鶴見区の名木古木など

 良いお天気に恵まれましたので、以前に廻り残していた名木古木などを尋ねました。
【主な経路】(神奈川新町駅)-七島-仲手原緑道-上の宮-北寺尾-獅子ヶ谷-駒岡-末吉-尻手-(川崎駅)
  横浜市指定名木古木  訪問済みの神社  石塔など  ひまわりを訪ねる


横浜市指定名木古木 No.201204 サクラ:上郷神明社


 まだ生きてはいましたが、腐朽菌が蔓延していますので、長くは持たないと思われます。


横浜市指定名木古木 No.201210 シイノキ:稲荷社(上末吉2丁目20-6)


 陸の孤島の様になった稲荷神社の森の隅に残されていました。


成田山七島不動堂
稲荷神社:七島不動堂境内
浅間社碑:七島不動堂境内


政所稲荷神社:松見町4丁目
庚申塔:政所稲荷神社境内


 オイラの名前は「ゴン」。ゴン狐って呼んでねッ…!(^^)!
江戸時代の昔、ここ松見村は畑と林ばかリで、子供たちが遊んでいた。狐(きつね)のオイラも、その子たちと一緒に遊んで仲良しだったんだ。こうして、オイラ、ゴン狐は松見村の子供たちの「守り神」になったんだ。明治の時代になって、誰かが、この狐小屋(稲荷神社)を建ててくれたんだ。
 オイラ、また昔のように、皆んなと一緒に遊びたい…!(^^)!
え、ここの来るとバチが当たるって…(゚д゚)!?
そんなこと、誰が言ったのぉ~。オイラ、そんなことシナイよ。
でもぉ、オイラの狐小屋をコワしたり、ご飯の皿を盗む子供にはバチを当てるかもねェ~。
          オイラの名前は、ゴン狐。
     時々、ここに遊びに来てくれると嬉しい…!(^^)!


地蔵堂:鶴見区馬場7丁目13
稲荷社跡地:鶴見区上の宮1丁目5


 稲荷社は、ゴルフ場と一緒に処分されてしまったようです。


(上の宮)八幡神社:鶴見区上の宮1丁目32-2


石塔群(庚申塔1基、巡礼供養塔2基):北寺尾7丁目26


【左】庚申塔 元禄九年11月(1696)、北寺尾別所谷鶴田勘左衛門他、板碑形、六臂青面金剛立像、三猿を浮彫り
【中央】巡礼供養塔 安永九年5月(1760)、施主滝川氏、舟形、地蔵立像浮彫り。四國西國坂東秩父巡礼供養
【右】巡礼供養塔 文化二年六月(1805)、施主滝川氏、撫肩角塔。坂東、西国、秩父巡礼供養
【文献】鶴見区史編集委員会(1982)第三章石碑一覧、in 鶴見区史.


渋澤稲荷神社:北寺尾5丁目2-54


   稲荷神社
鎮座地 横浜市鶴見区北寺尾五丁目二
御祭神 宇迦乃御魂神(うかのみたまのかみ)
例祭日 九月十五日
  由緒沿革
 往古この辺りは、鎌倉鶴岡八幡宮の社領で、文安四年(一四四七)閏二月の
八幡宮文書に「武州寺尾郷内澁澤村」と記されている。
 地域の人々から「渋沢の稲荷様」と呼ばれ。崇敬され親しまれてきた当社の
創建年代等については明らかでないが、新編武蔵風土記稿によると、北寺尾村
の条に「稲荷社、小名澁澤にあり、身體木の立像にして長八寸計、前に木の鳥
居を建、馬場村寶蔵院時」と見え、江戸時代には既にこの地域の守護神として
鎮座していたことが知られる。
 その後、明治初年(六年ころ)稲荷社から稲荷神社と改称した。
 昭和二十四年六月七日不慮の火災に遭い、社殿が焼失するという憂目をみた
が、ご神体は幸い焼け残った。経済の低成長が続く当時の世相の中では速やか
な再建は望みようもなく、規模を縮小して復旧した。
 その後氏子信徒相諮り、同五十一年春新社殿の造営に着手、同年六月旧観に
倍し鉄筋コンクリート入母屋造り、銅板葺きの華麗の中にも荘厳な鎮守社とし
てふさわしい社殿の完成を見、同月二十九日遷宮式が厳かに斎行され、翌五十
二年十一月二十七日竣工式が盛大に挙行された。
 社殿再建にともない、奉賛会設立の機運が高まり、平成三年六月三日渋沢稲
荷神社奉賛会が発足した。
 このような経過をたどりながら五穀豊穣の氏神としてお祀りしてきたが、社
会情勢の推移にともない今日においては商売繁盛、家内安全、無病息災・交通
安全の守護神として信仰されている。
    平成六年四月二日
                渋沢稲荷神社奉賛会


上郷神明社:獅子ヶ谷3丁目16-20
 境内社の多い神明社です。宇賀神と金毘羅神との関係は不明です。「うか(宇迦)」=「うが(宇賀)」の繋がりもありそうですが、境内の石坂供養塔には『辨天講』の字も見えますので、この地域には宇賀神と習合した弁天の信仰があったのかも知れません。


光猶大明神:上郷神明社境内社
山王大権現:上郷神明社境内社
金毘羅大権現碑(宇賀神宮):上郷神明社境内
石塔群:上郷神明社境内
 【左】石坂供養塔、享保5年11月(1720) 願主獅子ヶ谷村 横溝五郎兵衛、撫肩無塔、庚申講、弁天講中および、村中惣氏子の建立である。
 【中央】不詳
 【右】庚申塔、延宝8年11月(1680) 願主源左衛門他、剣型角塔 六臂青面金剛像を浮彫りとする。
【文献】鶴見区史編集委員会(1982)第三章石碑一覧、in 鶴見区史.


獅子ヶ谷鎮守上郷神明社
 鎮座地 横浜市鶴見区獅子ヶ谷町一六六番地
     (住居表示 獅子ヶ谷三丁目十六番地二十号)
 御祭神 天照大神(アマテラスオオミカミ)
 境内社 日枝神社・三峰神社
 往時の領主 小田切喜兵衛光猶候
 例祭日 九月十八日
 社殿 本殿神明造一〇.九坪
    神楽殿     七坪
 境内坪数 二八九坪(日枝神社跡地六四坪合)
   由緒沿革
 当上郷神明社の創建年代は不詳であるが、古来獅子ヶ谷一円
の氏神で、明治六年十二月村社に列した。新編武蔵風土記稿に
「例祭年々發月十二日本覚寺の持、上村の鎮守なり」とある。
 昭和二十年五月大東亜戦火により社殿焼失、同二十二年一月
新築復興した。現在の社殿は平成九年十月に竣功した。
 平成二十二年六月往時の領主小田切喜兵衛光猶(みつなお)候を祀った
光猶大明神石宮、狛犬一対について旧観を保って整備が行わ
れた。同二十三年六月神楽殿造営工事が竣功、加えて境内の
実測を行い日枝神社を法人合祀し、境内地も編入した。
    平成二十四年九月吉日
             上郷神明社奉賛会


     由来碑
 「光猶大明神」は上獅子ヶ谷村の領主小田切家の元祖喜兵衛光猶候
祀った石宮である。喜兵衛光猶候は天正十四丙戌年遠州浜松において
東照神君(徳川家康)の近習として使え、慶長二丁酉年九月武蔵国
小机郷獅子ヶ谷にて百五拾伍石を拝受。同十九甲寅年八月廿六日
四十九歳で卒去、石宮は天保十四癸卯年十一月同村の里正(名主)
横溝五郎兵衛と郷中により発願勧請した。
 「光猶大明神」を守護する狛犬一対は弘化二乙巳年八月小田切八代
領主従五位下土佐守源朝臣猶熈(凞)候三千五百石と名主横溝五郎兵衛
同郷中の奉納によるものである。
     平成二十四年九月吉日
                  上郷神明社奉賛会


 車地蔵尊:鶴見区獅子ケ谷3丁目16
 石塔群:車地蔵尊境内
 十一面観音像:鶴見区獅子ケ谷3丁目19(車地蔵尊の向)


車地蔵
 この地蔵は、享保3年(1718)に建立されたもので、お堂の中で道行く人達を温かく見守り、人々からは、「子授け地蔵」とか「車地蔵」として親しまれてきました。
 お堂の左側の柱には、小さな木の車が取り付けられています。昔から、この峠を通る人たちは、この車を回す習慣が在りましたので、車地蔵の名が生まれたのでしょう。
 この車は、「地蔵車」または「後生車」と呼ばれ、これを回すことによって六道の苦難から救われると信じられ、後生安楽に成仏するといわれてきました。
 伝説によると、時おり、人びとの寝静まった夜半に、この車がひとりで回る音がして、これはお地蔵さんが回されるのだと、久しい間村人たちは信じてきました。
 この車地蔵が建っている峠道は、江戸時代、鶴見から師岡・綱島方面に至る唯一の街道でした。
  平成16年9月    鶴見区役所


   南無車地蔵大菩薩
    子育て・水子・延命地蔵尊
 地蔵歎偈(数ある地蔵経の中で一番短いお経です。)
一、釈迦牟尼如来の付属を受けて
二、此の世に出でし地蔵尊
三、地獄の責苦を代わりに受けて
四、飢えに苦しむ餓鬼共救う
五、あわれ畜生みちびき給い
六、わめき争う阿修羅をさとす
七、生死に迷う間助け
八、清浄世界の人を度す
九、南無地蔵願王尊、合唱礼拝も名唱え
十、此の世次の世しあわせにみつ
  南無地蔵願王尊(三回くり返し)
  真言(おん、かかか、びさまえい、そわか)
地蔵尊建立、享保三年(一、七一八)十月廿日
 総丈一九五糎、身丈一四〇糎、台座直径四九糎
為 滅罪生善、現世安穏後生善處
           施主 獅子ヶ谷村講中
              二世安楽同行二十三人
地蔵堂改修、平成八年(一、九九六)三月廿八日
為 世界平和、家内安全、交通安全、諸願成就
              施主 車地蔵建設委員
                 車地蔵講中一同


   車地蔵
一、建立 享保三年十月吉日
一、由来と伝説
 獅子ヶ谷の地古くは極めて住居少なく鶴見の宿から
師岡・綱島方面に通ずる唯一の街道が此所を通って
居た。約二百六十年前此の街道際に村を挙げて地蔵信仰が
行われて以来「子授け地蔵」或いは「車地蔵」として親しま
れて来たが、時折人の寝静まった夜半この車の廻る音が
するので地蔵菩薩が廻されるものと信ぜられた。
元来この車「地蔵車」又は「後生車」と呼びこれを廻すと
六道の苦患が除かれ後生安楽に成佛出来るというものです。


稲荷社:鶴見区上末吉3丁目11


稲荷社:上末吉2丁目20-6


小土呂橋親柱
かつての小土呂橋(昭和六年撮影 高須氏所蔵)


小土呂橋
 この通りに幅五メートルほどの流れがありました。新川堀と呼ばれ、ここからさらに渡田大島を経て海へ注ぐ用水でした。この堀が東海道と交わるこの地点に架けられていたのが「小土呂橋」です。
 小土呂は、砂子、新宿、久根崎とともに昔、東海道川崎宿と呼ばれた四町のひとつで、古くからの地名です。
 橋の名残は今、バス停や信号の名に見られるばかりですが、この先にあったいくつかの橋のうち、昔の流れに沿って「新川橋」「さつき橋」は今もその名をとどめています。
 この写真にある橋の親柱が残されていたのをここに移設し、当時をしのぶよすがとしました。
昭和五十九年 小川町町内会
市制六十周年を記念して
       川崎市文化財団
       東海道川崎淳2023
       川崎区役所


 その他、本日撮影の写真です。


【参考】
 パンパスグラス(シロガネヨシ) Cortaderia selloana
 ヤマトリカブト Aconitum japonicum var. montanum
 ツノアオカメムシ Pentatoma japonica
 染井吉野(ソメイヨシノ)Cerasus x yedoensis
 ハカワラタケ Trichaptum biforme
 チャノキ Camellia sinensis
 スダジイ Castanopsis sieboldii
 ぱぷすなっく ひまわり:鶴見区駒岡1丁目12-22
 陸橋:駒岡1丁目
 太陽光発電セル(昭和薬品工業:川崎区堤根36)
 小土呂橋:川崎区砂子2丁目:

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