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杉山神社を巡る-Part2 上山口杉山神社

 今日は午後から、葉山町上山口の杉山神社を訪ねてみました。拝殿に向かって左側の神木はイチョウですが、右側にはスギの神木が生えていて、杉山の名に恥じない風格が感じられます。
この神社は杉山神社考(復刻版)の付図に『49』として記載されています。しかしながら、この図は復刻の際に付されたもので、オリジナル版、つまり本文には記載がありません。新編相模風土記稿に基づく現地の由緒書きからも、旧武蔵の国の杉山神社を勧請したものでないことは明らかです。
 由緒書きには、境内社は稲荷社となっていますが、お社を覗くと大山祇之命も祀られていました。


杉山神社
一.祭神 大国主命
一.元宮 是より南方四〇〇メートル程の山中にあり
一.創建 年代不詳
一.明治六年 指定村社
一.明治八年 杉宮大明神を杉山神社と改める
一.大正三年 神饌幣帛料共進神社指定
   由緒
 新編相模風土記稿に、杉宮村の鎮守なり、祭神詳ならず、昔、土人神像を海中より得たり、折しも除日(十二月末日)のことにて、歳終繁劇の間、杉葉を集めて仮に社の形をなして鎮座す、故にこの神号起これりと伝ふ。
一.稲荷社
一.祭神 食稲魂命(うがのみたまのみこと)
      平成十八年三月
        杉山神社氏子会
        寄贈 大串義孝


新編相模國風土記稿 巻之百十
 村里部
  三浦郡巻之四
   衣笠庄
    上山口村
杉宮 村ノ鎮守ナリ祭神詳ナラス昔土人神像ヲ海中ヨリ得タリ折シモ除日ノ事ニテ歳終繁劇ノ間杉葉ヲ聚メ假二社ノ形ヲナシテ鎮座ス故二此神號起レリト伝フ例祭九月十七日村持下同シ
 末社 稻荷


【文献】
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.
 蘆田伊人編集校閲(1985)新編相模風土記稿第五巻、443p.
 葉山町(2015)葉山町の歴史とくらし、294p.
 片山義雄(2009)上山口の鎮守杉山神社考、郷土誌葉山、第6号、38p.


 以下は、本日撮影のその他の写真です。

【日月神社】


 こじんまりとしたお社ですが、独立社で、恐らく三浦半島で唯一と思われます。祭神は『日月神』、ということは天之日津久命(あまのひつくのみこと)あるいは国之常立神(くにのとこたちのかみ)の様です。国之常立神といえば日本神話の根源神、ヒンドゥー教のブラフマー、仏教の梵天、ギリシャ神話ならカオスに相当する原初神です。
 鳥居とヒガンバナの赤色が印象的でした。


【須の宮神社】


 『須』の宮なので、祭神は須佐之男命ではないかと思われます。『葉山町の歴史とくらし』には「新沢の里の氏神様。病気快癒として建立したとの言伝えあり。」とだけ記載があります。詳細は未調査ですが、キツネが守っているので稲荷社が合祀されているようです。
 階段状の参道には、銀杏が沢山落ちていました。


【三島神社】


 『葉山町の歴史とくらし』によれば、祭神は大山祇之命です。境内社はふたつあり、向かって右側のお社は稲荷社の様です。本殿と左側のお社には、子産石と思われる丸い石が祀られていました。
 この神社の眷属はウナギであることから、かつてこの地区ではウナギを食さない習慣があったそうです。


【吾妻神社】


 滝の坂不動尊として知られる神社です。通常、吾妻神社の祭神は弟橘姫命であることが多い様ですが、ここでは日本武尊が祭神となっています。

吾妻神社(滝の坂不動)
 祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
 日本武尊が東征の途次こんこんと霊水が湧き出るこの地で休憩され走水から上総国へ向われたと伝えられている。
 本殿横の井よりかつては霊水が溢れていたが県道横須賀葉山線の工事に伴い水脈が変化して水位が下がってしまった。森山神社の[世計神事]にはこの霊水を汲み上げ持ち帰るお水取りから始まり持ち帰った水に麦麹を入れて神殿内に一年間納め翌年これを検し吉凶を占う。このように森山神社の[世計神事]と深い関わりがあり里人から崇められている。



【参考】
 キンモクセイ Osmanthus fragrans var. aurantiacus
 ハナシュクシャ Hedychium coronarium
 大田坂(おったざか)の道六神
 ノシラン Ophiopogon jaburan
 ツルボ Barnardia japonica
 ショウキズイセン Lycoris africana
 ツリガネニンジン Adenophora triphylla
 クズ Pueraria lobata
 ススキ Miscanthus sinensis
 キバナコスモス Cosmos sulphureus
 センニンソウ Clematis terniflora
 トネアザミ Cirsium nipponicum
 シラヤマギク Aster scaber
 ヒガンバナ Lycoris radiata
 ヤブラン Liriope muscari
 アキノノゲシ Lactuca indica
 ウルシ Toxicodendron vernicifluum
 ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii
 カナリアナス Solanum mammosum
 棚田/イネ Oryza sativa
 シロバナサクラタデ Persicaria japonica
 正吟の庚申塔群
 アオチカラシバ Pennisetum alopecuroides forma viridescens
 シオン Aster tataricus
 マンリョウ Ardisia crenata
 キキョウ Platycodon grandiflorus
 ヒヨドリバナ Eupatorium makinoi
 一色の庚申塔群
 夜泣石
 オオホシカメムシ Physopelta gutta

KIRIN生麦工場を見学

 夏休み最終日の本日(9/22)、予約しておいたキリンのビール工場を家内と尋ねました。一番搾りの製造工程を見せていただいた後、試飲もできるというイベントで、一番搾り麦汁と二番絞り麦汁の違いを自分の舌で確かめることができました。普段目にすることの少ない一番搾りプレミアムは、確かに一味違いました。


 敷地内には、工場だけでなく、研究所、レストラン、ビオトープなどもありました。隣接して生麦事件の碑もありました。

【参考】
 工場前
 大麦(Hordeum vulgare)とホップ(Humulus lupulus)
 麦汁処理槽
 一番麦汁(左)と二番麦汁(右)
 (新)一番搾り
 一番搾りプレミアム
 敷地内の庭園
 アメリカデイゴ Erythrina crista-galli
 ハナセンナ Cassia corymbosa
 ルコウソウ Ipomoea quamoclit
 クレオメ Cleome hassleriana
 シュウメイギク Anemone hupehensis
 生麦事件の碑
 原神明社(生麦神明社)
 稲荷社
 横浜スーパーファクトリー
 おきなわ物産センター
 麦の家2号店

舊跡
 文久二年(1862年)壬戌八月二十一日英國人力査遜
殞命于此處乃鶴見人黒川莊三所有之地也
莊三乞余誌其事因為之歌々曰
君流血兮比海壖我邦変進亦其源藩起兮
王室振耳目新兮唱民權擾々生死疇知聞萬
國有史君名傳我今作歌勒貞珉君其笑于
九原
明治十六年十二月  敬宇中村正直撰


【原神明社/稲荷社】
『蛇も蚊も』の神事で知られる生麦神明社です。武蔵風土記稿には、『神明社字原ニアリ海道ノ北ノ方二十四間程引込テアリ鎮座ノ年代詳ナラズ』『末社稻荷社社ニ向テ右ニアリ小祠ナリ』と記載があります。

横浜市指定無形文化財
 蛇も蚊も
  平成四年十一月一日 指定
 行事の日 六月第一日曜日
 保存団体 生麦蛇も蚊も保存会
 蛇も蚊もは、約三〇〇年前に悪疫が流行した時に、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられています。この行事は、端午の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の六月六日になり、近年は六月の第一日曜日に行われるようになっています。
 萱で作った長大な蛇体を若者・子どもがかついで「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と大声で唱えながら町内をかついで回ります。もとは原と本宮で一体づつ作り、本宮のものが雄蛇だといって、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していましたが、現在は、両社別々の行事となっています。
 平成五年三月
             横浜市教育委員会

杉山神社を巡る-Part1 南部11社

 杉山神社は、現横浜市を中心とした旧武蔵國内に広く分布する神社で、武蔵國風土記には72座が記載されています(戸倉、1978)。その所在地をプロットしてみると南部のクラスタが見えてきます。それらは、帷子川、大岡川に沿って分布しており、11座を数えます。今日は、その11社を廻ってきました。
 その名称と川に近い立地から杉の御神木に出遭うことを予期しましたが、御神木といえるほどの杉は見かけませんでした。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 川島杉山神社:(25)保土ケ谷区川島町896
 上星川杉山神社:(24)保土ケ谷区上星川2丁目12-11
 仏向杉山社:(29)保土ケ谷区仏向町237
 和田杉山神社:(28)保土ケ谷和田町1-10の4
 星川杉山神社:(26)保土ケ谷区星川1丁目19-1
 西久保杉山社:(27)保土ケ谷区西久保町118
 戸部杉山神社:(38)西区中央1丁目13-1
 水天宮/太田杉山神社:(34)南区南太田2丁目2−7−29
 蒔田杉山神社:(35)南区宮元町3丁目48
 子神社:南区堀ノ内町2丁目134
 岡村天満宮:磯子区岡村2丁目13-11


【川島杉山神社】(25)保土ケ谷区川島町896
 天文年間に北条氏康が創建したと伝えられるそうです。境内社として杉山稲荷神社が鎮座していました。

川島杉山神社とは?
 天文年間(1532-1555)、上杉友定との戦の時、北条氏康がこの地に陣を張った夜、日本武尊の東征の夢を見て、その加護により必ず勝てると、祠を建てて武運を祈ったといわれています。戦に勝利した後は、ただちに社殿を新築し、除地(年貢を免除された土地)一反歩(約992㎡)を与えて恩返ししたと伝えられています。
 また、氏康は領民をいたわる気持ちが強く、長い戦乱による住民の困窮を救うために植林を奨励し、植林の祖神である、五十猛尊を合わせて祀ったと伝えられています。明治6年、村社に指定されました。現社殿は昭和30年5月の造営です。


【上星川杉山神社】(24)保土ケ谷区上星川2丁目12-11
 国道16号線杉山神社交差点近くの杉山神社です。


【仏向杉山社】(29)保土ケ谷区仏向町237
 祭神は五十猛尊、境内社は神明社と稲荷社とのことです。


【和田杉山神社】(28)保土ケ谷和田町1-10の4
 和田の村社、境内社は神明社の様です。


【星川杉山神社】(26)保土ケ谷区星川1丁目19-1
 由緒書によれば、式内社「杉山社」を名乗っているようですし、本日廻った杉山社の中では最も立派な造ではありましたが、戸倉(1956)は根拠に乏しいとしています。延喜式神名帳を参照すると『都筑郡一座 小 杉山神社』となっているので、旧都筑郡の区域からは外れている当社が式内社である可能性は低いと考えられます。

◎杉山神社の御祭神
 日本武尊(やまとたけるのみこと)
 国土平定の第一人者、日本武尊は第十二代景行天皇の第一子としてお生まれになり、敵方から日本一強いと尊称され、草薙剱(くさなぎのつるぎ)も一段と冴えわたり、たちまち東国を一蹴しました。
◎御例祭-九月十九日[杉山まつり]
 例祭日は九月の十九日を中心として、第二週または第三週の土・日曜日に行われます
 当日は、本殿での祭儀に引続き神輿の渡御があり、境内では献画展や奉納行事などが催されます。
 また、参道には露店など数多く並び、秋まつりにふさわしい神賑わいを見せております。
◎杉山神社のいわれ
 東にはるか上総の山々、西に霊峰富士をのぞむ丘に鎮まります当社が初めて国史上にあらわれるのは、『続日本紀』です。その承和五年(八三八年)の二月の条に「武蔵国都築郡枌(杉)山神」が霊験あらたかなるをもって官社に列せられたとあり、同十五年(八四八年)五月の条には「武蔵国旡位(むい)枌(杉)山神」が従五位下を奉授されたとあります。
 さらに降って、『江戸名所図会』に「新町より八町あまり北の方下星川村にあり、延喜式内(えんぎしきない)の神社にして云々」とあるように「延喜式」神明帳に武蔵国四十四座の中に「都筑一座(小社)」と記載されており、多摩川以南、都筑・橘樹・久良岐三郡において唯一の式内社との伝承が古くより語り継がれております。
 御祭神日本武尊は、三種の神器草薙剱の神話にもあるように強い意志と決断力の御神格があり、この剱が知恵のことをあらわすことから出世・開運祈願・厄除および商売繁盛・縁結び・交通安全・金運に恵まれるとの御神徳が伝えられ、人々は幾世代にわたりその御神助を祈ってまいりました。
◎御神紋の三本杉
 古来より、神の御心は、神託(しんたく)神符(しんぷ)などで人々に伝えられておりましたが、やがて神の御心は具体的に形でも伝えられるようになりました。それが神紋といわれるものです。
 当社の神紋は、社名の通り天に高くそびえる杉の紋で、三本杉はうっそうとした神聖な森を表しております。
 特に、杉の枝は安産の御守りや魔除けにされたほか、杉の脂は火傷や吹出物などの塗り薬に使用され、杉の樹木そのものは、屋敷の宅神、商売繁盛の福の神として広く信仰されております。
 また、屋久杉・神代杉に見られるように長寿のシンボルとして樹木の崇拝の中心的存在であり、全国的に見ても杉を神木とする神社が数多くあります。


【西久保杉山社】(27)保土ケ谷区西久保町118
 帷子川水系今井川から近くの国道16号線沿いに鎮座する杉山社です。境内社に塩田稲荷社があるほか、境内には、庚申塔、道祖神、堅牢地神塔なと石塔が多数ありました。


【戸部杉山神社】(38)西区中央1丁目13-1
 帷子川水系石崎川近くの社で西区では唯一の杉山神社です。扁額によれば、この社も式内社を名乗っているようですが、文献から見る限り当社が式内社である可能性は極めて低いと思われます。ここの神社には狛犬のほかに狛鼠もいました。御神木はケヤキです。

戸部杉山神社由緒
 御祭神 大己貴神
 当神社ハ白鳳三年弥生二十日出雲大社ノ御分霊ヲ勧請ス・武相ノ地杉山神社多キモ延喜式内ノ杉山神社ハ当社ナリト云傳フ。当神社ノ効顕ノ著シキヲ以テ各近隣二杉山社ノ名稱多クナレリトモ云フ。古くヨリ武藏國戸部村ノ鎮守ニシテ当地開拓ノ祖神ナリ。歴代ノ國主地頭代官等ノ尊信甚ダ厚ク幕府ヨリハ御朱印ヲ附與シアリ。御祭神ハ天孫降臨以前二己二國土開拓経営二威霊ヲ発揮セラレ給フ。即チ日本最初ノ神社祭神ナリ。貧賤病弱ヲ救癒シ産業ヲ授ケテ富益ヲ増シ醫藥ノ道ヲ興シテ氏族ノ繁栄ノ基ヲ計リ剣争ヲ用ヒズシテ温和ノ中二諸事泰平ノ國本ヲ培養セラレ國治家齊ノ法ヲ授ケ給フ。智謀悟道ノ祖ヲ開き國利民福を念トシ自ヲ苦反シ以テ他ヲ憐ミ給フ。即チ当地開拓ノ先哲達人先ズ此ノ大神ヲ奉祀シ鎮護祈願センタメ勧請セシナリ。
       昭和丙辰年(1976年)弥生二十日  奉納学校法人石川学園理事長 石川和平

※白鳳は私年号のため西暦年は不詳です。白鳳=白雉との説を取れば、西暦652年となるので、当社が式内社である可能性もありそうですが、当地は旧久良岐郡地域ですので、まずその可能性はなさそうです。


【水天宮/太田杉山神社】(34)南区南太田2丁目2−7−29
 横濱水天宮として知られるこの神社が、水天宮と太田杉山神社が合祀されたことは扁額からも窺い知ることができます。


【蒔田杉山神社】(35)南区宮元町3丁目48
 蒔田駅近くの杉山神社境内には、幼稚園が設置されており、昼間は立ち入ることができませんでした。夜間は参拝可能とのことでした。祭神は、市杵島姫命、天照皇大神、宇賀御魂命の三柱です。


【子神社】南区堀ノ内町2丁目134
 南区堀ノ内町の鎮守子神社です。『南区の歴史』によれば、『字柿ヶ谷に鎮座した杉山神社の社殿を移して拝殿にしたとの記述があります。その拝殿も老朽化が進んだため2020年に建て替えの予定だそうです。倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が、合祀前の柿ヶ谷杉山神社の御神体と思われます。

鎮座地 横浜市南区堀ノ内町2-134番地
御祭神 大国主命・倉稲魂命
御神徳 産業加護・医薬・縁結びの神
由緒 昭和20年4月15日戦災により全焼して創立何月日不明なるも古老言によれば………、起源は磯子区岡村の三殿台の山続きであること等により古墳時代と推定される。何時の頃から江戸時代までは室生寺別当が兼帯したが明治16年2月村社に列せられる。戦後宗教法人となり昭和28年に氏子中の協力により本殿・社務所・神楽殿が復興して今日に至る。例祭日 毎年8月25日・26日頃
御神木 いちょう 樹齢約500年余
※地鎮祭・初宮等各種祈祷お受け致します。
    子之神社 社務所


【岡村天満宮】磯子区岡村2丁目13-11

岡村天満宮
 「岡村の天神さま」として、土地の人々から親しまれてきました岡村天満宮の創立年代は不詳ですが、縁起によると鎌倉時代の建久年間(1190~1198)に源頼朝の家臣が京都の北野天満宮の分霊をいただいて、この地に社を創建したといいます。明治43年、杉山神社と大神宮を合祀して、杉山天満宮と称するようになりましたが、昭和5年、永らく親しまれてきた町名をとって、岡村天満宮と改称しました。
 大正期には、元町薬師、野毛山不動とともに三大縁日としてにぎわいました。境内には、「撫でれば患部の苦痛が除かれる。」という石の牛像を始め筆塚、針塚などや、大正の頃ハマッ子に親しまれた大阪役者「市川荒二郎」らの寄進した石灯篭もみられます。
 また、この神社ゆかりの横浜人形「西瓜天神」や絵馬は特色のあるものです。
                 社団法人 横浜国際観光協会
                 横浜市教育委員会文化財課
                        平成2年3月
社殿御造営記念
 當社ハ鎌倉時代建久年間二京都北野天満宮ノ御分靈コイタダキテ創建サレ以来七百年御霊験極メテ高ク関東一圓ハモトヨリ遠ク関西ニマデ廣ク信仰ヲ集メタリ明治四十三年同町鎮座ノ天照皇大神ト杉山神社ノ二社ヲ合祀シテ杉山天満宮ト稱セシガ其ノ後昭和五年町名ヲ入レテ岡村天満宮ト改稱シ今日二到レリ旧社殿、木造茅葺ノユカシキ形容ニテ崇敬者二親シマレシガ最近各所ガ老朽化セシ為昭和四十六年宮總代会ノ議ヲ經テ社殿御造營ヲ決シ昭和四十九年二月起工同年九月上棟シ昭和五十年五月竣工セリ。旧社殿ハ御内殿ハ祖霊殿トシ本殿左側二奉斉セリ。御造營二當リ氏子各位並ビニ一般崇敬者ノ御奉賛ヲ仰ギシガ碑面ノ限度二依リ記名ハ高額者ノミニ留メタリ。
 昭和五十年五月吉日健之   宮司杉原敏之撰 瑞邨謹書㊞


【文献】
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.
 皇典講究所(1929)延喜式巻第九、延喜式:校訂.上巻、p.314、参照http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442211/192
 南区の歴史発刊実行委員会(1976)南区の歴史、650p.


【杉山稲荷神社】
 川島杉山神社の境内社と思われます。


【蔵王高根神社】保土ケ谷区坂本町140
 明治43年から昭和24年まで仏向杉山社に合祀されていたという蔵王社と高根社の二社がこの神社に祀られているそうです。境内社は稲荷神社と思われます。


【伏見稲荷社】
 星川杉山神社の境内社です。


◎境内神社-伏見稲荷社
●御祭神
 本社と同一境内に鎮座する伏見稲荷社の御祭神、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)の「うか」「うけ」は古く食物を意味する言葉で、また稲荷は「稲生り」「稲成り」の意味で神像が稲を担っているところから「稲荷」の字があてられたといわれています。
 稲荷の神はもともと農業の神ですが、米一粒が何倍にも殖えるように、広く殖産の神として商売繁盛の福の神はもとより諸産業の守護神として、あらゆる職業の人から信仰されています。
●御神徳
 商売繁盛・家内安全・交通安全・災難除・子孫繁栄また。学業成就・芸能上達などです。


【神戸下町神明社】保土ヶ谷区神戸町107
 970年(天禄元年)創建と伝えられる神戸(ごうど)に鎮座する神明社です。本社天照太神宮(祭神:天照大御神)、摂社豊受大神宮(祭神:豊受大御神)をはじめとして境内社が11社あるそうです。


神明社御由緒(旧伊勢神宮領榛谷御厨総鎮守)
 今から一千年以上昔、保土ヶ谷の地が榛谷(はんがや)と呼ばれていた平安時代の中頃、天禄(てんろく)元年(970)当社の御祭神・伊勢の天照大御神が、武州御厨(みくりや)の庄の内、榛谷の峯に影向(ようごう)し、それから川井、二俣川、下保土ヶ谷の宮林へと三遷の後、嘉禄(かろく)元年(1225)神託があって、神明の下宮を建て、当地を神戸(ごうど)と号し、神宮寺を満福寺と名付け、経蔵堂を神照寺と称したという。これにより榛谷御厨八郷の総鎮守として広大な社領を免ぜられ、宮司以下数十人の禰宜(ねぎ)社人(しゃにん)供僧(ぐそう)・巫女が仕え、年に七十五度の祭祀(さいし)を営み隆盛を極めたという。
 その後、戦乱の時代に一時衰退したが、天正十八年(1590)徳川氏入国の時、社殿の造営が行われ、四石一斗の御朱印地(ごしゅいんち)安堵(あんど)された。また元和五年(1619)宮居(みやい)を神戸山々頂から現在の場所に遷し、社殿の造営や境内の整備が行われた。
 明治2年の修営には、明治天皇御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てられた鳳輦(ほうれん)安置所の御用材を下賜された。明治6年村社に列せられ、神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進(ぐしん)の神社に指定された。

 平成十年十月、鎮座一〇三〇年祭・当地遷座七七〇年祭・伊勢神宮鎮座二〇〇〇年祭を記念して「平成の大造営」が行われ、三八〇年ぶりに御本社・摂末社・神楽殿等総ての境内建物十二棟が一新された。平成十二年四月、神奈川県神社庁献幣使(けんぺいし)参向(さんこう)神社に指定された。

   ※御厨(みくりや)伊勢神宮直轄の神領地
   ※影向(ようごう)神様が現れること
   ※鳳輦(ほうれん)天皇陛下の御車

 御祭神は、天照大神
 社殿建築様式は、本殿・拝殿とも神明造り
 例大祭は、八月第四日曜日、及び六月十六日 九月十六日
 氏子区域は、十六町、四十五自治会・町内会
  狩場町、権太坂、境木本町、境木町、藤塚町、法泉、初音ヶ丘、岩崎町、霞台、保土ヶ谷町、月見台、帷子町、桜ケ丘、天王町一部、岩間町、神戸町(約二万世帯)
 社有地は、境内・風致林あわせて、約六千坪
                                社務所


【庚申堂】

庚申堂改修再建趣旨
 吾が神戸下町神明社前ノ庚申堂ハ元禄七年當時ノ當町有志各位ノ奉仕ニヨリ建立セラレタルモノニシテ風雨星霜二百四十余年幾度カノ天災其他ニヨリテ毀損セラレタルコトアルモ其都度有信家各位ノ精進ニヨリテ兎モ角原体を維持シテ今日二逗モ誰ガ供ヘルトナク常二香煙ヲ絶タザルモ本年九月七日夜半偶々一不德運轉手ノ車輪ニカゝリ大毀損ヲ招キタリ標而之ヲ椅縁トシテ有志相計リ尊体ヲ修理シ小堂ヲ再建シテ温故知新ノタヨリトナスト共二以テ交通ノ安全ヲ謀リ併而以テ町内ノ康寧ト福趾ノ増進ヲ祈ル所以ナリ矣
 維持昭和十一年十月五日誌之


【塩田稲荷社】
 西久保杉山神社の境内社です。


【稲荷社】
 蒔田の森公園のすぐ隣の谷戸に鎮座する稲荷社です。


【蒔田の森公園】
 谷戸を利用した居心地の良い公園です。


蒔田(まいた)の森公園
 平成九年、森正勝氏から、庭園、林等、約7,000㎡の土地を横浜市に寄付されました。横浜市では、この貴重な緑を保全して次世代に残すため蒔田の森公園として整備しました。
寄贈 ふるさとの動物たち
 キツネ・タヌキ・イタチ・サル
 横浜ニューポートライオンズクラブ設立30周年記念
 2000・10・14


【白笹稲荷大明神】
 岡村天満宮の境内社です。


稲荷社について
 御祭神は白笹稲荷大明神様
商売繁盛を守護する神であり人間生活に欠く事の出来ない、衣、食、住を司る神である。着る事、食べる事、住むことは大地の恵みを受けることに他ならない。
 太陽の恵み(天の恵み)に対する地の恵みであり、本来は稲(命根(いね))を初め五穀の豊饒を司る「大地の恵み」を象徴する神であり人間の実生活に対して霊験あらたかな神である。
   平成元年 岡村天満宮 宮司


 以下、本日撮影のその他の写真です。


【参考】
 モンキアゲハ Papilio helenus
 (昔日の)西谷駅
 オオブタクサ Ambrosia trifida
 ヤクシソウ Youngia denticulata
 東海道新幹線
 和田町商店街
 帷子川土手
 ヒヨドリバナ Eupatorium chinense
 ヤマジノホトトギス Tricyrtis affinis
 キバナコスモス Cosmos sulphureus
 アゲハ Papilio xuthus
 グリーンロード藤棚

【本日の主な経路】
 相鉄線西谷駅-川島杉山神社-上星川杉山神社-蔵王高根神社-仏向杉山社-相鉄線和田町駅-和田杉山神社-星川杉山神社-神戸(ごうど)神明社-西久保杉山社-グリーンロード藤棚-戸部杉山神社-横浜市中央図書館-京急線日ノ出町駅-水天宮/太田杉山神社-蒔田杉山神社-子神社-岡村天満宮-京急上大岡駅

初めて猿島へ

 本日、やっと取れた夏休み初日。家内と東京湾唯一の自然島である猿島へ渡ってみました。第二海堡に上がっていた黒煙は、防災訓練なのだそうです。


【参考】
 記念艦『三笠』
 クラフトビール『SARUSHIMA 無人島
 横須賀中央公園
 兵舎跡
 煉瓦造りのトンネル
 トンネルからトンネルへ
 砲台跡
 ヒヨドリジョウゴ Solanum lyratum
 日蓮洞窟
 日蓮洞窟より
 米軍横須賀基地
 第二海堡
 発電所跡
 カラスアゲハ Papilio bianor dehaanii
 猿島航路就航船『シーフレンドZero』
 桟橋
 三笠公園

台風一過の大宮で

 北海道に再上陸中の台風18号(タリム)、当初の予測より西側を通過していった関東での被害は大したことなく済みました。家内と二人で尋ねた大宮公園では、ヒガンバナが見頃を迎えていました。


【参考】
 こりすのトトちゃん(大宮駅東口)
 シーサー(実家で)
 ヒガンバナ Lycoris radiata
 クロアゲハ Papilio protenor
 アカシデ Carpinus laxiflora


アカシデ カバノキ科
 アカシデは樹高10~15mになる落葉高木で、北海道南部から九州、朝鮮半島に分布しています。低地から丘陵地の雑木林に生育し、樹皮は灰白色で滑らかですが、幹は肥大成長が均等に行われないため凹凸ができ、老木になると太い脈状の出入りが多くなります。名前の由来は、花穂の垂れ下がる様子が注連縄(しめなわ)に垂れ下がる紙(しで)に似て、新芽が赤いことによります。床柱、家具などに利用される他、盆栽界ではイヌシデとともにソロの名で親しまれています。
 このアカシデの木の樹齢は定かではありませんが、優に百年は超えていると推定され、大宮公園開園以来の歴史を見守り続けてきた木のひとつです。
  平成二十年九月
       埼玉県大宮公園事務所

金沢区の神社(20170916)

 台風18号 (タリム)の影響もあって、朝から雨降りとなった本日、近場の神社を巡ってみました。


【諏訪大明神(日光大権現)】
 ヨークマート六浦店のすぐ裏に鎮座する諏訪神社です。拝殿内の扁額によれば、日光大権現も合祀されているようです。


【洲崎神社(天王社)】
 長浜の鎮守であった大六天社に由来し、その後日枝神社、稲荷神社2社、十二天社を合祀したと伝えられる洲崎神社です。境内社には天王社、また隣の地足山龍華寺側には獅子殿があります。


【町屋神社】
 旧名は牛頭天王社で、洲崎神社境内の天王社が御旅所となっています。


【金澤八幡神社】
 新版かねざわの歴史事典によれば、『寺前八幡神社』となっており、創建は鎌倉時代と伝えられ、寺前一、二丁目と金沢町の鎮守社です。本殿の裏には榧の木が2本ありました。


【稲荷社】
 金澤八幡神社の境内社です。


【子聖大権現】
 称名寺近くの子の権現社です。新編武蔵風土記稿には『子權現社(除地)字中ゾウショニアリ小社ニテ七尺ノ覆屋ヲ造レリコレモ藥王寺ノ持』とありますので、小さいながら文化文政期(1804-29年)以前からこの地を見守っていたことがわかります。


【君ヶ崎神社】
 新版かねざわの歴史事典によれば、『君ヶ崎稲荷』となっている稲荷神社です。拝殿の屋根瓦のキツネは微笑んでいるように見えました。


 今日は、雨振りの一日でしたので、その他撮影した写真は少しでした。


【参考】
 夕照祭(一日目)
 アワ Setaria italica
 ヒガンバナ Lycoris radiata
 嶺松寺念仏供養塔跡
 カヤ Torreya nucifera


洲崎神社略誌
村社 洲崎神社略誌
祭神 誉田別命(ハンダワケノミコト)
配神 大山咋命(オオヤマクイノミコト) 倉稲魂命(ウカノミタマノミコト) 大田命(オオタノコミト) 磐長比売命(イワナガヒメノミコト) 第六天神
由緒
 当社は元富岡村と柴村の間に長浜と字せるところあり、現今は野口記念館のある所にして昔時は十八町(約2km)も海に突出し、今に長浜千軒と口碑に残れる程にて人家稠密し殷賑を極めしが、応長元年(一三一一年)激浪の為洗い滅ぼされし住民の一部本村に移住す。依って産土神たる鎮守大六天社も同時に此処に移し造営す。
 現今の社は天保九年1838年六月十二日の再建にして、明治維新の際、神仏混交を廃せられ洲崎神社と改称す。而して社の鎮守地は他の神社と異なり古き頃より、家津良町道路の真ん中にあり、誠に珍しかりしが明治三十七年二月九日横浜金沢間道路改修に付き現場に移転す。
 明治四十年十二月県の訓令第四十九号により四十一年十一月境内の拡張をし明治四十二年五月拝殿を増築し社殿完成す。明治四十三年八月十五日本村泥亀鎮座村社日枝神社(祭神大山咋命)同社末社稲荷社二社(祭神一社、倉稲魂命、一社、大田命) 合併許可八月三十日処分済み成る。
大正三年二月二十四日同泥亀姫小島無格社十二天社(祭神磐長比売命)を合併許可三月十日処分済み成る。
対象十年十二月十六日神奈川県告示第三七三号を以て神饌幣帛料供進社列させられる。

天王社 祭神 健速須佐之男命(タケハヤスサノオトミコト)
由緒
 元は町屋村と共同催事を行い来たりしが為、洲崎龍華寺前天王河岸に地を卜して旅所となし小社をおけり、1809年文化六年四月両村協議の上牛頭天皇を二社に分かつ、1817年文化十四年正月旧引摂院の境内の一部を、天王地と定めて此処に移転造営す、現今の社なり。
氏子地区 金沢村洲崎(現今の洲崎、平潟、乙舳区域である)


獅子の由来
 此の雄獅子、雌獅子は今から百六十年前の嘉永二年(一八四九年)六月に、時の彫刻師後藤利兵衛によって、製作されたもので、洲崎部落の秘蔵品として大切に保管されました。
 制作方法は下地を布で固め、その上にウルシを三べん塗って、唇、耳、鼻、下は朱色で、その他は緊迫を張り目玉は真鍮メッキで仕上げました。
 大きさは(縦、横、高さ)三尺(九〇センチ)でした。
 費用は当時の金で二十両三分かかったそうですが、此の費用は部落の人たちから調達したのでしょう。当時の戸数は九六軒で人口は三五六人でした。
 此の獅子は太平洋戦争以前には、年に一度の祭礼に、若衆四人によって担がれ、雄獅子、雌獅子一対になって、町内を厄除けのために廻りました。
 はやり病(ハシカ)等の子供さんは、お獅子の口を開け二、三回噛まれる形にしていただきますと、不思議にも早く良くなり、町内の守り神様としても多くの方々から尊信されておりました。
 平成四年に再修理がなされ現在に至っております。
                  平成二十年五月吉日


金沢区の稲荷社等を巡る

 今日も近場で神社巡り。この地域でも小さいお社は稲荷社が多い様です。

【上行寺東遺跡隣の神社】
 以前から存在には気づいていましたが、由緒等不明です。境内社には狐がいるので稲荷社と思われます。


【上行寺東遺跡上の神社】
 これも由緒等不明です。


【西森稲荷大明神】
 金沢八景駅の裏山(御伊勢山)にある稲荷神社です。名称は金沢八景駅のすぐ隣にある権現山の西側にあたる御伊勢山の森に鎮座する稲荷神社という意味と思われます。


【赤井稲荷】
 金沢七井の一つ赤井からほど近い稲荷社です。


【稲荷神社】(谷津町283-1)
 鎌倉アルプスの入り口付近に鎮座する稲荷社です。


 以下、本日撮影の写真です。

【参考】
 石敢當
 キツリフネ Impatiens noli-tangere
 ハナシュクシャ Hedychium coronarium
 蜘蛛の巣
 ヒガンバナ Lycoris radiata
 オキナワスズメウリ Diplocyclos palmatus
 手子神社

旧浦郷村周辺のお社、など

 今日は、近くの神社を中心に廻ってみました。
【おしんめ様】
 追浜駅から最も近いお社はこちらになります。遠野物語には『オシラサマ』として記載されている家の神様ですが、この追浜本町のおしんめ様の由緒は不明です。


【横浜創学館高等学校】


校訓
 勤労愛好の習慣を養う
 強靭な身体を作る為に普段の鍛錬を行なう
 春のような心で人と協和する
 堅忍持久敢て屈しない不動の精神を養う
          中村㐂一郎謹書


【弁天社】(野島)


 弁天社
御祭神 市杵嶋姫命
子守の神様・子どもの守護神をお祀りしているお宮です。
御神徳 安産祈願


【野島稲荷神社】


野島稲荷神社由来
鎮座地 横浜市金沢区野島町二十三ノ一
祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
合祀神 大照皇大神(あまてらすおおみかみ)、菅原道真公、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)誉田別命(ほむたわけのみこと)天児屋根命(あめのこやねのみこと)須佐之男命(すさのおのみこと)
境内社 神明社、船玉社、秋葉神社、金毘羅神社、天満宮、皇大神宮
神事と芸能 元旦祭一月一日、賽の神一月十四日、稲荷祭二月初午日、夏大祭七月吉日、汐祭九月一日、霜月祭十一月二十三日
社殿 相之間造、本殿流造、幣殿両下造、拝殿入母屋造、銅板葺
由緒沿革
 金沢八景の一つ野島の夕照で知られる野島山南側山裾に鎮座する稲荷神社(正一位稲荷大明神)は豊川稲荷、笠間稲荷、伏見稲荷の日本三大稲荷の中の伏見稲荷の系統です。
 この神社は野島町の総鎮守で倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)をおまつりしています。野島神社は安貞元年一二二七年今から約七百七十年の昔、鎌倉時代に阿波守長島維忠の発願により造立したものと伝えられています
 また、土地の古老によれば万治年間(一六五八~一六六〇年)野島浦の南端に紀州大納言徳川頼宜公の別邸があり、これを塩風呂御殿と称したということです。
 稲荷神社はちょうど塩風呂御殿の東北の方向にあり、そのたる鬼門の守り神として頼宜公の厚い尊信を受け社殿造営にも力を尽くしたということです。
  平成十四年五月吉日 氏子総代


手水舎
神社のおりに際して身を清める所
本手水舎は平成十四年に豊洲の稲荷神社(伏見稲荷)より譲り受け遷移したものです。
移設・建築にあたっては当時の氏子衆が手作りで行いました。


【船玉社】(野島稲荷神社境内社)


 船玉社
御祭神 猿田彦命(さるたひこのみこと)天烏船命(あめのとりふねのみこと)
 船の守護神である船魂を航路往来の守護神として祀られているお宮です。
御神徳 航海安全、豊漁祈願


【大神宮】(野島稲荷神社境内社)


 大神宮
御祭神 大照皇大神(あまてらすおおみかみ)
    天手男神(あまのたじからおのかみ)
    萬幡豊秋津師姫神(よろずはたとよあきつしひめのかみ)
伊勢神宮より御分霊を賜り奉祀されているお宮です。
御神徳 国家鎮護・家内安全・運動上達・縁結・子宝(女性の守り神様)


【天神社】(野島稲荷神社境内社)


 天神社
御祭神 菅原道真公
天満宮とも称され学問の神とし祀られているお宮です。
御神徳 学業成就・合格祈願


【立石稲荷大明神】
 追浜南町では唯一のお社です。


【豊海稲荷】
 稲荷谷戸に鎮座する追浜東町唯一の神社です。火災により焼失した雷神社別当寺の慶蔵院(けぞういん)の銘がある水盤が残されています。


正一位豊海稲荷大明神安鎮之事
右雖為本宮之奥秘依
格別願望小祀式修
封之嚴璽令授與焉
祭祀慎之莫怠也
  本宮
安永年七年十一月豊日正五位下摂津守行
              荷田宿袮信邦
  相州三浦郡浦之郷村
     惣村中
     氏子中
江戸本町壹町目
   取次池永宗右衛門殿


慶蔵院(けぞういん)について
 追浜古賀志町3丁目42番地の豊海稲荷社石段下にある浄水盤に、慶蔵院の名が刻んである。慶蔵院は雷神社の旧名雷電社(寛政10年-1798 瀬戸神社の古文書では雷電大明神とある)の別当寺であったという。
 新編相模風土記稿(天保5年-1834)浦ノ郷村の項には次のように記されている。
 「慶蔵院 本山修験<小田原駅玉滝坊霞下>正本山と号す、古は武州金沢にあり、今六浦米倉丹後守陣屋前の小橋をけそういん橋と云、是其旧跡なり、元禄九年此地に移る、本尊不動を置く、」
「薬師堂 慶蔵院持、天神を相殿とす、元は字天神が崎に社あり、破壊の後爰に移す、」「稲荷社 慶蔵院持」

 慶蔵院では雨乞をした記録がある。嘉永6年-1853 7月雨乞祈祷したが、霊験なく雨は降らなかったという古文書である。(相州三浦郡金谷村 福本三郎家文書198–199頁 横須賀市内の各図書館にあり)

 「久々湿無之二付、浦郷村修験慶蔵院え五穀成就雨乞御祈祷今日より二夜二日被仰付き候間、此段村々二おゐて到承知小前えも不洩様可申聞候、尤、御礼□□候間、来ル五日より相渡候二付、村々申合受取罷出候様可到候。以上、
  丑七月 日     郡代所」
(大意)久しくお湿りがないので、浦郷村慶蔵院へ五穀成就の雨乞いを今日から二日二晩の祈祷を申し付けました。

「久々湿無付、先日浦郷村慶蔵院へ五穀成就雨乞御祈祷被仰付候所験無之二付、猶又関本最乗寺へ御祈祷御頼二相也候間、此段村々におゐて承知到、小前へも不洩様可申聞候、尤、明八日より御礼・御水為相渡候間。最寄村々申合請取可罷出候、以上、
  七月七日      郡代所
              鴨居村始め
              上山口村迄」
(大意)久しくお湿りがないので、浦郷村慶蔵院へ五穀成就の雨乞いを申し付けましたが、霊験がないので、更に関本最乗寺へ祈祷を頼みました。

 また、瀬戸神社の古文書にも慶蔵院に関する記録がある。(瀬戸神社社家佐野家所蔵文書=金沢文庫図書室にある『瀬戸神社』677-678頁)
 「寛政十一己未年(1799年)七月十六日に」浦郷村雷電大明神の御社に於いて雨乞御座候。拙者(瀬戸神社社家)慶蔵院両人にて相勤候処、神慮の御かんのふ有之、十七日の晩方より少々雨ふり日々廿日迄雨ふり申候」
「同年同月廿二日に浦郷村御地頭様より雷電え雨乞の御祈祷慶蔵院え仰付られ、中原村泉蔵院を慶蔵院方より相頼み、一七日の内御祈祷相勤候えども、一向雨ふり申さず候、誠に御地頭様よりの仰付けられ候儀に御座候は得重き儀に御座候、左様候えども雨ふり申さず候、尤雨迄の御札惣百姓五十四ヶ村惣名主方、お役所え罷出銘々頂戴仕候」
(大意)寛政11年7月16日に浦郷村雷電大明神のおやしろで雨乞いがあれました。瀬戸神社社家と慶蔵院が勤めましたところ、神様の思し召しにより17日の晩から少々雨が降り、20日まで雨が降りました。
 7月22日に浦郷村御地頭様より雷電社へ雨乞いの祈祷を慶蔵院へ仰せ付けられ、慶蔵院は中原村泉蔵院を頼んで7日間の祈祷を勤めましたが、少しも雨は降りませんでした。真人に御地頭様の仰せ付けは重大なことですが、雨は降りませんでした。


横須賀市追浜東町三丁目四二番地
豊海稲荷社の浄水盤
間口八五cm 奥行五一cm 高さ五〇cm
奉納
別當慶蔵院乗全代
當村願主惠比須屋七蔵
  石工小矢部村清蔵
天保六乙未歳四月吉日


【神明社】
 寛文十二年(1635年)創始と伝えられ、祭神は大照皇大神(あまてらすおおみかみ)。田浦町誌によれば、稲荷社(祭神:宇賀御魂命(うかのみたまのみこと))と酒ノ宮社(祭神:玉依媛命(たまよりひめのみこと))の二社が大正七年に合祀されたそうです。本殿の右奥には由来不明の境内社もあります。


敬神ノ司志神明社境内ノ荒涼セルヲ憂ヒ大正五年十月ヨリ櫻松樹ヲ植付ケ神地ノ尊厳ヲ保全セントシ爾来月々其費ヲ献スルヲ五星霜今ヤ神苑春花夏緑幽静ナルヲ以テ同志ノ初願玆二貫徹セリ依テ記念ノ碑ヲ建立ス
 大正十年七月一日 芳仙謹書㊞


【大国主社】
 グーグルマップでは深浦神社となっていますが、田浦町誌、新編相模風土記稿によれば、大国主社となっていますし、自称も『大国主社』です。平成27年度に実施された急傾斜地崩壊対策工事のため、北側の景観が失われました。
祭神 大巳貴命(おおあなむちのみこと)
合祀 亀島社(祭神:事代主命(ことしろぬしのみこと))


【稲荷神社】(浦郷町3丁目)
 文献では確認しておらず、古いものではなさそうですが、新鮮な油揚げが供えられていました。


【山中社】
 新編相模風土記稿にも山神社として記載があり、祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)です。境内社があるのですが、由緒は不明です。


【八王子神社】
 新編相模国風土記稿に「八王子權現社 慶長十一年勸請の棟札あり、牛頭天王を合祀す、」とあります。一方、田浦町誌には、稲荷社、諏訪社の境内社があることになっています。詳細は不明ですが、拝殿のすぐ右のお社には狐の使い魔が確認できますので、これが稲荷社と思われます。


【船越神社】
 熊野社と日枝神社の合祀により成立したことが、田浦町誌にも載っています。境内社については、今のところ不詳です。

船越神社
鎮座地 神奈川県横須賀市船越町一丁目十一番地
祭神 速玉之男命(はやたまのおのみこと)
   大山咋命(おおやまくいのみこと)
由緒沿革
 速玉之男命(熊野社)
当社は足利義満の頃の応安二年(一三六八年)十月九日に若山県新宮市の熊野速玉大社の祭神速玉之男命を船越の禅宗景徳寺境内に地主神として勧請したと伝えられている。
明治三年(一八七〇年)神仏分離令により神社と寺が国策で分離され現在地に遷宮した。明治十二年(一八七九年)九月十九日六浦瀬戸の米倉子爵の邸内社社殿を譲り受け移築して御霊を遷宮した。この社は神輿殿として現存している。
 大山咋命(日枝神社)
当社は東京都千代田区永田町の旧官幣大社日枝神社の大山咋命をこの船越に寛文年間(一六六一~一六七三年)に武州久良岐郡金澤の永島祐伯が船越を開拓したが、元禄十六年(一七〇三年)の震災店名六年(一七八六年)の洪水寛政三年(一七九一年)の津波でその都度荒廃し永島忠篤が祖先の偉業を継ぎ海辺に波除けを築堤し開拓の鎮護として突堤に社を建立し勧請した。
 昭和三年(一九二八年)十二月十八日に両者を合祀し昭和八年(一九三三年)十一月三日竣工して昭和九年(一九三四年)一月八日正式に船越神社に改称し承認された。
第二次世界大戦の後氏子崇敬者により護持され昭和二十八年(一九五三年)十二月一日神奈川県指令第三二一九号により宗教法人船越神社の承認を得て今日に及んでいる。
昭和五十八年(一九八三年)に遷宮五十周年を記念して社殿を改修再建して昭和六十年(一九八五年)二月二十一日に完成した。
   奉献 有限会社大前田建設
   平成十一年七月吉日 健之 和風謹書㊞

【文献】
 蘆田伊人編集(1985)村里部三浦郡巻之三浦ノ郷村、新編相模国風土記稿第五巻、234-237.
 田中作造・高橋真太監修(1928)田浦町誌(横須賀郷土資料叢書第3輯,1978年復刻版).
 沢田雅也(1987)追浜の史跡探訪,追浜地域文化振興懇話会.


その他、本日撮影の写真です。


【参考】
 ショウジョウソウ Euphorbia heterophylla
 ピンクノウゼンカズラ Podranea ricasoliana
 スズカケノキ Platanus orientalis
 鷹取山と落日

鎌倉の八雲神社、など

 鎌倉には八雲神社が4社あります。今日は、その4カ所を廻ってみました。祭神を同じくする八坂神社など、通りかかったお社も撮影しております。それで気づくことは、この地域にも稲荷社の多いことです。

西御門八雲社
 西御門自治会館と棟続きの小さなお社は、満光山来迎寺の隣にありました。御神木はタブノキです。


山ノ内八雲神社
 さほど大きくはないお社で由緒書きもみあたりませんでしたが、境内社、石塔群など多数確認できました。

常盤八雲神社
 由緒書きによれば、鎌倉幕府開幕の頃に創建された神社で合祀多数です。

大町八雲神社
 辿りついた時には、既に日没過ぎでしたが、ここが4社の内では最も規模が大きく境内社も沢山ありました。

扇ヶ谷八坂神社
 近隣では、戸塚、東俣野、江の島などにも八坂神社がありますが、鎌倉市内の独立社としては唯一の様です。御神木はタブノキです。


西御門八雲神社
 祭神 須佐男命(すさのおのみこと)
建立は定かではありませんか、『風土記稿』に因れば字大門の天王社がもとだと考えられています。
現在の社殿は天保三年の建造だと言われています。
須佐男命は『古事記』『日本書紀』でも知られる神様で、特に須佐男命は乱暴で天照大神が怒って天の岩戸に隠れた神話や八岐大蛇(やまとのおろち)を退治した伝説はよく知られています。


常盤八雲神社
 常盤の鎮守、此の地は平安時代後期、梶原景時の領地であり、当社は治承年間(1177年~1181年)に除災祈願のため建立された。慶長年間(1596年~1917年)当村、矢沢与左衛門光広が熊野社を勧請、これを八雲神社に合祀し、さらに明治時代村内鎮守、御嶽神社、諏訪神社の両社も合祀された。牛頭天王(ごずてんのう)とも呼ばれた素戔嗚命(すさのおのみこと)を祀る当社の例祭(天王祭)には現在も当時の天王信仰の盛大さをうかがわせる神輿渡御が行われる。
伝説
 昔梶原にあった加護社のご神体が大雨で流された。それを見つけた農民が山に祀り麦飯を供えたのが起こりというものである。参拝の時、”常盤の天王麦天王竹の子びしゃくで水かけろ”と唱えるしきたりがあるのはこの伝説による。
祭神 素盞嗚命(すさのおのみこと)速玉之男命(はやたまのおのみこと)伊那冉命(いざなみのみこと)
神徳 除災招福 農業守護 産業振興 良縁成就
御祭 七月


大町八雲神社略歴
祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)稲田比賈命(いなだひめのみこと)八王子命(はちおうじのみこと)、佐竹氏の霊
由緒
 永保年中新羅三郎源義光公の勧請と云う。室町時代関東菅領足利成氏公は公方屋敷に渡御した当社の神輿に奉幣を行うを例とした。戦国時代小田原城主北条氏直公は祭礼保護の「虎印禁制状」を下賜された。
 古くは祇園天王社と称したが、明治維新に八雲神社と改称された。
祭礼
 例祭の神輿渡御に伴う「天王唄」や「鎌倉ばやし」の神事芸能を伝え、正月六日には「湯花神楽」が行はれる。


八坂大神「相馬天皇」由緒
鎮座地 鎌倉市扇ヶ谷(おうぎがやつ)1-13-45
祭神 素盞雄命(すさのおのみこと)、桓武天皇、葛原親王、高望王
例祭 七月十二日
由緒
 建久三年(1192年)相馬次郎師常己が邸内に守護神として勧請して崇敬したのに始まる。その後現在の地に奉還する。世に相馬親王と称するはこの故である。
神幸式は五日、十二日の両日行はれてゐたが今では十二日のみとなった。中世御神幸の神輿荒ぶるを以って師常館の岩窟に納め新たに調進したと傳えられる。独特の六角神輿は宗社である京都祇園八坂神社の形を伝承したものである。
享和元年(1801年) 慶応元年(1865年)年に殿の改築が行はれた。
明治六年(1873年)村社に列格される。


【稲荷社】六浦瀬ヶ崎神社
 グーグルマップでは瀬ヶ崎神社となっていますが、実態は稲荷社の様です。ただし、境内社が少なくとも二座あるので、名称成立には何か謂れがあるのかも知れません。社殿の後ろには横浜市の名木古木に指定されたビャクシンが聳えていました。

記念碑
欽憶神社ハ、尊厳二神苑ハ清洒ニテ敬虔之域也。然年経月超二随ヒ境内漸次荒漠ヲ告シ時適大正癸亥歳(1923年)震災ノ為重テ甚ク恒二畏怖ノ念に堪ズ。依之同志相企テ財ヲ募リ櫻樹数拾株ヲ移植シ復旧ノ一端二資セントス。是也ニシ
一.以神慮を奉慰
一.以皇國の隆昌又村内發展祈願
之爰二碑壹基ヲ建設シ記念トスト伝。
維時
大正拾参(1924年)大正拾参甲子秋祭日 瀬ヶ崎在郷軍人會


厄神様】六浦三艘
 上杉謙信の北条攻めに与した名もない武士の霊を祭った祠です。由来書きにある永禄三年は、同四年の間違いと思われます。

厄神様の由来
 今より三百九十六年前(戦国時代)安房両総の豪族里見義弘は、北条氏の領有たる相模をせめんとし、永禄三年(1560年)六月兵船八十余艘をひきいて北条氏部将梶原景宗、北見時忠らの水軍と三浦海上で戦って大いに勝ち、上総左貫城に入り対岸なる三浦四十余郷を略取した。尚も義弘は部将正木時忠弟の忠弘と共に兵六千騎を率いて、上杉謙信と合同して小田原城を攻めた。北条代康は、伊豆、相模、北武蔵の兵二万余を率いて防戦したが、義弘らの軍が勝ち、義弘はこれを誇り、宴遊にふけり守備を怠った。北条氏はこれを知り不意に襲撃し義弘は防戦したが敗れ上総に逃れ去った。義弘の部下諸将は北条氏に降り、又離反した(農民土民)となった(日本歴史事典に依る)逃れた一人の武士が当神社付近で人馬共に斃れて霊魂が宙に迷っていました。
 その当時六浦村には悪い病気(今で言う伝染病)で多くの人々が死亡されました。その時神社の付近に武士の霊魂の火柱が立ち其の武士を祀ってくれれば三艘村の悪い病気ははらってくれると言うお伝えでした。(伝説による)
 当時の村の人々が此処に横穴を掘り祠を作って其の武士の遺骨を祀ったのであります。其の後は悪い病気も出ず平和な村となりました。それ故に厄の神様として(俗に村人は厄神様とし)毎年四月一日村中の人が盛大にお祭りを行ったのであります。その後大東亜戦争で昭和十八年以降昭和四十五年迄中絶しましたが(但し念仏講の人々は毎年四月一日に行事を行ってくれました)昭和四十六年より九月の浅間神社の祭りと一緒に行事を行う事に町内の役員会で決定しました。尚今年九月の祭りの大掃除の時に当時を偲ぶ遺骨が発見され十月三日再埋葬され五輪の塔の下に埋葬されてあります。其の隣にある石の珠は馬が死んだ時に祀った石です。場所は六浦村千九十番地鈴木文吉宅の山裾ですが今は現状の様に山を崩し昔の面影はありませんのでこの場所に移しました。
      昭和四十六年九月吉日  三艘町内会


白山神社/稲荷社】(六浦東)
 新版かねざわの歴史によれば、三分村高谷の鎮守であった当社は、明治42年(1812年)に、瀬戸神社に合祀されたそうです。祭神は菊理比売命(くくりひめのみこと)。境内社として稲荷神社があります。


【三艘浅間神社
 木花咲耶比売命(このはなさくやひめのみこと)を祀っていたこの神社も、明治42年(1812年)に瀬戸神社に合祀されたそうです。


【北辰神社】金沢区六浦5丁目8
 「宗教法人」としての登録はある様ですが、門が開いているのは見たことがなく、お社としての実態は不明です。


山王神社】(高舟台)
 この界隈では唯一の山王社。祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)で、明治42年(1812年)に、瀬戸神社に合祀されました。


【朝比奈稲荷神社】
 県道23号線から見える祠が以前から気になっていたのですが、訪ねてみると稲荷社でした。


【(金井氏建立の)神社】
 これも以前から気になってはいましたが、昭和になってから建てられたという以外は不明です。

【朝比奈熊野神社】
 朝夷奈切通開鑿の折に勧請された熊野権現社です。深山に佇むお社の周辺は、ヤブミョウガの群落となっており、青い実がきれいでした。

朝比奈町鎮守 熊野神社
御祭神 速玉男之命(はやたまのおのみこと) 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)
御由緒
 古傳に曰、源頼朝鎌倉に覇府を開くや朝比奈切通の開鑿に際して守護神として熊野三社大明神を勧請せられしと、元禄年中地頭加藤太郎左衛門尉之を再建す。里人の崇敬亦篤く安永及嘉永年間にも修築を加え明治六年村社に列格、古来安産守護に霊験著しと伝爾


朝夷奈切通
 鎌倉七口ノ一二シテ鎌倉ヨリ六浦ヘ通ズル要衝二當リ大切通小切通ノ二ツアリ土俗二朝夷奈三郎義秀一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ其名アリト傳ヘラルルモ東鑑二仁治元年(1240年)(皇紀一九〇〇)十一月鎌倉六浦間道路開鑿ノ議定アリ翌二年四月經營ノ事始アリテ執権北条泰時其所二監臨シ諸人群集シ各圡石ヲ運ビシコト見ユルニ徴シ此切通ハ即チ其當時二於テ開通セシモノト思料セラル
  昭和十六年三月建  鎌倉市青年團

国史跡 朝夷奈切通(昭和44年6月5日指定)
 鎌倉幕府は、仁治元年(1240)六浦津(むつうらのつ)との重要交通路として、路改修を議定、翌4月から工事にかかりました。執権北条泰時(やすとき)らが監督し自分の乗馬に土石を運ばせて工事を急がせたといいます。
 当時の六浦には、塩の産地であり、安房(あわ)上総(かずさ)下総(しもうさ)等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港でした。舟で運ばれた各地の物資は、この切通を超えて鎌倉に入り、六浦港の政治的・経済的価値は倍増しました。
 また、鎌倉防衛上必要な防御(ぼうぎょ)施設として、路の左右ら平場(ひらば)切岸(きりぎし)の跡にみられるものが残されています。
 鎌倉市境の南側には、熊野神社がありますが、これは鎌倉の(うしとら)の守りとして祀られたと伝えられています。
 鎌倉(なな)口の中、最も高く険阻(けんそ)な路です。


十二所(じゅうにそう)神社】
 天神七柱、地神五柱の計十二柱の神々を祀る熊野神社系の神社で、十二所地区のの鎮守社です。折しも宵宮のお祭りの日でした。


【大江稲荷神社】
 十二所には稲荷神社もあるのですが、祭神は他の稲荷社とはちょっと変わっているようです。


祭神は大江広本公である。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた時、政所の初代別当(長官)として、頼朝の右腕を勤めた人物。初午祭では、神主ではなくご本尊の大江広本木像を祀る。
十二所の五大堂明王院のご住職が、読経供養する。


【浄明寺熊野神社】
 稲荷山浄妙寺の隣に位置する熊野権現社で、観光地鎌倉でありながらこまで来る人は希です。今日も鳥居脇のベンチを借りて昼食を戴きました。


  浄明寺地区の鎮守さま
熊野神社の祭神神楽について
相模風土記に「熊野神社は村の鎮守なり」と記録されております。このお宮は古くから浄明寺地区の氏神様として信仰されてきました。
社伝によれば応永年間(1504年~1520年)に社殿を再建したと伝えられています。明治六年(1873年)には国より正式に浄明寺地区の鎮守として公認され、昭和二十七には宗教法人として登記され現在にいたりました。
 祭神は、 天宇須女命
      伊邪諾命
      伊邪冊命 の三柱です。
七月の祭礼(夏祭り)には神楽が奏されますが、「湯花神楽」「鎌倉神楽」といわれ地元の人々から愛されていました。然し最近では数年おきにおこなっています。火の神水の神を招神して感謝し除災招福を祈り、弓矢の威力で悪鬼調伏を行います。
  平成八年十月吉日
      熊野神社総代 関口貞夫


【鎌倉宮】
 護良親王を祭った大塔宮です。ここまで来ると観光客で賑わっていました。


【荏柄天神社】
 菅原道真公を祀った天神様です。日本三天神の一社を自称しています。


【熊野権現社】(荏柄天神社境内社)
 元二階堂鎮守。明治六年に荏柄天神社に合祀されたそうです。


【白旗神社】
 頼朝公を祀った神社です。


白旗神社由緒記
一.祭神 源頼朝公
一.例祭日 一月十三日
一.由緒
 この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあって髻の中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。
 正治元年(一一九九)一月十三日頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参加した。
 その後鶴岡八幡宮は共僧「相承院」が奉仕して祭祀を続け明治維新に際し寺は白旗神社に改められ源頼朝公を祭神として今日に至っている。
 現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和四十五年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。
持仏………守り本尊として、常に身近に置いて信仰する仏像


【巽神社】
 延暦20年(801年)、坂上田村麻呂が勧請したと伝えられる古社です。鎮座地が亀谷山寿福金剛禅寺の巽の方角に当ることから付けられた社名だそうです。


巽神社「巽荒神」由緒
鎮座地 鎌倉市扇ガ谷1-9-7
祭神 奥津日女命、奥津日子命
   火産霊命
例祭 十一月二十八日
由緒
 御祭神は竈の神、火の神として霊験あらたかな神で延暦二十年坂上田村麻呂東夷鎮撫の際、葛原岡に勧請したと伝えられる。永承の年に源頼義が社殿を改築す。その後(年代不詳)現在の地に遷座された。古くは寿福時の鎮守神として崇敬され、その位置が寿福寺の(東南)の方に当たるので巽荒神と称された。天正十九年に社領一貫文を賜った。近世に至って浄光明寺の持ちとなり明治六年に村社に列格された。


【諏訪神社】
 巽神社の境内社です。社伝の中のお札には、今小路泉ヶ谷諏訪神社と書かれていました。


【鶴岡八幡宮】
 全国的にも名の知れた鎌倉八幡宮です。旧社格は国幣中社、現在は神社庁別表神社です。創建はそれほど古いわけではなく、康平六年(1063年)に京都の石清水八幡宮を勧請したのが始まりだそうです。


旗上(はたあげ)辨戝天社】
 鶴岡八幡宮の境内社になります。鎌倉・江ノ島七福神にも入っています。


旗上辨戝天社御由緒記
 治承四年(一一八〇)八月源頼朝公は源家最高の旗を上げ、石橋山の戦いに敗れて房総に転じ、十月鎌倉に移る。直ちに鶴岡八幡宮を創建し、居館を定めて平家討伐の本拠とした。
 夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(一一八二)大庭景義に命じ境内の東西に池を掘らしめ。東の池(源氏池)には三島を廃止、三は産なりと祝い、西の池(平家池)にし四島を造の四は死なりと平家滅亡を祈った。こり池が現在の源平池である。
 そして東の池の中の島に辨戝天社を祀ったのが当社の始めで、明治初年の神仏分離の際境内にあった他の堂塔と共に除かれた。その後昭和三十一年篤信家の立願にわって再興され、さらに昭和五十五年九月鶴岡八幡宮創建八百年祭を記念して、江戸末期文政年間の古図に基づき現在の社殿が復元されたのである。
 因みに弁戝天信仰は、鎌倉時代に既に盛んで妙音芸能の女神福徳利財の霊神として世に広く仰がれている。当社に祀られていた弁財天像(重文)は鎌倉彫刻の代表傑作で、種々の御神徳が如実に具現された人間味溢れた御神像である。

祭日 例大祭 四月初巳の日 祈願祭 毎月 巳の日
旗上奉納 二引の白旗に御神号を記したのが用意してあります。お申込み下さると願意氏名を記し、祈祷して奉納し、毎日神前に揚げます。
旗上祈祷 源頼朝公旗上げして後、遂に大願成就した神徳により開店、事業拡張を始め家内安全、商売繁盛、必勝祈願、病気平癒、縁結び等の申込みを受け付けております。
政子石拝観 古来縁結びの霊能があり、姫石とも称し世に知られている。

【穴守稲荷神社】
 鎌倉山ノ内の路地に穴守稲荷をみつけました。


【神明社】鎌倉市台
 鎌倉市の中心部、鎌倉中央公園から近くの神社です。境内社が多数あり、少なくとも大六天社、諏訪神社、淡島神社、稲荷社を確認しました。折しも、祭禮の準備中でした。


【稲荷社】
 鎌倉中央公園に向かう途中の山崎町にも稲荷社がありました。


【御成町諏訪神社】
 鎌倉市役所の向かいにある神社です。鎌倉の独立社としては唯一の諏訪神社かも知れません。


【神社(御成町)】
 御成町の横須賀線の踏切近くに鎮座する神社です。由緒書きは見当たらない小さなお社でしたが、三界万霊塔、馬頭観音などもありました。


【本日の主な経路】
 天神橋(追浜本町)-室の木-瀬ケ崎神社-傍示堂-三艘浅間神社-厄神様-三艘浅間神社-北辰神社-山王神社-朝比奈稲荷神社-神社-朝比奈熊野神社-十二所(じゅうにそう)神社-浄明寺熊野神社-鎌倉宮-荏柄天神社-西御門八雲神社-鉄の井-扇ガ谷(おうぎがやつ)八坂大神-巽神社-鶴岡八幡宮-巨福路坂洞門-山ノ内八雲神社-神明社-山崎打越の庚申塚-鎌倉中央公園-常盤八雲神社-長谷隧道-御成隧道-佐助-御成町諏訪神社-大町八雲神社-小坪トンネル-新逗子駅

【本日購入】(小町通り藝林荘にて)
 近藤喜博(1978)稲荷信仰、247p.、塙書房.


以下、本日撮影の植物等の写真です。


【参考】
 ツルボ Barnardia japonica
 カヤ Torreya nucifera
 石塔群(朝夷切通入口)
 ヒカゲノイノコヅチ Achyranthes bidentata var. japonica
 イワタバコ Conandron ramondioides
 ヤブミョウガ Pollia japonica
 朝夷切通
 タマアジサイ Hydrangea involucrata(朝夷切通)
 石塔群(明石橋)
 タラヨウ Ilex latifolia
 シュウカイドウ Begonia grandis
 好好堂(北鎌倉)
 シオン Aster tataricus

晩夏を彩る花々、など

 今日は、午後から鷹取山へ。いつの間にか季節は進んで、ハナシュクシャ、キハギ、ホトトギスなどが咲き始めていました。


【参考】
 ノアサガオ Ipomoea indica
 二ホントカゲ Plestiodon japonicus
 ゴマ Sesamum indicum
 立石稲荷大明神
 タマアジサイ Hydrangea involucrata
 イワタバコ Conandron ramondioides
 ヤブラン Liriope muscari
 キンミズヒキ Agrimonia pilosa
 弥勒菩薩磨崖仏
 ハナシュクシャ Hedychium coronarium
 ヤマドリタケモドキ Boletus reticulatus
 カラマツソウ Thalictrum aquilegiifolium
 キハギ Lespedeza buergeri
 神武寺山山頂三角点
 聖観音像(神武寺奥の院)
 ホルトノキ Elaeocarpus sylvestris (神武寺本宮台)
 六地蔵(醫王山来迎院神武寺)
 弥勒菩薩坐像(みろくやぐら)
 ヤブミョウガ Pollia japonica
 ミズヒキ Persicaria filiformis (赤花)
 ギンミズヒキ Persicaria filiformis f. albiflora (白花)
 ホトトギス Tricyrtis hirta
 福富稲荷(逗子市池子3丁目16)
 ノウゼンカズラ Campsis grandiflora
 クズ Pueraria lobata
 石塔群(逗子市池子4丁目)
 イヌドクサ Equisetum ramosissimum


【神武寺・みろくやぐら】
 「やぐら」とは、十三~十五世紀にかけて、鎌倉と近隣を中心に営まれたもので、崖に四角い横穴を穿(うが)ち、中に五輪塔を据え、死者を弔う、葬送供養の場でした。逗子市域ではこの他に、「まんだら堂やぐら群」「こんぴらやぐら群」なども知られています。
 ここの「みろくやぐら」の中には石造弥勒菩薩坐像が安置され、この石像の背後に、正応三年で没した鎌倉八幡宮の舞楽師・中原光氏(みつうじ)の名が刻まれています。
 光氏は文永三年(1266)に、鎌倉八幡宮に木造弁財天像(国指定重要文化財)を奉納しています。
 舞楽は平安時代以降、社寺の祭礼や法会で盛んに演じられ、文治五年(1189)には、鶴岡若宮で源頼朝公隣席のもと、初めて法会が行われ、(しょう)、ひちりき、笛などの管弦と共に舞楽が奉納され、流鏑馬や相撲が行われたとの社寺記録が残っています。この舞楽師たちは、京都から招かれた人達でした。
 今日では、毎年五月五日の菖蒲祭で、盛大に舞楽が奉納されています。
         逗子市・自然の回廊プロジェクト

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