八王子から利用した特急あずさは、2017年に投入された新型車両で全席指定制、でも松本から大糸線にはいるとICカードは使えないそうで、事前にチケットを購入しておいて正解でした。
信濃は双体道祖神が多いことでも知られていますので、初日は足慣らしも兼ねて、石碑を中心に白馬を散策しました。
【主な経路】
追浜(6:42)~横浜(7:10-7:18)~八王子(8:23-8:33)~白馬(11:41)
白馬駅~薬師の湯~大出公園~蕨平~白馬グリーンスポーツの森~深空~ヴィラれんが亭~白馬駅~ヴィラれんが亭(宿泊)
E353系【鉄道博物館:レイルウェイ・ガーデン・プロムナードの説明表示より】
中央線特急「あずさ」「かいじ」などで運行する車両です。東京から中央線主要駅を結んでいます。乗り心地は、JR東日本初の「空気ばね式車体傾斜制御」装置を搭載し、左右の揺れが少なく自然な乗り心地としています。
塩の道 千国街道
千国街道の名は。遠く中世以前にさかのぼるものである。北陸道からは姫川沿いに信州への。東山道。木曽街道からは、松本平・安曇野を縦貫して、越後へ通ずる道であった。
近世にあっては、越後では松本街道、信州川では糸魚川街道とも呼んだ。松本城下から糸魚川までの、百二十余キロの間を言うのであるが、信州と越後を結ぶ動脈として、塩・麻など海陸物資の交流は繁く、新道の整備される明治二十年前後まで、主街道の座にあって、経済路線としての役割は極めて大きかった。荷物の輸送は、すべて牛馬とボッカによるものであった。
千国街道は安曇野の豊かな田園地帯を貫き、仁科三湖を巡り、北アルプスを仰ぎ、渓谷に沿うなど、稀にみる美しい風景の地を辿っているが、白馬小谷地方は豪雪地帯である上に険路が多く、物資の郵送は難渋を極めたのであった。街道時代には、大名行列の往還や参詣路としての華やかさはなく、わずかに旅芸人の通うところであったが、薄の穂波に見え隠れする庶民の汗の道として、また山村風俗・自然・石仏の宝庫として、激しい郷愁を誘う道ともなっている。
戦国期、敵に塩をおくるという美談で知られる越後の上杉謙信が甲斐の武田信玄に、牛馬の隊列を整えて塩をおくったというのも、この街道であった。
八方口改名記念
四ッ家(四っ屋)の名は、古文献に明記され、明治二十二年新道が開通するまでは、塩の道として知られる千国街道(北国街道脇往還)の宿駅として、あるいは細野道、蕨平道の中継地として存在した。四ッ家の名の示す如く小部落ではあったが、四ヶ庄平のほぼ中
央に位置して往昔、海陸交易の物資輸送のため、牛馬ボッカの往来が繁く、この地に杖を留めるものも多かった。
太平洋戦争後社会情勢の著しい変貌の中で、戸数、人口共に飛躍的な増加をみ、生業もまた農業に依存するばかりでなく、観光事業が大きな力を占めるに至った。この新しい時代の波の中で、部落の愈々発展することを願い、昭和四十八年四月一日を期して八方口」と改名呼称することとなった。今幾星霜馴れ親んできた「四ッ家」に限りない惜別の想をこめつつ、茲に部落の歴史と改名の経緯の概略を述べ石に刻して永き記念とする。
昭和四十九年三月一日 八方口区一同
平川神社
当社は白馬町の産土神である。
祭神 誉田別尊 息長足比売令
神紋は三ッ巴、祭事として、新年祭、御日待祭・春祭・風祭・例祭・日岐目講・秋祭・大祓祭などが行なわれている。境内に護国神社を合祀する。
白馬町は明治期「平川」と言い、大正七年「四ッ谷」と改め、さらに昭和二十九年に「白馬町」と改めて今日に至ったものである。
神社の前を南北に走る道は。明治初期まで、信州の松本安曇地方と越後を結ぶ、唯一の動脈であった千国街道である。
塩・麻などを中心とする海陸物資交易の要路として。牛馬やボッカの往来が絶えなかったのである。
境内に、天然記念物(白馬村指定)の大山桜がある。
大出村観音堂
大出の観音堂の由来不明であるが文化四年(一八〇七年)に焼失し、再建したと言われている。江戸時代より大出の谷家では馬の〇〇〇〇農村に稲などの運搬に使い家族円満大事家内安全をこの観世音菩薩に祈願していた。他の村からも大勢参拝に来て大変賑わったものであった。
木食山居という僧が作った観音菩薩など三体を祀っているが、一体は両手が折れている。これは火災の時に運び出して折ったか、子供が観音様をそりに乗せて遊んでいて折ってしまったとも伝えられている。
この観音堂は平成十六年十一月新築したものである。
神城断層の活断層露頭(蕨平下の露頭)
ここでは糸魚川-静岡構造線断層帯の神城断層を。露頭で直接見ることができます。露頭では過去に姫川などが流れ堆積した礫層の上に、より古い凝灰角礫岩層(北城盆地東側の丘陵をつくる大嶺帯上部層)が載っています。両層は粘土化帯を伴う断層関係で接しており、断層の走向はN58°E、傾斜は30°SEで、東へ傾く低角な衝上断層です。露頭は東から礫層に衝上する凝灰角礫岩層を西側から見た断層のため、両層が接する断層はほぼ水平に見えています。
白馬村教育委員会 (監修 廣内大助信州大学教授)
蕨平観音堂と筆塚
この観音堂には古く江戸期から大正期半ばまで六代の尼僧が住し、修行や研学に励んだ。又、ここでは尼僧が師匠となり寺子屋が開かれていた。白馬村誌によると、江戸中期から興り、学習内容は「読み・書き・算盤」が主であったという。
明治期寺子屋師匠を務めた、小豆島出身の「佐伯誓信」和尚による「筆」の書を明示二十七年に筆塚として建立された。
この村にまつわる話
この観音堂に安置されたお地蔵様は延命地蔵、万能地蔵とも呼ばれ、多くの人々に親しまれてきました。
ある晩のこ事、堂守の尼僧が、ただならぬ気配にふと、外に出で見るとお地蔵様の首が跡形も無くなっていた。信じがたい出来事に、あわててお堂に戻り一心不乱になってお経を唱え続けた。
すると突然外の方から荒い息遣いが聞こえ「ああよかったやっと生まれた。なかなにかの難産でわたしも久しぶりに汗をかいてしまった」と独り言が聞こえた。不思議に思って外に出て見ると、驚いた事にさっきまで消えていたお地蔵様の首が、元通りになって一段とほほ笑みを豊かにしていたという。
昔は山深い集落では病院もなく産婆さんも少なく、お産は大変な事であった。日ごろの地蔵信仰にお地蔵様が人助けをした心温まるお話が伝えられている。
境内には、多くの観音様、馬頭観音、庚申塔、六地蔵が祭られ。筆塚や堂守りの回国僧の墓など、いずれも村人のあつい信仰心を今日に伝えている。このお堂外にも庚申塔、馬頭観音等々の神が祭られている。 蕨平区、蕨平景観保存会
蕨平観音堂の「なんぢゃもんぢゃの木」
なんぢゃもんぢゃの木とは辞典などでその地域での珍しい樹木の呼び名であるとしている。
このなんぢゃもんぢゃの木は「このお堂のお坊さんが植えたものだ」と昔から言い伝えられてきた。昭和七年発行の「安曇野郡誌」には「北城村蕨平の観音堂にある木でまだ何の木だとも確かめられていない。単に今から三百五十年前のお堂建立の際に奉仕の僧が植えたもの」と書かれている。
又、「定本柳田國男集第二十二」には昭和六年の論文「なんぢゃもんぢゃの樹」の一覧に十六ヶ所の所在中、八番目に「長野県北城村蕨平区観音堂・・・・樹種不明」と書かれている銘木です。
地蔵堂について
本尊は一切の異生を教化する地蔵菩薩にて災障消除諸願成就にて霊験新たかなりと銘板裏面に記されている。安永八年(1779年)造立の延命地蔵で、いぼとり地蔵の名で多くの人に親しまれ、古くから多くの村人や近隣の人々が「いぼとり」の恩恵を受けてきた。願いを叶えてくれる身近な仏様として篤く信仰されています。
現在のお堂は昭和五十三年八月「蕨平船山会」の手により再建された。
空峠庚申塚石仏群
庚申信仰し日本における庶民信仰の代表的なもので、全国各地に見られるものである。太平洋戦争後衰退した、いくつかの神仏信仰の中にあって、庚申を祀る慣しは、形式化をたどりつつも、今なお命脈を保っている。江戸末期からの庚申塔の多くは「庚申塔」の三文字を刻んでいるが、文化文政期以前は、上部に日月、下部に二鶏三猿を配したものが普通で、六十年毎に巡る庚申の年に建てられてきた。
昭和五十五年は庚申の年にあたり、白馬村でも各所に建てられた。六十年をさかのぼると、大正九年、万延元年、寛政十年、元文五年、延宝八年であるが、文化年間以前には庚申の年でなくても建てられている。
庚申塔は大体部落の入口出口にあって、部落に入ろうとする悪魔や疫病を退散させたり、五穀豊饒や鳥虫駆除までしてくれるなど、何でも願いを聞き届けてくれるのであるが、元々は、人間の体内にいて、庚申の夜には出てきて、その人の罪業などを帝釈天に告げ口する、三尸という虫を押さえるために、夜を徹して番をしなくてはならないことから始まった信仰と言われている。中国からの伝来思想である。
ここでは、庚申塔五基(元禄九、元文五、寛政十二、万延元、大正九)のほか
道祖神(双体抱肩像) (文化五年)
如意輪観音像 (延享三年)
大乗妙典百五十部供養塔(文化二年)
二十三夜供養塔 (文化二年)
大日如来像 (寛政二年)
馬頭観音像
など、五十余基がある。 明治初年まで牛馬やボッカの往来の多かった千国街道沿いにあって、村人は勿論、旅人の信仰を集めたところである。数多い馬頭観音は、牛馬とともにあった昔の生活をよく物語っている。
A GROUP OF BUDDHIST STONE STATUES ON THE KOSHIN MOUND AT SORA-TÔGE
Koshin belief in Japan became associated with the worship of the guardian deities usually engraved with three monkey(monkey corresponds to the zodiacal symbol shin). It is one of representative forms of popular belief Japan.
Although the custom of deifying koshin is being reduced just matter of formality after Wold War II the tradition still remain to the day.
The koshi stone monuments at the entrance to the village, has served as a guardian the chase away the evil spirits and discases trying to enter the community. This caution was brought in form China.
Here there are six koshin stone monuments include the one erected in 1724, and about thirty Buddhist stone statues.
白馬駅の履歴
昭和七年(一九三二)十一月二十日、信濃四ッ谷駅として開業。開業当時の村名は北城村であったが、四ッ谷地籍のため駅名は信濃四ッ谷駅とし、昭和四十三年(一九六八)十月一日に白馬駅と改称した。
【参考】
あずさ5号(E353系)
ヒマワリ Helianthus annuus
庚申塔:白馬村北城6008
石塔群:白馬村北城399-9301
薬師堂:白馬村北城399-9301
薬師の湯:白馬村北城399-9301
地蔵尊:白馬村八方口5957-3
石塔:白馬村護国神社
白馬村護国神社:白馬村北城6934
平川神社:白馬村北城6934
庚申塔2基:平川神社
イトバハルシャギク Coreopsis verticillata
キクイモモドキ Heliopsis helianthoides
キバナノコギリソウ Achillea filipendulina
ヒメジョオン Erigeron annuus
ソバ Fagopyrum esculentum
ヤブカンゾウ Hemerocallis fulva
ヤエザキハンゴンソウ Rudbeckia laciniata var. hortensis
石塔群:白馬村大出7157-1
大出観音堂:白馬村大出7157-1
喫茶カミニート:白馬村北城1152-1
カゲロウの一種 (Ephemeroptera)
姫川:大出公園
ウラギンシジミ Curetis acuta paracuta
ヤマアジサイ Hydrangea serrata
北野神社:白馬村北城7230
ヤブレガサ Syneilesis palmata
トチバニンジン Panax japonicus
イワガラミ Schizophragma hydrangeoides
ヘメロカリス Hemerocallis sp.
猿田彦大神道祖:白馬村蕨平
神城断層露頭
庚申塔:白馬村北城
庚申塔:白馬村北城
双体道祖神:白馬村北城
オオバギボウシ Hosta sieboldiana
延命地蔵尊:蕨平観音堂
蕨平石仏群:白馬村北城21698
歴代尼僧の墓所:蕨平観音堂
ヤマトアオダモ Fraxinus longicuspis(蕨平観音堂のなんぢゃもんぢゃの木) ツリバナ Euonymus oxyphyllus
スギ Cryptomeria japonica
クマザサ Sasa veitchii var. veitchii
シデシャジン Asyneuma japonicum
オニグルミ Juglans ailantifolia
タケニグサ Macleaya cordata
あずさ46号
キクイモモドキ Heliopsis helianthoides
石祠:白馬村深空396
空峠庚申塚石仏群:白馬村深空682
双体道祖神:空峠石仏群
カキネガラシ Sisymbrium officinale
双体道祖神:白馬村北城895
シモツケソウ Filipendula multijuga
ユウスゲ Hemerocallis citrina
玄蕃稲荷神社:白馬村北城895
ネムノキ Albizia julibrissin
ブルーベリー Vaccinium corymbosum
オモダカ Sagittaria trifolia
セイヨウフウチョウソウ Tarenaya hassleriana
(旧)信濃四ッ谷駅
クサキョウチクトウ Phlox paniculata
ユリアザミ Liatris pycnostachya
ウラベニホテイシメジ(?) Entoloma sarcopum
【文献】
長沢栄史・本郷次雄(1999), ウラベニホテイシメジについての新学名の提案, 日本きのこセンター菌蕈研究所, 37, 1-6, URL: https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010611245.pdf, Accessed: 2022-07-27.