神奈川区に『子安』という地名の由来を調べて見た。まずは、手元にあった『神奈川区誌』を調べて見たが、それらしい記載はなかったので、ウェブを検索してみたところ、吉祥山惠光院相應寺の地蔵尊に由来するのではないかという説をみつけた。早速、現地を確認し、改めて神奈川区誌の該当箇所を再確認したが、やはりそれらしい記述はなかった。
そこで、『新編武蔵風土記稿』を繙くと、巻之六十七橘樹郡之十神奈川領の項には下記の記載があった。
○東子安村 西子安村 新宿村 東西子安新宿の三村はもと一村にして、元祿の頃より今のごとくに別れしかば(中略)正保の頃にも一村にしてたゞ子安とのみいへり、元祿の郷帳に至りて、東西子安新宿と三村に分ち書すれば此間にかく唱へ始しなるべし、又村名の起れる所も詳ならず、(後略)
これだけで、断言することはできないが、どうやら『名称の由来はよくわからない』というのが答えの様である。
【参考】
吉祥山惠光院相應寺:神奈川区七島町144
子育地蔵尊、地神塔、庚申塔、地蔵群
大口一番街
八重地蔵尊:神奈川区子安通1丁目
八重地蔵の来歴について
此のお地蔵さまは今を去る二十年前即ち昭和三十九年の盛夏当時小学校で夏休行事として早朝ラジオ体操が行われていました。当時5才の岡沢八重子ちゃんは兄さんと姉さんの後について体操に行く途中、たま〱停車中の大型トラックの前を走り抜こうとした時、そのトラックが発車し下敷となって死亡されて了ったのです。其の現場のすさまじさは悲愴と言うか、凄惨と申すべきか、家族は申すまでもなく、居あわせた町民は皆狂乱状態となりました。直ちに其の足で我々町民は警察へ、市当局へと怒りをこめて雪崩こみました。市当局は慌て出し、其の日の中に土木局次長殿が見えて、道路の約半分を子供の遊び場として今日に及んで居ります。
我々町民は八重子ちゃんの犠牲により公園が出来、子供の遊び場として又憩いの場として親しまれていることを永遠に忘れることなく、又、八重子ちゃんのご冥福を祈らなければならないと思います。
昭和五十九年八月
東浜町内会
【文献】
神奈川区誌編纂刊行実行委員会(1977)神奈川区誌、628+59p.
林述斎・間宮士信編(1828)新編武蔵風土記稿巻之六十七橘樹郡之十神奈川領, URL: https://dl.ndl.go.jp/pid/1214845/1/132, accessed: 2023-12-08.