追浜七福神巡り『追浜九福神+α』

 正月なので、今日は近場の七福神巡り。追浜の七福神は2013年から公開されていますが、毘沙門天の像を保有する寺がふたつあるので、8カ所を巡ることになります。加えて浦郷町には大国主社があるのでこちらも併せて回ってみました。今日はいつもとは反対に右回りでした。
本日の経路マップ  2013年1月19日  2015年12月25日  2017年1月19日


【主な経路】
 (自宅)-久遠山良心寺(布袋尊)-無量山正光寺(福禄寿)-補陀山自得寺(大黒天)-おしんめ様-浦谷山法福寺(毘沙門天)-雷神社-金剛山正禅寺(毘沙門天)-楽浦山能永寺(弁財天)-深浦山独園寺(恵比須尊)-大国主社(大黒天)-坂中山観音寺(寿老人)-(自宅)

【参考】
 ソテツ(蘇鉄) Cycas revoluta
 シンノウヤシ(親王椰子) Phoenix roebelenii
 センダン(栴檀) Melia azedarach
 ニオイシュロラン(匂棕櫚蘭) Cordyline australis
 一遍上人象(能永寺)
 枝垂れ梅(能永寺)
 マサキ() Euonymus japonicus
 コミュニティハウス榎戸亭
 二ホンスイセン(日本水仙) Narcissus tazetta



  獨園晩鐘
かならずと
 暁かけて
ちぎりしも
 獨り園生の
入りあひの鐘

  安政戊午旭松閣吉隆撰
     獨園晩鐘より
      加藤煌雪謹書

  獨園晩鐘
三浦半島北部の景勝地を浦郷八景と題し安政五年に撰された和歌の一首
北郷の静寂の中に獨園寺晩鐘の音がとける江戸時代の情景を表現しています
 浦郷八景(北郷八景)を巡る


市制施行七十周年記念
横須賀風物百選 官修墓地
 明治政府を辞めて、鹿児島に帰っていた西郷隆盛は、政府に不満を持つ人々の懇願に抗しきれず、ついに兵を挙げました。ときに明治十年二月十五日、西南の役であります。三万余の西郷軍を討つために明治政府は、有栖川宮熾仁親王を征討総督とし、総勢六万余の兵力を九州に向かわせました。大部分の兵士は徴兵でした。
 この戦役で、政府軍戦死者は六千二百余人にのぼり、戦傷病者は数えきれないほどでした。戦傷病者を輸送するため、和歌山丸と東海丸が派遣されましたが、その帰港中に船内でコレラが発生しました。政府は、両船に長浦湾口での停船を命じ、急きょ箱崎に仮の避病舎を建て、診療にあたりました。
 しかし、その努力もむなしく、十月二十一日以降、毎日のように死者が続きました。これらの遺体は、黒崎海岸(現在の浦郷町五丁目地先)で火葬に付されました。そのうち、遺族不明の四十八名は、そのまま黒崎に埋葬され、官修墓地として政府が維持管理にあたりました。
 明治四十五年、黒崎が海軍用地として買収されたため、大正二年四月、四十八基の墓石は、現在地に移され修復が加えられました。
 毎年、四月下旬には地元郷友会の人々によって慰霊祭が行われています。

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