今日は、逗子・葉山駅を起点に西海岸を歩いてみました。
【主な経路】
(逗子・葉山駅)-長柄-堀内-一色-下山口-長者ヶ崎-秋谷-芦名-(復路はほぼ逆経路)-(逗子・葉山駅)
三浦半島の道祖神と地神 地神・道祖神マップ (作成中)
道祖神:長徳寺(三浦郡葉山町堀内805)
名木・古木50選や湘南七福神の恵比寿尊でも知られる守護山玉蔵院の塞之神(道祖神)です。
道祖神:一色1034
石塔群の右端が道祖神、庚申塔を祀った社内には子産石もありました。
熊野神社:秋谷5309
藤井(1981)に記載がありませんので、道祖神とは見做されていないようですが、秋谷の熊野神社には、多くの子産石が奉納されています。
秋谷の子産石:横須賀市秋谷5290
裏手の稲荷社にも、沢山の子産石が奉納されています。
横須賀市指定市民文化資産
子産石
子を産み出す石ということから、生殖の神、安産の神が宿る石として崇敬されてきた。ここに据えられた子産石を全体の象徴として指定した。
淡島神社:芦名1丁目18-2
辻井(1988)によると、社前の男根碑はエビス湾の岩穴に祀られていたものを移したとありますので、この30年ほどのうちにさらに社内に移されたことになります。
一方、社の世話していらした男性の話では、『安産の神であり、道祖神ではない』とのことで『境内の猿田彦大神のほうが道祖神ではないか』とのご意見でした。ただし、昭和時代の神奈川県による道祖神調査では、猿田彦は対象外としたそうで、藤井(1981)は芦名の猿田彦大神を認識していたことも占めるされていますので、芦名浜の自然石型道祖神は、これだと思われます。
十二所神社:芦名1丁目21-26
境内の階段下の帯解地蔵は、一見、双体神像型道祖神にも見えるのですが、 新編相模國風土記稿に『地藏堂。安産守護ノ本尊ナリ。故ニ帯解地藏ト號ス。』と見えますので、これは古来、地蔵尊の様です。ここにも子産石が奉納されていました。
道祖神:芦名2丁目22
藤井(1981)に祠型道祖神として紹介されている社です。隣には庚申塔、子産石も納められていました。
【文献】
石井悦五郎(1981)葉山町の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.191-193.
藤井慶治(1981)横須賀市の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.73-84.
辻井善弥(1988)横須賀こども風土記下巻、横須賀市民文化財団、横須賀、223p.
間宮士信ら(1985)蘆田伊人編、村里部三浦郡巻之四 衣笠庄 in 新編相模國風土記稿巻之百十、雄山閣、東京.
本日、撮影のその他の写真です。
長柄の庚申塔群:長柄482
竹で作ったお雛様
海岸連絡道路奉仕工事竣工記念碑(昭和七年拾月 木之下里)
道祖神:長徳寺(三浦郡葉山町堀内805)
地蔵尊:長徳寺(三浦郡葉山町堀内805)
ソテツ Cycas revoluta:ソテツ公園
ツタバウンラン Cymbalaria muralis
サンカクバアカシア Acacia cultriformis
塞之神:守護山玉蔵院(葉山町一色2154)
道祖神:葉山町一色1034
ツバキ Camellia japonica
白石橋:葉山町下山口1396-7
庚申塔群:葉山町下山口1550-1
江の島遠望
ハシボソガラス Corvus corone
HAYAMA SUNDAY:葉山町下山口1820-18
トックリヤシ Hyophorbe lagenicaulis
伊豆大島
長者ヶ崎
道標:国道134号線
カナリーヤシ Phoenix canariensis:葉山ゲストハウス
ウミウ Phalacrocorax capillatus
シーサー
熊野神社:秋谷5309
秋谷の子産石:横須賀市秋谷5290
大乗妙典六十六部供養塔:秋谷4619
谷戸の庚申塔
ビャクシン Juniperus chinensis
秋谷の立石:秋谷3丁目5 カナリーヤシ Phoenix canariensis:立石公園
ブラジルヤシ Butia capitata
石塔群:秋谷1丁目16-11
淡島神社:芦名1丁目18-29
十二所神社:芦名1丁目21-26
道祖神:芦名2丁目22
ナワシログミ Elaeagnus pungens
江の島:長者ヶ崎より
子産石:海上山普門寺円乗院
子産石:個人宅
県立葉山公園より
地蔵尊:葉山町下山口1487
庚申塔群:葉山神明社
子守地蔵尊:葉山町堀内
大正時代、ひの辺に逗子から人力車で来るには、海岸通りから現在の図書館前へ大きく迂回し小川に沿って来なくてはならなかった。当時、別荘のあった入江達吉(ベルツの弟子の医学博士)、村井貞之助(タバコ王村井吉兵衛の義弟)、
「くれ竹通信」Vol.48より
子守地蔵尊の由来
地蔵尊は、一時牛ヶ谷戸の地に二〇〇余年草芽の中に放置されたが、里人達が掘り起こし、現在とは異なる場所(国道一三四号線の川沿いで、現在の新たなか辺り)に安置したと言われている。
古老に聞いた子守地蔵尊の由来については定かではないが、「現在の消防署前から、京浜団地へ通じる細い町道の坂道があり、この坂を昔は子守坂と称していた」との事。
この辺りに由来の起源があると考えられる。
昭和九年に起きた学童の交通事故を機に、牛ヶ谷戸の里人達が地蔵尊を修復し現在の場所へ堂守を建設、昭和十一年十二月十八日開眼供養を施し、学童及び里人の交通安全を祈願してきた。
戦後一時中断したが、昭和五十年、当時の牛ヶ谷戸町内会長加藤氏の発願で供養を復活させ、以降、毎年八月二十四日に、子守地蔵尊祭を行い供養する事になった。
又、古老伝説として、地蔵堂の砂利を洗い清め「いぼ・ものもらい」の患部の上を擦ると治ると伝えられている。
完治した時は、浜辺の小石を二倍にして返納しなければならない。
地蔵尊と浦賀街道道標
寛政十二年(西暦一八〇〇年)江戸幕府は、「五街道其外分間延図並びに見取図」(東京国立博物館蔵)と称する五街道の測量図を作成し、道中奉行所に置き交通政策の利用に供したとある。
この中には、脇街道を描いた一つとして「浦賀道見取絵図」がある。
東海道戸塚宿から左に折れる場所に、「これより鎌倉道」と彫られた道標があった。
脇往還へ歩みを進めると山内・雪下は、鎌倉の中心部だが、大町村あたりは田畑も多い難所の名越坂を越え、三浦郡久野村谷・小坪村・堀内村(現在の葉山町堀内)と海岸沿いを抜けるのが、一転して森戸神社の手前から奥へ向かい、平松地蔵で知られた一色村を越え、上山口・木古庭・上下平作(衣笠)村経由浦賀へ至る街道で、道中の安全祈願と道標を兼ねた地蔵尊と見られる。
地蔵堂内には、道標を兼ねた地蔵菩薩塔があり、地蔵菩薩座像は浮彫、その下に道標の文字が刻まれ、「右うら賀・左やま屋」と彫られ、天保二年幸卯七月吉日(一八三一年)塔とある。
天保二年塔の左には、元文丁巳年九月(一七三七年)建立の塔があり、この塔も同じ様に道案内が表示されこの塔の左側面には、「堀内村施主念仏講中」とあるが、残念な事に中央で折れている。
この塔は、天保二年塔より九四年も前に建てられ、葉山町の貴重な文化財の一つである。
平成十四年八月二四日 牛ヶ谷戸町内会