今日は三崎口を起点として城ヶ島方面を歩いてみました。これで、横須賀以南のGoogleMapに載っているようなメジャーな社は概ね撮影できました。次は文献調査ですが、こちらはなかなか捗りません。
訪問済みの神社、等
【主な経路】
三崎口駅-原妙義神社-稲荷神社-宮川神明社-三浦三峯神社-(向ヶ崎)諏訪神社-(向ヶ崎)龍神社-(晴海)龍神社-櫻稲荷神社-日枝神社-稲荷社-城ヶ島海南神社-楫の三郎山神社-洲乃御前神社-東岡城辺稲荷神社-三崎口駅
【原妙義神社】三浦市三崎町六合196
原妙義神社由来
群馬県甘楽郡の妙義神社から御分霊、この地に鎮座されたと伝えられているが何時の時代かは本社にも記録が無く、この里の古老に聞いても定かでない。しかし境内のお清水鉢には日露戦争(明治三七年~三八年)に従軍し、無事凱旋した原の里人が奉納した旨が記され、さらに銀杏の木の大きさから推察すると鎮座はそれよりかなり以前のことと思われる。社前に居住する織部氏所有の敷地に社殿を建立、以後同氏は代々神社をお守りしてまいりましたが、近年織部氏の御奇特により原区に寄贈されました。毎年九月の祭司は古くから三崎海南神社宮司が執行、管理運営等については原稲荷神社の総代会が行っています。妙義さま(当地ではこのように親しくお呼びしている)は、開運、商売繁盛の神、火伏の神、縁結の神、農耕の神、学業の神として崇められ、御神木の銀杏の木の皮の一部をお守りとして受験する子供に持たせると合格するご利益があると言われ、御祭神である学問の神様、菅原道真公の御遺徳と伝えられる。
本社、群馬県妙義神社の御祭神は、日本武尊、豊受大神、菅原道真公、権代納言長親卿
創建は宣化天皇の二年(今から一四〇〇余年前)
平成二十二年十一月
原妙義神社
【原稲荷神社】三浦市原町10
(説明版通り、字句修正せず)
原稲荷神社由来
原区の氏神様として古くより住民の深く信仰するところであるが、その創建は江戸時代とも又はそれ以前ともいわれているか定かではない。唯、境内に奉納されている。眷属(お狐様)には元治元年(一八六四)年を刻み込まれた年号を読み取れることができる。
祭神は「宇迦之御魂大神」「須佐之男命」の二柱を祀る。
三浦市郷社海南神社との所縁は、遠く貞観六年(八六四)ごろ藤原資盈、盈渡姫と家臣が三崎に漂着した時、海岸に藻を拾いに来ていた原部落の者が藤原
明治四十二年三月十二日政令により郷社海南神社に合祀されたが、或る日稲荷大明神が原区の古老の夢枕にたたれ、原のお社に帰りたい旨のお告げがあったということで昭和二十七年区民の総意によってもとの境内地に再建した。その後本殿の老朽化により平成十四年七月新築したお社が現在の原稲荷神社である。
毎年九月三日が例祭日であるが、近年種々の都合により九月第一日曜日に海南神社宮司によって祭詞奏上が行われ、原区芸能保存会の祭り囃子の和太鼓、獅子舞が奉納される。
四年毎の大祭には神輿、山車が区内を練り、歩き、各所で祭詞を奏上獅子舞を舞いながら家内安全五穀豊穣商売繁盛の祈願を行う行事がある。
原稲荷神社 社務所
三浦市原三番十三番地
【宮川神明社】三浦市宮川町17-46
【三浦三峯神社】三浦市岬陽町20-3
【(向ヶ崎)諏訪神社】三浦市3
【(向ヶ崎)龍神社】向ヶ崎町8
【(晴海)龍神社】晴海町8
【櫻稲荷神社】三浦市晴海町18
【(晴海)日枝神社】三浦市晴海町19-13
【(向ヶ崎)稲荷社】向ケ崎町17
【城ヶ島海南神社】三崎町城ヶ島408
城ヶ島海南神社
明治中頃の資料を見ると「三崎海南神社の分霊なり、元亀(一五七〇~一五七二)以前、村民は毎月三日三崎海南神社に詣りを例とす。然るに烈風暴風に際し、渡航甚だ難しい故に、分霊を勧請して村社と定むと云う。」と書かれており、三崎の海南神社を分霊したことが分かります。(祭神は)
遊ヶ崎海岸(宮ヶ崎)に鎮座されていましたが、暴風で破損され明治十一年、三崎を望む現在地に遷したと言われています。
明治の中頃まで、海南神社の祭礼は七月十八日に行われ、船祭りの形をとり、花暮が年番のときには、城ヶ島からも御座船を出し、御船唄を唄いながら。神輿の海上渡御が行われていました。この御船唄は、保存会によって歌い継がれ、祭礼などで披露されています。
現在は、毎年七月十七日が例祭日で神事・御神楽の奉納を行っていますが、神輿渡御は五年に一度七月十七日、十八日に行っています。
平成二十三年五月吉日 城ヶ島海南神社総代
【楫の三郎山神社】三崎町城ヶ島670
この楫の三郎山は、対岸の三崎にある海南神社の際神藤原資盈公が貞観六年(八六四年)故あって九州博多を出航し、途中暴風にあい漂流の末、三崎に着岸されました。このとき、御座船の楫とり役を司っていた家臣三郎をこの山に祀り、楫の三郎山と呼ぶようになったと伝えられています。
また資盈公が「わが住むべき地があるか」と問われたので、三郎がそのとっていた楫で占い、楫が落ちた所に鎮座、これが神号になったとも伝えられています。
大正初年頃までは、この山に主の大蛇がすんでいるから上るとたたりがあるとの言い伝えがあり。誰一人登ったことがなかったと言われています。
今では、航海の安全と大漁を祈願する漁業関係者の信仰が厚く毎月七日、十七日、二十七日に多くの人々が参拝に訪れています。
三浦市
【洲乃御前神社】三崎町城ヶ島安房崎
安房崎と洲の御前【注:誤記はルビで修正】
安房の国といえば当地より望見する南房総の一帯をいいますが、その安房に向く岬という意味から安房崎の地名がついたといわれております。
海のかなたにあこがれる人々の心は昔も今も変わりありませんが、往時この岬に立って海越しに安房の国を眺めた人の想いはどのようであったでしょうか。
洲の前御前社は三崎の海南神社の祭神藤原資盈の家臣四郎を祀ったといわれていますが、この祭神は、石を噛み砕き鉄を爪で切るほどの勇猛大剛なので、始め洲荒御前と称したといわれます。
境内には、源頼朝が洲の御前社参詣の折に催した宴に使った
安房崎の「はな」は海中に突出した磯のため浅瀬が多く、航行する船舶の難所であったため昭和三十七年現在ある白亜のスマートな無人灯台が設置されました。
三浦市
【出世稲荷社/鬼王権現社】三浦市三崎1丁目10
【東岡城辺稲荷神社】三浦市城山町1-14
以下、本日撮影のその他の写真です。
【参考】
ユウゲショウ Oenothera rosea
地蔵尊:三浦市初声町下宮田215-4
タンキリマメ Rhynchosia volubilis
夫婦地蔵(3基)と地蔵尊
六十六部巡拝祠:三浦市三崎町六合12-1
オオヤマフスマ Arenaria lateriflora
ツルレイシ(ニガウリ) Momordica charantia var. pavel
青首大根 Raphanus sativus var. longipinnatus
アレチウリ Sicyos angulatus
ホテイアオイ Eichhornia crassipes
ハナセンナ Cassia corymbosa
ヒメマツバボタン Portulaca pilosa
神奈川県水産技術センター
にじいろさかな号
島の娘:小川清彦作
トビ Milvus migrans
ミヤコグサ Lotus japonicus
ハマエノコロ Setaria viridis
ソナレムグラ Leptopetalum strigulosum
ハマエンドウ Lathyrus japonicus
地蔵尊:城ヶ島灯台公園
城ヶ島灯台
ツルボ Barnardia japonica
スカシユリ Lilium maculatum
メドハギ Lespedeza cuneata
馬の背
ハマゴウ Vitex rotundifolia
ワレモコウ Sanguisorba officinalis
ワダン Crepidiastrum platyphyllum
安房崎灯台
鋸山 遠望
シロダモ Neolitsea sericea
北原白秋詩碑
道祖神(?)(ごはん亭茶屋)
ノブドウ Ampelopsis glandulosa var. heterophylla
庚申塔(3基):東岡城辺稲荷社
庚申塔群(6基)、地蔵尊:三崎町小網代
コマツヨイグサ Oenothera laciniata
誌
慶安元年烽火台トシテ始マリ延寶六年篝火台ニ改メ 明治三年洋式灯臺ヲ創設 大正十二年大震災ニ倒壊 同十五年改築完成ス
茲ニ八十年ヲ記念シ碑ヲ建テ感謝ノ徴衷ヲ表ス
昭和二十四年七月九日
三崎町
慶応二年江戸条約により端を発し洋式灯台の建設が始まりました。この城ケ崎灯台も明治三年十一月初めて一条の光を放ってより、油、ガス、電気とその発展の過程において時代毎に新しい技術を吸収し独創的な開発改良を重ねて現在に至っております。その間、関東大震災、太平洋戦争と破壊的な打撃を受け、その歩んで来た道は決して平坦なものではありませんでした。
由緒あるこの灯台も平成二年十一月にし百二十年と言う歴史を刻みましたがこのむ間幾多の船人達の命と貴重な財貨を人知れず救って来た功績を永く顕彰し、その陰には黙々と守って来た代々灯台職員各位の苦労に感謝すると共に、みの年を節目として無人となるため島民有志一同会い集い感謝の念を後世に伝えるべく石碑に託しここに建立するものである。
平成三年十月五日
城ヶ島観光協会
北原白秋詩碑
雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休ねずみの 雨がふる
雨は真珠か 夜明の露か
それとも私の 忍び泣き
舟はゆくゆく通り矢のはなを
濡れて帆あげた 主の舟
舟は櫓でやる 櫓は唄でやる
唄は船頭さんの心意気
雨はふるふる 日はうずぐもる
舟はゆくゆく 帆がかすむ
Kitahara Hakishu Memorial Monument inscribed with Poem
Jougashima no Ame (Rain Over Jougashima)
The rain is falling, falling, over the rocky shores of jougashima.
Tha rain, grayish greened, is falling.
The rain id falling like parles oe like mist at predawn.
Or like my tears on my cheek.
A boat is going, going, passing the tip of Toriya.
You put up the sail in the mist.
Oh, a boat goes with an oar, an oar the terryman pulls singing a song.
The song comes out of his heart.
The rain id falling, Falling, and the sky is covered bu light clouds.
The boat is going down, down, and the sail is being lost in the haze.
大正二年(一九一三年)五月、白秋は家族とともに東京から三崎に移り向ヶ崎に新居を構えます。大正三年(一九一四年)三月まで十ヵ月ほどの三崎時代ではありましたが、この間、多くの作品が残されています。三浦三崎には、市内各所に白秋の足跡があり、まさに白秋詩魂のふるさとということができます。「城ヶ島の雨」は、大正二年に白秋が船唄として作詩し、これに梁田貞が作曲してできた作品です。この詩碑は、白秋の筆跡を彫り、昭和二十四年(一九四九年)七月、ここから五十メートル東の磯に建てられ、のち現在地に移されました。
三浦市
Hakushu moved from Tokyo to Misaki, and established his new home at Mukougasaki in May of 1913. Although he lived in Misaki only for 10 months until March of 1914, a lot of works ware made during this period. It is able to remark that Miura Misaki is the homeland of Hakushu’s poetic sentiment when you look to the marks which he left in various parts of the city. 「Rain Over Jougashima」 is a song whose lyric Hakushu wrote in 1913 as a sailor’s song and Tadashi Yanada set this poem to music. Hakushu’s handwriting was craved in this Memorial Monument which was built at the shore that located 50 meters to the east from here July of 1949. Later it was removed here.
Miura City