【日本ホーリネス教団横浜教会】
【帷子稲荷社】保土ケ谷区峰沢町2−2
【稲荷社】保土ケ谷区峰沢町
【関東クリスチャン教会】保土ケ谷区常盤台80-42
【竹生島辨財天社】保土ケ谷区常盤台21-22
【常盤稲荷大明神】
【大照山不動院真福寺)】:保土ケ谷区和田2丁目8-3
満願地蔵尊
このお地蔵さまは元和田町駅裏手の台地にあったものです。その台地には昔浅間宝寺という寺がありましたが、平家の残党を隠したというので焼き討ちに合い、焼け跡から沢山の遺骨が出てきました。亡きその霊を慰めるため、真福寺を建てた田口重勝の弟の重信が地蔵堂を建立して祀ったのです。
明治初年星川小学校の最初の校舎を建てるのに支障を来たし、この山門のそばに移されました。
全身に石で叩いて祈った窪みが残っています。こころからお祈りください。
宗祖弘法大師御入定一一五〇年記念事業 霊場参道建立発願之記
戦後すでに三十有余年物質文明とみに栄え、世情一見平和の感あるも、物豊かにして心安らかならず。人心その依りどころを宗教に希求するところ切なり。されば寺院の存在極めて重要にして、その社会的責務を痛感す。就中、従来の檀家法儀中心の寺よりなお一層地域社会に開かれたる寺院への脱皮は、真に意義深く且急務と申すべきなり。
時あたかも昭和五十九年は真言宗の宗祖弘法大師入定一一五〇年御遠忌の勝縁に相当す。よって祖師の「生かせいのち」の御精神に鑑み、記念事業として「霊場参道」と「地蔵堂の建立」を発願す。
目指すところは、年頭初参りはもとより、四季おりおり心に念じて参詣することあれば、四国等の霊場巡拝の功徳利益普くわたり、以て檀信徒ならびに近隣有縁の心の糧に資せんとす。
願わくは、当山本尊不動明王の威光ますます輝き、数多の衆生その加護を賜わらんことを、重ねて記念す。
至心発願 天長地久 即身成仏
密厳国土 風雨順時 五穀豊穣
万邦協和 諸人快楽 檀越各家
地域有縁 家内安全 家業繁栄
身体健全 交通安全 離苦得楽
心願成就 乃至法界 平等利益
唯時 昭和五十六年十二月吉日
大聖山不動院 真福寺
住職 安井 覚明
右記念事業委員 一同
【和田稲荷神社】
略縁起
抑々 武州橘樹郡和田村稲荷大明神の由来を尋ぬるに昔源頼朝卿治承年中に平家の逆族を追討せんため白根不動明王に参籠ましまし御伴には和田義盛殿を援し奉り當十一面観音を拝参此処に宿有り其夜義盛枕上に大悲の尊體影向ましまし義盛に託していわく汝知らずや此地に稲荷霊社有ることを自後、汝此神を信ぜば心中の志願成就すべし。義盛ゆめさめて後奇異のおもいをなし速かに頼朝に告奉っていわく某今夜不思議の大悲菩薩の霊夢を感拝し奉る。伏して願わくは今當所において些少の社地を喜捨し給え。
大将、夢中の誓言拝聞有りて歓喜の餘り永劫八段四畝歩の境内及壱段二畝廿四歩の社地を寄附し給う。義盛信心肝に銘じ文治元乙巳年に稲荷の霊社と観音の霊場を御建立其後建久四年の春頼朝卿此邊に御狩りあり當社に御参詣和田稲荷を御拝し給うたり。今狩場といえる在名あり。御殿跡釜堰有り其所を谷臺と申し傳う。然るに霜雪積って四百三十三年になんなんたりしに征夷大将軍御上洛有り。神奈川町新殿建立に當社材木悉く御用に相立てし事誠に政あるなり。尊神なるゆえん也というべし。
別當 眞福寺
【薬王山東光寺】保土ケ谷区上星川2丁目34-1
【川島杉山神社】保土ケ谷区川島町896
【和田杉山神社】保土ケ谷区和田1丁目10-4
【星川杉山神社】保土ケ谷区仏向町553-1
【橘樹神社】保土ケ谷区天王町1丁目8-12
橘樹神社由緒略記【参拝の栞、内面より、転記】
鎮座地 横浜市保土ケ谷区天王町一丁目八番地十二号
旧町名 神奈川県橘樹郡帷子町字川岸三八四番地
(昭和二年横浜市に編入されて現在の町名になる)
祭神 素盞男尊(スサノオノミコト)天照大神の御弟
御神性勇武に座します故の御名で疫病祓除に霊験あらたかな神である。
由緒概要
当神社は、文治二年(一、一八六年 約八百三十年前)源頼朝公天下の平和を賀し国中の大小の神祇に奉幣し祭祀の典を行った時の創建と伝えられる。即ち京都の祇園社(現在の八坂神社)の御分霊を勧請奉祀した。故に当社も祇園社 牛頭天王社 天王宮 橘樹社等社名が変わり大正十年正式に現在の社名となった。
境内地 二、六二一㎡(七九三坪)
社殿 木造平屋建総檜権現造(三二坪)
境内末社 神明社 天照大神 国常立大神 稲荷大神 猿田彦大神を祀る
庚申社 覆殿 平成十七年 建築
庚申塔 三基 明和元年 二五〇年前
寛文九年 三五〇年前(市内最古といわれている)
天和二年 三四〇年前
不動堂 神田不動尊 文化八年の銘有 二一〇年前
主要建物 神楽殿 昭和三十六年 建築
手水舎 昭和三十六年 建築
参集殿(旧社務所) 昭和四十四年 建築 五五坪
主要石造物 大鳥居 大正十四年の建立 鉄筋コンクリート造
小鳥居 平成十年四月の建立 御影石造 氏子岩間町 有限会社川古谷石材店奉納
玉垣 氏子の有志により右鳥居と同時に造成せらる。
明治天皇東幸遺跡碑 明治天皇東幸の節 境内を浄地として内侍所を奉安したのでこの記念碑が建立せらる。
明治天皇御製
わが国は神のすえなり神まつる
むかしま手ぶりわするなよゆめ
復興記念碑 昭和四年関東大震災復興の節建立
石盥盤(イシダライバン)小松石造 延宝六年の影あり 三四〇年前のもの
狛犬 一対 小松石造 嘉永五年奉納 一七〇年前
灯籠 一対 紀元二千六百年記念として建立
祭事歴 一月一日 歳旦祭 初詣 二月三日 節分祭 六月(第二土・日曜) 例大祭
六月三十日 夏越大祓式 十一月十五日 七五三祝 十一月二十三日新嘗祭
十二月晦日 年越大祓式 ※毎月一日・十五日 月次祭斎行(但八月一日、九月十五日は除く)
氏子区域 天王町 宮田町 岩間町 帷子町 鎌谷町 峰岡町
川辺町 和田町 常盤台 峰沢町 岡沢町 鎌台町
神明社再建に誌す
祭神 天照大神 國常立神 稲荷大神 猿田彦神
當神明社は、その縁由詳ならずと雖も、峯間町壱丁目六拾番地(俗称お伊勢山)の地を旧知とす。
該地より土師瓦出土せるもあり、又、旧幕時代當社除地弐反三畝十歩と録せる文書を存す。新編武蔵風土記稿によれば、當時、牛頭天皇社(現橘樹神社)と並び存して。前に鳥居を立てるを知る。
昭和二十年四月、未曽有の空襲に遭い附近一帯の民家と共に祝融の災を受けて烏有に帰す。
然れ共、神穂彌赫灼として、戦災の復興を照覧し給い、遂に御街衢人煙の殷賑旧に倍し、橘樹神社神楽殿亦成るに及びて氏子有志相議り爰に寶殿一宇を再建し、以て恩頼に報い奉らんとす。
蓋し、人は神に依て生き、神は人依てその威を増すと。後来の人士、冀くは、惇崇奉幣絶ゆる無からしめんことを。
昭和四十一年六月十二日
氏人 一同敬白