今日は名木古木を訪ねて、戸塚区へ。戸塚区でも開化の始まっているサクラが沢山ありました。
【主な経路】
(JR東戸塚駅)-品濃町-秋葉町-舞岡-上倉田-下倉田-小菅ヶ谷-(港南台駅)
横浜市指定名木古木
No.48197 イヌマキ(品濃山北天院)
かながわの名木100選 昭和59年12月指定
北天院のイヌマキ 和名:イヌマキ(マキ科)
幹が大きく3本に分かれ、枝も広がり、情景も整った古木である。
横浜市の名木古木に指定されている。
樹高 18メートル 胸高周囲 3.5メートル 樹齢 約500年(推定)
イヌマキは、関東地方から沖縄の照葉樹林に分布する常緑高木で沿岸地域では庭木として植えられることが多い。
樹高20メートル、胸高周囲7メートル、樹齢600年に達するものもあると言われている。
No.201045 ヤマモモ (ニューシティ東戸塚管理センター)
横浜市の名木古木 ヤマモモ(平成22年度横浜市指定)
本州中部以南の暖地に生える常緑高木で、雌雄異株ですがこの木は雌木なので実をつけます。実は初夏に甘く熟し生食できますが、ジャムや果実酒などにも利用できます。推定樹齢220年の横浜市有数の大木で、この街の移り変わりを今後も見続けていくことでしょう。
パークヒルズ
No.2012501 ムクノキ Aphananthe aspera (戸塚区舞岡町21)
No.49530 ゴヨウマツ Pinus parviflora 長蔵寺(戸塚区秋葉町348)
現地確認できませんでした。恐らく滅失と思われます。本堂近くに、後継木と思われる若木がありました。
品濃山北天院:戸塚区品濃町1745-1
品濃山北天院由緒
当北天院の創立年代は不詳だが、佛光國師草鞋ぬぎの古道場
として古くから言い伝えられており、遠く鎌倉時代上期より存
在したものと思われます。今から七百年余前、時の執権、北條
時宗公のお招きによりまして中国より渡来された、佛國光師が
鎌倉入りをされるに先立ち衣替えをされた一庵が当北天院で、
その後建武元年八月(西一三三四年)足利直義、当秋庭の郷(現
品濃、名瀬、秋葉、等)を鎌倉建長寺内に在る正續院に寺領と
して寄進、更に至徳元年七月(西一三八四)後亀山天皇勅を以
て当村を圓覺寺祖塔、正續院に寺領として寄進しておられます
。因に正續院が建長寺より圓覺寺に遷塔せられたのは建武二年
で夢想國師が後醍醐天皇の勅命を仰いで行ったものです。尚、
寛永十年頃の圓覺寺末寺帳に依りますと、当北天院は開山祖塔
正續院の唯一の末寺であり、延宝二年頃は本山直末十ヶ寺の内
に月桂寺、関興寺等と並び挙げられており、又、圓覺寺派で御
本山の開山様を迎え、開山と仰いでいる末寺で当北天院ただ一
ヶ寺で、誠に由緒のある古刹であります。
この度、日本国有鉄道、東海道本線増線工事(昭和四十八年
頃より)の為、寺墓地を総移転しなければならなくなり、其の
代替地として旧境内地を選び、新たに裏山を開発、諸堂宇の新
築再建と相成り、十年の歳月を以て現在に至ったものです。
昭和五十九年四月吉日
当山四世 一渓 謹誌
品濃白旗神社:戸塚区品濃町518-7
御由緒
康元元年(一二五六)源義経公を御祭神と崇め創建、御社殿は天正三年、天保十一年に夫々改築された。白旗とは源平争乱の際、敵味方を区別するための旗の色、平家の赤旗に対する源氏の白旗、源氏そのものを象徴する名である。
源氏の武将が祀られる「白旗」の名の付く神社は全国神社本廳傘下八十余社あり、その内「義経公」を祀る神社は八社であるが由緒は不明である。
天正十九年以来は、當地の知行となった新見
には御社殿は倒壊したが氏子には被害が無かったので、時の部落長が「宮柱うちくだけても倒れても氏子の怪我なきぞ尊き」と献詠し、村人たちは「鎮守さまが身代わりににってくださった」と感激して翌年再建に着工、九月二十八日に竣工しこの日に因んで例祭日となる。
その後八十余年、世の変遷を乗り越えた御社殿も平成十九年十二月不審火により焼失。然しながら氏子への被害も無く、再び御神威に助けられ、平成二十四年十月氏子の尽力により御社殿を再建した。
【白旗神社と新見氏】
徳川家康との厚い信頼関係を築いていた旗本新見氏は、天正十八年(一五九〇)に新見正勝が相州品濃・山田を領地として家康より賜った後、明治維新に至るまで、変わること
なく領地を治めた。正勝は家督を譲ったのみ品濃に隠居、寛永十九年(一六四二)没後白旗神社脇へ埋葬されたと伝えられている。
幕末に入り、ペリー来航には新見正興が領主となっていた。安政五年(一八五八)欧米五ヶ国との間に修好通商条約が締結され、翌年、正興は外国奉行と神奈川奉行を兼帯。
幕府の要人を務めながら、白旗神社の隆興にも尽力したと伝えられている。
【御祭神】
源 義経命
【年間祭事】
初詣 一月随時
祈年祭 四月十一日 (五穀豊穣祈願祭)
夏越し大祓 六月最終日曜日 (年の前半の清祓)
例大祭 九月二十八日 (年に一度の神社大祭)
七五三詣 十一月随時 (人生儀礼)
新嘗祭 十一二十八日 (五穀豊穣感謝祭)
年越し大祓 十二月三十日 (年の後半の清祓)
辨財天宮:品濃白旗神社境内社
品濃白旗神社境内相殿
左から、空き、日本武尊、素戔嗚尊、如来坐像(上品)、空き
地蔵堂、庚申塔、地神塔:戸塚区品濃町518-6
稲荷社:戸塚区舞岡町3709
第六天祠:戸塚区舞岡町3710
『相刕?岡村金子氏』銘
増威八幡社:戸塚区秋葉町343
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増威八幡社 由緒
祭神
例祭 七月二十五日 所管 神社廰
鎮座地 横浜市戸塚区秋葉町三四三番地
当社の創建は古く規模は大きかった。
一 創建は天平元年六月十五日(紀元一、三八九 西暦七二九)宇佐八幡宮創建の四年後であり、石清水八幡宮の百三十一年前である。中川、川上地区内の神社としては最も古い
二 祭神は
三 被災二回の都度御神體は海から出現し給うたとの傳承は海が遠い現状では分かりにくいところであるが最近三十年間の土木工事中に鎮座地周辺は深い入り江であったことが二ヶ所に於て實證された。
四 ゆかりの土地はその昔「秋庭の里」と云い神楽畑が鎮座地に隣接するほか鳥居跡の「鳥居戸」祭禮競馬の「馬場谷」神主横山志摩守の居住地「殿屋敷」が柏尾村に在り祭禮市の「市場谷」が上樫尾に在る。
五 増威八幡は源義家東征の折当社に立寄られ神社名を問われた神職が自分の名前(増井)を答へたところ「威を増すとし幸先が良い」と喜んだと傳へ現用の社號額(明治期の物と推定)は「増威社」である。
特殊神饌としては「十二味供養」があり山菜、野菜の十二種を叮嚀に盛り合せる。尚、当神社には次の俗稱がある。毎年祭禮には、小麦の神饌を現用しているので小麦八幡とも言う。
平成十年七月二十五日
寄贈 松井貞雄
堅牢地神塔:戸塚区下倉田町1239
力石:戸塚区下倉田町1231
昔娯楽の少なかった時代の若者達がここに集まっては石を持ち上げ力自慢をしあったといわれています
【参考】
イヌマキ Podocarpus macrophyllus No.48197:戸塚区品濃町1745-1(品濃山北天院)
ヤマモモ Morella rubra No,201045:戸塚区品濃町553-1(ニューシティ東戸塚管理センター)
ウメ Armeniaca mume
寒緋桜
ひまわり歯科(戸塚区品濃町543-4)
ミツマタ Edgeworthia chrysantha
堅牢地神塔:戸塚区下倉田町1239
力石:戸塚区下倉田町1213