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杉山神社を巡る-Part11 溝の口~新羽~鶴見

今日は、杉山神社巡りの締めくくりとして川崎市から都筑区のかけての6社を廻って来ました。この地域は杉山神社の分布の中心でもあり、延喜式神名帳に記載された式内社の可能性のある社が多くありました。
これまでに旧武蔵国周辺の杉山神社縁の社は一通り廻ったので、次は文献調査ですが、それは退職後になりそうです。

【本日巡検した杉山神社】
括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
諏訪神社      :川崎市高津区諏訪3-16
有馬神明社     :川崎市宮前区有馬5-13-24
(19)大棚杉山神社  :横浜市都筑区中川6-1-1
(18)茅ヶ崎杉山神社 :横浜市都筑区茅ヶ崎中央57
(17)勝田杉山神社  :横浜市都筑区勝田町1231
(23)吉田杉山神社  :横浜市港北区新吉田町4509


【諏訪神社】川崎市高津区諏訪3-16
旧橘樹郡諏訪河原村にあった杉山神社が合祀されています。

諏訪神社の御由緒
一.御祭神
建御名方神(たけみなかたのかみ)
五十猛命(いそたけるのみこと)  日本武尊(やまとたけるのみこと) 大日孁命(おおひるめのみこと)  保食神(うけもちのかみ)
一.御神德
主祭神建御名方神は大国主命の御子にて千引石をもささげ持つ程の武勇に秀でた神といわれ古来より庶民の信仰が厚く病魔に勝ち困苦に克ってあまねく人生の開運を招き繁栄をもたらすと深く崇められ御祭神の御神德は誠にあらたかである
一.御由緒
信濃国の豪族諏訪安藝守源賴忠の末孫諏訪左近賴久が天正十八年(一五九〇年)主家北条左京大夫氏直の許を離れ此の地に来り慶長年中深く崇拝する信州諏訪大社の大神の分靈を受け守護神としてここに勧請せり
爾来近郷の鎮守として崇敬され明治三十二年省令に依り諏訪社に杉山社、大陸天社、神明社、稲荷社を合祀し諏訪神社と総稱現在の御社殿は大正初期の造営に成り大正四年四月遷宮祭を執行す
昭和五十二年十二月吉日 諏訪神社


【有馬神明社】川崎市宮前区有馬5-13-24
旧橘樹郡有馬村にあった杉山神社が合祀されています。

有馬神明神社
鎮座地
御祭神 大日霎貴命(おおひるめのむちのみこと)天照皇大神(あまてらすおおみかみ)のこと)
配祀神(はいしみかみ)=主神に副えて同じ社にまつること) 五十猛命(いそたけるのみこと)
祭典日 一月一日 元旦祭
十月第一日曜日 例大祭
十一月 十五日が日曜日でない時は第二日曜日  七五三祈願祭  大祓祭(おおはらいさい)
社殿  神明(しんめい)権現(ごんげん)造り 銅板平葺十二・七坪
由緒沿革 創立年歴は不詳ですが、現在残されている記筆から文政六年(一八二三年)以前と推察されます。明治三年の「神社明細帳」には、弘化二年(一八四五年)に再建とあり、また「新編武藏風土記稿」には、当時の有馬村に神明神社二社と杉山神社の三社がありましたが、明治四十三年現在の神名神社に合祀されたとあります。その後、幾多の改修が行われ、平成十三年五月老朽化により取りこわし、十四年九月新社殿が竣功いたしました。
〇ご祈願・ご寄進の受付け
初宮詣り、七五三祈願、地鎮祭などの諸祈願及びご寄進をご希望の方は社務所にお申込み下さるようお願いいたします。
有馬神名神社 氏子会


【(19)大棚杉山神社】横浜市都筑区中川6-1-1
式内社の可能性があるとされるなかでも最も可能性が高いとされる有力論社4社のうちの一つです。

檆山神祠埜?

杉山祠碑銘
武藏國都筑郡大棚郷杉山祠祭日本武尊延喜式所謂四十四座之
一而是為杉山明神本祠蓋大棚之為郷和名抄載都筑七郷内綴喜
店屋郷後為大店又稱大棚郷實為式兵部省所謂武藏國四驛之一
郷中有古道跡今尚寂然可尋有地稱宿根入者武藏演路以為驛址
又荒原往往出有文古瓦郷人以為古驛之徴續以日本記曰承和三
年二月授武藏國無位杉山明神從五位下蓋謂此祠也又聞昔者祠
在後山一旦罹災因徒之於山下天正十九年町制郷籍載祭田四百
五拾六歩至文禄三年為 官町收遂失祭田町万今因循伝訛以郷
為村祠亦殆廢天保五年別當龍福寺住僧長傳深慨其祠之衰替乃
具其町傳之神壐以請白川神祇官總司乃賜以杉山神社四字題額
實係神祇伯雅壽王所書掲之於祠前焉間者村民恵吉等相謀將立
碑書其顛末以傳無窮而請文於余乃記其所説又係以銘曰
白烏之神英武之質西伐東討偉功無匹杉山古祠久就埋没貞砥載
文神威斯述
嘉永五年(1852年)歳次壬子嘉平月  林司威家塾都講河田興撰并書


宗教法人 杉山神社移築記念碑
横浜市は昭和四十年二月、六大事業の一つとして「横浜国際港都建設事業・横浜北部新都市土地区画整理事業」を発表、同四十九年建設大臣の事業認可。横浜市高髙三号線の免許取得、着工に至る。
杉山神社は中川町一〇八四番地から同町七五七番の元吾妻社の跡地へ五十八年十一月三十日仮社殿を設けここに遷座し、元旦祭・大祭は此処で執行された。換地も間近く建設委員会の結成に着手、資金計画に入る。
移設補償金と寄付金を念頭においたが、神社地の一部八〇坪を売却し基金とすることに決し、その承認を神社本庁に申請し、同時に社殿・社務所・鳥居等の新築・改築・移築をも承認された。
平成四年四月、中川町一一九四番地に仮換地指定された社殿は木造とし長野県諏訪市大字四賀、株式会社石田組と、同五年三月工事契約を結び六年九月竣工し、同十月十三日祭神勧請と配神遷座式を行い社務所・鳥居・付属建物・植栽等の完成を待ち平成七年十月十五日遷宮式典と落慶祝賀に及ぶ。
御霊璽については杉山神社と最も由緒深いとされている和歌山県の伊太邪曽神社へ赴き親しく御分霊を受け五十猛命の霊璽を拝受し御主神日本武尊と並び崇め祭る。


【(18)茅ヶ崎杉山神社】横浜市都筑区茅ヶ崎中央57
この社も有力論社のひとつです。境内社稲荷社の側に御神木の切り株が残されていました。

由緒
勅願所式内武蔵國都筑郡之一座當國三ノ宮杦山神社祭神由布津命
傅記云由布津主命ハ天日鷲命之孫也天武天皇白鳳三年九月堅田主
命二十代ノ孫忌部勝麻呂依御神霊而奏天朝武蔵國杦山乃國ニ立神
籬右大神ヲ奉リ杦山社ト號シ奉ル勝麻呂ノ弟義麻呂祭主トシテ奉
仕麻ノ貢ヲ奉リキ仁明天皇承和五年預宮幣ニ嘉祥九年五月授従五
位下封田ヲ寄玉フ遥後元暦二年正月廿一日依御○願而従鎌倉殿御
奉幣有之タリ鎮座記元一千二百十余年也
合祀由来明治四十三年十月八日神奈川縣指令之第二九三四號ヲ以
テ御認可 神奈川縣都筑郡中川村茅ヶ崎字境田二〇九八番地村社
杦山神社祭神五十猛命被合併神社仝村仝字東前八〇八番地無格社
神明社祭神天照皇大神仝字八二五番地天王社祭神素盞鳴命仝字六
二七番地稲荷社祭神稲倉魂命右三社ハ村社杦山神社ニ合祀空社地
立木ハ村社基本財産ニ編入本社ノ経營成大正九年九月十月指定村
社ニ昇格仝年十月十三日中川村長供進使トシテ奉告祭ノ式ヲ挙ゲ
タリ碑ヲ建テ以後世ニ傅フ
大正九年十月十三日 氏子中    二子石工小俣刻


【(17)勝田杉山神社】横浜市都筑区勝田町1231
旧橘樹郡勝田村の杉山神社です。式社であった可能性があるとされています。
静寂な境内にはサクラとカヤの大木があり、稲荷社と御嶽社それに塞神も祀られていました。

社殿改築之碑
塞神

杉山神社 五十猛命
日本武尊
日枝神社 大己貴命
稲荷明神 倉稲魂命
八幡太神
稲荷明神
應神天皇
倉稲魂命
神明太神 大日孁貴尊
稲荷明神 倉稲魂命

歴代宮司
白八幡太神神主
小島政廣   斉藤清治   斉藤一磨

當社は新武藏風土記稿に、村の乾(北西)の方にあり、本社一間半に二間、拝殿三間に二間、本社に作りそえて東方に向かへり、神躰は不動、木の立像にて、長八寸なるを安置す。又八幡稲荷を合殿に置り、例祭は年々八月二十一日、村の鎮守にて、村民の持なり。當社の勧請は傳へざれど應永の鰐口を社前に掛く。・・・かかるものあれば古社なるよし。・・・山王稲荷合社、村の中央にて、乾の方に向ふ、村民の持。 太神宮稲荷合社、村の東にあり、村民の持。
天保九戌年八月十七日社殿を造営弘化三年丙午年九月鳥居建立明治六年十二月村社に列せられる。明治廿四年九月狛犬明治廿七年九月石板を新築、明治四十四年一月二日無格社日枝神社(山王権現)神明社(神明太神)を合祀、大正十五年丙寅年十月十日、本殿幣殿拝殿を改築、同年十月十九日神饌幣帛料供進神社に列せられる。昭和二年二月石坂五段を新築、昭和二十七年十月十九日神楽殿を改築、昭和二十八年八月十三日登記宗教法人杉山神社と改む。昭和四十六年十二月社殿屋根葺替、昭和五十五年十月裏参道完成、今日に至る。氏子七拾弐戸なり。當地区は横浜市六大事業の一環として港北ニュータウン造成開発が進み、町内三箇所の灌漑用水池も姿を消す事となり、その内谷池を市より払下げを得、水利組合の所有地として仮換地指定を受ける。昭和六十三年勝田会館建設のため所有地を処分し建設資金に充当、相当額の残余有神社護持と将来地域の発展をあまえ最良再建の期と考え、水利組合、氏子中、満場一致の賛同を得、平成二年三月建設委員会発足、社殿の造営、稲荷神の建立、社務所の新築、境内の諸整備を進め竣成なる。誠に慶賀の至り茲に謹んで御遷宮祭を奉祝す。             敬白
平成四壬申年十月吉日
杉山神社 総代 建設委員長 関 恒三郎


【(23)吉田杉山神社】横浜市港北区新吉田町4509
この社も有力論社のひとつです。天神社と稲荷社、それにカヤの大木(横浜市名木古木49380)が境内にありました。

武蔵国都筑郡郷社 杉山神社の由緒
祭神 主座 五十猛命
合祀 鎌倉権現五郎景政・比野聖廟・素戔嗚尊
例祭日 十月九日
当社の創建は不明であるが式内社(平成(平安の誤記)時代に制定された延喜式神明帳にある神社)として既にその名を記された「武蔵国六之宮杉山神社」に比定される神社の一つである。
そもそも杉山神社は安房の忌部氏によって武蔵国南部、都筑郡に祭祀され、同郷の鶴見川とその支流の早淵川流域の開拓によって広く分祀されていったとされる。
当宮は明治に至り、近在の御霊神社他を合祀し、権五郎景政・比野聖廟・素戔嗚尊を合祀し現在も本殿内に祀る。
社殿は権現造りであるが、本殿は三座あり、主座は五十猛命・次座は御霊大神五郎景政である。三座目は比野聖廟・素戔嗚尊と思われるがその由緒などは不明である。
神社南側は旧字名を杉山と称した事、武蔵国総社大國魂神社の社家猿渡氏の出自がこの吉田村界隈と推測される事、地勢上などから式内社と有力視されて明治六年に都筑郡の郷社に定められ広く崇敬された。
現在の氏子区域は当地の北川(早渕)・御霊・稲坂・中里となっている。
当宮に関する連絡先
高田天満宮 〇四五-五九一-六二九一まで


その他、本日撮影の写真です。
【久本神社】川崎市高津区久本1丁目16-13
本日の振出は、昨年12月3日に訪ねた久本神社でした。この社の前身は八幡社、杉山社2社、神明社で、現在の祭神は天照皇大神となっていますが、なぜか素戔嗚由来の茅の輪が置かれていました。


【高津馬頭観音堂】川崎市高津区坂戸1丁目6-25

高津馬頭観音(説明版より)
馬頭観音は六観音の一つで仏教における信仰対象である菩薩の一つです。頭上に馬頭をいただいていることから、馬の守護神として古くから広く信仰されています。
畜生道救済(畜生界におちた霊の成仏、ペット・家畜の冥福)魔障除去・魔障による病気平癒と、苦悩除去の功徳があるといわれております。
この地にいつ石造りの馬頭観音が建立されたかは、さだかではありませんが皆様のご協力により、新たに御社を建立させていただきました。


【大陸天公園】川崎市高津区二子4丁目18-1
現在は溝口神社に合祀されている大陸天(だいろくてん)社の旧蹟地です。


【溝口神社】川崎市高津区溝口2丁目25-1
主祭神は天照大神、久本神社と新城神社の神職も兼務していらっしゃる溝口神社(みぞのくちじんじゃ)です。久本神社は杉山社2社、新城神社は杉山社1社を合祀しているので、ここも杉山神社に縁があると申せましょう。ここに茅の輪が設置されている由来も不明ですが、神仏分離令への対応の際に主神を変更した歴史に鑑みますと、由緒とは関係なしにコマーシャル的に成功した神社なのかも知れません。


【勝田山最乗寺】横浜市都筑区勝田町1277
イチョウは横浜市名木古木48171、ジュウガツザクラは古木ではなさそうですが、花付きの良い樹です。


【稲荷大明神】横浜市港北区新吉田町


【若雷神社】横浜市港北区新吉田町3490
たまたま通りかかった若雷(わからい)神社、境内社は伏見稲荷です。


【安塚弁財天】横浜市港北区新吉田東7丁目2-3
石碑には「さいかち戸弁才天」とありました。「さいかち」はマメ科の「皁莢」ではなく、「歳勝」のようです。


【稲荷大神】横浜市港北区樽町3丁目12-25


その他、冬の花など

【参考】
ローズマリー Rosmarinus officinalis
ジャノメエリカ Erica canaliculata
マユミ Euonymus sieboldianus
早渕川
ロウバイ Chimonanthus praecox
ジュウガツザクラ Cerasus x subhirtella cv. Autumnalis
ヒイラギナンテン Mahonia japonica
鶴見川
本年最大といわれるスーパームーン

【文献】
新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.
戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.
式内社研究会(1976)式内社調査報告、第11巻東海道6、皇學館大学出版、588p.

【本日の主な経路】
溝の口駅-久本神社-高津馬頭観音-諏訪神社-大陸天公園-溝口神社-有馬神明社-(19)大棚杉山神社-(18)茅ヶ崎杉山神社-(17)勝田杉山神社-勝田山最乗寺-(23)吉田杉山神社-稲荷大明神-若雷神社-安塚弁財天-稲荷大神-京急鶴見駅

冬の花は

 今日は、レンタルDVDを返却しに金沢文庫まで出かけました。


【参考】
 ビワ Eriobotrya japonica
 ギンヨウアカシア Acacia baileyana
 ヤドリギ Viscum album
 ギョリュウバイ Leptospermum scoparium

年の瀬に -小柴から瀬戸へ

 今日は仕事納めの日、午後から年休を取ってちょっと廻り道をしてみました。


【小柴熊野神社】金沢区柴町41


 鳥居の扁額には熊堅三社大権現とあります。鎮座地は権現山と呼ばれており、シラカシ、アカガシ、クス、タブなどの大木が沢山あります。


【水神社】
 熊野神社の境内社で、隣には魚介慰霊碑があります。


【稲荷社】
 熊野神社の境内社です。


【石仏不動尊】
 熊野神社に至る石段の途中にある不動堂には鎌倉稱名寺から分霊した不動尊が祀られています。


  石仏不動の由来
 当地にお祀りしておりますお不動さま(石仏)は今泉のお不動さまのご分霊で今泉不動尊の記録によれば
    文化九年(一八一二年)   五月
    文久三年(一八六三年)亥歳 九月再典
     武州久良岐郡小柴村
           願主  彌太郎
               元五郎
           世話人 源蔵
 と記されて居ります。
以来村民挙げてお不動さまに帰依し明治十五年(壬午)二月二十八日斉田岩吉世話人等方々の発願に依って小柴講を結成以来今日迄毎年二月二十八日に祈祷祭を執り行って居ります。
 不動明王は現世利益の守護神として尊ばれお不動さまのご信仰によって家内安全、大漁満足、海上安全、災難消除のご利益を授かります霊験顕かなる仏さまです。
 不動明王のご真言(お唱えながらお詣り下さい)
  ノウマクサマンダ バザラダン センダマカロシャタ
  ソワタヤ ウンタラタカンマ
            柴船前講中


【瀬戸神社】金沢区瀬戸18
 瀬戸神社では年末にも茅の輪が設置されます。


【雷神社】横須賀市追浜本町1丁目9
 雷神社でも新年を迎える準備が進んでいました。


【参考】
 サザンカ Camellia sasanqua
 メタセコイヤ Metasequoia glyptostroboides
 ネコヤナギ Salix gracilistyla
 センリョウ Sarcandra glabra
 蛇混柏 Juniperus chinensis (瀬戸神社)
 カヤ Torreya nucifera (瀬戸神社)
 水神社
 魚介慰霊碑
 水神社の錠
 稲荷社
 石仏不動堂
 瀬戸神社:金沢区瀬戸18
 茅の輪
 雷神社
 境内社(雷神社)

年の瀬の十三峠、など

横須賀中央に用事があったので、久し振りに十三峠を通ってみました。

鹿島神社
鎮座地 横須賀市西逸見町二丁目七十番地
祭神  武甕槌神(たけみかづちのかみ)
由緒沿革
応永十七年(一四一〇年)四月八日、三浦遠江守が常陸より鹿島神社を勧請したと「新編相模国風土記稿」に記されている。
また、天正二年十一月二十日、朝日奈六太夫造営の棟札、さらに寛永十三年八月二十四日、三浦按針(英人ウィリアムス アダムス)の子が社殿を造営した旨の棟札を存したが、明治二十四年七月二十八日の火災にて社殿は全焼した。同年八月仮殿を造り、本社ともに焼失した境内社の山王社(元禄十一年九月勧請)を合祀する。
明治二十八年六月五日、現在地に社殿を造営して遷座した。旧鎮座地は、逸見森崎字七番七五二番地の鹿島崎と呼ばれる海辺(現海上自衛隊内)であった。
例祭引は従来九月二十九日であったが、明治二十九年より遷座した六月五日に改めた。 明治四十一年一村一社とする動きにより、逸見内の稲荷社、熊野社、神明社、浅間社、子神社、山神社を合併し、明治四十三年内務省より『指定村社』に列せられた。
平成二十五年四月吉日  伊藤香泉謹書
(寄贈 有限会社 按針)

【参考】
がらめき:浦賀みち
御嶽稲荷神社:横須賀市田浦町3丁目92
(田浦)庚申塔
ヒメツルソバ Persicaria capitata
フヨウカタバミ Oxalis variabilis
スイセン Narcissus tazetta
オニタビラコ Youngia japonica
トネアザミ Cirsium nipponicum
ノゲシ Sonchus oleraceus
キダチロカイ Aloe arborescens
アキノキリンソウ Solidago virgaurea var. asiatica
塚山公園
サザンカ Camellia sasanqua
鹿島神社:横須賀市西逸見町2丁目70
横須賀ストーリー:あいざわ菓子舗

【主な経路】
浜見台-鷹取山ハイキングコース-がらめき-御嶽稲荷神社-道六神-十三峠-塚山公園-鹿島神社-あいざわ菓子舗-汐入-横須賀中央駅

杉山神社を巡る-Part9 東部9社

 今日は、鶴見区周辺の杉山神社縁の社を廻ってみました。この地区は、杉山の名前が残っていない社の多いことが特徴です。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 日枝大神社(境内社):川崎市川崎区小田2-14
 潮田神社     :横浜市鶴見区潮田町3-131-1
 (36)鶴見神社   :横浜市鶴見区鶴見中央1-14-1
 (37)生麦杉山神社 :横浜市鶴見区岸谷1-20-61
 菊名神社     :横浜市港北区菊名6-5-14
 八杉神社     :横浜市港北区大豆戸町239
 (22)岸根神社   :横浜市港北区岸根町377
 熊野神社     :横浜市神奈川区東神奈川1-1


【日枝大神社】川崎市川崎区小田2-14
 旧橘樹郡小田村にあった杉山神社が本殿向って右側の境内社である八王子社に合祀されています。合祀社は、稲荷神社、浅間神社、神明社、杉山社、子神三峯合社、大鷲神社と扁額に記載されていました。


潮田(うしおだ)神社】横浜市鶴見区潮田町3-131-1
 旧西潮田村にあった御嶽社と旧東潮田村にあった杉山社が合祀されています。旧杉山社の境内社だった稲荷社も潮田稲荷社として移設されています。

  潮田神社
御由緒  横浜市鶴見区潮田町三-一三一-一
 当社は、大正初期、京浜工業地帯の一大発展に伴い、耕地整理・区画整理による街造りのため。西潮田村の御嶽社と東潮田村の杉山社を合併し、大正九年、潮田神社と改称して潮田地区の中心地点である現在地に鎮座されました。社伝に依れば、景行天皇四十年、日本武尊が東夷征伐の航海の途中、旧西潮田村の古杉老松の鬱蒼たる地に小祠を建て、国土の神「国常立命」、「豊雲野命」、「国狭槌命」を奉斎し、征途の無事安全を祈願したことが始まりと伝えられます。
 中世に至り、潮田村は小田原北条氏の領地に属し、北条氏の信仰崇敬に殊に厚いものがありました。正親町天皇の御世永禄の頃太田道灌の曾孫太田新六郎康資の領地神社として、たびたび修復されたことが、東潮田村の杉山社に残る御神鏡からうかがうことができます。
 また、正保年間に至り、地頭松下孫十郎が幕府の命により社殿を改築し、寛文十年、幕府社領一段四畝二十歩を寄進したことが御嶽大権現と改称された西潮田村の御嶽社の棟札、鳥居等にのこされています。
 由来、東のお宮、西のお宮と親しまれ、特に土地が海浜であったため、房総漁民船が大漁祈願に立ち寄るなど、潮田村及び遠近の村里沿岸一帯の鎮護となりました。
明治四十二年八月
 御嶽社(国常立命・豊雲野命・国狭槌命 奉斎)に四社を合祀
    神明社 (井田方鎮座・弥都波能賈神 奉斎)
    須賀社 (井田方鎮座・素戔嗚命 奉斎)
    菅原社 (向原鎮座。菅原道真公 奉斎)
 杉山社(五十猛命 奉斎)
    白山社 (浜端鎮座・岐久理比賈命 奉斎)
    厳島社 (弁天下鎮座・市寸島比賈命 奉斎)
    若宮八万(上居村鎮座・誉田別命 奉斎)
大正八年
 御嶽社と杉山社を合併
大正九年
 一月、潮田神社と改称、四月現在地に鎮座 杉山社の境内稲荷社も移転六月五日、社伝御造営竣功奉斎祝祭斎行、例祭日となる。
御祭神
・国常立命(くにとこたちのみこと) 国土を守る神
・五十猛命(いたけるのみこと)   殖産・商工業・樹木の神
・素戔嗚命(すさのおのみこと)   病気平癒・厄除・造船海運・恋愛の神
・豊雲野命(とよくもぬのみこと)  土を豊かにする神
・国狭槌命(くにのさづちのみこと) 国土の発育を守る神
・豊受比賈命(とようけひめのみこと)食物、養蚕、織物など全ての工業営業を守る神
・岐久理比賈神(くくりひめのみこと)
・誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)武芸・安産の神
・菅原道真公(すがわらみちざねこう)学業の神


【(36)鶴見神社】横浜市鶴見区鶴見中央1-14-1
 旧橘樹郡鶴見村にあった杉山神社が合祀されています。境内社は右奥から、浅間神社、清明宮、祖霊社、関神社、秋葉神社、稲荷神社、大鳥神社となっています。


【(37)生麦杉山神社】横浜市鶴見区岸谷1-20-61
 ここでは杉山の名前が残されていました。境内社として稲荷社2社と祖霊社があります。

   杉山神社 略記
生麦 大黒町 岸谷 中央5 総鎮守 杉山神社
鎮座地 横濱市鶴見区岸谷一丁目二十番六一号
           (旧生麦一八四五番地)
御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
祭礼日 八月一日(現在は八月の第一土・日)
境内地 七百七拾六坪
   付記
 御祭神は第十二代景行天皇の皇子として生まれ終生この国の統一と民の安泰の為につくされ尊を讃える歌に、
蝦夷(えぞ)熊襲(くまそ)しずめ給えし皇王子(すめみよ)のたけきいさお千代にかがやく」の如くであります。
   由緒
 当社の設立は古くて判りませんが、元本村にあったが天正二年(1574)に当村々社に同年八年に現地に設立されたと伝えられており、元禄十六年*万延元年に再建されるとあり、(昭和四十九年(1974)に御鎮座四百年祭を斎行)現社殿は昭和十二年に着工し十四年に竣工した。
 境内に、手水水盤に享保九年六月吉日
     石造鳥居に天明元年六月吉日の年号の彫刻が在る。
 高い石段は生麦沖に沈んだ石を村人達が引き上げ神社の階段を作る。明治十年に完成。 神楽殿(かぐらでん)は前社殿。
祖霊社
 戦後すぐ戦没英霊を祀る社を設立、当時終戦直後の時期祖先の御霊を祀る社とした。
神輿蔵庫平成十二年一月吉日(2000)新築完成
     平成十一年十二月記す 生麦 杉山神社 社務所


【菊名神社】横浜市港北区菊名6-5-14
 旧橘樹郡菊名村にあった杉山神社が合祀されています。

 菊名総鎮守 菊名神社
御祭神
 誉田別命 天照皇大神 日本武尊
 木花咲耶姫命 武内宿禰命
由緒
 社伝によると室町時代初期、私達の祖先はこの地に鎌倉・鶴岡八幡宮より御神霊を勧進し社殿を建立、その後、幾星霜を経て昭和十年八月、各村に祀られていた神明社・杉山神社・阿府神社・浅間神社を合祀して「菊名神社」と改称、昭和三十二年には社殿の改修とともに神楽殿及び社務所を建設し、住民のあらゆる交流と青少年の研修の場として地域と共に発展してまいりました。
 平成九年五月には二十一世紀にあう近代的な神楽殿及び参集殿を築きました。さらに平成二十三年十一月には、社伝を改修致しました。


  がまんさま
 寛政年間(一七八九年-一八〇一年)に築かれたと言われますが、その後嘉永四年九月に修理され、昭和三八年復元された。
 四体のうち一体だけ昔のまま残されたようです。手水鉢を支える四体の鬼の石像は長い年月苦難な事も同じ仕事にも飽きることなく不平も言わずジッと忍耐して手水鉢を守り通している雄々しい姿は人の進むべき道を諭している菊名の古い文化財の一つです。大切にいたしましょう。


【八杉神社】横浜市港北区大豆戸町239
 旧橘樹郡大豆戸(まめど)村字大西にあった杉山神社が合祀されています。

 八杉神社
「由緒沿革」
 大豆戸町には古くより、字安山の八王子社と字大西の杉山神社が鎮座していました。
 神社制度の改革に伴い、神社の尊厳保持、祭祀の厳修を計るため昭和二十二年、八王子社に杉山神社を合併し、八杉神社を創立した。
 以後も当町氏神様として五穀豊穣、家運隆盛、商売繁盛、無病息災、厄難消除等の神として御霊験あらたかにましまし、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられ、文化の生みの親神であられます。
「鎮座地」港北区大豆戸町二三九
「祭神」 国狭槌命 大山祇命 日本武尊
「境内社」天満宮 羽黒大明神 神明社 三嶋大明神
               氏子中


  八杉神社【拝殿横にあった旧由緒】
 大豆戸町安山鎮座八王子社御祭神国狭槌命、大山祇命、外人神日本武尊、当社創立については詳らかでないが、武蔵風土記に記載の通り古くより同所の鎮守として崇敬を集めて居る古社である。信者制度の改革に伴い神社の神社の尊厳保持、祭祀の厳修を計るため杉山神社を八王子社へ合併し、八杉神社を創立した以後も当町氏神様として五穀豊穣、家運隆盛、商売繁昌、無病息災、厄難消除等の神として御霊験あらたかにまし々、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられ文化の生みの親神であられます。


【(22)岸根杉山神社】横浜市港北区岸根町377
 旧橘樹郡彦根村にあった杉山神社と山王宮が合祀されています。

  碑文
祭神 五十猛命 杉山神社
   大山祇命 山王宮
杉山神社由来
 今を去る大永五年九月(西暦一五二五年)伊豆の国の住人岩田五郎右エ門がこの地に移住した時鎮守として勧請したと伝える。
 尚大正十三年十月(西暦一九二四年)山王山に鎮座せし山王宮由来不詳祭神大山祇命を合祀。
 昭和五十五年十月(西暦一九八〇年)社殿を新築し今日に至る。


【熊野神社】横浜市神奈川区東神奈川1-1
 旧橘樹郡斎藤分(さいとうぶん)村にあった杉山神社が合祀されています。境内社には、金刀比羅社、大鳥社、稲荷社、香取社、鹿島社が合祀されていました。


  神奈川熊野神社(熊野権現)御由緒
旧社格郷社(明治十七年四月四日列格)・鎮座地 横浜市神奈川区東神奈川一丁目一番地御祭神(主祭神)国常立命(くにとこたちのみこと) 伊邪那岐尊(いざなぎのみこと) 伊邪那美尊(いざなみのみこと)
   (合祀神)天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) 大己貴命(おおあなむちのみこと) 少彦名命(すくなひこのみこと)
        武御名方命(たけみなかたのみこと) 五十猛命(いそたけるのみこと) 大物主命(おおものぬしのみこと) 倉稲魂命(うかのみたののみこと) 速玉男命(はやたまのおのみこと) 船玉命(ふなたまのみこと)
    御由緒概要
 当社の御創建は寛治元年六月十七日(一〇八七年)醍醐三宝院勝覚僧正が紀伊国(和歌山県)牟婁(むろ)郡熊野に()す熊野権現(官幣大社熊野本宮大社)の神霊を分祀、神奈川権現山(現幸ヶ谷山上)に社祠を創立、神奈川郷の総鎮主として、熊野三社大権現と号し奉る。
 口碑によれば、後三年の役に源義家公社参せられ、帰途再び当地に立寄られ、この地を幸ヶ谷と名付けられたと伝えられる。その後応永五年、山賊等のため社祠を焼かれ、僅に草祠ばかりが存していたが、明応三年六月(一四九四年)上田蔵人が普請奉行となり、宏壮なる社殿が再建せられた。また、永正七年六月二十日(一五一〇年)権現山合戦の(みぎり)、兵火に(かか)り、烏有(うゆう)に帰してしまった。次で天正五年六月(一五七七年)時の別当恵賢僧都(えけんそうづ)等が相はかり社殿を建立奉る。
 天正十年七月、徳川家康公北条氏を御坂黒駒に討ち給いし時、別当が社前に祷し秘伝を修し奉りしことなど、徳川家との関係が深く、別当金蔵院に武州小机領神奈川郷の内、御朱印高十石を賜ったので、代々登城し、御祈祷の宝牘(ほうとく)(おふだ)を献上し奉ったと伝えられる。その後、正徳二年六月(一七一二年)山上が逐次崩壊により、別当金蔵院の現地へ(うつ)し奉り、旧地には小祠を安置し社地三反八畝十歩を有していたが明治四年之を上地す。慶応四年一月七日(一八六八年)神奈川大火により烏有に帰したが、逐時再建整備し、明治十七年に郷社に列せられ明治四十年四月神饌幣帛料供進社に指定せらる。昭和十一年八月御鎮座八百五十年祭を斎行、二十数台の山車(だし)が町内を巡行し、盛大なる祭礼が繰りひろげられた。昭和二十年五月二十九日戦災により焼失、(あまつさ)え境内をも駐留軍に接収せられたるため、やむを得ず西神奈川一丁目(二ツ谷町共有地)に遷座、仮殿にて奉斎す。同二十七年八月宮神輿を奉製、その後接収解除となり、再建復興に努め、同三十八年八月現社殿を完成遷座祭を奉仕し、玉垣、社務所を整備、翌三十九年八月竣工奉祝祭を執行した。その後四十一年十一月。地区内戦没者慰霊碑を建立、同四十九年八月再建十周年記念事業として舞殿並に氏子会館の増改築工事を完成した。昭和六十一年、御鎮座九百年祭に当り記念事業奉賛会を結成し、氏子二十四ヶ町の氏子並に崇敬者各位の熱誠奉仕により、御社殿の修復、手水舎の新築、神輿、神輿庫の修理増築、参道敷石、氏子会館の修理、裏門〆柱等を完成し、社域の整備を達成した。謹んで御事歴の概要(あらまし)を誌し奉る次第であります。
                (宮司 照本 力記)


御神木 公孫樹
  樹令四百年 昭和四十八年 横浜市名木古木指定
 慶応四年(一八六八年)神奈川県大火昭和二十年(一九四五年)戦災に焼失したが見事に再生し、毎年秋にはギンナンがみのり、俗に「火防のイチョウ」として広く親しまれている。
            社務所


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 その他、本日撮影の写真です。

笠䅣(かさのぎ)稲荷神社】神奈川区東神奈川2丁目9-1
 京浜東北線の車窓から見えるので気になっていた稲荷社です。境内社にも稲荷社が2社ありました。御神木は、クスノキとイチョウです。


笠䅣稲荷神社(かさのぎいなりじんじゃ)由緒
鎮座地 神奈川県神奈川区東神奈川二~九~一
御祭神 宇賀之魂命(うがのみたまのみこと) [相殿]明治天皇 日本武尊(やまとたけるのみこと)
御神徳
 御祭神の宇賀之魂命は、「稲倉魂命(うがのみたまのみこと)」とも書き、或いは「保食神(うけもちのかみ)」とも申して、稲の豊穣を司り、食物を守護する神様です。我が国は往古より農業国であるため、人々は米を主食として生活し、篤く農耕の神様である稲荷神社を信仰してきました。また工業や商業が発達すると、稲荷神社の神徳は商売繁盛や家内安全へと広がりね衣食住の全てを守護する神様として信心されるようになりました。稲荷信仰は流行神(はやりがみ)として時代と共に幅広く普及していき、現在稲荷神社は全国で最も数多い神社として崇敬されています。
由緒沿革 天慶年間(九三八~九四七)に淳和天皇勅願所浦島院勧福寺の僧侶が、隣域の山腹(稲荷山)に社殿を建立し、伏見稲荷大社の御分霊を勧請したことが創祀と伝えられ、同寺の守護神・附近一帯の産土神(うぶすなのかみ)として崇敬を集めていました。文永十一年の蒙古来寇の折には、鎌倉の執権北条時宗が菊一の銘刀と神霊鈴を奉納して。国家の安泰を祈願したと伝えられます。
 戦国時代に兵火に罹災してしまったものの、永禄二年九月十九日に再興なって大祭を行い、元禄二年九月十九日には稲荷山の中腹より山麓に鎮座する運びとなりました。こりより神威が益々加わり、社前を通行する者の笠が資源と脱げて地に落ちたことから、「笠脱(かさぬぎ)稲荷大明神」と使用するようになり、後に別当能満寺の阿闍梨が「笠脱」の一字を「䅣」と改め、「笠䅣(かさのぎ)稲荷大明神と改称しました。
 明治二年には旧社地が京浜間の鉄道敷設用地に接収されたため、現在地に移り、更に霊験あらたかとなって、同十七年九月二十五日「村社」の社格に列格し、大正十年九月十七日「神饌幣帛供進社」に指定されました。
 大正十二年の関東大震災により社殿が半壊に及び、昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲には、社殿・神宝類の悉くを焼失する憂目を見たものの。終戦後にいち早く仮社殿を再建ししました。昭和五十四年十二月一日に新しい形式の社殿が完成すると共に、厳かに遷座祭が斎行され、平成元年の「御社殿造営十周年記念大祭」には、社前に玉垣が完成するに至りました。
例祭日 八月八日・九日(近年は八月八日・九日ら近い土曜日と日曜日)
境内社 古峯神社・祖霊神・庚申塔・地神塔・日露戦役記念碑
    板碑(鎌倉時代の慰霊碑)[横浜市指定有形文化財]
特殊神事 節分対儺式(ついなしき)(二月三日)[横浜市指定無形民俗文化財]
特殊信仰
 古くよりカサノギ稲荷さんにお参りすると、カサ(性病・婦人病)が治るという特殊な伝承があります。病気にかかった女性は土団子を作って神前に供え、お百度を踏んで祈願し、そして霊験を得て病気が治ると、団子を作ってお礼参りするという習慣が残っていて、病気平癒の御利益にも秀でています。
           笠䅣稲荷神社


【横浜一之宮神社】神奈川区入江1丁目13
 十六世紀に武蔵一宮氷川神社から勧請された神社が主体で、合祀神、境内社が多数です。冬至も近いことで辿り着いた時にはすっかり日も暮れていました。新子安から徒歩約5分と近いので、いずれ日の高いうちに再訪したいと思います。


横浜一之宮神社由緒
御鎮座 横浜市神奈川区入江一丁目十三番地3
御祭神 素戔嗚尊(建速須佐之男尊)を中心に
    事代主命(西宮神社)
    保食命(田甫、東浜、仲浜、西浜等の各稲荷社)
    面足惶根命(第六天社)
    水速迺売命(水神社)
    外の神様をお祭りして居ります。
歴史
 子安の地は神之木台遺跡、大口坂遺跡、その他があることから推察されるように縄文時代の昔より人間にとつて住みやすい環境が与えられた所でした。我々の祖先は海や山から自然の恩恵を受けて生活していたことでしょう。特に、この地は、現在でも海岸線を臨むことの出来る小高い丘ですが、近代に入り、海岸線を埋め立てるまではもう少し高い山でした。東海道沿いに展開した子安の浜の漁師にとって漁場を定める目印となっていたそうです。
 当然、漁師の信仰を集め、また、東海道沿線ということもあり古くから小祠を以ってお祭りしていたようです。
 その後、永禄四年(紀元二二二一年・西暦一五六一年)九月一日第百六代正親町天皇の御宇、武蔵国(埼玉県、東京都大部分、神奈川県東部)の一の宮元官幣大社氷川神社(埼玉県大宮市鎮座)の分霊を現在地に勧請したところから「一之宮大明神、一之宮明神社」等と称されて居ります。
 江戸時代徳川幕府の官撰地誌の最初である「新編武蔵風土記稿」にも収録され、白髭老神の伝説などもあり、連綿と祭祀が今も続いて居ります。
伝説の一例
 元禄三年(西暦一六九〇年)七月、村内に疫病が蔓延した折、入江川畔に白衣長髭の翁が現れ、「吾は一之宮大明神だが、近来氏子村民、敬神の念乏しく、社殿は大破し、祭祀を怠っているため、災禍が横行するのである。以降、祭祀の礼を厚くすれば疫病はなくなる。」と告げた。そこで神楽を奉し、神拝の式を行うと忽ち疫病がなくなったという。その他いくつもあります。
  平成六年八月吉日
      横浜一之宮神社奉賛会


【参考】
 【庚申塔(金澤山圓能院福泉寺)】川崎区小田1丁目25-12
 芦帆橋からみた鶴見川
 カワラバト Columba livia
 【開運地蔵尊】鶴見区潮田町3丁目131
 【岸谷庚申堂】鶴見区岸谷4丁目3
 【稲荷社】鶴見区岸谷1丁目22
 【福寿辨財天】鶴見区岸谷1丁目22-12
 菊間カーボン山
 ベニバナトキワマンサク Loropetalum chinense var. rubra
 【横濱六角橋郵便局】神奈川区六角橋1丁目4-1

【文献】
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.

【本日の主な経路】
JR八丁畷駅-日枝大神社(境内社)-潮田神社-(36)鶴見神社-(37)生麦杉山神社-菊名神社-八杉神社-(22)彦根杉山神社-熊野神社-JR仲木戸駅

武蔵一之宮氷川三社を巡る


 12月10日は大湯祭(だいとうさい)という神事が武蔵一之宮氷川神社で執り行われる日です。もっとも氏子ではない庶民にとっては、この日に開かれる酉の市『十日市(とおかまち)』の方が大切で、私が小学生だった50年ほど前には、氷川神社を学区とする母校大宮市立北小学校では、この日は半ドンとなって、学校公認の下、みんなで十日市に出かけたことを今でも鮮明に覚えています。
 半世紀経つと、十日市の様子も随分と変わって、台所用品、大工道具などの日用品やコイ、フナ、ドジョウなど川魚の活魚販売は殆ど見られなくなりましたが、いつもとは違ったハレの日の雰囲気はいまでも変わりません。どことなく「何かが道をやってくる」に通じるものがあります。
 さて、そんな十日市の今日、旧北足立郡を中心にして200社はあると言われる氷川神社の中でも三社一体となっているという説のある武蔵一之宮氷川神社、中氷川神社(中山神社)、氷川女體神社の三社を廻ってみました。この三社を結んだラインはほぼ直線で真北からの角度が120度方向となっており、冬至の日の出方向(あるいは夏至の日没方向)とほぼ一致することが知られています。この配置の解釈についてはオカルティックな情報もあるようですが、今日は十日市のオプションとして三社を廻ってみました。

【武蔵一之宮氷川神社】大宮区高鼻町1丁目407
 まずは、実家の近くの氷川神社です。祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)稲田姫命(いなだひめのみこと)大己貴命(おおなむちのみこと)の三柱で、かつては境内に3社あったと言われています。現在でも境内社は多数あります。


 境内社については、氷川神社のウェブサイトに詳しいので省略しますが、古代神とされる荒脛(あらはばき)神が門客人(もんきゃくじん)神社に祀られています。


(元)大宮市立大宮北小学校 校歌
 氷川の森の夕映えに 故郷(ふるさと)の歴史を数え
 大いなる未来を夢見 弛まなく学び勤しむ
 ああ大宮 大宮北小学校
【記憶に頼っているので間違いがあるかも知れません。】


【中山神社】見沼区中川143
 祭神は氷川神社と同じ三柱ですが、記載順が、大己貴命、素盞嗚命、稲田姫命と息子である大己貴命を筆頭としています。新編武蔵風土記稿によれば、素盞嗚命、稲田姫命の2柱はかつて境内社として祀られていたようです。この様なことから、簸王子社とも言われているそうです。境内社として、稲荷大明神、荒脛(あらはばき)神社があり、相殿には、神明社、飯成(いなり)社、淡嶋(あわしま)社、疱瘡(ほうそう)守護社、(いわい)神社、石上(いそのかみ)社、(かまど)神社、稲田宮主社の八社が祀られていました。


  中山神社
             所在地 さいたま市中川一四三
 中山神社は、かつて中氷川神社と呼ばれた中川の鎮守である。創建を人皇十代崇神天皇の御代二年と伝えられる古社である。明治四十年七月。神社合祀の際に社名を現在の中山神社に改められたが、今でも通称は「中氷川神社」で通っている。「中氷川」の由来は一説には、見沼に面した高鼻・三室(浦和)・中川の地に氷川社があり、各々、男体宮、女体宮、()王子宮を祀り、当社が高鼻(男体)、三室(女体)の中間に位置したところから付けられたという。
 天正十九年(一五九一)十一月、徳川家康から社領十五石の御朱印を賜った格式のある神社である。
 当社の祭礼の中でも、毎年十二月八日に行われた鎮火祭は特に有名で、焚き終わった炭火の上を素足で渡り、無病息災及び火難がないように祈願するものである。ただし、近年は事情によりこの行事は中断している。
 現社殿の裏側には旧社殿が保存されているが、これは桃山様式をもつ市内最古の建造物として大宮市指定文化財となっている。
  昭和五十九年三月 さいたま市


大宮市指定文化財建造物
 中山神社旧社殿
       指定 昭和四十五年八月一日
 中山神社は、古くは氷川社と称し大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る旧中川村の鎮守で、大宮市高鼻町の氷川神社と浦和市三室の氷川神社の中間に位置するため、中氷川神社とも呼び慣わされてきました。明治の終わりに山の山村神社などを合祀して現在の社名に改めました。境内では十二月八日に神事の「鎮火祭」が執り行われていましたが、現在は社殿前に建立された「御火塚」と記された小さな石碑がその名残を留めているにすぎません。この鎮火祭の火によって「中氷川」の氷が溶けてしまい、この地を中川と呼ぶようになったともいわれています。
 旧社殿は、板張り床の外陣に至る階段を設け、祭神を安置する母屋前方の屋根を、角度を変えて軒先よりさらに長くして、反りを付した板葺きの二間社です。また、社殿側面床板には脇障子や端の反り返った欄干がついていた痕跡が見受けられます。このような造りを「流造り」といい、一間社で社殿正面の階段や脇障子のないものを「見世棚造り」といい、社殿のもとになる型です。この旧社殿は簡素な板葺の「見世棚造り」が二間社となり、階段などを装飾して「流造り」に発展していく過渡期の建造物といえます。桃山期のものと考えられ。県内に現存する社殿でも古い形式に入り、市内では最古のものであり、建築学上大変貴重な資料です。
  平成三年三月
                 大宮市教育委員会


【武蔵国一ノ宮氷川女體神社】緑区宮本2丁目17
 主祭神が奇稲田姫命、配祭神は息子夫婦である三穂津姫命(みほつひめのみこと)と大己貴命となっています。


武藏國一宮 氷川女體神社
         さいたま市緑区宮本ニ-一七-一
□御縁起(歴史)
 当社は、旧見沼(みぬま)を一望できる台地の突端「三室」に鎮座する。見沼は神沼として古代から存在した沼で、享保十二年(一七二七)の新田開発までは、一二平方キロメートルという広大なものであった。この沼は御手洗(みたらし)として当社と一体であり、ここに()す神は女體神、すなわち女神であった。
 創建の由緒は明和四年(一七六七)に神主武笠大学の記した『武州一宮女體宮御由緒書』(大熊家文書)によると、「崇神帝之御勧請」「出雲国大社同躰」とある。また『神社明細帳』控には、見沼近くにある当社と現在のさいたま市大宮区高鼻町鎮座の氷川神社、同市中川鎮座の中山神社(氷王子(ひのおうじ)社)の三社を合わせ氷川神社として奉斎したと載せる。
 中世、旧三室郷の総鎮守として武家の崇敬が厚く、社蔵の三鱗文兵庫鎖太刀(みつうろこもんひょうごくさりたち)北条泰時(ほうじょうやすとき)の奉納と伝える。
 祭祀は御船(みふね)祭と称し、隔年の九月八日に見沼に坐す女神に対して行われた。しかし、古来より続けられてきた御船祭はね享保十二年(一七二七)見沼新田の開発が始められたため。沼中の祭祀が不可能になった。このためやむをえず磐船(いわふね)と称し、沼跡の新田の小山を築き、船形の高壇を設けて周囲に池を掘り、ここを見沼に見立てて祭祀を行うこととし、同十四年(一七二九)九月から斎行された。下山口新田には、祭場遺跡として「四本竹(しほんだけ)」の地名が残るが、近年の発掘調査では多数の注連竹が発見され、これを裏付けた。
 社叢は、埼玉では珍しい暖地性常緑広葉樹叢であることから、昭和五十六年に埼玉県より「ふるさとの森」の第一号として指定された。
□御祭神
奇稲田姫(くしいなだひめ)命・大己貴(おおなむち)命・三穂津姫(みほつひめ)
□御祭日
・歳旦祭(一月一日)      ・祈年(きねん祭(二月十八日)
・祇園磐船龍神祭(五月四日)  ・名越大祓(なごしおおはらえ(七月三十一日)
・お日待(ひまち(十月七日)      ・例大祭(十月八日)
・新穀感謝祭(十一月二十三日)


 この竜神社には、さいたま市の竜伝説に因んだ竜神様が御座(おわ)します。
 かつて広大な沼であった見沼の辺のここ武蔵一宮氷川女體神社には、長年に亘り、神輿を乗せた船を沼の最も深い所に繰り出し、沼の主である竜神様を祭る祭祠『御船祭(みふね)』を執り行ってまいりました。享保十二年(一七二七)八代将軍吉宗公の政策で見沼は干拓され、「見沼田んぼ」となってからこのお祭りは『磐船祭(いわふね)』として今尚続けられております。遺跡によれば御船祭は十四世紀から行われていたとも推定されます。
 世界最古の閘門祭(こうもん)式運河ともいわれる見沼通船掘など、見沼には数々の歴史財産が秘められております。見沼を中心としてさいたま市内に点在する数多くの竜神伝説もその一つと言えます。
 見沼代用水のと見沼代用水から西へと引いた高沼用水、その二つの灌漑用水で田畑を耕す地域と見沼に関わる地域はほぼさいたま市全域に及んでいます。
 さいたま竜神まつり会は『文化と歴史を生かした誇りのもてるまちづくり』を目的として平成十三年(二〇〇一)五月に約五十mの巨大な昇天竜を制作し『竜神まつり』を開催致しました。
       さいたま竜神まつり会


 その他、本日撮影の写真です。

【(大門町)稲荷社】大宮区大門町1丁目17
 すずらん通りの横丁にあります。御神木はカヤの樹です。


【多子稲荷】大宮区土手町2丁目97
 氷川神社から西へ300m程に位置する稲荷神社です。かつて通っていた小学校への通学路にあるのですが、今日初めて境内に入りました。確か、境内には同級生のNくんの家があった筈ですが、今は誰も住んでいませんでした。

  稲荷神社 御由緒
 当社は、一般「多子稲荷神社」として知られており、旧土手宿村の鎮守として祀られてきた社である。勧請の時期は定かでないが、京都の伏見稲荷大社の分霊を祀ったものと伝えられ、現在の本殿は天保四年(一八三三)の建立であることが現存する棟札からわかる。また、この棟札には「奉正遷宮正一位多子稲荷大明神」とあることから、当時既に正一位の神階を受けていたことがうかがえる。
 明治四年に村社となり、同二十七年に村の南方に当たる字西耕地から字下東耕地に移転した。これが現在の社地であり、移転当時は社殿は西向きで参道は荷車が通れるほどの幅で中山道に抜けていた。ちなみに、この移転地は、鉄道の敷設に際し、旧社地がその用地にかかり、社殿に蒸気機関車の出す煤煙や火の粉が降り注ぐようになったため、やむなく行われたものである。その後、昭和二十八年に至って社殿を南向きに改め、当社は今日見られるような姿になった。
 『風土記稿』では、当社は「村民の持」とされており、祀職に関する記載はないが、棟札等の記録によれば武蔵一宮神社社家の西角井(にしつのい)家が少なくとも天保年間(一八三〇-四四)以来五代にわたって祭祀を行ってきたことがわかる。
□御祭神と御神徳
倉稲魂(うかのみたま)命・・・五穀豊穣、商売繁盛
□御祭日
・初午(三月初午)


【埼玉県護国神社】大宮区高鼻町3丁目149
 大宮公園に隣接する神社で、中学校への行き帰りに毎日通りすがったのですが、ここも境内に入ったのは初めてでした。


  由緒略記
鎮座地 さいたま市大宮区高鼻町三丁目一四九番地
祭神 鳥羽伏見の役以後の國事に殉じた埼玉県関係の英霊五万一千余柱を祀る
沿革
 昭和九年四月九日埼玉県招魂社として設立鎮座し、同十四年三月神社制度の改正により、埼玉県護國神社と改称され四月に指定護國神社となり、例大祭には神饌幣帛の供進がなされたことになった。同二十一年二月神社制度のの変革により宗教法人埼玉県護國神社と改められ更に同二十三年十月埼霊(さいたま)神社と改称、同二十七年再び埼玉県護國神社と改称し現在に至る。昭和三十年一月奉賛会が設立せられ以来年々の例大祭は埼玉県民挙て厳粛盛大に行っている。
皇室の御崇敬
 昭和九年鎮座に際し、天皇陛下の畏き祭粢料御下賜があり、朝香宮殿下の御参列があった。以来、天皇陛下を始め皇族の祭粢料御奉納は度々に及び、
昭和三十八年九月 皇太子殿下参拝
昭和四十三年十月 天皇、皇后両陛下御同列の御参拝を賜った。
平成五年五月 天皇、皇后両陛下御同列の御参拝を賜った。


【白山神社/稲荷神社】大宮区堀の内町2丁目
 狭いながらよく手入れされた居心地に良い空間です。


【大宮稲荷神社】大宮区堀の内町2丁目
 ここも広い境内ではありませんが、御神木のヒノキが見事です。


大宮稲荷神社 本社改築記念碑
 故岩井新太郎主は當社并に白山社尓盡せし功大なり依て其德を頌す。
 當社の由緒創立等は明ならね登大宮稲荷と稱へ奉る所よ里考ふれば大宮驛の開かれし頃より鎮末り末し境内もい登夛かりしに神社制度の布かれし折書き洩ら左され境内も消滅尓歸志村社にも列せざ里しが年々乃御祭のみは仕へ奉りしを岩井銀太郎岩井力藏進藤治郎?主等思ひ起し十八名と語らひて拾七歩の境内を明治二十六年六月二十一日大宮町より買受け四十四年二月十四日進藤儀一郎主より山林二十八歩を取添へまは里しも今や社殿朽腐尓属したるを憂ひて岩井喜代?主は篤き志以て本殿を改築し基本財産并尓記念碑壹基をも捧げまつりぬよ里て後の世乃鑑ともなるべく篤志の人達乃氏名を誌し置くになむ。
 大正三年(1914年)三月九日
          御社尓因縁ある
              物部正男謹誌


【大間木氷川神社】緑区東浦和5丁目19
 本殿は高鼻鎮座の氷川神社の旧本殿とのことで、稲荷社二社と石神社が合祀されているそうです。


氷川神社 御由緒
         さいたま市緑区東浦和五-二〇-二
□御縁起(歴史)
 『風土記稿』大間木村の項に。当社は「氷川社 当村及び大間木新田・大牧(おおまき)附島(つきしま)等四か村の鎮守なり、附島村民の持、末社 第六天社、牛頭天王(ごずてんのう)疱瘡(ほうそう)神、天神社、八幡社、荒神社、稲荷社、神明社、別当三光院本山派修験、中尾村玉林院配下なり、本尊不動を安ず。長一尺五寸(ばかり)、智證大師の作と云、什物(じゆうもつ)笈一(おいひとつ) 亀井六郎奥州下向の物なりと云(以下略)」と記されている。
 往時別当であった三光院の末裔(まつえい)である仲田家には『風土記稿』にも挿絵の載る室町期の優れた漆工芸である椿紋鎌倉彫笈(県指定文化財)が残されている。笈とは、行脚僧(あんぎゃそう)修験者(しゅげんじゃ)などが仏具・食物・衣類などを入れて背負う箱のことで、『風土記稿』では源義経の家来である亀井六郎重清にちなむものであるとしている。この真偽は定かでないが、亀井六郎の屋敷跡とされる所が三光院の本寺に当たる玉林院が所在した中尾村にあったと伝えられている。この笈を背負った三光院の先祖がこの地に土着して当社の祭祀を司るようになったものと思われ、当社の創建も室町期までさかのぼることが推測される。
 市指定文化財となっている一間流造りの当社本殿は『明細帳』によると、寛文七年(一六六七)三月に武蔵国一宮(いちのみや)氷川神社が再建された際、旧本殿を買い受けたものである。
 なお、いつのころか稲荷社二社と石神社を当社に合祀したという。
□御祭神と御神徳
素戔嗚(すさのお)尊・・・武運長久、厄除け、商売繁盛
□御祭日
・初拝み(一月一日) ・例大祭(七月二十三日)


【主な経路】
大宮駅-(宮町)稲荷社-多子稲荷-護国神社-(武蔵一之宮)氷川神社-白山神社/稲荷社-大宮稲荷神社-中山神社-氷川女體神社-大間木氷川神社-東浦和駅


【参考】
 こりすのトトちゃん
 カヤ Torreya nucifera
 イロハモミジ Acer palmatum
 アカシデ Carpinus laxiflora
 青木昆陽先生の碑
 マーガレットアイビー Senecio macroglossus
 サカキ Cleyera japonica
 サザンカ Camellia sasanqua

みなとみらい地区で…

 本日、外勤で横浜へ。昼休みに時間があったので、あたりを散策しました。


【参考】
 ランドマークプラザ
 ジャノメエリカ Erica canaliculata
 エリカ・コロランス ‘ホワイト・デライト’Erica colorans‘White delight’
 ランドマークタワー
 横浜三塔
 キングの塔(神奈川県庁本庁舎)
 クイーンの塔(横浜税関)
 ジャックの塔(横浜市開港記念会館)
 クロスゲート前
 重要文化財 帆船日本丸
 海鳥達の風(峯田義郎作)
 ユリカモメ Larus ridibundus

杉山神社を巡る-Part8 日吉から八丁畷へ

 今日は、旧橘樹郡、現在の日吉周辺の杉山神社を尋ねました。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 井田神社(合祀社):川崎市中原区井田中ノ町13-23
 久末天照大神社 (合祀社):川崎市高津区久末642
 (40)杉山神社:川崎市高津区末長2丁目28-1
 (41)久本神社:川崎市高津区久本1丁目16-13
 新城神社(合祀社):川崎市中原区新城中町4-14
 小杉神社(合祀社):川崎市中原区小杉御殿町1丁目1010
 丸子山王日枝神社(合祀社):川崎市中原区上丸子山王町1丁目1555
 (39)杉山大神:川崎市幸区小倉11丁目4-6


【井田神社(合祀社)】川崎市中原区井田中ノ町13-23
 正式名称は、天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)ですが、地元では井田神社で通っているようです。これも合祀神が多いためと思われます。

天照皇大神宮御祭神
 大日孁命(おおひるめのみこと)
 五十猛命(いたけるのみこと)
 面足命(おもだるのみこと)
 惶根命(かしこねのみこと)
 日本武命(やまとたけるのみこと)
 須佐之男命(すさのおのみこと)
年中行事
 一、初詣   元旦午前0時
 一、節分祭  二月三日
 一、秋季大祭 十月第一日曜日


【久末天照大神社 (合祀社)】川崎市高津区久末642
 通称は、久末(ひさすえ)神社ですが、正式名は久末天照大神社です。ここには、旧村にあった杉山神社2社が合祀されています。現在改修工事中で、今年度末に竣工予定とのことです。

 久末天照大神社誌
鎮座地 川崎市高津区久末伊勢原六四二番地
祭神  天照皇大神
     五十猛命  天御中主尊  稲倉魂命
     面足命   惶根命    猿田彦命
境内末社 御嶽社・稲荷社
境内面積 四百六十八坪
例大祭日 十月十日
氏子区域 久末全域
建造物 一、本殿   一棟  一、鳥居  一基
    一、拝殿   一棟  一、神号碑 一基
    一、神輿庫  一棟  一、慰霊碑 一基
    一、神社会館 一棟  一、社誌碑 一基
沿革
 この土地拓けて数百年、此処伊勢原の地を中心として久末の村が形成され、各集落の氏神たる六社の神社を祀り、殖産興業、村内安全、五穀豊穣の守護神として長く村人達の篤い崇敬を受けてきた。
 明治三年五月天照大神は村社に列格、明治四十二年十月稲荷社をはじめ杉山神社二社、面足明神社、十二天社、道祖神を村社内に合併して久末の総鎮守となる。
 昭和二十八年宗教法人法により、宗教法人天照大神設立。神社本庁に属する。
古記録
 文化九年刊行の新編武蔵風土記稿巻六十三橘郡之六、稲毛領久末村の條に
杉山社蟹谷村の境字下宮に有、二間に三間の社にて西向なり村の鎮守なり
神明宮字伊勢原の中央にあり例祭は杉山の神社と同日にてこれも村の鎮守にり云々
稲荷社字大谷の丘上にあり鈴木を氏とする者の土神云々ゆへ土俗に鈴木稲荷と呼ぶ


【(40)杉山神社】川崎市高津区末長2丁目28-1
 この地域では珍しく『杉山』の名前が残っている旧末長村の杉山神社です。今日はお祭り日だったらしく人で賑わっていました。境内社は熊野神社と稲荷神社、御神木のスダジイはたいそう立派で、町の樹50選 No.5 に指定されていました。

  杉山神社
 杉山神社は、古代より末長部落の鎮守として祭神に五十猛命を祀り、住民は崇敬していたが、昭和三十九年四月五日未明不慮の火災に遭い、惜しくも由緒ある社殿が全焼の難をうけた。
 依頼八年の間、氏子会においては、神社再建を念願し努力を續けていたがその機も熟し昭和四十六年一月氏子の總意により、地域安穏、住民和平を祈念して、杉山神社再建計画が樹てられ、爾来氏子はじめ地域住民が一致協力、再建資金参阡七百余萬圓也の奉納浄財を基として昭和四十六年六月十一日地鎮起工、昭和四十六年十二月十三日よ上棟により本殿社務所の建築及び境内の整備並びに将来の神社維持管理に費するための附属建物の建築等再建計画を発してより一年有余にして悉く完成し、昭和四十七年五月二十日嚴かに、祭神の鎮座を仰ぎ遷宮大祭を行う。
 茲に杉山神社再建の遷宮大祭を記念し碑を建立する。
  昭和四十七年五月二十日
          杉山神社氏子總代代表 岸田茂隆
          杉山神社再建委員長  関口武雄


【(41)久本神社】川崎市高津区久本1丁目16-13
 ここには、旧久本村にあった杉山神社2社、八幡社、神明社の4社が合祀されています。この地域の神社の神職は溝口神社で兼務しているらしく、溝口神社の募集広告が出ていました。主神は天照大神のようです。


【新城神社】川崎市高津区新城中町4-14
 旧新庄村の神明社に杉山神社と天神社を合祀して成立したそうです。

  新城神社 由緒
祭神 天照皇大神
 當新城神社創立の年月日は不詳であるが、最も古い棟札によれば、元禄七年九月領主中川佐平太重興候、建立とあり更に明治三十年六月新城村内にあった杉山神社及び天神社を合祀して「新城神社」と改称された。
 昭和六十三年末、都市計画道路「新横浜-宮内線」の延長に伴ひ一部が買収され御社殿は現在の位置に移された。
 平成元年十月吉日


  新城囃子曲持(しんじょうはやしきょくもち)新城神社(しんじょうしんじゃ)
 新城囃子曲持とは、囃子にあわせて米俵や酒樽などを持ち上げて曲芸を競う技芸です。その由来は、江戸時代に若者連中が力石を持ち上げて、力自慢を競ったことに始まるといわれています。
 川崎市域において、かつてこの曲持を行っていた所は、大師河原・加瀬・二子・諏訪・新城などですが、現在では新城だけにしか伝承されていません。
 新城囃子曲持は、明治時代に高津区諏訪より伝えられ、一時中断していましたが、昭和四十八年、新城に伝わる鎌倉囃子系統の囃子と一緒になって復活し、現在は毎月第一日曜日新城神社境内で演じられています。
 川崎市教育委員会は、新城囃子局持を昭和五十三年七月七日、川崎市重要習俗技芸に指定しました。
 昭和五十八年十月
      川崎市教育委員会


【小杉神社(合祀社)】川崎市中原区小杉御殿町1丁目1010
 旧小杉村の杉山神社と神明社を合祀して成立、神明社の相殿には総社権現が合祀されていたため、計3社からなるとのことです。御神木のケヤキ(まちの樹50選 No.4)は樹齢150年とのことです。


【丸子山王日枝神社(合祀社)】川崎市中原区上丸子山王町1丁目1555
 大同四年 (八〇九年)に坂本日吉大社から勧請されたといわれ、大正七年に村内の八幡社・天神社・大六天社・熊野社・神明社・諏訪社・杉山社を合祀したそうです。

   日枝神社御由緒
 社の言伝えによると第五十代桓武天皇の御嫡子貞恒親王の次男恵恒僧都は不思議な子細があって山中に入られ近江の国坂本一本松のあたりに住まわれた。この人が山本平内左衛門尉恒重である。
 弟の次郎左衛門尉恒明と共に能く社に仕え山王権現(日吉大社西本宮)の御分霊を奉じて美濃国赤坂へ来たが更に尾張の国熱田神宮に一年間合わせ祀られ、その後次第に関東に下られ武蔵の国稲毛庄河崎村守山にお宮をつくりお祀りしたが、神意にかなわず、四方八方へ光を放った。庄内の道俗一度が驚いて馳集まり直ちに丸子にお送りして、お宮をつくりお祀りしたのが現在の日枝神社である。
 時に大同四年(西暦八〇九年)六月十四日であった。御鎮座以来御供田として上丸子今井村は当社権現の社領と定められた。その後治承二年(西暦一一七八年)五月上旬、小松内大臣平重盛公は武里蔵人太夫という侍を関東につかわして山王権現の社伝を再建せられ九寸五分の御剱を奉納された。
 徳川三代将軍家光の寛永九年(西暦一六四二年)八月十七日より徳川幕府末期までは御朱印弐拾石を賜った。明治二年(西暦一八六九年)七月四日山王権現を日枝神社と改称した。 古くより傳わる特殊神事の歩射祭(おびしゃ祭)は一月七日古式に基ずき盛大に挙行されている。八月の大祭には一体の大神輿と十数体の各町内神輿及び山車の曳行で賑わう。
 現在の御神殿は元文五年(西暦一七四〇年徳川吉宗時代)の建造で幣殿及び拝殿は関東大震災で崩壊し昭和三年に再建された。
 尚、当社所蔵の古文書には北条氏の虎の印判状二通徳川氏奉公人連署奉書一通と御本殿一棟が川崎市の文化財に指定され、また平重盛公奉納の小太刀と江戸中期御造営と伝えられる大神輿も社宝として大切に保存されていた。

○○十六代後裔
   宮司 山本五郎
奉納 山本文吉
  平成九年八月吉日
      塚越


   御神木由来
 高く聳える山王さんの大杉は、丸子の誇りであり、遠く中原街道ょ行き交う近郷近在の人々に心の安らぎを与えてくれたと云う。樹齢七百年余、高さ三十米、周囲八米の巨木で、昔は三本になっていたが、明治時代に一本が、大正の頃に一本が倒れ、最後の一本も遂に昭和九年に伐採された。この大杉を御神木と崇め、碑に刻み永く後世に伝えるものである。
 平成九年九月吉日
           日枝神社宮司 山本五郎代


【(39)杉山大神】川崎市幸区小倉1丁目4-6
 旧橘樹郡小倉村の杉山大神です。杉山大神を名乗っている神社は、同じ旧橘樹郡の六角橋にもあります。

 杉山大神由緒
鎮座地 川崎市幸区小倉二七七番地
祭神  五十猛命(いそたけるのみこと) 素戔嗚尊(すさのおのみこと)第二子 緑豊かな国造りの神
    天照大神 日本国全体の守護神
境内社 道祖神者 道路、交通の守護神
大祭 八月 元十月十八日斎行
特別行事 湯立(ゆだて)の式 大祭当日行う(けが)れを清める式
由緒遠隔
 当社の鎮座は古く、飛鳥時代、大化の改新によって国郡制度を敷いた頃より祀られており、近年まで境内地にあった神木樹齢一千年余の二株の古松が、その歴史を物語っている。当時、小倉村し皇室直轄領として栄え、杉山大神は農業生活の中枢をなして来た。
 戦国時代に至り、北條氏の家臣で、小机城主であった笠原氏の崇敬を受け、しばしばその代参を迎えた。
 江戸時代には、小倉村は旗本松下氏の領地となり、毎年米三俵の寄進を受けて神社は維持された。領主松下氏は、乗馬して参詣したと伝えられ、近年まで鳥居前に下馬札が立てられていた。
 新編武蔵風土記には「杉山社村の東北端にあり、本社に覆屋あり、前に鳥居あり、本地不動、長さ三尺許りの立像なり、村の鎮守なり、無量院持」とある。
                     宮司 岩澤具治記
祭事 一月 元旦祭 交通安全 村鎮祭
   三月 春水祭
   九月 赦日祭
   十一月 七五三祭
 昭和六十一年一月一日 奉納 岸 正久


 その他、本日撮影の写真です。
小倉(おぐら)神社】川崎市幸区小倉3丁目28-13
 辿りついた時には、すっかり日が暮れていました。杉山神社が合祀されているとのウェブ情報もあったのですが、由緒書きからも文献からもこれは間違いの様です。


  小倉神社由緒
御祭神 素戔嗚尊
    誉田別尊
例大祭 八月二十三日
小祭  七月五日
摂社 大六天社
   富士浅間社
 當社は小倉村に古くから鎮座する八雲神社八幡神社の二社を合祀し去る昭和三十一年八幡神社の故地に新社殿を創建して御祭神の神徳を仰ぎ郷土の繁栄と氏子一同の福祉を祈念するため、奉斎したものであります。
 八雲八幡両社創建の時代は明らかでありませんが、八雲神社境内出土の板碑類により鎌倉時代以来神聖視されていた土地に村民が鎮守神を奉齋したことに始まるのは明らかで、およそ八百年前に遡るものと伝えられています。
 御祭神素戔嗚尊……(以下、写真不鮮明につき、略します)


【善教寺】川崎市中原区井田1丁目20


【(井田)稲荷社】川崎市中原区井田1丁目16-50


【(蟹ヶ谷)熊野神社】川崎市高津区明津142
 通りかかった熊野神社では、お祭りの最中でした。


【八太神社】川崎市高津区蟹ヶ谷285


 八太神社
鎮座地 川崎市高津区蟹ヶ谷二八五番地
祭神  天太玉命(アメノフトダマノミコト)
元旦祭 一月一日
歳の神(どんど焼き) 一月
節分祭 二月三日
例祭日 十月
当社の創立年代は不詳であり、八太大権現社として丘の半ばにあり、幣束を神体とし、明治末隣村(子母口)神社に合併されたが昭和初頭に戻し、八太神社と改称する。


【南林山普門院蓮花寺】川崎市高津区久末1292


【福徳稲荷、子育地蔵、庚申塔】川崎市高津区久末1288


  福徳稲荷『お稲荷様』
 お稲荷さんは五穀豊穣・商売繁盛の神として、民衆の日常生活に密着にしている身近な神です。五穀と養蚕を司る穀物神・農耕神としてのウカニムタマ(宇迦之御霊・倉稲御霊)で稲荷明神として知られています。
 真言密教の開祖・空海(弘法大師)は東寺(教護国寺)を真言密教根本道場として建立を進めていた際、稲荷山から建造用の木材を提供されたことがきっかけとなり、お稲荷さんは東寺の守護神として祀られました。空海が東寺を朝廷から与えられた時、稲を担いだ翁に会いますが、その翁が稲荷神であったともいいます。
 稲荷信仰には狐が付き物です。お稲荷さんに油揚げを供えるのは、お稲荷さんに仕える狐が油揚げが好きだと考えられたからです。真言密教では、稲荷神をインド伝来の鬼神・ダキニテン(陀枳尼天)と同一であるとしています。ダキニテン(陀枳尼天)は、夜叉、または羅刹の一種で自在に神通力を使い、平安時代には、その本体を霊狐とみなされるようになり、狐の霊力にあやかろうとする信仰が広がり、稲荷自体を狐だと考えるようにもなったのです。
 現代におきましては、信仰が篤ければ人々のあらゆるお願いを成就してくださる功徳が戴ける有難い神仏として崇められておりますが、悪しき事には七代に亘たたりがあるとも云われております。
ご真言 オン ローキャ ローキャ  キャラソワカ
 平成十九年四月一日
  蓮華寺檀信徒総代長 森 學 殿 寄進
  蓮華寺 第四十二代 森重 代
                (一部HPより引用)記


【千年神社】川崎市高津区千年539


  千年(ちとせ)神社
鎮座地 川崎市高津区千年五三九
祭神  天照皇大神
    天児屋根命
    大和武尊
元旦祭 一月一日
春祭  四月十三日
夏祭  七月七日
秋例祭 十月
七五三 十一月
大祓  十二月
昭和三十年十月四日
 御嶽神社 春日神社 神明神社
 三社合社し千年神社と改称する


【子育て地蔵尊】川崎市高津区新作3丁目11


【馬頭観音】川崎市高津区末長2丁目17


【後明谷戸庚申塔】川崎市高津区末長2丁目9-45


   後明谷戸庚申塔(ごみょうやとこうしんとう)
建塔 元禄九年(西暦一、七二四年二月)庚申塔は祖霊供養・先祖のご加護によって厄難をのがれご加護によって厄難をのがれ安穏なるを祈願して青面金剛像。三猿を彫像、二体の庚申塔がお堂に安置されています。
庚申は庚(かのえ)申(さる)のことで中国の道教にならって、陰陽道の十干十二支説によるものであり、招福長寿。厄除和合・無病息災・地域住民道行く人々の安全祈願の道祖神として崇められております。
   平成二十八年ハ月吉日
      末長後明講中
      石碑奉献 ㈱丸貞
        〃  ㈱成建


【三社宮】川崎市中原区下沼部1745


    三社宮の誕生
 明治四十五年四月一日(一九一二)付けで東京府(都)と神奈川県の境が多摩川によって区切られたため、玉川のこちら側らあった下沼部は、荏原郡下沼部より分村することになりました。分村して神奈川県橘樹郡御幸村下沼部となりました。
 当時の氏神様は、浅間神社(今の大田区亀甲山々上)でしたが、分村することになったため氏神様も分社する事になりました。
 これより先、東京側下沼部に鎮座する赤城神社が明治四十二年七月一日に浅間神社に合祀されたため空社殿を譲り受けることになりました。
 社殿の引渡しは、明治四十五年七月中旬に行われたそうです。渡し舟二隻を清めて、川を下り接岸、向河原十五軒の氏子に引渡したとのことです。
 社殿に向かって右側に赤城神社の社殿であるため「磐筒男命(いわつつおのみこと)」中央には、昔から氏神様である浅間社の「木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」左側には昔から村にあった稲荷堂の「宇加之霊(うかのみたま)」を合祀して「三社宮」と命名しました。 昭和十一年七月、日本電気株式会社が下沼部地区の現在地に玉川工場を設立し、村は急速に発展しました。それに伴って、道路を拡張(現在の駅前通り)することになり、それまでの下沼部一九一五番地から、現在の社殿は昭和十三年五月に移築しました。
 以上が三社宮の歴史です。
                         三社宮 氏子中
                         平成十二年一月吉日


【神明大神】川崎市中原区中丸子492


  神明大神の記
 古くこの地は武州(ぶしゅう)橘樹郡(たちばなこうり)中丸子(なかまりこ)村と呼ばれ天正年間(西暦一五七三-九一)ここに在住する農耕者は七苗(しちみょう)を宗家とする一族であり極めて小さな集落であった。この人達は五穀の豊饒(ほうじょう)と疫病よりの済度(さいど)を祈願するために出羽(でわ)(くに)羽黒権現(はぐろごんげん)勧請(かんじょう)して中丸子村の鎮守社(ちんじゅしゃ)羽黒権現宮を造立して祭祀を行ってきた。このお宮の本地佛(ほんじぶつ)薬師如来(やくしにょらい)であり、すべての病を除き特に眼病平癒の霊験(れいけん)(あらたか)で、江戸や近国の者来旨し様々の立願が(かな)いご利益の程○○○の人知るところであった。
 明暦二年(西一六五六)当時の領主徳川の幕臣本郷勝右ヱ門源重泰(ほんごうかつうえもんみなもとのしげやす)本郷勝三郎源長泰(ほんごうかつさぶろうみなもとのながやす)によって本殿及拝殿が造立○○○この建物はとち(ふき)、こけら葺、色々の彫物などを配し立派なものであった。境内には他に日光、月光、神明、稲荷、座王、文朱、弁財天、天満宮、本地宮、御幣堂(ごへいどう)の末社があった。露維持四年に羽黒大権現宮を羽黒神社に更に明治三十四年には神明大神と改称し祭神を稲田姫命(いなだひめのみこと)とした。この際総ての末社を本社に合祀した。大正十一年には神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進(ぐしん)される村社となった。現在の社殿は昭和八年に改築され本殿は明暦時のものをそのまま残し、拝殿は新築したものである。昭和二十八年宗教法人神明大神として認証を受け、今日まで祭祀を行っている。その昔より当社の年次大祭は穀物の収穫期の十月八日で、夏祭と呼ばれている水神祭は五月八日であった。尚一月七日には村中の邪気を拂い平穏を祈り、五穀の豊饒を祈願する「おびしゃ」と称する大〆縄縒(おおしめなわよ)り行事がある。
 神木の大欅は「おしゃもじ」と呼び六百有余年の年輪を重ねた鎮守の象徴である。
昭和六十年(西一九八五)四月吉辰
             氏子総代連中 選文


【稲荷社】川崎市幸区鹿島田3丁目10-18


【鹿島大神】川崎市幸区鹿島田2丁目22-44


【横浜熊野神社】横浜市鶴見区市場東中町9-21



【参考】
 慶応大学日吉キャンパス
 シャリンバイ Rhaphiolepis indica
 ヒメキンセンカ Calendula tournefortii
 コシロノセンダングサ Bidens pilosa var. minor
 ナズナ Capsella bursa-pastoris
 武蔵新城駅前
 本日、スーパームーン

【文献】
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.

【本日の主な経路】
東急東横線日吉駅-善教寺-(井田)稲荷社-井田神社(合祀社)-(蟹ヶ谷)熊野神社-八太神社-久末天照大神社 (合祀社)-南林山普門院蓮華寺-福徳稲荷、子育地蔵、庚申塔-千年神社-(新作)子育て地蔵尊-(末長)馬頭観音-(40)杉山神社-後明谷戸庚申塔-(41)久本神社-新城神社(合祀社)-小杉神社(合祀社)-丸子山王日枝神社(合祀社)-三社宮-神明大神-(鹿島田)稲荷社-鹿島大神-(39)杉山大神-小倉神社-横浜熊野神社-京急本線八丁畷駅

杉山神社を巡る-Part7 中山から新横浜へ

 最近の定番となった杉山神社巡り、今回は横浜線中山駅周辺を尋ねました。このエリアは旧武蔵國都築郡に相当し、中でも西八朔の杉山神社は延喜式神名帳に記載された式内社であった可能性が高い社の一つとされています。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 (05)青砥杉山神社: 横浜市緑区青砥町1119
 (02)中山杉山神社: 横浜市緑区中山町718
 上白根稲荷社:   横浜市旭区上白根町221
 (01)寺山杉山神社: 横浜市緑区寺山町177
 (03)三保杉山神社: 横浜市緑区三保町2079
 (11)西八朔杉山神社:横浜市緑区西八朔町208
 (10)千草台杉山神社:横浜市青葉区千草台17-2
 (06)市尾杉山神社: 横浜市青葉区市ヶ尾町641
 (09)佐江戸杉山神社:横浜市都筑区佐江戸町2020
 (14)池辺杉山神社: 横浜市都筑区池辺町2718


【(05)青砥杉山神社】横浜市緑区青砥町1119
 青砥というと金沢区の青砥山鎌倉の青砥藤綱舊蹟碑などを思い浮かべますが、緑区にも藤綱が住していたと伝えられています。旧青砥村の杉山神社の境内には、稲荷社と御嶽社がありました。

   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと) 日本武尊(やまとたけるのみこと) 應神天皇(おうじんてんのう) 大日孁貴命(おおひるめむちのみこと) 面足尊(おもだるのみこと)
例祭日 十月五日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


   御嶽神社
この社はその昔、武蔵国青戸と稱した頃武州御嶽神社の分神として恩田川のほとり現在の都橋から約三百米上流に祀られ農業の神として住民から信仰を集めておりました。その後大正四年頃当神社境内に合祀され今日に至りました。
当時御堂のあった周辺の場所を御嶽堂と呼び青砥町字御嶽堂として最近までその名を留めておりましたが土地の区画整理等により順次消減されつゝあるのが現況であります。
現在の社は昭和五拾参年杉山神社改修の祭当所大工棟梁市川倉之亟氏が寄進されたものであります。


【(02)中山杉山神社】横浜市緑区中山町718
 中山駅から一番近くに鎮座する旧中山村の杉山神社です。拝殿前に芭蕉の句碑がありました。

   杉山神社の由来
杉山神社の名称は、約1400年前の白鳳時代西暦660年「天武天皇」の命により武蔵の國、「杉山の岡」に祀られたものと言われており武蔵風土記(市橋注:新編武蔵風土記稿のことを指していると思われる)によると「鶴見川、恩田川」周辺が先に述べた杉山の岡で「杉山神社」という名称は72社あるそうですが、恩田川(市橋注:多摩川の間違いと思われる)の北側にはほとんどありません。
「中山杉山神社」は昔、相次ぐ戦乱にて喪失し再建が繰り返された為、古文書等を殆ど焼失し、創立の年は不明ですが、再建文書によりますと約800年前の鎌倉時代には既に建立されていたものと推測されます。記録によりますと350年前の慶安2年5月に再建された文書が残っているそうです。
神社庁への届け出記録によると
① 慶応元年6月 再建 (1865)
② 明治6年12月 村社13位に列格(現在は11位です)
③ 大正8年9月 稲荷社、第6天、御嶽社を合祀
④ 昭和28年8月 宗教法人中山神社として登録
         宗教法人化の神社8万社、横浜288社
⑤ 昭和32年3月 火災により焼失
⑥ 昭和33年9月 再建(神殿13.9坪 2800万円)
⑦ 本神社の宮司は 21年7月より 緑区荏田 剣神社宮司(斉藤清治氏)
          54年7月より           (斉藤一麿氏)
          15年7月より           (斎藤勝幸氏)
本神社の奉斎神は 「五十猛命(いそたけるのみこと)」 3柱
         大六天稲荷様 ?
         御嶽様    ?
主神「五十猛命(いそたけるのみこと)」は素戔嗚尊(すさのうのみこと)のお子様で父親と朝鮮に渡り、杉檜など多くの樹種を持ち帰り、植林したり、航海の技術を伝授した功績の有る方でした。
「有効の神」として崇敬されている神様です。
「五十」は豊穣を意味するところから「農業の神」、「猛」は強い人武勇を表して居ます。
  2016 平成28年10月
 緑区中山町 田辺年末氏の文献より 相沢 淳 清書

天武天皇
 631~686 飛鳥時代 第40代の天皇
      この時代はまだ年号はありませんでした。


【上白根稲荷社】横浜市旭区上白根町219-5
 旭区(旧保土ヶ谷区、都筑郡)で唯一の杉山神社は、稲荷社に合祀されています。


【(01)寺山杉山神社】横浜市緑区寺山町177
 旧寺山村の杉山神社ではイチョウの黄葉が見頃で、コウヤマキとヒマラヤスギの緑とのコントラストが目に鮮やかでした。庚申塔には寛永二巳年(1749年)の銘が読み取れます。


【(03)三保杉山神社】横浜市緑区三保町2079
 旧三保村の杉山神社の扁額では、『』の字を使っていました。境内社は天満宮です

   社殿新築之碑
宗教法人 杉山神社
 祭神   日本武尊
 合祀祭神 天照大神
 合祀祭神 猿田彦命
境内神社 天満宮
 祭神   菅原道真
 杉山神社は創建の時期は不詳ながら、慶長九年(一六〇四)まで近隣併せ八か村の総鎮守である。その後久保村(三保村)の鎮守となる。
 明治維新以降国家管理の下、明治六年(一八七三)村社に指定され、同四十一年(一九〇八)村内ニ社を合祀、大正九年(一九二〇)神饌幣帛料共進神社に列せられる等の経緯を辿るも、昭和二十一年緊急勅命に基づき神社本庁を包括団体とする自主団体として存続する事となり、同二十八年宗教法人杉山神社として設立され現在に至る。
 明治元年(一一六四)に再建された本殿などは、大正九年の大改修を含め数字にわたり、修復されたが、近年頓に老朽化が著しく、また茅葺き屋根拝殿の維持管理が困難にこと等から、平成八年十月氏子が相諮り広く浄財を募って、新築する事とし、同九年五月建設委員会と組織の上設計管理㈱社寺建築設計事務所(東京都江東区)、施工㈱上林工務店(長野県上伊那郡)により、同十年十月三日例大祭に合わせ鳥居・玉垣・手水舎等付帯工事と共に無事完工をみ、遷座祭を挙行した。
 また、平成十一年十二月これまで合祀の天満宮を境内神社として創立し、遷座し得たことを併せ奉祝するものである。
  平成十二年十月吉日
     建設委員長 矢嶋誠司


【(11)西八朔杉山神社】横浜市緑区西八朔町208

  改築記念
延喜式内社
武藏總社六之宮 杉山神社
   大國魂神社宮司 猿渡盛文拜書
一、祭神五十猛命、配神大日霊貴命、素戔嗚尊、太田命
一、由緒
 当神社は武蔵国の総社天国魂神社の六ノ宮である。続日本紀承和五年(八三八)二月庚戌の條に武藏国都筑郡杉山神社預之武藏国の総社、大国魂神社の成立は、人皇十二代景行天皇四十一年都筑郡杉山神社は六の宮として西殿に祭られた。「武蔵総社誌」上巻に六所宮東西の御殿に鎮座す。一所大神等は東御殿に、一の宮小野大神、二の宮小河大神、三の宮氷川大神、以上三所鎮座す。西御殿に四の宮秩父大神、五の宮金佐奈ノ大神。六の宮杉山ノ大神、以上三所鎮座す。件の六所を総称して六所宮と称す。この六ノ宮に該当する神社が西八朔の杉山神社である。「風土記稿」に「慶安年中社領の御朱印を賜う。其の文左にのす。」
武藏国都筑郡西八朔村、極楽寺杉山明神社領同村之内五石六斗事任先現寄附之訖全可収納並境内山林竹木諸役当免除如来永不可有相違者也 慶安二年(一六四九)八月二十四日 御朱印。
 以上の事実によって当神社こそ式内社の由緒深きものである。
一、社格
 明治六年十二月被列郷社との辞令 神奈川県庁より御下附あり。
 大正九年九月十日神奈川県告示第三六二号を以って神饌幣帛料共進すべき旨仝県知事より指定あり。
 昭和二十八年八月一日神奈川県指令第三九九〇号を以って宗教法人杉山神社として仝県知事より認証された。
一、社殿
 境内地昭和五十七年十一月三日改築遷宮祭執行。境内地一四六三坪
昭和五拾七年拾壱月吉日     杉山神社宮司 志村文雄 撰文謹書

(市橋注:西八朔社が式内社であった、というのは可能性のひとつに過ぎない)


   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと) 大日孁命(おおひるめのみこと) 素戔嗚尊(すさのおのみこと) 大田命(おおたのみこと)
例祭日 十月一日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


【(10)千草台杉山神社】横浜市青葉区千草台17-2
 千草台の杉山神社の御神木は、樹齢400年と云われるケヤキ(横浜市名木古木指定48181)です。

新社殿25周年記念碑
  杉山神社
鎮座地 横浜市青葉区千草台十七の二
御祭神 五十猛命(いそたけるのみこと) 素戔嗚尊(すさのおのみこと)  大日孁命(おおひるめのみこと) 豊受姫命(とようけひめのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと) 保食神(うけもちのかみ)
御祭神五十猛命は、素戔嗚尊の御子神で天降りの時に天津樹種を持ち降り植樹農業を薦めた。
素戔嗚尊は、日の神天照皇大神の石戸隠れの後、追放になり出雲の八岐大蛇(やまたのおろち)退治で有名である。
 大己貴命(おおなむちのみこと)は、大國主神の別名、國土開拓はもとより航海、農業、交通、医薬、殖産興業、百般の事物に無限の御神徳をそそがれる神である。
由緒
 旧村社 杉山神社
 武蔵風土記に下谷本鎮守杉山神社と記され、徳川初期の創立である。
 大正三年八月一日 社殿拝殿神楽殿新改築
 昭和二十七年十月二日 神奈川県指令第三九八九号を以って宗教法人杉山神社とする。            境内坪数五七五、九〇五坪
 昭和四十九年十月六日 新社殿新築落成
     平成十年九月吉日
           宮司 志村幸男


   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと) 素戔嗚尊(すさのおのみこと) 大日孁命(おおひるめのみこと) 豊受姫命(とようけひめのみこと)  大己貴命(おおあなむちのみこと) 保食命(うけもちのみこと)
例祭日 十月七日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


【(06)市尾杉山神社】横浜市青葉区市ヶ尾町641
市ヶ尾杉山神社の境内社は稲荷社です。

   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと)
例祭日 十月五日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


お足もとに敷かれている御影石 敷石は(稲荷さま参道にも使用)もと横浜市 市電の軌道に使用されていたものを奉賛会会員 塚 一男さんよりご寄贈いただいたものであります。
     平成23年1月吉日
     下市が尾杉山神社奉賛会


【(09)佐江戸杉山神社】横浜市都筑区佐江戸町2020
 佐江戸の杉山神社の境内社も稲荷社です。

   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと)
例祭日 九月二十七日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


【(14)池辺杉山神社】横浜市都筑区池辺町2718
 池辺杉山神社の御神木はケヤキ(横浜市古木名木48177)です。昭和三年に建立されたという狛犬は近隣では例を見ないユニークなものです。境内社は、鹿嶋大神宮と稲荷社です。

  池辺杉山神社 由緒
 創立年代は不詳ですが、建立は元文元年(一七三六年)十一月江戸時代、徳川幕府八代将軍徳川吉宗の時代と推定されます。五十猛命(いたけるのみこと)を御祭神として、古くから池辺の鎮守として崇敬されています。
 明治六年十二月には村社として祀られ、対しよう九年十二月には神饌幣帛料供進神社に列しました。
 昭和三年、昭和天皇御大典を記念して本殿の大改修がなされ併せて、狛犬が建立されました。
 昭和二十二年には神楽殿を、平成十五年には拝殿を新築し、覆い殿を改修しました。


石塚
   由来
 明治初年、七五郎と謂へる人あり。星谷、若林家の出身にして力量抜群たり。藝能一座に見いだされ、全國各地にてその力技を披露、大好評を得たり。その史實を後世に傳うと共に、若者の体力増強を願い愛用のさし石と故郷池辺の安泰を祈念し、地雷石を献納せしもりなりと傳へられる。
 後年、力自慢の若者集い、力比べ体力鍛練等に用いしものが前面の石なりしが、初代は焚火等により崩壊し、二代目のものなり。
 平成三年三月
  池辺町内会町小泉幸三


【その他の社、等】
住吉神社:横浜市港北区小机町110
 小机駅に向かう途中に住吉神社がありましたので立寄りました。

 小机総鎮守住吉神社
祭神 上筒男命(うわつつおのみこと)(表筒男命) 中筒男命(なかつつおのみこと) 底筒男命(そこつつおのみこと)
配神 気久利姫命(きくりひめのみこと) 金山姫命(かなやまひめのみこと) 日ノ神(ひのかみ)
   加供智命(かぐつちのみこと) 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
 小机の住吉神社は、誠に悠久なる歴史を持つ社であります。
 住吉神社は、大概海や川口に近い処を鎮座場所とされ、昔に遡ればそこは海岸であり、川口であったと言う。
 上古小机根古屋と称す百八ヶ村の主郷なりと言う水郷一帯の時代に源を発し、この地方の土民安住の処を得、摂津国(大阪)元官幣大社住吉大社より普ねく分神を勧請せられ、住民は産土神と仰いで奉斎した。
 特に文禄(一五九二~一五九五)年中より慶長(一五九五~一六一四)年間に亙り、小机領の守護神として小机城主矢野兵庫助の崇敬篤く、恒例・臨時の祭典絶ゆることなく、又、文禄中まで小机・川向・本郷三ヶ村の郷社であり、慶長年中に分村の時当社の末社稲荷社の分神を遷された。
 嘉永三年に本殿再建しその棟札を存す。明治六年十二月村社に列格、明治四十三年四月三日村内の白山社・愛宕社・神明社を合併、増神を見るに至り、小机領総鎮守として国守りの神、海路平安の神、和歌の神は元より五穀豊穣、商業繁栄、家運隆盛、旅行安全、交通安全、厄難消除等の神として御霊験あらたかで、この地方に行き享ける者として、夢寐にも忘れることのできない大恩神であります。


 小机領総鎮守住吉神社
     平成大改修造営記念
 当住吉神社は誠に悠久なる歴史を持つ社であります。上古小机根古屋の庄 百八ヶ村の首郷たりと言う水郷一帯の時代に源を発して摂津国住吉大社より普ねく御分霊を勧請し、住民は産土大神と仰いで奉斎、後世まで尊崇感謝の奉祀が続く所以です。
 明治四十三年村内に祠られし白山社愛宕社神明社を合祀、八十五年を迎へました。この意義ある歳、氏子の総意にて社殿の修復造営を行い御祭神に感謝を捧げたいとの念願が氏子崇敬者の奉賛により竣工の慶びを迎へることができました。
 依って奉賛者名の碑を建立し将来大きく開発されて行く郷土が永遠へと無事平穏を御守護給わることを祈念いたします。
    平成七年十月二十二日
         宮司 土岐彰臣
  (以下、奉賛者名略)


 住吉神社末社
金刀比羅社(金比羅大権現)
 祭神・大物主命 おおものぬしのみこと
 大物主命は、大国主命の幸魂・奇魂であり、人造り、国造り、夫婦和合の神。
稲荷社(正一位稲荷大明神)
 祭神・倉稲魂命 うがのみたまのみこと
稲荷神社(正一位稲荷大明神)
 祭神・宇迦之御魂命 うがのみたまのみこと
 イナリは「稲生(いな)り」の意味で、もともと水田耕作を行う、人々の農耕神であった。中世から近世にかけて工業・商業が盛んになると。農業神の性格に加えて、殖産興業の神としても信仰され、各地に勧請された。
 慶長年中まで小机・川向・本郷三ヶ村の中心がこの地であり、多分村の時この稲荷の神を勧請された。
(川向・本郷は、元稲荷神社と称した。)


【本日の主な経路】
横浜線中山駅(05)青砥杉山神社-(02)中山杉山神社-上白根稲荷社-中堀川プロムナード-(01)寺山杉山神社-(03)三保杉山神社-(11)西八朔杉山神社-(10)千草台杉山神社-(06)市尾杉山神社-(09)佐江戸杉山神社-(14)池辺杉山神社-住吉神社-横浜線新横浜駅

【参考】
 平六トンネル上のサクラ
 JR中山駅前
 シバザクラ Phlox subulata
 皇帝ダリア Dahlia imperialis
 フユザクラ Cerasus x parvifolia ‘Fuyu-zakura’
 ネズミモチ Ligustrum japonicum
 コナラ Quercus serrata
 イチョウ Ginkgo biloba
 コウヤマキ Sciadopitys verticillata
 ヒマラヤスギ Cedrus deodara
 台村町の庚申塔
 キンシバイ Hypericum patulum
 立藁
 千草台の銀杏並木
 ノボロギク Senecio vulgaris
 市ヶ尾庚申堂
 川名庚申堂
 (川名)山王神社
 コスミレ Viola japonica (川名山王神社)
 ドウダンツツジ Enkianthus perulatus
 スーパームーン・イブ

【文献】
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.

三の酉(2017.11.30)

 本日酉の日につき、大宮からの帰りに目黒の大鳥神社に立寄りました。


【大鳥神社】下目黒3-1-2
  大鳥神社御由緒
御祭神 主祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) 景行天皇の皇子で。熊襲討伐、東国の蝦夷を平定。
    相殿神(あいどののかみ) 国常立尊(くにのとこたちのみこと) 日本の国開きの神様
        弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと) 日本武尊の妃
御由緒 例祭 九月九日に近い日曜日
 景行天皇の御代(七一~一三〇)当所に国常立尊を祀った社がありました。景行天皇の皇子である日本武尊は、天皇の命令で熊襲を討ち、その後、東国の蝦夷を平定しました。この東夷征討の折当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治まらんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神と称え、手近に持っておられた十握剣(とつかのつるぎ)を当社に献って神恩に感謝されました。この剣が天武雲剣(あめのたけぐものつるぎ)で、現在当社の社宝となっています。
 東征の後、近江伊吹山の妖賊を討伐になられましたが、病を得て(こう)ぜられました。日本書紀に「尊の亡骸を伊勢の能褒野(のぼの)に葬したところ、その陵より尊の霊が大きな白鳥となられ倭国を指して飛ばれ、倭の琴弾原(ことひきのはら)、河内の舊市邑(ふるいちむら)に留まり、その後、天に上られた」とあり、このことから日本武尊を鳥明神と申す訳です。当社の社伝によると「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る」とあり、大同元年(八〇六)社殿が造営されました。当社の社紋が鳳の紋を用いているのはこのためです。江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。
  酉の市(八つ頭と熊手の由来)
 当社の酉の市は都内でも古く、江戸時代に始まります。酉の市が毎年十一月の「酉の日」に行われるのは、尊の熊襲討伐の出発日が酉の日だった為その日を祭日としました。酉の日の当日、御神前に幣帛として「八つ頭」と「熊手」を奉献します。「八つ頭」は尊が東征の時、八族の各頭目を平定された御功業を具象化したもので、「熊手」は尊が焼津で焼討に遭われた時、薙ぎ倒した草を当時武器であった熊手を持ってかき集めさせ、その火を防ぎ、向火をもって賊を平らげ、九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。ここから、古来より、「八つ頭」は人の頭に立つよう出世できるという縁起と結びつき、「熊手」は家内に宝を掻き込むという意味で縁起物として広く信仰を集めました。大鳥神社の社名「おおとり」は、「大取」に通ずる為、宝物を大きく取り込むという商売繁盛開運招福の神様として、多くの人達の信仰を集めております。また、酉の市当日は、社殿において、この縁起のもとになる「開運熊手守」が授与されます。