茅の輪めぐり-(茅の輪(ちのわ)くぐり)

 本日6月30日は水無月の大祓(おおはらえ)水無月祓(みなづきばらえ)夏越(なごし)の祓)。半年間の穢れを禊ぐ日です。
 水無月祓といえば、茅の輪(ちのわ)くぐり。『茅の輪くぐりといえば、氷川神社』と子供の頃は思っていましたが、気づけば、配祀神や神社によっていろいと流儀があるようです。今日は、大宮の母を訪ねる序にいくつか茅の輪くぐりを巡ってみました。茅の輪は須佐之男命の故事に因むとも言われており、茅の輪くぐりを行う神社は、主神、配神に須佐之男命が含まれているようです。少なくとも、本日廻った5社とも須佐之男命に縁があることを確認しました。

雷神社(いかづちじんじゃ)
主祀神:火雷命(ほのいかづちのみこと)
創建:承平元年(西暦931年)
社格:旧浦郷村社(相模国三浦郡浦郷村)


 三浦半島でも有数の歴史を誇る浦郷の村社、雷神社です。通称は『かみなりじんじゃ』で、茅の輪は簡素で訪れる人も少ないようですが、毎年茅の輪が設置されるのが早くて、今年は17日にはもう準備ができていました。近年、おっぱま祭と同時開催になっている天王祭は来週7月9日です。

瀬戸神社
主祀神:大山祇命(おおやまつみのみこと)
創建:治承4年(西暦1180年)
社格:旧金沢郷社(武蔵国久良岐郡六浦庄)


 源頼朝が伊豆三島明神を勧請した時が創建といわれ、金澤八名木唯一の残存蛇混栢(じゃびゃくしん)、横浜市の天然記念物となっている大榧などで知られています。新版かねざわ歴史事典(2010)によれば、須佐之男命が配神の一柱となっており、そのため茅の輪くぐりが行われているようです。牛頭天王(ごずてんのう)と須佐之男命との習合からでしょうか、この神社のお祭りも天王祭です。

武蔵一之宮氷川神社
主祀神:須佐之男命(すさのおのみこと)稲田姫命(いなだひめのみこと)大己貴命(おおなむちのみこと)
創建:第5代孝昭天皇3年(西暦紀元前471年)
社格:神社本庁別表神社、勅祭社、旧官幣大社、名神大社(式内社)、武蔵一之宮


 14:00からの大祓(おおはらえ)式の時間だったためもあり、茅の輪が設置されている新橋から三の鳥居あたりまで、ざっと300人以上のくぐり待ちの列ができていました。

調神社(つきじんじゃ)
主祀神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)豊宇気姫命(とようけびめのみこと)須佐之男命(すさのおのみこと)
創建:第9代開化天皇2年(西暦紀元前156年)
社格:式内小社、旧埼玉県社


 氷川神社と同様に延喜式に記載された式内社で、ウサギが使い魔。今日見た中では一番立派な茅の輪でしたが、大祓(おおはらえ)式以外では、立ち入り禁止となっていました。境内には大木も多く感じの良い神社なのですが、残念の一言に尽きます。人出もパラパラといったところでした。

元郷(もとごう)氷川神社
主祀神:須佐之男命(すさのおのみこと)
創建:16世紀中頃
社格:旧南平柳村社(武蔵国足立郡南平柳村)


 大宮氷川神社の分社のひとつが川口にもあると知り、寄ってみました。文献での確認はできていませんが、四ノ宮氷川大明神を名乗っています。辿りついた時には、もう薄暗くなっていましたが、時折参拝者が訪れていました。

【文献】
 栗林宣夫(1983)祇園(天王祭り)について、文教大学教育学部紀要 17, (18)-(27).

 以下、本日撮影の写真です。


【参考】
 アカシデ Carpinus laxiflora
 青木昆陽先生の碑
 針ヶ谷の庚申塔
 サフランモドキ Zephyranthes carinata
 ヤブカンゾウ Hemerocallis fulva
 ヘクソカズラ Paederia scandens
 慈恵稲荷
 市場通りの銅像
 アジサイ Hydrangea macrophylla
 狛犬(元郷氷川神社)
 ピンクノウゼンカズラ Podranea ricasoliana
 オオマツヨイグサ Oenothera glazioviana


蛇混柏(じゃびゃくしん)【瀬戸神社説明札】
 文明十八年(1486)萬里和尚の詩の自註に「六浦廟前有古柏屈繁」とあり、延宝八年(1680)八月六日の大風に転倒して後も朽損せず、新編鎌倉市・江戸名所図絵などにも「蛇混柏」と称した名木で金沢八木の一つである。
 一部は本殿内陣の御扉材に使用されてゐる。


青木昆陽乃碑【大宮公園】
 青木昆陽は、元禄十一年今の東京日本橋に生まれました。学問に優れた上に、人格高潔であることが大岡越前の耳に入り、幕府に仕えることになりました。そして、甘藷(さつまいも)の栽培を広く普及させた昆陽は、甘藷先生と呼ばれました。やがて甘藷が県の特産品となり。農業協同組合は、県民の生活が潤うよう努力した昆陽の業績をたたえ、氷川公園(現在の大宮公園)に、昭和四年八月、記念碑を建設しました。
 埼玉県大宮公園事務所


氷川神社由緒
 氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日御創立と伝えます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊(やまとたけるのみこと)は東夷鎮定の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲派の兄多毛比命(えたもひのみこと)が朝廷により武蔵国造(むさしこくぞう)となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式高く聖武天皇の御代には武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神明帳には明神大社として、月次新條案上の官幣に預かり又臨済祭にも奉幣に預かっております。武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の各将軍家等相継いで尊仰し、奉行に命じて社殿を造営し社領を寄進する等、祭祀も厳重に行われておりました。
 明治元年には明治天皇が氷川神社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と御定めになり、当社に行幸、御親ら祭儀を執り行われ、同三年にも再び御親祭されました。明治四年には官幣大社に列せられ、同十一年には明治天皇が三度目の御親拝をされ、大正十年には大正天皇が御親拝されました。
 昭和九年には昭和天皇が御親拝、同三十八年今上陛下が皇太子時に御参拝され、同四十二年には社殿、その他の諸建物の修復工事が完成し、昭和天皇・皇后両陛下御揃いで御親拝され、明治天皇御親祭百年大祭が執り行われました。昭和六十二年には今上陛下が皇太子時に同妃殿下と御揃いで御参拝され、平成五年五月には天皇皇后両陛下が御揃いで御親拝になられました。


サツマイモの女王紅赤の発祥地【廓信寺案内札】
 江戸時代以来、関東ではサツマイモといえば川越で、「アカヅル」、「アオヅル」といういい品種を持っていた。
 ところが明治三十一年(1898)秋、浦和市北浦和(当時の木崎村針ヶ谷)で、それ以上のいもが発見された。
 発見者はここの農家の主婦、山田いち(1863~1938)だった。いちは皮が薄紅色の「八ツ房(やつふさ)」を作っていた。それを掘っていると皮の紅色がびっくりするほど濃く、あざやかで美しいいもが出てきた。八ツ房が突然変異したもので、形も味もすばらしかったため大評判になった。
 いちの家の近くに、いちの甥で篤農家の吉岡三喜蔵(1885~1938)がいた。この新しいいもに惚れ込み、「紅赤(べにあか)」と命名。それを広めることを使命とし。懸命に働いた。
 そのため紅赤(俗称、金時(きんとき))はたちまち関東一円に普及、「サツマイモの女王」とうたわれるようになった。川越いもももちろん紅赤になり、その名声はますます上がった。
 昭和六年(1931)、山田いちは財団法人、富民協会から「富民賞」を贈られた。それはわが国の農業の発展に貢献した人に贈られるもので、農業関係では最高の賞だった。
 今年。平成十年(1998)は紅赤発見から百年になる。さしもの紅赤も最近は振興の「ベニアズマ」に押されて振わなくなったが、このいもほど寿命の長かったものはない。そこで山田、吉岡両家の菩提寺で、紅赤発祥の地にある廓信寺(かくしんじ)の一角に、この功績案内板を設置することになった。
 平成十年(1998)年九月吉日
川越サツマイモ商品振興会
川越いも友の会
浦和市教育委員会
廓信寺


さいたま市指定史跡 浦和宿二・七市場(にしちいちば)
 浦和の市場は戦国時代に開設されたものと考えられ、天正十八年(1590)には豊臣秀吉の家臣である浅野長吉から喧嘩口論などを禁じた「禁制」が「浦和市」に対して出されています。浦和市は月六回開かれる六斎市(ろくさいいち)と呼ばれるもので、毎月二と七の日に開かれたため(二日・七日・十二日・十七日・二十二日・二十七日)、「二・七市場」といわれています。
 江戸時代、十返舎一九は「代ものを 積み重ねしは 商人の おもてうらわの 宿の賑わい」と詠み、浦和の市の賑わいを表現しています。
 また、川口芝の長徳寺住持である龍派禅珠(りゅうはぜんしゅ)は、ある歳の暮れ、浦和の宿で萩、屠蘇、麹、膠、末醤(味噌と醤油)、新暦などを購入しています。
 周辺では、蕨(一・六(いちろく)の市)、鳩ケ谷(三・八(さんぱち)の市)の市、与野(四・九(しく)の市)、大宮(五・十(ごとう)の市)で市が設けられており、毎日どこかで市が開かれていたことになります。
 平成十九年三月二十二日


慈恵稲荷社御由緒 御縁起(歴史)
 中山道の三番目の役場であった浦和宿は、南北10町四二間(約1165.6メートル)の規模を持ち、北から上町(かみちょう)仲町(なかまち)下町(しもちょう)の三つに分かれていた。当社は、そのうち上町の人々によって祀られていた神社で、当初は単に稲荷社と称していたが、後に慈恵の文字を冠するようになった。慈恵の文字を関するようになった時期は定かでないが、『明細帳』では『慈恵』の文字が後で加筆されていること、「慈恵稲荷社」の文字を刻んだ社号額が対象十四年に奉納されていることから考えると。同年の境内整備や翌年の本殿改築・拝殿新築といった事業を機に改称したものと思われる。
 一方、『風土記稿』浦和宿の項を見ると、「稲荷社三宇 一は成就院持、二は村民持」とうる。そのうちの『成就院持』の稲荷社が当社のことであり、「村民持」の稲荷社は常盤三丁目にある笹岡大(ささおかだい)稲荷・笹岡(しょう)稲荷のことと思われる。当社の北に隣接する成就院は、玉蔵院の末寺に当たる真言宗の寺で、通称を「上寺(かみでら)」といい、明治四年に一旦廃寺となったが、平成二年に復興された。また、当社の境内と成就院の大門の所には、各々大きな樅の木があり、中山道を通る人から見ると、それが一本にも二本にも見えたという。そこで、人々は「一本だ、いや二本だ」と言い争ったため、この樅の木は「争い樅の木」としして知られていたが、明治九年九月の台風で倒れてしまった。
□ 御祭神… 倉稲魂(うかのみたま)
□ 御祭日
 ・例祭(初午祭)… 二月初午
 ・夏祭り… 七月二十日前後の日曜日


市場通り(碑文)
 この通りの北側にある慈恵稲荷の社頭で、戦国時代以来、昭和の初めまで毎月二・七の日に市が開かれました。そこでは農産物や各種の生活必需品が取引されました。現在もそのなごりとして、市神様と市場定杭(じょうぐい)があります。
 これにちなみ、昭和55年9月に当地の歴史をしのぶため「市場通り」の愛称がつけられました。
 浦和市 平成6年3月


調神社由緒 畧記
 当社は天照大御神、豊宇気姫命、素戔嗚命の三柱ほ祭神とする。延喜式の古社にして古くより朝廷及び式内の崇敬篤く調宮縁起によれば、第九代開化天皇乙酉(きのととり)三月所祭奉幣の柱として創建され。第十台崇神天皇の勅命により、神宮斎主ruby>倭姫命(やまとひめのみことま)が参向比の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられ武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定めらる。倭姫命の御伝により御倉より調物斉清の為の当社を搬入する妨げとなる為。鳥居、門を取拂はれたる事が起因となり、現今に到る。


茅の輪神事の由来(元郷氷川神社説明文)
 釈日本記より「備後風土記逸文」和銅6年(713年)の蘇民将来の故事から起こったともいわれている。
 蘇民将来が素戔嗚尊の教えに従って腰に茅の輪を下げたところ、子孫代々に至るまで災い無く栄えたということから、今では夏越しの大祓に茅の輪をくぐり半年の罪穢れを祓い、夏以降の疫病や罪穢れ除けを祈願します。
茅の輪のくぐり方
 ①最初茅の輪を左にまわります
 ②次に茅の輪を右にまわります
 ③最後に茅の輪を左にまわります
 ④そのまま正面にお進みください

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