街角のアートワーク-伊勢佐木町、馬車道など

 みなとみらい地区に続き、伊勢佐木町と馬車道の街角アートを訪ねました。


【伊勢佐木町1丁目】

 作品名不明(東側入口)
 若い女像(佐藤忠良作)


【伊勢佐木町2丁目】


 Monument-Town Poeple
  〇鐘を鳴らす神父
  〇ふるいをかける農婦
  〇パンを焼くパン職人
  〇オルゴールをならす街の芸人
  〇ラッパを吹く街の音楽家
  〇靴をつくる靴職人
  〇鉄をうつ鍛冶職人
  〇粉をひく農夫
  竣工-1978年11月11日
  制作-株式会社竹中工務店/株式会社乃村工藝社


【伊勢佐木町3丁目】


 作品名不明(マクドナルド伊勢佐木町店前)


【伊勢佐木町4丁目】


 イセザキ・ベルタワー ISEZAKI BELL TOWER 1982年11月12日
 伊勢佐木町ブルース歌碑


 「伊勢佐木町」の名は、故青江三奈(平成十二年七月二日没)さん歌唱の「伊勢佐木町ブルース」によって、全国の人々に知られるようになりました。
 当組合では、青江さんに深く感謝し、記念として、この地に歌碑を建立しました。
 伊勢佐木町ブルース歌碑は「楽器の王様」といわれるグランドピアノをモチーフとし、ピアノ部分は「ざくろ石」、台座部分は「黒こかげ石」を使用して制作してあります。
 青銅製のレリーフは彫刻家熊谷友児氏製作によるものであり、黄銅版に刻まれた楽譜は「伊勢佐木町ブルース」の題名と「青江三奈」の名は青江三奈さんのご主人である、作曲家・花礼二氏に書いていただきました。
 台座部分にスピーカーを内蔵し、スイッチを押すと「伊勢佐木町ブルース」が約1分流れます。(10:00~20:00)
 裏面には、二十世紀に親しまれた横浜にちなんだ歌の中からアンケートで選ばれた五十曲の曲名が刻まれており、さらに二十一世紀に生まれてくる歌の中から後世に残したい曲名を刻み加えて、末永く親しまれる「歌碑」にしていきたいと考えています。
               協同組合 伊勢佐木町商店街


【伊勢佐木町店5丁目】


 作品名不明(やよい軒伊勢佐木町店前)
 花びら風車 Flower Windmill 1991 住谷正巳 Masami Sumiya


【伊勢佐木町店6丁目】


 作品名不明(ファミリーマート横浜イセザキモール店前)
 波の華 Namino hana 1991 住谷正巳 Masami Sumiya


【伊勢佐木町店7丁目】


 作品名不明(ローソンLTF伊勢佐木町店前)
 作品名不明(横浜銀行阪東橋支店前)2019.10.7撮影


【吉田橋関門跡】中区伊勢佐木町1丁目

横浜市地域史跡
  吉田橋関門跡
     瓶せて五年十一月一日 登録
     所有者 横浜市
 安政六年(一八五九)六月二日、横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことにより「吉田橋」と呼ばれました。
 吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを殿締まりました。
 関門は、当初港町側に設けられましたが、文久四年(一八六四)二月に吉田町側に移設されました。
 関内、関外という呼び名はこのとき以来で、関内は馬車道側、関門は伊勢佐木町側を指し、その関内は明治四年に廃止されました。
  平成二十四年三月     横浜市教育委員会


 [(かね)の橋]
明治2年(1869年)、英国人土木技師R.H.ブラントン(RICHARD HENRY BRUNTON 1841~1901)により架け替えられた吉田橋は、橋長24m、復員6mの日本最初のトラス橋であり、「(かね)の橋」として市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集めました。現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したものです。

 【ブラントンと横浜】
明治元年(1868年)政府の招聘により来日したブラントンは、開国に伴い、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通や横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。
 横浜居留地測量                  1868~70
 電信敷設                     1869
 新橋・横浜間の鉄道意見書             1869
 吉田橋(鉄の橋)架設                1869
 居留地下水道整備・マカダム式像路舗装街路照明計画 1869~71
 水道計画                     1870
 港築計画                     1870,73,74
 新埋立居留地造成計画・施工            1871
 中村川拡幅等設計・施工              1871
 日本大通り設計・施工               1871
 修技校開設                    1871
 横浜公園設計・施工                1871,72


【馬車道】

 太陽の母子像:中区常盤町4丁目47
 平和Ⅰ PEACE I マルタ・パン Marta Pan 1986
 浜の時守 1986 兒玉慎憲
 下岡蓮杖顕彰碑:中区弁天通4丁目67
 CAVALLO 1975 VENANZO CROCETTI
 作品名不明(ローソン 横浜本町四丁目店前)


太陽の母子像
 製作者 本郷 新
横浜沿革史に『明治二年六月馬車道通常盤町五丁目ニ於テ町田房造ナルモノ氷水店ヲ開業ス……』と誌されています。日本でのアイスクリームの誕生です。私達はこれを記念し、このゆかりの地に、モニュメントを建て寄贈いたします。
  昭和三十一年十一月三日
     社団 日本アイスクリーム協会
     法人  同   神奈川県支部


日本写真の開祖 写真師 下岡蓮杖(一八二三~一九一四)
                  伊豆下田に生まれる
 嘉永元年(一八四八)狩野派の青年絵師が、銀板写真に遭遇し、そして絵筆を折り捨て写真術習得の道を歩み出した。この青年こそ、日本に写真師という職業を確立した日本の写真の開祖 下田蓮杖その人である。
 蓮杖は、来日の外国人から湿板写真の機材を入手し、筆舌に尽くしがたい辛苦の歳月を経て、文久二年(一八六二)野毛に初めての写真館を開業し、その後、弁天通りに進出し、慶応三年(一八六七)太田町五丁目角地に「富士山」と「金楽堂」「相影摟」の看板を掲げた写真館を開き大繁昌をした。
 数多くの門下生を育て、我が国に於ける写真技術の先覚者として近代文化の発展に貢献した。その業績に敬意を表し、文明開化の地、馬車道通りに写真師発祥一二五周年、日本写真の開祖写真師下岡蓮杖顕彰碑を昭和六十二年(一九八七)建立をみたのである。
顕彰碑 下岡蓮杖顕彰碑建立実行委員会
碑文  横浜市写真師会設立百周年記念実行委員会
  平成二十二年(二〇一〇)六月一日


 その他、本日撮影の写真です。
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【参考】
 横浜橋商店街
 「かめや」と「Caretta」
 地蔵尊(牛鍋荒井屋)
 近代のパン発祥の地碑
 旧露亜銀行横浜支店
 継往開來碑:横浜市中区山下町185
 百段館
 麒麟麦酒開源記念碑(麒麟園)
 風の塔


  近代のパン発祥の地
 一八五九年欧米諸国との貿易がはじまるや、幕府は、日本大通五番地の横浜郵便局を中心とするこの地区に外国人の日用品街「お貸し長屋」を建てた。
 その一画で、内海平吉は一八六〇年。フランス人にパンの製法を習って「パン屋」をはじめた。
 当初は「焼き饅頭」のようなものができた。だが、これが現代日本人の日常生活につづくパン食文化の初めである。パンの元祖「富田屋」として知られた。
 その後、イギリス人クラークのパン屋「ヨコハマベーカリー」が登場する。ここで修業し、受けつぎ発展したのが内木彦太郎の元町「ウチキパン」で、イギリス流の山型パンである。
 現代日本の日常生活に根づくパン食文化「パン屋」が、はじまったこの地区に、横浜市中区制九〇周年を記念し「近代のパン発祥の地」を設置する。
          二〇一六年十一月
          設置者 横浜市綜合パン協同組合
          全日本パン協同組合連合会


  継往開來
過去を継承し未来を開く~このモニュメントは未来を切り開く<斧>をデザインしたものです。1859年横浜が開港し、ここ旧外国人居留地に欧・米・アジアの人々が集い、日本の近代化と国際化の種子がまかれました。中国人は貿易の場で「買弁」などの仕事に携わり、中華街を築いてきました。居留地の志を受け継ぎ、善隣友好・温故知新を胸に中華街は横浜の発展とともに歩んでいきます。


  百段館
 1859年に横浜港が開かれ、この館は右手の館内には外国商館が建ち並び、左手の丘の上には多くの外国人が住んでいました。ここ元町は、その外国人のための商店街として賑わっておりましたが、今日ではその伝統を受けついで多くの人に愛される街に発展しております。
 上の写真の医師団は浅間神社へ昇るもので、101段あって「元町百段」と呼ばれ親しまれておりました。その石段も1923年の関東大震災で惜しくも崩れてしまい今はその跡もありません。
 この史実を伝える意味から、この館の建設に当たっては階段を101段とし、その名を「百段館」と名付け、永く「元町百段」の名を称えることといたしました。
 1991年9月
          百段館主 株式会社チャーミー田中
               田中弘孝
               杉島和三郎


  麒麟麦酒開源記念碑
 1870年、アメリカ人ウィリアム・コープランドは横浜・山手にビール醸造所スプリング・バレー・ブルワリーを設立し、日本で初めて産業として継続的にビールの醸造・販売を行いました。コープランドはその功績から、「日本のビール産業の祖」と呼ばれています。
 1885(明治18)年、スプリング・バレー・ブルワリーの建物と土地は、日本在住の外国人経営の会社ジャパン・ブルワリーに引き継がれ、1888(明治21)年に「キリンビール」が発売されました。そして、1907(明治40年)、ジャパン・ブルワリーの事業を引き継ぎ麒麟麦酒株式会社が創立。1923(大正12)年の関東大震災まで、この地においてビールを醸造しました。石碑はこの地がキリンビール発祥の地であることを記念して、1937(昭和12)年に建立されたものです。
※石碑建立当時は、スプリング・バレー・ブルワリーの建立は1872(明治5)年とされていましたが、その後の調査で1870(明治3)年であることが判明しました。

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