川崎東部を散策

 今日は、昼から川崎駅を起点に東側を歩いてみました。この界隈には八幡社が多いのですが、八幡太郎(源 義家)との関係があるようです。
【主な経路】(川崎駅)-鈴木町-大師町-川中島-鋼管通-渡田-小田-菅沢町-鶴見-(花月総持寺駅)



稲毛神社:川崎区宮本町7−7
御社殿再建記念碑(稲毛神社)
山王さまの大銀杏
(左から)浅間神社、佐々木神社、川崎天満社、白山神社(稲毛神社境内)
子神社(稲毛神社境内)
大鷲神社(稲毛神社境内)
稲毛神社境内相殿(左から、福田稲荷神社、金刀比羅宮、松尾神社、大神宮、八坂神社、御嶽神社、三峯神社)


川崎市まちの樹50選 No.1 山王さまの大銀杏 稲毛神社)


  御神木大銀杏
  十二支めぐり
 この御神木大銀杏は、樹齢約一千年といわれ、当神社の長い歴史と尊い由緒を物語っています。
 江戸時代には東海道を旅する者に「山王さまの大銀杏」として知られ、安藤広重の「武相名所旅絵日記」などに当時の神々しい姿が描かれています。
 また、別の書物には「この大銀杏の周囲を回りながら願い事をするとことごとく叶う。特に縁結び子授け、子育て、学問・習い事の向上に霊験があり、参拝者が絶えない」と書かれています。
 さらに、色紙に願い事を書いて枝に結び、葉のある頃には一葉をとって御守りとするとよい、と伝えられています。
 戦前は神奈川県指定の天然記念物となっていましたが、惜しくも昭和二十年、戦火を浴びて大きく損傷してしまいました。しかし、年とともによみがえり、その生命力の強さは御神霊のなせるわざと人々はいよいよ篤い信仰を寄せています。と同時に近年、平和のシンボルとしても仰がれるようになりました。
 昭和六十一年、稲毛神社境内整備事業の一環として、この御神木の周囲に十二支のブロンズ(制作川村易)を置き、十二支めぐりとして整備いたしました。
 また、「十二支講」が結成され毎年例祭を行い、動物愛護・自然保護を主題とした集いが開かれています。
 ご自分の生まれ年の神像を通してご祈願ください。


史跡東海道川崎宿
  稲毛神社
 当社は明治維新まで「山王社」といわれた。鎮座地の「堀の内」は、この付近を開発し「川崎荘」とした在地武士の館跡と推定される地名であり、当社も同荘の鎮守として勧請されたものとみられる。
 中世における当社の推移は定かでないが、応永11年(一四〇四)に大般若経書写奉納の動きがあった。近世初頭、伊奈氏による備前検知をうけ、20石の朱印を安堵され、以降川崎宿の惣鎮守として、人々は事あるごとに当社へ詣で地域の精神的紐帯となった。
 8月の例祭は宮座の制を残す古式なものである。
          川崎市


  稲毛神社 御社殿再建記念碑
 み氏子が
心ひとつに
  香ぐわしく
 甍も高く
   成りし
新宮
  宮司 市川浩之助 撰
  万衆 西川光男 敬書


 御社殿の概要
設計 文化財専門審議会専門委員
監理 横浜国立大学工学部長
    工学博士大岡實
施行 株式会社小川組
起工 昭和三十七年四月二日
竣工 昭和三十八年九月二十五日
總坪数 一〇一.二一坪
棟髙 一一.五メートル(三八尺)
構造形式 神明造り總体鉄筋コンクリート
       屋根銅板葺
總工費 四、〇〇〇万円


  浅間神社
御祭神 木花咲夜比売命(このはなさくやひめのみこと)
御神徳 農業養蚕山林
    酒造の守護神
    縁結び子授け
    安産の神
例祭日 六月一日
 当浅間社はもと稲毛神社の小高い築山の上にまつられていました。江戸時代末期、川崎の生んだ偉大な宗教家。西川万翁徳行(天保四年・一八三三没)を先達として富士浅間講「タテカワ講」が組織され、当浅間神社が日常活動の拠点であり、富士登拝の出発点でした。幕末、幕府の命により結社が禁止されたためタテカワ講はおとろえましたが、その後も近在の人々から篤く総数されています。左右の石碑に見える元山満行(嘉永二年・一八四九没)は、滿翁の子、明山徳行(明治二年・一八六九没)は滿翁の養子で、ともにタテカワ講の後継者でした。


  佐々木神社
御祭神 少名彦名命(すなくひこなのみこと)
    宇多天皇
    佐々木四郎高綱公
御神徳 武道上達
    家門隆盛
    心身健康
例祭日 十月十九日
 佐々木四郎高綱公は源頼朝の命をうけて稲毛神社(当時河崎山王社)の造営奉行となり、砂子に館をかまえて改修工事にあたられました。公は敬神の念篤い武将で、邸内に祖神を祀る近江の沙沙貴神社を建立し、朝夕尊崇しておられました。公の没後、里人は遺徳をしのんで公の霊をも合せ祀り佐々木明神として崇敬しました。佐々木神社ははじめ街道沿いの宗三寺の斜向いにまつられ、宗三寺の管理のもとにありましたが明治初年、神仏分離令によって稲毛神社の管理となり、さらに、明治末年、合祀令によって当所に遷されました。現在、近郊の佐々木氏の子孫の方々によって例祭が行われています。


  川崎天満社
御祭神 菅原道真公
御神徳 学問成就・文芸上達
    災難防除
例祭日 一月二十五日


  白山神社
御祭神 白山媛神(しらやまひめのかみ) (菊理媛神(くくりひめのかみ))
    伊邪那岐神(いざなぎのかみ)伊邪那美神(いざなみのかみ)
御神徳 国家安泰 工事安全
    子孫繁栄 五穀豊穣
例祭日 五月六日


  子神社(ねのじんじゃ)
御祭神 大国主命(おおくにぬしのみこと)(大黒さま)
御神徳 商売繁盛、子孫繁栄
例祭日 九月十九日
 当子神社は、江戸時代には()(はら)にまつられていて里人から篤く信仰されていました。明治三年、須ヶ原、久根崎(今の港町、旭町、本町三丁目)の人々によって建て替えられました。社殿は総欅造りで、彫師小川清蔵による見事な彫刻がほどこされており、台石には当時の有力者の名が多数刻されています。明治四十五年、合祀令により勧進主のひとの森五郎作家に移し邸内社となっていましたが、昭和三十二年、森家の転宅の際、当所に遷座されました。なお、明治三年にはまだ川崎宿が存続していましたので、この社殿は、現存する宿場時代の唯一の建物です。


  大鷲神社(おおとりじんじゃ)
御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
御神徳 五穀豊穣
    家内安全
    商売繁盛
    交通安全
例祭日 十一月酉日(酉の位置)
 当大鷲神社がここにまつられた正確な年代は分かりませんが、江戸時代末期か明治初年のことと思われます。日本武尊は父景行天皇の命を受けて熊襲・蝦夷などの征討に当られ、数々の武勲をあげ、偉業を達成された英雄神ですが、死後、その御霊は白い大鳥となって天に昇っていかれたところから尊をまつる神社は大鳥(大鷲)神社と呼ばれます。
大鷲神社のお祭りである酉の市には農具の位置がたち、鶏などが売られていましたが、江戸時代後期におおとりが「大取り」に通じるところから熊手で集め、枡で計らなければならないほど、作物が取れお金が儲かるという民間信仰が生まれ、恵比寿大黒・稲穂、おかめ、千両箱、宝船等々あらゆる縁起のよいものを飾り付けた熊手や枡が売られるようになりました。当大鷲神社の酉の市も例年、生業発展、家内安全、心願成就などを祈る善男善女で夜半までにぎわいます。


  福田稲荷神社
御祭神 宇迦之御魂神・豊宇氣比売神
例祭日 四月第一日曜日
御神徳 五穀豊穣・商売繁盛・心願成就


  金刀比羅宮
御祭神 大物主神
例祭日 十月十日
御神徳 航海の神、徳福の神


  松尾神社
御祭神 大山咋神・市杵島姫神
例祭日 四月二日
御神徳 酒造・土木の神、縁結び、飲食業繁栄、技芸上達


  大神宮
御祭神 天照大御神・豊受大神
例祭日 十月十七日
御神徳 国家安泰、五穀豊穣、産業発展、開運招福


  八坂神社
御祭神 素戔嗚尊・稲田姫命・八柱御子神
例祭日 六月七日
御神徳 国家安泰、五穀豊穣、除疫病、商売繁盛、縁結び


  御嶽神社
御祭神 櫛真知命、大己貴命・少名彦名命
例祭日 五月八日
御神徳 医療・医薬・酒造の神、縁結び、商売繁盛


  三峯神社
御祭神 伊弉諾尊・伊弉冉尊
例祭日 十二月二日
御神徳 国家安泰、子孫繁栄、家内安全、商売繁盛



若宮八幡宮:川崎区中島2丁目15-1
稲荷神社(左)・大鷲神社(右)(若宮八幡宮境内)
庚申塔(若宮八幡宮境内)
カヤ(若宮八幡宮境内)
ナギ(若宮八幡宮境内)
大師河原酒合戦三百五十年記念碑


 保存樹林
  昭和五十年七月 指定第三号
主な樹種 イチョウ・カヤ
 所有者の御厚意により保存樹林の指定をしました。貴重な緑を大切にしましょう。
     川崎市


慶安二年五月池上太郎右衛門幸広即ち大蛇丸底深はその一統を集め江戸の酒將地黄坊樽次が率いる酒門の猛者たち十七名を迎えて酒合戦に及びしこと天下に著聞セリここにその三百五十年を記念し碑を建立す
    平成十一年五月吉日
                 古江亮仁 誌
 建碑者 大蛇丸直系酔翁亭十三世 池上幸政
                   よ志子
              宮司 中村博彦 代
              賛助 石渡孝明 舞川扇彩
                 宮川日佐夫 水鳥の会


 大師河原酒合戦三百五十年記念碑
水鳥記(すいちょうき)によると慶安二年(一六四九)大蛇丸底深(大師河原開拓に成功し、名主となった池上太郎右衛門幸広)のもとに地黄坊樽次(前橋藩主酒井忠清の寵臣、医者で儒学者茨城春朔)が酒豪をひきつれて大師河原に乗り込み三日三晩酒飲みの強さを競ったという史実にのとった豪快で勇壮な酒合戦の物語です。
水鳥とは、水 –> (さんずい)・鳥 –> 酉、即ち酒のことです。
水鳥の祭(十月第二日曜日)
現代に再現した祭りで大本山川崎大師平間寺に大蛇丸底深方十五名、地黄坊樽次方十七名が集結しお互いに名乗り合い酒飲み合戦を繰り広げながら練り歩き、若宮八幡宮で和睦となる。
地元の歴史と酒の文化を顕彰する楽しいお祭りです。
   平成十一年五月吉日
                宮司 中村博彦


金剛山金乗院平間寺(川崎大師):川崎市川崎区大師町4−48


川崎市まちの樹50選 No.2 クスノキ
五重塔(平間寺)



川中島神明社:川崎区川中島1丁目12-12


 保存樹林
  昭和五十年七月 指定第四号
主な樹種 イチョウ・クヌギ・エノキ
 所有者の御厚意により保存樹林の指定をしました。貴重な緑を大切にしましょう。
     川崎市


さいの神(川中島神明神社境内)
 注:扁額は「賽の神」となっている。
   さいの神(歳の神)
延宝七年(西暦一六七九年)川中島村民によって建てられた赤子を抱いている子育て地蔵の御姿の「さいの神」で左側はその木地白衣観音といわれる。その「さいの神」はいつ頃からかかぜ・はやりかぜ・百日咳等の咳に希代にごりやくがあると里人の信仰をあつめ現在でも近在近郊は勿論遠く東京・横浜方面より参詣する人があとをたたない。古いしきたりによればごりやくを受けたい人は堂前の麻をお借りして咽喉(のど)に巻きごりやくを受けてなおると新しい麻や絵馬を奉納してきた。「さいの神」はもともと地境辻の神で悪疫悪霊が村内に入るのを防ぐ神さまだったようだ。いつかこれが咳の神として信仰を集めるようになったものと思われる。このことは全国各地に例がない訳ではない。子育て地蔵のお姿の「さいの神」は珍しい。ちなみにこの地は江戸時代の川中島村と大師河原村藤崎との地境に当たる。
   昭和六十年五月吉日
         川中島町内会



川中島八幡神社:川崎区川中島2丁目15-1
天満宮(川中島八幡神社境内)
稲荷森稲荷神社(とうかもりいなりじんじゃ)(川中島八幡神社境内)
神明社(川中島八幡神社境内)
厳島社(川中島八幡神社境内)
庚申塔(川中島八幡神社境内)


 保存樹林
  昭和五十一年八月 指定第十二号
主な樹種 イチョウ・サクラ・シイノキ
 所有者の御厚意により保存樹林の指定をしました。貴重な緑を大切にしましょう。
     川崎市


   八幡神社御由来
     御祭神 誉田別命(ほったわけのみこと)(十五代応神天皇)
     御祭礼 八月十五日
         近年は上旬の土・日曜日
 八幡神社は古来から中島の鎮守として、町民の崇敬の中心であります。ご創建の年代は明らかではありませんが、昭和二十年頃までは本殿に二十余枚の棟札が保存されており、その中の文中に「元和二年(西暦一六一六年・徳川時代)初期)社殿修復」の記録がありました。
 また古くは十一世紀の頃八幡太郎源義家公による「後三年の役」の功績を後世に伝えるために創建されたとも語られることがありますが確証はありません。
 この中島は多摩川下流の堆積地層の中州がやがて小島になり、鎌倉時代に至り、ようやく古地図に記載された程の地域であり、江戸時代初期には戸数わずか十三戸、徳川後期に至っても五十戸たらずでありました。
 その頃より村民協力し八幡神社を創建護持し、更に村内の名刹「光明山遍照寺」の庇護もあり、例年御祭礼を執行し、御神輿巡行や村芝居を興行して近隣村落を併せての一大行事が行われてきました。しかし不幸にして、昭和二十年四月十五日第二次世界大戦による戦災を受け、その一切を焼失してしまいましたが、氏子町民の協力により、昭和三十四年八月吉日、現在の御社殿が再建されたものであります。
   平成二十一年八月吉日
       社殿再建五十周年記念
              中島八幡神社 氏子会


天満宮
 御祭神 菅原道真公
 御祭礼 二月二十五日


稲荷森稲荷神社(とうかもりいなりじんじゃ)
 御祭神 宇迦御魂神(うがのみたまのみこと)
 御祭礼 二月ruby>初午(はつうま)


神明社
 御祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)


厳島社
 御祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
 御祭礼 四月初巳の日



大島八幡神社:川崎区大島3丁目4-8
権現社(大島八幡神社境内)
クスノキ(大島八幡神社境内)
カヤ(大島八幡神社境内)
ツゲ(大島八幡神社)
    大島八幡神社
一、御祭神 主神 誉田別命(ほむたわけのみこと)(応神天皇 八幡神)
      配神 伊弉諾尊(いざなぎのぎこと) 伊弉冉尊(いざなぎのみこと)
一、例祭  八月第一土曜日、日曜日
一、宮司  市川緋佐麿(稲毛神社宮司の兼務)
一、鎮座地 川崎市川崎区大島三丁目四番八号
一、御由緒
 当神社は江戸時代に別当をつとめていた心観寺が火災に遭い、古い記録の一切が失われたため、その由来は(つまび)らかではありません。往昔、源義家が八幡太郎と名乗って前九年、後三年の両大役(一〇五一~一〇八七)に勝利を得、関東に一大勢力築いて以来、源氏一族は八幡神を氏神としてその御神威を慕い武運長久、家門隆盛を祈って、それぞれの領域に八幡社を建立致しました。当八幡神社も、この地域の住民たちが両大役の折源氏方の将兵の宿泊に民家を提供したり、兵糧を提出したりして協力したことに対し、源氏一族が感謝のしるしとして建立したものと伝えられています。


  大島新田開拓の碑
埋もれた玉も磨かなければ光を放つことはない。これと同じように大島邑の海辺もこの父に会わなかったら永く不毛の地として終わったのでありましょう。わが家は代々村長をつとめてきたが父の代になってこの石ころの海浜を開拓して村人の為になるようにとのかねてからの思いを村民に訴えた。時の代官も殖産に力を入れていたので村民も卒先してこの計画に賛同した。築提工事は日夜をとわず強行されたが幾度かの山のような大波に襲われ精魂を傾けた長堤も一朝にして烏有に帰した。だが剛直の父は一度や二度で挫けるものでしなかった。村人共に益々奮い立って遂にこの難事業の完成にごぎつけた。宝暦五年から明和七年までに実に十六年を費やしての大事業であった。九年後安永八年視察にみえた代官は測量を命じ境界を正して整然たる神殿にした。それからと言うもの海浜は魚介が沢山取れ塩作りも盛んとなり村民の生活を潤すこと一通りではなかった。父の尽力まことに大であり一詩を石に刻して意中を後世に伝えたい。
枯れ果てた地が一変して魚塩の利をもたらし肥沃な耕地となったのは村民たちが精をつくしそれが神に通じて豊かな生計が約束された益々わが村が繁栄することを願うものである。
    文化七年庚午春二月辛亥 武蔵国橘樹郡大島邑
                 青木 均 (宗碩)
                 常山 并


姥ヶ森弁財天:川崎区鋼管通3丁目3−13


  姥ヶ森という地名発祥
 由来を探求するには、渡田二丁目は新田神社と深い関係にあり鎌倉時代からの領主で。(わたり)新左衛門源早勝(新田義貞公の家臣)の土地で、ごく最近までは姥ヶ森町内会館は新田神社の土地であった(区画整理で購入)
 明治初期の頃、この辺は、小高い丘で裾は松林で沖を通る船は、松林を目標にして漁に出たと云う。そこに新左衛門の隠居所とし見られる潰れ屋敷に古井戸と神様を祀ったらしい祠があった。
 村人の話題が新田神社の土地だから稲毛神社の神官に観てもらおうと云うことになり、見てもらったところ、意外も意外、霊験あらたかな「インド」の女神で弁舌、音楽に無量の福徳を与える弁財天(日本でも七福神の一つ)であることが判った。この儘、潰れ屋敷に野晒にも出来ず、神社の氏子総代と相談の末、新田神社の御守本尊として移転することが決まりお堂を建立し、明治十二年頃移転した。その時は無銘の弁財天であったが、稲毛神社の神官の粋な計らいで姥が住んでいた森だから姥ヶ森弁財天と命名されて現在に至っている。又、古井戸の御神水は。毎年八月二日に組み上げ新田神社に奉納し稲毛神社の大御神輿が新田神社に渡御の際、お清めの御神水として御神輿におかけする。これを怠ると大御神輿は暴れ狂うと云う伝説があるとも云われているが本当にあったと云うことも聞いている。
         平成十一年五月吉日
     鋼管通三丁目、四丁目、五丁目、南渡田
                 姥ヶ森町内会
             会長  大橋新太郎



新田神社:川崎区渡田2丁目14-8
ケヤキ(新田神社境内)
姥ヶ森弁財天(新田神社境内)
神明社(新田神社境内)
稲荷大明神2宇(新田神社境内)
亘新左衛門尉早勝の墓(新田神社境内)


 保存樹林
  昭和五十年七月 指定第二号
主な樹種 イチョウ・ケヤキ
 所有者の御厚意により保存樹林の指定をしました。貴重な緑を大切にしましょう。
     川崎市


   新田神社
   御祭神 新田義貞(にったよしさだ)
   配信  天照大御神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
       宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)
       亘新左衛門尉早勝(わたりしんざえもんのじょうはやかつ)
   御神徳 家門隆盛 武道上達 心身健康
   御例祭 八月第一土・日曜日(元七月二日、後十月十日)
   御由緒御沿革
 社伝によれば、新田義貞公が延元三年(一三三八年)七月二日、越前国藤島(現在福井市内)で討死の際、その臣亘新左衛門尉早勝が公の差添の名剣と七ツ入子の名鏡及び錦の陣羽織の三種の品を得てこの地に携えて帰り、ひたすら冥福を祈って供養していたところ、里人らも公の徳を追慕し、その三種の形見を早勝に乞い早勝と共に永和元年(一三七五年)七月二日清浄の地を求め孤松の下に埋納し、廟を営んで新田大明神と崇め、この地の鎮守とし里人武人らの信仰が厚く祭田の寄進もあったと伝えられております。
 また俚伝によれば、正月元旦と七月二日の晩にしこの地に軍馬が嘶く声がすることがあり、これは河北矢口村(現在の東京都大田区内)に鎮座されている公の二子義興公が父霊のもとに参るためと言われておりました。
 明治六年村社に列格、後幣帛料供進神社に指定。戦禍により建物悉く焼失したが昭和三一年社務所、同三八年社殿、同四三年神楽殿の再建を遂げ、平成三年社務所を改築した


姥ヶ森弁財天
御祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
御神徳 学問・芸術上達 福徳円満
   御由緒御沿革
 昔「姥ヶ森」あるいは「森山」と呼ばれた地(現在鋼管通り三丁目)に鎮座しておりましたが明治末年合祀令により新田神社に遷されました。その森には新田義貞公寄進の馬場と御手洗の池があったという伝えがあります。
 当弁天社と稲毛神社は極めて縁が深く古より同神社祭礼の大神輿巡幸の御旅所で現在も毎年八月三日御巡幸になり、その際御手洗の池の跡と伝える井戸から汲んだ御神水を大神輿に降り注ぎ神霊を鎮めると共に、当神社前で神奈川県の文化財に指定されている宮座式が古式床しく行われます。


稲荷大明神
御祭神 宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)
御神徳 五穀豊穣 商売繁盛
   御由緒御沿革
 石造の稲荷宮は、基金が続いた江戸時代末期、当寺農村地帯であった渡田村の村民が五穀豊穣を祈願して勧請。当地域では稲荷信仰が盛んで、大正末期まで稲荷講があって近隣互助と当稲荷宮の維持にあたりました。
 初午には祠を筵で囲み、その中で子供達がお供物をいただきながらおこもりしてのお祭りが行われ、子供達にとって楽しい年中行事の一つでありました。
 稲荷宮の台座には、渡田村村民四八名の氏名が刻まれております。木造の稲荷宮は、氏子会社の敷地内に祀られていましたが、昭和三十年代の移転の際ここに遷されました。


亘新左衛門尉早勝の墓
   御由緒御沿革
 言伝えによれば、当社創建に深くかかわる新田義貞公の臣亘新左衛門尉早勝が領地であった渡田村で永和三年(一三七七年)七月二日没した後、里人がその旧居跡(現在渡田三丁目)に祠(御霊社)を建立し、傍らに墓石を建てその霊を鎮めていたが明治末年当社境内に遷されました。
 亘新左衛門尉早勝は、栗生左衛門尉忠良、畑六郎左衛門尉時能、篠塚伊賀守重廣と共に新田義貞公の勇猛な家臣四天王の一人でした。渡田、小田地区には四天王の末えいと伝える家系があり、また当地区の急速な開発前には四天王縁りの塚もありました。また昔は渡田村を亘田と書いたという伝えもあります。


日枝大神社:川崎区小田2丁目14−7
八王子社(日枝大神社境内社)
旧鳥居と力石日枝大神社境内)


    日枝大神社御由緒沿革
  御祭神 大山咋神(おおやまくいのみこと)(神) 世に山王ともいわれる土の地主神
       またの名 山末之大神
  御功績 山城丹波地方を開拓せられ、特に水害を除き庶民の社会福祉を図りました。国土就中都市開発と建設の守護で造酒の神としても有名です。
 日枝大神社は皇紀一六〇八年天歴二年戊申(西暦九四八年三月中日)人皇六十二代村上天皇の御代京都比叡山坂本山王権現(日?神社)の御分霊を勧請したもので、山王権現と号し比叡宮と称しました。
 始めは小田村の西隅に社殿がありましたが、いつの頃からか(不明)現在の処に遷座されたといわれます。旧跡地には有名な銀杏の神木があって大正時代まで残っていたとのことです。
 旧幕(江戸幕府)の頃御朱印地拾石で隣村新田村(現浅田町)菅沢村(現鶴見区菅沢町)等の惣鎮守でした。
 大祭は四月中の申の碑。神輿渡御の際は村内旧家十二人がいづれも馬に乗り警固供奉して三ヶ村を巡幸しました。その行列は頗る古風を極めたものといわれます。
 明治維新までは真言宗円能院が別当職でした。
 明治六年十二月村社に列せられて社号も日枝大神社と改められ、大祭日は五月十五日と定められました。
 大正十三年三月十四日の神饌幣帛料供進する神社に指定されました。
 昭和二十四年四月十五日太平洋戦争の戦禍に罹り氏子の九割と共に焼失しました。
 昭和二十四年五月十四日本殿再建翌年五月仮拝殿建設
 昭和三十二年四月十五日現在の御社殿を復興完成いたしました。
 社に一緒に祭られている神
 天照皇大神・大山津見命・木花開耶姫命・大国主之命・豊受姫命


旧鳥居と力石(さし石)
 旧鳥居は宝暦六年(一七五六年)に建てられ安山岩製のもので伊豆石あるいは小松石と思われ川崎周辺でも数少ない立派なものでした。新編武蔵風土記稿に「…拝殿の前に石鳥居たつ…」とありますこの旧鳥居は大正十二年関東大震災により倒壊、その後大正十五年に現在の御影石の鳥居が再建されました。明治十七年に当社を訪れた池田忠政は「愚老忠政遊覧記」の中に「山王権現ノ御社有リ今ハ日枝ノ御神ト奉申菅沢村、小田村、下新田右三ヶ村ノ氏神也」と記し鳥居には、菅沢村、小田村、下新田村、氏子中の銘が刻まれているのを絵入りで紹介しています。又現在(平成八年)川崎市域で確認されているものの中では最古のものです。「寶暦六丙子歳十二月現在辨龍代健之」とあるのは円能院八世辨龍和尚です。
 力石は寺社でよくみかけるもので祭礼のときなど近郷近在の若者が石を持ち上げ、さし上げると、そこに名前、重さ、年号を刻み改めて神社に奉納されたものとおもわれます。力石の中には元禄十五年の銘があり、これも川崎市で最古の力石となります。


境内社 八王子社
合祀社名
 稲荷神社
 浅間神社
 神明社
 杉山社
 子神三峯合祀社
 大鷲神社


 大山祇神社:鶴見区菅沢町13-10
 朝陽山八幡神社:鶴見1丁目10-10


【参考】
 クリスマスローズ Helleborus sp
 イチョウ Ginkgo biloba
 ユズリハ Daphniphyllum macropodum
 レンギョウ Forsythia suspensa
 ハマダイコン Raphanus sativus f. raphanistroides
 大島桜(オオシマザクラ) Cerasus speciosa
 ヒアシンス Hyacinthus orientalis
 クロマツ Pinus thunbergii
 寒緋桜(かんひざくら)Cerasus campanulata
 カヤ Torreya nucifera
 ナギ Nageia nagi
 クスノキ Cinnamomum camphora
 モミジ Acer spp.
 アイビーゼラニウム Pelargonium peltatum
 ひまわり調剤川中島薬局:川崎区川中島1丁目12-9
 ハナニラ Ipheion uniflorum
 ツゲ Buxus microphylla var. japonica
 星乃湯:川崎区追分町15-2
 庚申堂:川崎区小田1丁目18-9
 伊藤の坂:鶴見区鶴見1丁目
 庚申堂:鶴見区鶴見1丁目10-3

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