大正末期から昭和初期にかけて、現在の大船駅の東側の地域で田園都市計画があったそうです。計画総面積は10万坪におよび、渋沢栄一が手掛けた田園調布地区をも超える大規模な計画だった様ですが、大正12年の関東大震災や昭和4年の昭和恐慌の影響もあって計画は実現しなかったそうです。今日たまたまと通りかかった稲荷社の由緒書きからそのことを知りました。
【山蒼稲荷神社】鎌倉市大船2丁目21
大船田園都市計画図案(藤谷,1993)
左下(南西端)が駅前ロータリーで、放射状の中心が現在の松竹前交差点。住宅地の第一回販売は西側の碁盤の目部分の「さつき街区」で、その中央を東西に走るさつき大通りが現在の松竹通りとなった。
山蒼稲荷神社由緒碑
今世初期、或ル先覚カ遠大ナ都市計画ヲ目論ミ、此地一帯ノ開発ニ着手シタカ、当初ヨリ災厄ノ続出ニ事業ノ中断ヲ余儀ナクシ、為ニ、地元有志ト協議ノ末、霊主教某教主ニ本旨ノ時宜ヲ諮ッタ。スルト某ハ此地ノ、守護神トナスベク稲荷大明神ヲ招致シ、以テ、鎮守ヲ祈願スルニ然カス、トノ指教ヲ寄セラレ且昭和五年秋教主カ御神体ヲ刻マレタノテ時ヲ藉サス、眺望絶佳、樹林鬱蒼ノ丘ニ社殿ヲ建テ、山蒼稲荷神社ト命名シ御神体ヲ祭祀スルニ、以降、神助ノ故カ事業ノ都テカ順調ニ進捗シ初期ノ目的ヲ遂ケ大船今日ノ発展ノ因ヲ作シタ。而ルニ同九年、松竹蒲田撮影所カ此地ニ矚目シ進出セントスルヲ識リ本所ニ社殿ヲ遷シテ現今ニ至ッテイル。
本神社カ此処ニ坐ス経緯ヲ敍述シタ所以ハ向後、尚、彌増シ、此処ノ伸張ト災厄祓除ニ既往ノ霊験ヲ垂レ給ワンコトヲ希ッテニ他ナラナイニ拠ル。
以上ノ考証ハ巷間、僅カニ散見サレタ記録ト流布スル口碑ニ基スイタモノテアル。
昭和五十七年十一月三日
抍岡 智 撰
【参考文献】
藤谷陽悦(1993)大船田園都市株式会社の目的と住宅地「新鎌倉」について、日本建築学会計画系論文報告集、444、157-167、URL:https://www.jstage.jst.go.jp/article/aijax/444/0/444_KJ00004077228/_article/-char/ja/.