今日は、渋谷駅から目黒川まで歩いてみました。
道玄坂
江戸時代以来、和田義盛の子大和田太郎道玄がこの坂に出没して山賊夜盗のように振る舞ったとの伝説や道玄庵という庵があったため、道玄坂と名付けられたとり伝説もありますが定かではありません。
平成二十九年度 渋谷区教育委員会
地蔵・道しるべ 猿楽町30番
地蔵尊が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。また、小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が建立されました。道の辻などに立てられた場合には、道路の安全を祈ることのほかに、道しるべになることもあります。
この地蔵尊は、文政元年(一八一八)の造立で、その台座正面には、「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂または暗やみ坂といい、この坂を下って目黒川を渡ったあと、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと並木橋に達します。
江戸時代には、人家もまばらな、ぞびしい道で、旅人はみの道しるべを見て、安心したことでしょう。
渋谷区教育委員会
目黒元富士跡 上目黒1-8
江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政2年(1819)に、別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重の「名所江戸百景」に「目黒元富士」、「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描かれています。
元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2-16-21)へ移されました。
平成22年12月 目黒区教育委員会
【参考】
ハチ公口壁画
時の化石 Fossil of the time
肖像 Portrait
一つの果実 A Fruit
さくら横ちょう碑
渋谷氷川神社
東京都交通局渋谷自動車営業所
目切坂地蔵尊:渋谷区猿楽町30-3
目黒元富士塚:目黒区上目黒1丁目8