南区・中区の霊場拾遺

 これまでに撮影していなかった中区と南区の社などを訪ねました。
【清水ヶ丘教会】南区南太田1丁目37-10


【(元長者町)水天宮】南区西中町4丁目


【稲荷社】南区浦舟町5丁目


【日本キリスト教会横浜海岸教会】


【横濱媽祖廟】中区山下町136


【末日聖徒イエス・キリスト教会 山手ワード】

 1901年9月1日の朝、末日聖徒イエス・キリスト教会4人の宣教師は謙遜な心をもって集い、「真理を宣言し、主の目的を成就するため」、日本を奉献した。ヒーバー・J・グラント、ルイス・A・ケルチ、ホレス・S・エンサイン、アルマ・O・テーラーの各長老は、横浜の、この地にほど近い人目につかない場所へ歩いて行き、小さな森の中でともにひざまづいた。十二使徒定員会会員で日本伝道部の部長でもあったグラント長老は、そこで奉献の祈りをささげた。
 その祈りについて、テーラー長老は次のように記している。「彼の舌は緩められ、御霊が豊かに宿った。御霊の力があまりにも強かったために、彼の口から言葉が出るたび、わたしたちの心は内に燃え、神のみ使いたちが近くにいるのを感じたほどであった。」
 この碑は、日本各地の忠実な協会員によね一世紀にわたる献身を記念するものであり、イエス・キリストの福音がこの偉大な国の人々に今後も祝福をもたらし続けるという希望の灯としてここに立つ。
          2001年9月1日


【諏訪神社】中区諏訪町13


【琴平神社】中区和田山1-35

  琴平神社由緒
御祭神 金山彦命
    大物主命
由緒
 当神社は、小田原北條家に属せし、橋本伊賀守がその守護神として奉斎し、正親町天皇の御代天正四年(室町時代)に創建された神社と言われている。
 天徳寺の持神社であった琴平神社が。明治政府の神仏分離政策に基づき、お寺より離れて、神社として祭祀を行う事と成った。
 大正十二年九月の関東大震災で総欅権現造りの社殿を始め、社務所・石鳥居・六十九段の石段等が倒壊したが、昭和三年の昭和天皇御大典を記念して、社殿・社務所を再建し、更に昭和六年に木造鋼板張の鳥居及び堅石造りの石段をも復活させて、旧来の神社の姿に蘇った。
 その御神徳は顕著にして、本牧・根岸の地元は基より、遠くか房総方面からも参拝者が有り、特に漁業関係者の信仰が厚かった。
 しかし乍ら、昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲に依り、社殿を含む一切の建物、工作物が消失し、更には終戦後、進駐軍が境内地を含む附近一帯を接収した為に、神社の再建が出来ず、仮に中区西之谷に鎮座する北方皇大神宮に、奉斎して祭祀を行っていた。
 平成元年に接収解除に伴なう横浜市の区画整理事業も終了し、戦前の鎮座地(中区本牧字天徳寺七〇八番地)が山頂公園計画地の内に含まれている為、その近くの現在地に換地され、平成三年五月に四十五年振りに、社殿・社務所等を再建して、仮鎮座地の北方皇大神宮より遷座して現在に至っている。
 一、例祭日
    春の大祭 五月十日
    秋の大祭 十月十日
 一、鎮座地  横浜市中区和田山一番地の五


【吾妻神社】中区本牧原29-18

吾妻神社
 本牧は江戸時代から漁業が盛んな街で江戸日本橋新肴場と呼ばれる魚市場へ鮮魚を卸していました。吾妻神社は地域の漁業関係者からの信仰も厚く、現在も残る御影石造りの石玉垣に刻まれた名前からねその様子がうかがえます。
御由緒
 創建年代は不明ですが江戸時代の古文書に本牧本郷村原地区の鎮守として紹介されています。かつては吾妻権現社、吾妻明神社とも呼ばれていました。
 横浜大空襲により消失した御神体の背面には文和三年(一三五四年)正月十七日祠基謹平重広と銘記してあったと伝えられることから新田義貞の家臣篠塚伊賀守重広が勧請したとの説があります。また、木更津の吾妻社の御神体が波に漂っていたところを当時の漁師吉太夫が網ですくい上げ天和三年(一九八二年)に社殿を建てて祀った、との説もあります。
御祭神 日本武尊
例祭 一月十七日 七月十七日
御利益 子どもの神・疳の虫・病気平癒・安産・海上安全・大漁満足
境内社 嬬恋稲荷社
          令和元年五月
           吾妻神社総代 奉納


【本牧神社】中区本牧和田19-1

  本牧神社本殿遷座に際し
 本牧神社(旧称・本牧十二天社)は、旧来、本牧岬の先端(本牧十二天一番地)に張り出した出島の中に鎮座し、巨古木蒼然たる杜に囲まれ、鳥居の脚元には波頭打ち寄せる風光明媚な鎮守様でありました。
 その様子は江戸名所図会にも「本牧塙 十二天社」として描かれ、江戸湾を往来する廻船からは航路安全、地元民からは守護神と崇められ、本牧十二天の地に八百年以上も鎮座してあつい信仰を受けていたのです。
 しかし、先の大戦の終戦直後の昭和二十一年、ひの本牧地区は二十三万坪に及ぶ進駐軍の強制接収に遭い、以来、平成五年までの四十七年間、神社は本牧町二丁目に仮遷座を余儀なくされ、多くの氏子共々、苦難の時期を過ごしておりました。
 伝記には、建久二年(西暦一一九二年)、源頼朝公が鎌倉幕府を開くにあたり、旗門(北東の方角)守護を祈念して平安時代から存せる神殿に朱塗厨子を奉納した、とございます。
 また、鎌倉将軍維康親王より社領の寄進。中頃。両菅領よりも同様に社領寄進。天正年間には徳川家康公の関東御入国に際し、高十二石免御朱印の下置、以来、徳川十五代将軍より御代々頂戴-とあり、方除け、厄除けにご神徳が顕然(あらたか)として、武家や庶民からあつい信仰を受けてきたのです。
 また、室町時代の永録九年(西暦一五六六)から四百年以上も地元住民に受け継がれて来た当神社の「お馬流し」神事は、「ハマの奇祭」として神奈川県指定無形民俗文化財、県民俗芸能五十選であり、毎年八月上旬に現在も斎行され続け。強度の祭りとして保持されております。
 米軍の接収解除とともに、返還地域一帯は横浜市による区画整理事業が施行されました。産業道路の直線整形、消防署の建設などの公共事業計画に伴い、当神社の社有地は従前地の「本牧十二天一番地」ではなく、この「本牧和田」の新天地に換地されました。
 この新社地は、表通りに続く前面も、後背地の丘も公園であり、境内地全面が南向きの雛壇形状という、鎮守様をお祀りするのに絶好の境内地であります。
 四十七年前、仮遷座を忍ばれておられた大神様に、氏子崇敬者の創意による赤誠を捧げ、浄財を募って建立されたのがこの新神殿でございます。
 権現造りの神殿は、総銅板葺きで、唐破風と千鳥破風の二重破風、屋根坪は百坪を超して横浜最大を誇ります。本牧地区住民の敬神の念のあつさ、郷土愛の深さを如実に表すとともに、広く慕われるご神威、ご神徳の賜物でございます。
 本牧地区の目覚ましい再開発とともに、大神様に新しいご社殿、すがすがしい聖域の境内にご鎮座いただくことは、更なる御神徳の発揚をたまわり、私達が祖先から連綿と受け継いで来た「郷土・本牧」の住民一同の「心の寄りどころ」として、のた、明日を担う子供達には幼き日の懐かしいふるさとの思い出となる、と強く関心致しております。
 氏子崇敬者の皆様の、弥栄の御発展とご隆昌を祈念申し上げますとともに、本門神社のご神威を弥増しに増すために、今後も展開される神社の諸事業に、更なる強いお力添えを賜りますよう、衷心より重ねてお願い申し上げる次第です。
               再拝
  平成五年十月吉日
     本牧神社復興奉賛会
     本牧神社氏子総代会
     本牧神社々務所


木造祭礼船が復興しました
 当社の例祭に行われる「お馬流し」は、永録九年(一五六六年)から四百年以上受け継がれております。「お馬さま」は茅(カヤ)で作られ、馬頭亀体をしており、旧本牧六ヶ村にちなんで毎年六体が羽鳥家の当主により作られます。この「お馬さま」は一年間の本牧中のあらゆる災厄を背負っていただき、東京湾沖合に流す神事が「お馬流し」です。
 平成二十五年、氏子、崇敬者の皆さまのご支援を得て、木造祭礼船が修理・復興され、五十年ぶりにその勇姿を本牧の海に浮かべることができました。埋め立て前までは、三~四十名の若衆が乗り込み、お馬さまを流したあとは、岸に向かって力いっぱいの競漕が行われ、その勇壮な姿に本牧中が大いに沸き立ったものです。
 只今は、お馬流しの当日、本牧漁港では修理。復興のなった木造祭礼船によるかつての勇壮な姿を、皆さまにお見せする工夫をいたしております。
「お馬流し」


本牧神社 年間祭典神事
  1月 1日  歳旦祭
  1月 3日  元始祭
  2月上旬  宇氣の稲荷初午祭
  2月中旬  祈年祭
  2月下旬  本牧天神社例祭
  5月 5日  本牧水天宮例祭
  6月下旬  夏越大祓式
  8月初旬  例大祭 お馬迎え式
       お馬送り式 お馬流し
  9月上旬  八王子大神例祭
 10月15日  熊野速玉社例祭
 11月23日  新嘗祭
       宇氣の稲荷社例祭
 12月31日  年越大祓式
 毎月1日、15日 月次祭 午前8時30分斎行(どなたでもご参列できます)


   本牧神社御祭神
主祭神 大日霊女命(おおひるめのみこと)(天照大御神(あおてらすおおみかみ))
 相殿 須佐能男命(すさのおのみこと)
    大山津見命(おおやのつみのみこと)
    木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
摂社
■正一位宇気の稲荷社  「宇気」は「豊受」の「ウケ」で、五穀豊穣をつかさどる「保食の稲荷大明神」の意。また「宇気」は「有卦」てあり、「有卦に入る」という言葉のように、陰陽道で「吉兆」を啓示し≪素晴らしい人物や金運にめぐり逢える≫とも言われる。気学では、「宇」は「家の屋根のひさし」を意味し、「宇気」は「家に《気》が満ち満ちているさま」を具現し、商売繁盛・社業繁栄・五穀豊穣・開運招福にご神徳あらたかと伝えられる。
■本牧天神社  学問の神様といわれる「菅原道真」公をまつり、横浜の名園「本牧三渓園」に間門より移築されている「間門天神」と同様、京都の北野天満宮よりご分霊をいただいている。特に受験生などに合格祈願。学業成就のご神徳を慕われている。
■本牧水天宮  横浜には珍しい水天宮は、安産の守り神として名高い。懐妊五カ月目の戌の日に参拝し、「壽」と書いた岩田帯を締め、安産のうちにすこやかな赤児を授かるように祈念する。
■縁切り熊野神社  速玉之男神(はやたまのをのかみ)をまつる。日本書紀によれば、イザナギノミコトが黄泉国の醜さを嫌ってイザナミノミコトに対し族離れ(うからはなれ)(離縁宣言)をなされたとき、振り払った衣の裾からお生まれになった神。「悪しき縁を断ち、けがれを祓う」ところから、転じて「良縁にめぐり逢い、相整う」という。
阿夫利神社(あふりじんじゃ)  大山阿夫利神社より分霊を受け、大山祇神(おおやまずみのかみ)をまつる。森林・山岳の神であると共に、大山が、相模湾、東京湾の漁師に好漁場を知らせる目安(山アテ)であることから、大漁満足、航海安全のご神徳で知られる。
■若宮八幡宮  「若宮」とは本宮のご分霊を奉斎しているの意。京都・石清水八幡宮より受けている。誉田別命(ほんだわけのみこと)(應神天皇)、比賣神(ひめがみ)息長帯姫命(おさながたらしひめのみこと)(神功皇后)を併せのつり共に軍神、武勇の神として源氏をはじめ、その流れを汲む武将(新田・足利・戦国大名の武田・佐竹・里見・小笠原・南部、徳川・池田・蜂須賀等)に崇拝されてきた。


【宇気の稲荷社】本牧神社境内社

   宇気の稲荷社
 稲荷大明神(宇賀御霊命=うがのみたまのみこと)は五穀豊穣、商売繁昌、社業繁栄、開運招福にご神徳あらたかといわれる。
 宇気(うけ)は、豊受(とようけ)の「ウケ」。「豊」は物事が満ち足りているさまを表す美称。「ウ」は発語、「ケ」は元々、百千草の生命力を崇めた語で、それが万物に生命の存在を認める日本人の生命観となり、のちに五穀豊穣などの稲荷信仰へと受け継がれた。 また、「宇気」は有卦(うけ)であり、「有卦に入る」という言葉があるように、陰陽道においては吉祥(きっしょう=めでたいしるし)の連綿、続現を示し、《素晴らしい人物や隆昌運、金運に次々とめくり逢える》といわれる。
 気学では、「宇」は「家の屋根(ひさし)を意味し、」「宇気」は「家に《気》が充ちているさま」を具現することから、この宇気の稲荷社には、祠(ほこら)に覆殿(おおいでん)を付けた。
 感情にあたっては、本牧神社の主祭神である天照皇大御神(あまてらします・すめおおみかみ)の悠久の御璽(みしるし)、大御稜威を拝受して帰浜、相殿に奉鎮した。
  平成十六年甲申年吉日  奉納


【熊野速玉社】本牧神社境内社

縁切り 縁結び
 縁の神 熊野速玉社
 室町時代より本牧十二天社(本牧神社の旧称)の境内社として祀られていた六社のうちの一社。速玉之男神を祀る。和歌山県新宮市にある熊野速玉大社より勧進された。御神紋は三本足の八咫烏。
 日本書紀によれば、速玉之男神は伊邪那岐命が黄泉国の醜さを嫌って、伊邪那美命に対し族離れ(別離宣言)をなされたとき、振り払った衣の裾からお生まれになった神。「悪しき縁を断ち、汚れを祓う」といわれ、転じて「良縁に巡り逢い。相整う」という。
 傍らの双胴の絡み合う木は「榎」で、榎は「縁の木」(ゑんの気)といわれ、心深く念じながらぐるりと根元を右に廻れば、さらに絡み合い、「良縁」が深まり相整う。左に廻れば絡みを解いて悪縁との「縁切り」が叶い、新しき「ゑにし(縁)を期すことが出来るという。」


【稲荷社】中区根岸町1丁目18


【稲荷社】中区根岸町2丁目46


【御嶽神社】中区根岸町2丁目113


【子育地蔵尊(大聖院)】根岸山大聖院覺王寺:磯子区東町9−6


【浜マーケットの小島家が閉店】

2015年1月24日撮影
 先月通りかかったときには営業していたのですが……。


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