013 照光山常倫寺:鶴見区駒岡3-5-1
 ツバキ No.49014 照光山常倫寺:鶴見区駒岡3-5-1
 イチョウ No.50001 駒岡不動堂:鶴見区駒岡3-4-37
 ケヤキ No.201030 (北寺尾)熊野神社
 イチョウ No.201031 (北寺尾)熊野神社
 ケヤキ No.201032 (北寺尾)熊野神社
 イチョウ No.201033 (北寺尾)熊野神社
 スダジイ No.201034 (北寺尾)熊野神社
 イチョウ No.201123 (北寺尾)熊野神社
 ツバキ No.201124 (北寺尾)熊野神社



 東海道分間延絵図(東京国立博物館所蔵)
 地蔵尊(無縁塚)
 無縁塚慰霊塔


  八丁畷の由来と無縁塚
 東海道は、川崎宿の京都側の出入り口(京口土居・現在の小川町付近)から八丁(約870メートル)にわたり、畷といって街道が田畑の中をまっすぐに伸びており、市場町(現在の横浜市)との境界に至ります。この付近を八丁畷と呼ぶようになりました。
 このあたりでは、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、鑑定により江戸時代ごめの特徴を備えていることがわかりました。
 江戸時代の記録によると、川崎宿は震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が命を落としています。おそらく、災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか。
 不幸にして亡くなった人々の霊を供養するため、地元の方々と川崎市は昭和九年、ここに慰霊塔を建てました。この場所は無縁塚と呼ばれ、地元の方々により供養が続けられています。
   平成二十八年三月
            川崎市教育委員会



 横浜熊野神社:鶴見区市場東中町9-21


  熊野神社略記
弘仁年中紀州熊野宮御神霊を勧請す
旧市場村の熊野耕地通称八本松の所に鎮座、其後天保年中道上耕地に遷座(現在元宮)す。明治五年東海道線敷設の為現在地に遷座。
  御祭神略記
国常立尊くにのとこたちのみこと
 天神七代の中第一代に座して天地別れし時成りませる神にて国の底都知そこつちとして大地を司り給ふ神也。
伊邪奈岐命いざなぎのみこと伊邪奈美命いざなみのみこと
 天神七代の中の神にして二柱の神は天津神の神勅に依り国土を修理固成し給いて夫婦和合商工繁盛家内安全の基を立て給い人々を守り給ふ神也。
境内神社 八幡神社 稲荷神社 神明社
     五社大神 大鳥神社
大祭日 毎年八月第一土旺、日旺
神事と行事 市場神代神楽 市場囃子
     熊野神社氏子会


(矢向)日枝神社:鶴見区矢向4丁目16-8


 (矢向)日枝神社
 十二天大神/天照皇大神
 稲荷社
 稲荷社
 大黒天
 不動堂
 浅間大神碑
 やるき稲荷社


 記主山然阿院良忠寺
 山本煉瓦工場供養碑(記主山然阿院良忠寺)


  記主山然阿院良忠寺由緒沿革
鎌倉時代仁治元年(一二四〇)浄土宗第三代然阿良忠が霊夢により古川(現鶴見川)の岸より薬師如来の尊像を得て、これを安置するために起立したのが良忠寺の草創である。
良忠上人は鎌倉大本山光明寺を開き、多数の書物を著わし、為に正応六年(一二九三)良忠上人七回忌にあたり伏見天皇より記主禅師の号を賜り、以来寺の山号を記主山と称す。
正徳二年(一七一二)五月、祐天上人により京都総本山知恩院の直末寺院に配せられ。良忠寺四十一世讃誉徹玄上人代に、祐天上人の助縁により本堂等を改築、明和六年四月(一七六九)には梵鐘、山門等が再建された。
第二次大戦において、明和六年鋳造の梵鐘は他の仏具共々供出されるが昭和二十五年十一月に。時の内閣総理大臣吉田茂氏揮毫による梵鐘如雷震八音暢妙響の八文字を梵鐘に鋳込み再建された。
現住六十世代において、墓地整理改修・本堂改築。記主会館建築等の事業を行う。


  山本煉瓦工場供養碑
明治から昭和十五年頃まで、矢向一丁目の鶴見川沿い、今の矢向中学校南側に煉瓦(レンガ)工場が有りました。川沿いの土を掘って大量の赤煉瓦が焼かれ帆掛け船を利用して東京(品川)横浜方面(高島、元町)へ積み出されました。工場では男性と共に女性や未成年の子供達も働きました。横浜や東京の赤煉瓦で造られた建物も、ここ矢向の地で焼かれた煉瓦が多く使われ、その陰にはこうした多くの人々の努力が有ったのです。大正九年に建立されたこの慰霊碑には明治四十年から大正九年の間に亡くなった男性十一名、女性三名、男児四名、女児八名、胎児一名の戒名が刻まれています。今回、慰霊碑の移築に伴い、当時焼かれた煉瓦を一部用いて再建し、亡くなられた人々の慰霊と致します。
  平成十五年七月吉日
 見えた見えたよ 生麦沖な丸に七の字 帆が見えた
   あれが山本煉瓦船
 丸に七の字 帆掛け船 船頭 石井七五郎
 丸に七の字 帆掛け船 天にとどけと 碑を建てる
   昭和七年頃 親子三人 煉瓦船で暮らしました
            移築再建 願主 石井元吉


 照光山常倫寺:鶴見区駒岡3-5-1


常倫寺の歴跡と伝説(駒岡町294)
 久志本氏歴代の墓碑 久志本氏は、今の三重県度合郡久志本の出身で、元は神主でのちに徳川家康の侍医として召し抱えられました。
 宝永三年(1706)久志本常勝は、五代将軍綱吉の病気を治療し、武蔵国橘樹郡、都築郡のうち八百石の采地(領地)を賜り、総知行高二千石となりました。
 久志本氏歴代の墓所は、本堂左手の急な照光坂を昇った所にあります。
 墓域に立って、大きな常倫<つねもと(常勝の父)の墓を中央一列に立ち並ぶ墓碑を見ますと、江戸時代中期からこの地を治めてきた殿様のお墓ということが感じられます。
 梵鐘 本堂の回廊に吊り下げられている梵鐘は、元禄6年(1693)2月、時の地頭小田切土佐守直利が、父美作守須猶<もちなおの追善供養のために寄進したものです。
 乳母銀杏 境内の乳母銀杏には次のような伝説があります。
 江戸時代に久志本左京亮常倫<つねもとの妻が身ごもって。一子常勝を産みましたが、お乳が一滴も出ませんでした。
 思い余った夫婦は、この寺に詣で、乳の出るように一心に祈願しました。すると、銀杏の木の乳房のように垂れ下がった先端から、真っ白な乳がしたたり落ち、この乳を飲んで常勝はたくましく成長しました。
 それ以来、この銀杏は乳母銀杏と呼ばれ、乳の出ない母親は、この銀杏に祈るようになったということです。なお、現在この銀杏は横浜市の名木古木に指定されています。
  昭和63年3月  鶴見区役所



【参考】
 ヤブツバキ Camellia japonica
 キルタンサス・マッケニー Cyrtanthus mackenii (ハイツ東鶴見)
 地蔵尊:鶴見区矢向1丁目1
 ボケ Chaenomeles speciosa
 獅子咲ツバキ Camellia japonica
 庚申堂:鶴見区上末吉1丁目18-27
 トキワガマズミ Viburnum tinus
 駒岡八幡神社:鶴見区駒岡3丁目40-1
 稲荷社:鶴見区駒岡3丁目34
 地蔵尊:鶴見区駒岡3丁目31-18
 駒岡神明社:鶴見区駒岡3-9-1
 道陸神(駒岡神明社境内):鶴見区駒岡3-9-1
 照光山常倫寺:鶴見区駒岡3-5-1
 稲荷社:鶴見区駒岡3-4
 駒岡不動堂:鶴見区駒岡3-4-37
 神使像(駒岡不動堂境内)
 ぱぶすなっく ひまわり:鶴見区駒岡1-12-22
 白梅 Armenica mume
 寒桜(かんざくら)Cerasus x kanzakura ‘Praecox’
 庚申塔:熊野神社 (鶴見区北寺尾2-3-30)

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