追浜、金沢の春-2023-02-26

 今日は近場の金沢区までを散策。ウメやカワズザクラに続いて、八景島のオカメも咲き始めました。



 河津桜(かわづざくら)Cerasus x kanzakura ‘Kawazu-zakura’
 ウメ Armenica mume
 ハナカタバミ Oxalis bowiei
 プラジルヤシ Butia capitata
 ツバキ Camellia japonica
 プラタナス Platanus sp.
 スクート、エアバスA321neo
 スジハゼ(旧スジハゼB) Acentrogobius virgatulus
 マハゼ Acanthogobius flavimanus
 オオバン Fulica atra
【文献】
松井彰子(2014)スジハゼ複合種群における遺伝的集団構造の形成にかかわる生態的特性の解明、URL: https://doi.org/10.14989/doctor.k18329, Accessed:2023-02-26.


伊藤博文別邸跡

 ひな人形
 ボタン Paeonia suffruticosa
 金屏風
 マナヅル Antigone vipio
 花筏文
 投扇興
 ひな人形:西郷喜久子蔵


  お雛様の由来
この雛人形は、私の母(1901年/明治34年生まれ)の嫁入り道具の1つです。当時、ある皇族から依頼を受けた人形師が二種類の雛人形を製作し、これは宮家に渡らなかった残りの一組だと伝え聞いております。
ただ、今となっては、注文された宮家も、人形師の名前もわかりません。
私が子供の頃には毎年桃の節句になると飾られていました。顔だけでなく手足もビスク(陶器)で作られ、西洋人形のように動かせますので、抱っこをしたり、一緒におままごとをしたりして遊んだものでした。
幸いにも激しい戦火や震災もくぐり抜け、お道具共々ほぼ当時のままの姿で残すことができ、そして今このようにこちらで大切に飾っていただけていることを大変嬉しく思っております。
          所有者 西郷 喜久子


  花筏文(はないかだもん)
 花筏とは、散った桜の花びらが水面に浮き、それらが連なって流れていく様子のことで、その花びらの動く様子を筏に見立てた言葉といわれます。文様(模様や柄)の花筏は、筏の上に花や枝が描かれ、着物や帯でよく使われる文様です。


 パンジー Viola × wittrockiana


 プリムラ Primula sp.



 八景島と海苔(ひび)
 シーサイドライン
 ビロウ Livistona chinensis
 ハクセキレイ Motacilla alba lugens
 タンキリマメ Rhynchosia volubilis
 阿亀(おかめ)Cerasus campanulata x Cerasus incisa cv. ‘Okame’
 富士山
 八景大橋
 マンサク Hamamelis japonica
 クルメツツジ Rhododendron x obtusum
 ニホンスイセン Narcissus tazetta
 フチベニベンケイ Crassula portulacea
 ブロンズヒメ Graptopetalum paraguayense ‘Bronze’
 庚申塔
 庚申塔(3基)
 ウメ Armenica mume
 スミレ Viola mandshurica
 コブシ Magnolia kobus
 オオキバナカタバミ Oxalis pes-caprae
 谷津道標
 ハナニラ Ipheion uniflorum
 シレネ Silene caroliana
 谷津浅間神社
 浅間神社石段改修竣工記念碑
 第六天社:谷津浅間神社
 赤井不動尊
 福石:赤井不動尊
 ウメ Armenica mume
 六地蔵尊:赤井山正法院
 ラカンマキ Podocarpus macrophyllus var. maki 横浜市指定名木古木No.201029 :赤井山正法院
 赤井(金沢七井のひとつ)
 コノテガシワ Platycladus orientalis
 浦之郷陣屋跡


  谷津道標

 近世は、街道沿いに道標があり、旅人が目的地の方向を確かめることができるようになっていました。
 この道標は向かって正面に「右 能見堂 保土ヶ谷道」、右側に「此方江戸」、左側に「天保十年亥年 六月 日 願主光明院」と刻まれています。
 これは、右の方へ行くと能見堂を通って保土ヶ谷へ着き、さらに、東海道を北へ行くと江戸へ通じることを表しています。なお、左の方へ行くと白山道を通り、朝夷奈切通しを経て、鎌倉へ通じる道になっていました。
 元々は分かれ道となる別の場所にありましたが、平成29(2017)年この場所へ移設しています。


  赤井不動尊
 この「瀧のお不動さま」は元禄元年(一六八八)、当院の山(現在の富岡中学校付近)に祀っておりましたが、大正の始めごろに軍需工場が出来て交通が規制されたために、当地に移され、赤井のお不動様として祀られました。石段の入口に「瀧不動江之道」(享保十六年)として前不動が祀られています。

  不動の福石(ご自由にお持ち下さい)
 このお不動様に願いをかけるためには、願いをかけた小石をお供えして一つ持ち帰る。願いを叶えたら小石をふやしてお返しする。または身代わりのお守りとして小石を身近において後ほどお返しする。
 昔から幸せをもたらし悪を退散させ、すべての御利益にあずかる事が出来るといわれております。


  浦之郷陣屋跡
 浦之郷村と呼ばれたこの辺りは、戦国大名北条早雲を始祖とする小田原北条氏家臣麻倉能登守の居館があった所と言われています。能登守は長年にわたり浦之郷村の領主としてこの地を支配し、雷神社の再興、良心寺の再建など随所に足跡を残しています。
 やがて、江戸時代に徳川幕府の天領となり、寛文三年(一六六三)厩橋藩(群馬県)酒井雅楽頭忠清の所領となり浦之郷陣屋(浦之郷役所)が設けられ、地域の年貢の取り立てや治安の維持、順法など重要な仕事をしていました。その後、この地域を支配する領主は二百年にわたり次々に変わりました。特に川越藩(埼玉県)は約九十年の長きにわたり二度も駐在し、当地で亡くなった藩士もあり、現在自得寺には三名の藩士のお墓があります。
 当時、入り口には「大門」があり、屋敷は松が植えられた土塁に囲まれていました。
 その後、天保十四年(一八四三)三浦半島の海防強化の目的で大津(京急大津駅付近)へ本陣屋が移されたため浦之郷陣屋はその役割を終えています。
 現在では住宅地となり面影はありませんが周辺には中世以前と思われる古い五輪塔が数基あり、その前で毎年供養祭が行われています。



 浦之郷陣屋の風景:相中留恩記略(天保10年/1839)記載の絵図
○広さ:一町五反(4,500坪=14,850㎡、東京ドームのほぼ1/3)
○駐在:川越藩(文政4年/1821頃136名)など以下アンダーラインの数藩、時には臨時の増減員があった。
○歴代領主:厩橋藩(寛文3年/1663)→ 前橋藩川越藩 → 会津藩 → 川越藩 → 熊本藩 → 佐倉藩 → 韮山代官江川太郎左衛門(慶應3年/1867)
 令和3年11月14日 追浜地域運営協議会・おっぱまはっけん倶楽部

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