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富岡へ

 今日は、お好み焼き粉を買うという名目で、富岡まで出かけました。夕飯はもちろん、双子が作ってくれたお好み焼きでした。
【主な経路】(自宅)-六浦-白山道-釜利谷-能見台-富岡-(京急富岡)


(谷津関ヶ谷不動尊)遷座記念
 染井そめい片吹かたぶき五字谷戸こじやと研山とぎやま関の谷戸せきのやとの奥深き谷あい。老杉。雑木生い茂り緑濃き杜に五十数段の石階の頂、片吹二七四-二番地に谷津関が谷不動尊が鎮座されていた。創建は不詳だが昔より村人の信仰篤く。毎年一月二十八日ら初不動祭りが、盛大に今もなお続いている、境内裏の谷間より滾滾こんこんと清水が湧き出し。現在も谷津川の水源地である。かつては金沢文庫駅一帯までの水田に灌漑用水とされていた。往時には。刀匠達が滝で斎戒沐浴したとの伝説がある。滝は関東大震災で崩壊した。境内周辺は四季折々種々の野鳥のさえずりがきかれ、初夏には蛍が飛びかい、秋には蜻蛉が群れ飛び、小川のせせらぎも聞かれた。閑静な素晴らしい環境の谷戸であった。たまたま京浜急行株式会社の宅地造成により此の地に遷座した。
                  撰文 石川 武


  経塚きょうづか
 此の墓域は通称持明院の丁塚墓地と呼ばれています。丁塚は正しくは経塚と謂、釈尊入滅後、五十六億七千万年の後に弥勒菩薩が現世に出現して民衆を済度してくださるまで仏典を長く保存し、後世に残し伝える為経文を経筒に入れ、土中に埋経してその上に塚を気づいたものであります。
 この思想は平安時代から室町末期が最盛期で連綿として今日に到っております。
 その功徳は追善供養の真心と極楽往生の願いをこめて信仰されてきたのであります。
南無大師遍照金剛


【参考】
 ウメ Armenica mume
 横浜市指定名木古木 No.95015 ケヤキ:白山神社
 紫月(ルビーネックレス) Senecio Othonna capensis Syn. Crassothonna capensis
 手子神社
 谷津関ヶ谷不動尊
 ユズリハ Daphniphyllum macropodum
 バラ Rosa spp.
 セイヨウヒイラギ Ilex aquifolium
 RONDO 1990 TAKASHI NAKANO:富岡西ふれあいの辻公園
 タイワンリス Callosciurus erythraeus thaiwanensis
 経塚:金沢区富岡東5丁目10
 谷戸坂地蔵尊
 円海山(京急富岡プラットホームより)

鶴見区の名木古木を巡って- part1

 今日は鶴見区の名木古木を尋ねました。確認できたのは16本でした。
横浜市の名木古木  石塔  神社等  ひまわり


 スダジイ No.201868 (鶴見区市場上町3-15)
 イチョウ No.48026 日枝神社:鶴見区矢向4-16-8
 イチョウ No.48027 明王山不動院真福寺:鶴見区上末吉1-15-10
 スダジイ No.49018 駒岡八幡神社:鶴見区駒岡3-40-1
 イチョウ No.48028 宝元山無量院正行寺:鶴見区駒岡3-31-18
 イチョウ No.49015 駒岡神明社:鶴見区駒岡3-9-1
 イチョウ No.49013 照光山常倫寺:鶴見区駒岡3-5-1
 ツバキ No.49014 照光山常倫寺:鶴見区駒岡3-5-1
 イチョウ No.50001 駒岡不動堂:鶴見区駒岡3-4-37
 ケヤキ No.201030 (北寺尾)熊野神社
 イチョウ No.201031 (北寺尾)熊野神社
 ケヤキ No.201032 (北寺尾)熊野神社
 イチョウ No.201033 (北寺尾)熊野神社
 スダジイ No.201034 (北寺尾)熊野神社
 イチョウ No.201123 (北寺尾)熊野神社
 ツバキ No.201124 (北寺尾)熊野神社



 東海道分間延絵図(東京国立博物館所蔵)
 地蔵尊(無縁塚)
 無縁塚慰霊塔


  八丁畷の由来と無縁塚
 東海道は、川崎宿の京都側の出入り口(京口土居・現在の小川町付近)から八丁(約870メートル)にわたり、畷といって街道が田畑の中をまっすぐに伸びており、市場町(現在の横浜市)との境界に至ります。この付近を八丁畷と呼ぶようになりました。
 このあたりでは、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、鑑定により江戸時代ごめの特徴を備えていることがわかりました。
 江戸時代の記録によると、川崎宿は震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が命を落としています。おそらく、災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか。
 不幸にして亡くなった人々の霊を供養するため、地元の方々と川崎市は昭和九年、ここに慰霊塔を建てました。この場所は無縁塚と呼ばれ、地元の方々により供養が続けられています。
   平成二十八年三月
            川崎市教育委員会



 横浜熊野神社:鶴見区市場東中町9-21


  熊野神社略記
弘仁年中紀州熊野宮御神霊を勧請す
旧市場村の熊野耕地通称八本松の所に鎮座、其後天保年中道上耕地に遷座(現在元宮)す。明治五年東海道線敷設の為現在地に遷座。
  御祭神略記
国常立尊くにのとこたちのみこと
 天神七代の中第一代に座して天地別れし時成りませる神にて国の底都知そこつちとして大地を司り給ふ神也。
伊邪奈岐命いざなぎのみこと伊邪奈美命いざなみのみこと
 天神七代の中の神にして二柱の神は天津神の神勅に依り国土を修理固成し給いて夫婦和合商工繁盛家内安全の基を立て給い人々を守り給ふ神也。
境内神社 八幡神社 稲荷神社 神明社
     五社大神 大鳥神社
大祭日 毎年八月第一土旺、日旺
神事と行事 市場神代神楽 市場囃子
     熊野神社氏子会


(矢向)日枝神社:鶴見区矢向4丁目16-8


 (矢向)日枝神社
 十二天大神/天照皇大神
 稲荷社
 稲荷社
 大黒天
 不動堂
 浅間大神碑
 やるき稲荷社


 記主山然阿院良忠寺
 山本煉瓦工場供養碑(記主山然阿院良忠寺)


  記主山然阿院良忠寺由緒沿革
鎌倉時代仁治元年(一二四〇)浄土宗第三代然阿良忠が霊夢により古川(現鶴見川)の岸より薬師如来の尊像を得て、これを安置するために起立したのが良忠寺の草創である。
良忠上人は鎌倉大本山光明寺を開き、多数の書物を著わし、為に正応六年(一二九三)良忠上人七回忌にあたり伏見天皇より記主禅師の号を賜り、以来寺の山号を記主山と称す。
正徳二年(一七一二)五月、祐天上人により京都総本山知恩院の直末寺院に配せられ。良忠寺四十一世讃誉徹玄上人代に、祐天上人の助縁により本堂等を改築、明和六年四月(一七六九)には梵鐘、山門等が再建された。
第二次大戦において、明和六年鋳造の梵鐘は他の仏具共々供出されるが昭和二十五年十一月に。時の内閣総理大臣吉田茂氏揮毫による梵鐘如雷震八音暢妙響の八文字を梵鐘に鋳込み再建された。
現住六十世代において、墓地整理改修・本堂改築。記主会館建築等の事業を行う。


  山本煉瓦工場供養碑
明治から昭和十五年頃まで、矢向一丁目の鶴見川沿い、今の矢向中学校南側に煉瓦(レンガ)工場が有りました。川沿いの土を掘って大量の赤煉瓦が焼かれ帆掛け船を利用して東京(品川)横浜方面(高島、元町)へ積み出されました。工場では男性と共に女性や未成年の子供達も働きました。横浜や東京の赤煉瓦で造られた建物も、ここ矢向の地で焼かれた煉瓦が多く使われ、その陰にはこうした多くの人々の努力が有ったのです。大正九年に建立されたこの慰霊碑には明治四十年から大正九年の間に亡くなった男性十一名、女性三名、男児四名、女児八名、胎児一名の戒名が刻まれています。今回、慰霊碑の移築に伴い、当時焼かれた煉瓦を一部用いて再建し、亡くなられた人々の慰霊と致します。
  平成十五年七月吉日
 見えた見えたよ 生麦沖な丸に七の字 帆が見えた
   あれが山本煉瓦船
 丸に七の字 帆掛け船 船頭 石井七五郎
 丸に七の字 帆掛け船 天にとどけと 碑を建てる
   昭和七年頃 親子三人 煉瓦船で暮らしました
            移築再建 願主 石井元吉


 照光山常倫寺:鶴見区駒岡3-5-1


常倫寺の歴跡と伝説(駒岡町294)
 久志本氏歴代の墓碑 久志本氏は、今の三重県度合郡久志本の出身で、元は神主でのちに徳川家康の侍医として召し抱えられました。
 宝永三年(1706)久志本常勝は、五代将軍綱吉の病気を治療し、武蔵国橘樹郡、都築郡のうち八百石の采地(領地)を賜り、総知行高二千石となりました。
 久志本氏歴代の墓所は、本堂左手の急な照光坂を昇った所にあります。
 墓域に立って、大きな常倫<つねもと(常勝の父)の墓を中央一列に立ち並ぶ墓碑を見ますと、江戸時代中期からこの地を治めてきた殿様のお墓ということが感じられます。
 梵鐘 本堂の回廊に吊り下げられている梵鐘は、元禄6年(1693)2月、時の地頭小田切土佐守直利が、父美作守須猶<もちなおの追善供養のために寄進したものです。
 乳母銀杏 境内の乳母銀杏には次のような伝説があります。
 江戸時代に久志本左京亮常倫<つねもとの妻が身ごもって。一子常勝を産みましたが、お乳が一滴も出ませんでした。
 思い余った夫婦は、この寺に詣で、乳の出るように一心に祈願しました。すると、銀杏の木の乳房のように垂れ下がった先端から、真っ白な乳がしたたり落ち、この乳を飲んで常勝はたくましく成長しました。
 それ以来、この銀杏は乳母銀杏と呼ばれ、乳の出ない母親は、この銀杏に祈るようになったということです。なお、現在この銀杏は横浜市の名木古木に指定されています。
  昭和63年3月  鶴見区役所



【参考】
 ヤブツバキ Camellia japonica
 キルタンサス・マッケニー Cyrtanthus mackenii (ハイツ東鶴見)
 地蔵尊:鶴見区矢向1丁目1
 ボケ Chaenomeles speciosa
 獅子咲ツバキ Camellia japonica
 庚申堂:鶴見区上末吉1丁目18-27
 トキワガマズミ Viburnum tinus
 駒岡八幡神社:鶴見区駒岡3丁目40-1
 稲荷社:鶴見区駒岡3丁目34
 地蔵尊:鶴見区駒岡3丁目31-18
 駒岡神明社:鶴見区駒岡3-9-1
 道陸神(駒岡神明社境内):鶴見区駒岡3-9-1
 照光山常倫寺:鶴見区駒岡3-5-1
 稲荷社:鶴見区駒岡3-4
 駒岡不動堂:鶴見区駒岡3-4-37
 神使像(駒岡不動堂境内)
 ぱぶすなっく ひまわり:鶴見区駒岡1-12-22
 白梅 Armenica mume
 寒桜(かんざくら)Cerasus x kanzakura ‘Praecox’
 庚申塔:熊野神社 (鶴見区北寺尾2-3-30)

杉田から富岡へ

 運動不足解消のため少しだけ歩いてみました。
【主な経路】杉田~中原~栗木~坪呑~釜利谷~富岡


横浜市指定名木・古木 Machilus thunbergii:(中原)熊野神社
 No.201806、No.201803



1金沢道と向坂庚申塔 【磯子の史話より転記】
 栗木の根岸線下の新道四つ角の杉田よりに、旧道の四つ角があります。旧金沢街道は、この付近が住宅造成され、根岸線ができて様替りしましたが、四つ角のすぐ南側、高梨家右側に南東にはいる道があります。約五〇mで左折し、次に右カーブして人家の間をぬって行くと、浜中グランドの南辺の道に出ます。小坂を登ると草地の中でT字路に突当り右折すると山路にかかります。切通しにかかるといかにも古道らしい風情です。下りかかった時に左手を見ると、左の支尾根にはいる山道がみえます。杉田台のうら山尾根を伝って坪呑に下り杉田へ行く古道で、鎌倉五山の僧たちが東漸寺へ往来した道です。
 切通しの金沢道を下ると、そまはずれの右側に庚申塔と道標など三基の石塔があります。
 ひとつは、浮彫の青面金剛像で、日・月・六臂の青面金剛・鬼・とり・三猿などがそろっています。享保元年(一七一六)一一月四日下に寄進者八名の名があります。碑の両面に道案内として、左側にこれより左新町道、右側にこれより右杉田道とあります。
 二つめは、青面金剛と文字で書かれ、寛政一三辛酉天二月彼岸、中里念仏講中と刻まれています。もう一つは道標で、正面に、左新まち道、右に杉田道とあり、これも中里念仏講中とあります。後者の二碑は、石といい古さといい全く同じものです。同時に造立されたものでしょう。
 左の新町道は、今は廃道になっていて、やぶにおおわれています。はいってみると古道の面影があり、崩れた所の先に切通しがあります。山腹をぬって新川まで五〇〇mぐらいです。
 金沢道は山腹をぬって南に続いています。樹林の中を歩く風情はいいものです。下の低地に新道が出来るまでは、この道が中里・氷取沢への大切な街道で国道四五号線でした。大正初年に国道一六号線ができてから、この道は村道に転落し、下に市道ができてからは人通りも少なくなって、今では歴史の道、よい散策の道となっています。
 古道の面影をなつかしみながら行くと、やがて人家が現われて、ここは字向坂となります。左へ杉田の小名台への道をわけています。
【参考文献】
磯子区制50周年記念事業委員会「磯子の史話」出版部会 編(1978)磯子の史話、762p .


【参考】
杉田教会
向坂庚申塔・道標(磯子区上中里)
一杯水(いっぺい水):磯子区杉田9丁目1
ヒメオドリコソウ Lamium purpureum
岩船地蔵尊:磯子区上中里町
京急富岡駅下人道トンネル
曲っ坂
円海山(京急富岡駅ホームより)
白梅 Armenica mume
スイカズラ Lonicera japonica

鷹取山、朝比奈、釜利谷を経由して杉田へ

 緊急事態宣言を受けてテレワーク率が増えた結果、慢性的な運動不足です。今日は買い置きが切れてしまった乾燥豆腐を買い足しに杉田まで、人混みを避けた経路で歩いてみました。帰りは京急本線利用です。
【主な経路】
(自宅)~浜見台~鷹取山~六浦~朝比奈~常林寺跡~朝比奈北市民の森~釜利谷~能見台~氷取沢~上中里~中原~(杉田駅)


 (中原)熊野神社
 カヤ Cephalotaxus hamingtonia:横浜市指定名木古木 No.201801
 イチョウ Ginkgo biloba:横浜市指定名木古木 No.201802
 イチョウ Ginkgo biloba:横浜市指定名木古木 No.201805
   熊野神社縁起
 当社の由来は建久二年(西暦一一九二年)征夷大将軍になった源頼朝が、鎌倉の山崎にあった泉蔵院の僧 真諦知覚法印に治国安民の祈祷を命じたことに遡る。頼朝の命を受けた知覚法印は、我が国第一の霊場とされて居た紀州熊野に参詣して幣帛を捧げ、三所権現の御分霊を樟の船に乗せ、祈りを込めて海に流した。樟舟は御神意のままに中原の海岸に流れ着き、この事が将軍に伝わり、頼朝は御神慮の有難さを感じて、近くの地に神殿を建てるよう知覚法印に命じた。
 知覚法印は、東に海を望む景勝の当地を選び山上に熊野三所権現社を祀り、山裾に紀州山桐谷寺を建立すべく同年五月六日に着工し、十一月十五日に完成させた。
 後に桐谷寺は山号を大霊山泉蔵院と改め、、熊野三所権現社の別当として当社に奉仕し、国家安泰・万民和楽の祈願を続けて来た。その間文禄三年九月(一五九四年)社殿再建、正徳五年(一七一五年)、社殿は改築され規模は九尺に二間であった。その後安政四年(一八五七年)にも再度改築が施された。
 明治初年の神仏分離令により社名を熊野神社と改め、法印は神職となり約七百ねん続いた泉蔵院は廃寺となった。明治四十二年神社統合令により村内の中原明神・諏訪神社の二社が合祀された。大正四年社殿の改築が行われ本殿は二間に一間半の神明造り、幣殿は二間に一間半、拝殿は二間半に二間半向拝付き銅葺きの建物となった。
 昭和六十一年三十五代宮司杉原章夫の折、氏子・崇敬者より社殿新築の議が起こり、氏子総代寺田勝彦氏が建築委員長となり、大同建設株式会社岡田文雄氏・大工棟梁両角賢治氏にて施行され、昭和六十二年(一九八七年)十二月に現社殿が完成した。本殿は二間に一間二五の神明造り、幣殿は二間に一間七五、拝殿は三間半に二間唐破風付き銅葺きである。
 平成四年(一九九二年)には創建八百年の奉祝祭が執り行われた。
          三十六代宮司 杉原博昭
【御祭神】家津美御子大神・伊邪那美大神・事解之男神・伊邪那岐大神
     速玉之大神・天照皇大神・建御名方神・日本武尊命
【境内社】金比羅社・摩利支天社・稲荷社
【祭事】一月一日元旦祭 二月十一日祈年祭 三月初旬泉蔵社祭
    五月下旬摩利支天祭 八月中旬大祭 十一月二十三日新嘗祭


    泉蔵社縁起
 建久二年(西暦一九九二年)征夷大将軍となった源頼朝は、鎌倉の山崎にあった泉蔵院の僧 真諦知覚法印に治国安民の祈祷をさせ、紀州熊野三所権現の御分霊が流れ着いた中原のこの山上に熊野権現社を祀り、山裾に寺を開創するように命じた。
 知覚法印は同年五月六日に着工し、十一月十五日に完成させた。権現社落慶の日、頼朝は梶原を奉幣使として当社に派遣し、山裾の寺に「紀州山桐谷寺」の次号を与え、知覚法印を別当に命じた。
 ニ世栄源法院の折、梵鐘を造立、三世浄奉法印の頃(推定)鎌倉の兵火を避けて山崎泉蔵院を引き払い当地に移り山号を「大霊山泉蔵院」に改めた。五世祐賢法印が正応二年(一二八九年)に社記を書き、二十六世善祐法印がこの社記を書写した。二十八世祐仙法印の折、二間に二間半の観音堂が創建されたが、当時本堂の規模は五間半に五間であった。
 泉蔵院は約七百年らわたり熊野三所権現社の別当として国家安泰・万民和楽の祈願を続けて来たが、明治初年の神仏分離令により、熊野三社権現社は社名を熊野神社と改め、泉蔵院は廃寺となった。
 昭和六十三年(一九八八年)熊野神社御社殿新築落成の嘉き年に当たり、かつて熊野三所権現社に祀られていた大神宮・貴布祢・八幡・牛頭天王・船玉の諸神と泉蔵院に祀られていた不動様・衿迦羅童子・制多迦童子・観音様・お釈迦様・地蔵様・大黒天様・神変菩薩・四天王の諸神をお祀りし社名を「泉蔵社」とした。毎年三月初旬に泉蔵社祭を斎行している。
          三六代宮司 杉原博昭



【参考】
 マルバウツギ Deutzia scabra
 カワラタケ Trametes versicolor
 コウヤボウキ Pertya scandens
 スイカズラ Lonicera japonica
 ヤブヅバキ Camellia japonica
 沼間のスダジイ Castanopsis sieboldii
 シロヨメナ Aster ageratoides
 マンリョウ Ardisia crenata
 アオキ Aucuba japonica
 ヤブコウジ Ardisia japonica
 ヤマコウバシ Lindera glauca
 カラマツソウ Thalictrum aquilegiifolium
 ヘクソカズラ Paederia scandens
 親不知
 子不知
 アセビ Pieris japonica
 釈迦如来像
 アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata
 ルリシジミ Celastrina argiolus ladonidea
 ヒメユズリハ Daphniphyllum teijsmannii
 コカマキリ Statilia maculataの卵巣
 ナワシログミ Elaeagnus pungens
 ツルグミ Elaeagnus glabra
 紫月(ルビーネックレス) Senecio Othonna capensis Syn. Crassothonna capensis
 ジンチョウゲ Daphne odora
 ヒメツルソバ Persicaria capitata
 イヌガヤ Cephalotaxus harringtonia:横浜市指定名木古木 No.48140
 二ホンスイセン Narcissus tazetta var. chinensis
 オニシバリ Daphne pseudomezereum
 ゴモジュ Viburnum suspensum
 カワニナ Semisulcospira libertina
 シマアメンボ Metrocoris histrio (無翅型)
 コサギ Egretta garzetta
 カントウタンポポ Taraxacum platycarpum
 サネカズラ Kadsura japonica の花托
 岩船地蔵尊
 ヤドリギ Viscum album
 水神

神奈川区西部の名木古木、など

 今日は昨年から引き続きで神奈川区の名木古木を巡ってみました。
名木古木マップ  神奈川区東南部の名木古木  石塔  神社
【主な経路】
 (横浜駅)-三ツ沢-羽沢-菅田-鳥山-(新横浜)


イチョウ No.48047:法照山豊顕寺(神奈川区三ツ沢西町16-1)
イチョウ No.48046:神奈川区羽沢町907
イチョウ No.48045:照光山平本院青蓮寺(神奈川区羽沢町762)


豊顕寺ぶげんじ市民の森
 三ッ沢公園に続く市民の森です。花と木が多いお寺の石段は、静かな古都の風情を漂わせ、桜の名所としても有名です。樹齢600年を超える、市指定名木・古木のイチョウの木があります。


  豊顕寺ぶげんじ
 当寺は、法照山と号す法華宗陣門龍総本山本成寺末の寺院です。
 三河国多米ため村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のたるに永正えいしょう12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。元興の父元益は、伊勢七騎の一人でした。(伊勢はのちに北条氏と称す)元興は天文てんぶん年間(1532~1555)北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城砦を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ッ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しましたル元興の没後、その子長宗は青木城を領し、元興の隠棲の地を当寺に寄進し、堂宇を造営したので地方には稀な巨刹となりました。
 享保きょほう5年’1720)本宗の檀林として学舎5棟、学寮25棟を建設し開講式を挙行しました。学徒は300人を下らぬ盛況を極めたといいます。その後も再建・増築をし宏大な規模になりましたが、明治期になり火災による焼失、大正期の地震による倒壊によって檀林は廃絶いたしました。
 境内には、鷲津(静岡県)の本興寺から根分けした藤を記念しての碑が藤棚の下にあり、また、江戸から保土ケ谷宿に来宿し、宿内の人々に歌学を教授した山平伴鹿の歌碑があります。多米家歴代の墓は、境内左側にあります。
     横浜市教育委員会文化財課
     財団法人横浜国際観光協会
            平成5年3月



タブノキ No.51001:(羽沢)神明社
タブノキ No.51002:(羽沢)神明社
イチョウ No.48032(左), 48033(右):正寿山長導寺
ヤマモミジ(確認できず):八幡宮



アカガシ No.48034:(菅田)神明社
シラカシ No.53005:(菅田)神明社
モチノキ No.53006:(菅田)神明社
ヒイラギ(確認できず):(菅田)神明社
イトヒバ No.49045:熊野山最勝寺
タブノキ No.48035:熊野山最勝寺
最勝寺さいしょうじ
 静かなたたずまいのお寺には、市指定名木・古木のタブノキ・イトヒバがあります。お寺の横には、区内にある三つの富士塚の中で最も大きい、熊野堂の富士塚があり、頂上から周辺の景色を眺めることができます。



イチョウ No.48153:鳥山八幡宮
シラカシ No.48154:鳥山八幡宮
シラカシ No.49357(左)、49358(右):鳥山八幡宮
サワラ No.49359:鳥山八幡宮
イチョウ No.49363:瑞雲山三念寺
サルスベリ No.201418:瑞雲山三念寺
ケヤキ No.49366:瑞雲山三念寺



   よこはま道
安政5年(1858)6月の日米通商条約調印によって開国にふみきった幕府は、神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。
 しかし、ミナト横浜の町づくりは開港3ヶ月前の3月になって、やっと工事が始まった。当時は、東海道筋から、横浜への交通はまことに不便を極めたことから、幕府は、東海道筋の芝生しぼう村(現:浅間町のこの地点)から横浜(関内)に至る「よこはま道」と呼ばれる道路を開いた。
 これは、芝生しぼうから湿地帯であった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで1直線に通ずる道路を築くと共に新田間あらたま、平沼・石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂・野毛の切通を開き、野毛橋(現:都橋)、大田橋(吉田橋)を架けたものである。
 記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同程度であったものと考えられる。
 なにしろ、工期3ヶ月の突貫工事であったことと、橋材が過ぎと松を使用した仮普請であったことから「3年ももつまい…」と噂されたが、それでも戸部村までの経費で、4470両かかった。


土地改良記念碑(神奈川区菅田町2408)
  事業の状況
 設置認可 昭和四十二年十一月一日
 解散認可 昭和五十三年三月九日
 改良面積 五ヘクタール
 橋梁   新菅田橋外六基
 道路工  一二二六米
 水路工  一二七〇米
 総工費  二八二〇万圓



【参考】
 イチョウ Ginkgo biloba
 タブノキ Machilus thunbergii
 アカガシ Quercus acuta
 シラカシ Quercus myrsinifolia
 モチノキ Ilex integra
 ヒイラギ Osmanthus heterophyllus
 イトヒバ Chamaecyparis obtusa ‘Pendula’
 サワラ Chamaecyparis pisifera
 サルスベリ Lagerstroemia indica
 ケヤキ Zelkova serrata
 アツバキミガヨラン Yucca gloriosa
 マサキ Euonymus japonicus
 マンリョウ Ardisia crenata
 ハクサイ Brassica rapa subsp. pekinensis
 キャベツ Brassica oleracea var. capitata
 キカラスウリ Trichosanthes kirilowii var. japonica
 ブロッコリー Brassica oleracea var. italica
 枝垂桜(しだれざくら)Cerasus spachiana (菅田史跡富士浅間)
 キンカン Fortunella spp.
 ダイオウショウ Pinus palustris
 オナガ Cyanopica cyanus
 ソヨゴ Ilex pedunculosa


【参考】
 横浜道分岐点
 日本ホーリネス教団横浜教会
 横浜市戦没者慰霊碑(三ッ沢公園)
 石塔群(庚申、地蔵):神奈川区羽沢町907
 双体道祖神:神奈川区羽沢町907
 不明の社:神奈川区羽沢町776
 堅牢地神塔:
 史蹟硯松:神奈川区羽沢町993
 羽沢富士塚:神奈川区羽沢町917
 馬頭観音(羽沢富士塚)
 庚申祠:神奈川区菅田町2000
 道祖神:神奈川区菅田町2000
 稲荷社:神奈川区菅田町1944
 稲荷社:神奈川区菅田町2311
 土地改良記念碑(神奈川区菅田町2408)
 新菅田橋跡:神奈川区菅田町2250
 八幡橋跡:神奈川区菅田町2249
 八幡宮:神奈川区菅田町2535
 道祖神:港北区鳥山町371
 庚申塔群:港北区鳥山町281
 双体道祖神:港北区篠原町1262
 TPHO
 鷹取山夕照

歳の瀬の鷹取山

 昨日の金沢八景権現山に続いて、今日は鷹取山を歩いてみました。ヤブツバキの花の時期には少し早いので少々淋しい季節なのですが、木本植物の葉など今の季節でないと気づくことの出来なかった彩に気づきます。遠目に白い花のように見えたのは、シロヨメナの総苞片でした。


C-252 シロダモハコブフシ【湯川(1996)を転記】
 シロダモタマバエ Pseudosphondylia neolitseae Yukawa(1974) によって葉に形成される虫えいである。展開直後の葉表には直径2~3mmの赤い斑点が現れ、その後急速に生長し、初夏には成熟する。虫えいの葉表部には黒褐色で先端の丸くなった円錐形、葉裏部は茶褐色で半球形を呈する。九州南部では、高さは2.8~5.0mm、直径は2.1~3.5mmで、葉表部の突出の方が葉裏部のそれよりも大きい。暖かい地方ではこの傾向がさらに強くなるが、九州北部などでは、逆に、葉裏の半球形の部分が大きくなり、葉表の円錐形の部分が小さくなる。内部はほぼ球形の幼虫室があり、淡黄褐色の幼虫が1匹入っている。成虫は虫えいの葉裏部から羽化する。多いときには、葉当たりの虫えい数が100個にも達することがあり、葉が折れ曲がったり、捻じれたりする。
 生態 基本的には年1世代であるが、まれに2年1世代のものもある(図II-17)。成虫は4月上~中旬に羽化し、20~40mmに伸びた新芽の中に産卵する。羽化した幼虫は新葉に潜入し、その部分が赤斑点になり、初夏には顕著な虫えいとなる。1齢で越夏し、秋には2齢から3齢に進み、翌春、虫えい内で蛹化する。2年1世代のものは2年目の秋まで1齢のままで、その後、年1世代のものと同じような経過をたどる。これまで内部寄生蜂としてコガネコバチ科のGastrancistrus sp.、外部寄生蜂としてシロダモタマバエコマユバチ Bracon tamabae Maetô(1991) (=Ibobracon scurra Fischer)が知られている(436ページ参照)。
 分布 本州、佐渡、伊豆諸島、四国、九州、種子島、屋久島、南西諸島。
(参考文献) 井手(1928)、Maetô(1991)、Sunose(1982)、巣瀬(1986d)、鈴木(1980)、Takasu & Yukawa(1984)、薄葉(1977)、山内ら(1982)、矢野(1964)、Yukawa(1974, 1976b, 1983a)、湯川(1979a, 1984a, 1988d)、Yukawa et al.(1976)、湯川・松岡(1992)、湯川・巣瀬(1988)。
虫癭ちゅうえい = 虫こぶ。

【参考】
 イソギク Chrysanthemum pacificum
 シロヨメナ Aster ageratoides
 ツルマサキ Euonymus fortunei
 コゴメウツギ Stephanandra incisa
 ナンテン Nandina domestica
 カニクサ Lygodium japonicum
 イタビカズラ Ficus nipponica
 オオバウマノスズグサ Aristolochia kaempferi var. kaempferi
 エビヅル Vitis ficifolia
 マルバウツギ Deutzia scabra
 シロダモ Neolitsea sericea
 マンリョウ Ardisia crenata
 オニシバリ Daphne pseudomezereum
 前浅間
 コウヤボウキ Pertya scandens
 キヅタ Hedera rhombea
 マユミ Euonymus hamiltonianus
 ハゼノキ Rhus succedanea
 ウグイスカグラ Lonicera gracilipes
 トネアザミ Cirsium comosum ver. incomptum
 ヤマブキ Kerria japonica
 ヤマコウバシ Lindera glauca
 親不知
 子不知
 ビワ Eriobotrya japonica
 ヤブツバキ Camellia japonica
 アセビ Pieris japonica
 壁画群
 リュウノヒゲ Ophiopogon japonicus
 ハリギリ Kalopanax septemlobus
 シロダモハコブフシ
 ヤツデ Fatsia japonica
 コセンダングサ Bidens pilosa var. pilosa
 サルトリイバラ Smilax china
 アオキ Aucuba japonica
 アケビ Akebia quinata
 釈迦如来像
 ミツバアケビ Akebia trifoliata
 ナワシログミ Elaeagnus pungens
 サザンカ Camellia sasanqua
 セイヨウヒイラギ Ilex aquifolium
 ギョリュウバイ Leptospermum scoparium
 夕照橋よりみた富嶽


参考文献
渡邉-東間加奈・大井-東間哲雄(2016)日本産オオバウマノスズクサ群の分類学史およびオオバウマノスズクサとアリマウマノスズクサの混同について、Bunrui, 16(2):131-151、URL: https://www.jstage.jst.go.jp/article/bunrui/16/2/16_01602-06/_pdf/-char/ja、accesed: 2020-12-29.
湯川淳一(1996)日本原色虫えい図鑑、p.201.

歳の瀬の金沢八景権現山

 計画から5年以上経ってしまった金沢八景西公園(仮称)は八景権現山公園に名称が決まって、円通寺客殿再建築工事を伴う整備事業が行われています。実際に工事をしている所はあまり見かけませんが、完成予定は2020年3月31日とのことです。
 権現山の金沢八景側の上り口は石敢當が守っていたのですが、今日はみつけることが出来ませんでした。ヤブツバキはまだ咲始めといったところです。


 八景権現山公園
 イヌマキ Podocarpus macrophyllus
 ハリギリ Kalopanax septemlobus
 ヤマモミジ Acer amoenum var. matsumurae
 スエヒロタケ Schizophyllum commune
 シロヨメナ Aster ageratoides
 ノダフジ Wisteria floribunda
 イタビカズラ Ficus nipponica
 イヌガヤ Cephalotaxus hamingtonia
 ツルマサキEuonymus fortunei var. fortunei
 紅葉
 サルトリイバラ Smilax china
 ヤブツバキ Camellia japonica
 シーパラダイス、富津方面
 笠森稲荷神社
 ヤツデ Fatsia japonica
 不動祠(上行寺)
 イヌガヤ Cephalotaxus hamingtonia (横浜市名木古木 No.49292):上行寺
 11月で廃業したそよ風食堂

入江川を遡る~西園橋から源流地点まで

 今日は先日の続きで入江川の源流近辺まで歩いてみました。
 入江川、滝の川マップ  神社  坂道  石塔  ひまわり


 西園橋さいえんはし
 名称不明の橋 x 2
 久保下橋くぼしもはし
 暗渠流出口



 農園橋
 暗渠流入口
 第一子園橋
 名称不明の橋 x 4



 第二子園橋
 名称不明の橋 x 2


a16-18
 


 名称不明の橋 x 2

 第四子園橋
 名称不明の橋 x 5


「入江川せせらぎ緑道」と下水処理水を有効に利用して水辺を復活したことで。平成10年度「手作り郷土ふるさと賞」に認定されました。
  下水道局のキャラクター
   かばのだいちゃん
 名称不明の橋 x 3



 向谷橋
 名称不明の橋 x4



 松蔭橋
 名称不明の橋
 暗渠流出口
 源流噴出モニュメント
 白幡下橋
 源流地点
 名称不明の橋


【入江川支流】
 入江川には、入江川遊水地を源流として水道道下の暗渠を介して合流する支流があるのですが、この支流の側道は来春まで工事中(2020.2.26までを予定)で通行禁止となっていました。名前のついている橋はなさそうですが、来年また尋ねたいと思います。


 この柵内の入江川遊水地管理地は、地区の運動公園として利用登録団体に午前9時から午後6時まで開放しています。利用時間以外の夜間・早朝には中に入れません。
 なお、利用団体の登録並びにご利用申込にあたっては、入江川遊水地多目的広場管理委員会までお尋ねください。
 横浜道路局河川管理課 ☎671-2855


宋興寺


◎宋興寺とヘボン博士
 曹洞宗宋興寺は、上の『神奈川駅中図絵』では権現山の麓に描かれている。
 開港当時、アメリカ人宣教師で医師であったヘボン博士がここに施療所を開いた。これを記念する石碑にたてられている。
 このヘボン博士は、「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行った。後に、明治学院を創設するなど、わが国の教育にも尽力した人である。


滝ノ橋と本陣跡


慶運寺けいうんじ
 慶運寺は、室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観おんよしょうかんによって開かれた。京の連歌師谷宗牧は、『東国紀行』の天文十四年(一五四四)三月三日の条に「ほどなくかな川につきたり、此処へもこづくへ小机の城主へいひつけられ。旅宿運慶寺にかまへたり」と書いている。開港当時はフランス領事館に使われた。
 また、浦島寺とも呼ばれている。浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっている。


横浜市地域有形民俗文化財
 浦島太郎伝説関係資料
        平成七年十一月一日登録

  所有者 宗教法人慶運寺けいうんじ 宗教法人蓮法寺れんぽうじ
  所在地 神奈川区神奈川本町一八番地二 神奈川区七島町二一番地
本尊浦島観音(旧観福寿寺かんぷくじゅじ) 一躯
浦島父子塔(旧観福寿寺旧在) 一基
浦島寺碑(旧観福寿寺旧在) 一基
  登録資料 伝供養塔 三基
顕彰歌碑 太田唯助作 一基
 横浜市神奈川区にも伝わる浦島太郎伝説は、観福寿寺に伝えられていた縁起書に由来すると考えられますが、同寺は慶応四年(一八六八)に焼失したため、縁起の詳細については確認できません。しかし、『江戸名所図会えどめいしょずえ』『金川砂子かながわすなご』などの文献には縁起に関する記述がみられます。
 それらによると、相州三浦の住人浦島太夫が丹後国(現在の京都府北部)に移住した後、太郎が生まれた。太郎が二〇歳余りの頃、澄の江の浦から龍宮にいたり、そこで暮らすこととなった。三年の後、澄の江の浦へ帰ってみると、里人に知る人もなく、やむなく本国の相州へ下り、父母のことを訪ねたところ、三百余年前に死去しており、武蔵国白幡の峯に葬られたことを知る。これに落胆した太郎は、神奈川の浜辺より亀に乗って龍宮へ戻り、再び帰ることはなかった。そこで人々は神体をつくり浦島大明神として祀った、という内容です。
 この浦島太郎伝説が伝わっていた観福寿寺の資料は、同寺とゆかりの深い慶運寺(本寺)と、大正末期に観福寿寺が所在した地に移転してきた蓮法寺(神奈川区七島町二一番地)に残されています。
 慶運寺に移された浦島観世音は、浦島太郎が龍宮から玉手箱とともに持ち帰ったとされるもので、亀の形をした台座の上に「浦島寺」と刻まれた浦島寺碑や浦島父子塔とともに、浦島伝説を今日に伝えるものです。
          横浜市教育委員会


 宋興寺に掲示された説明文(最後の一段落以外は同文でした)



◎大口通商店街
 アーケードに沿って個性的な懐かしい店が並ぶ、気取りのない生き生きとした商店街で、近所の人たちの台所を支えています。周辺の商店街とあわせ、その安さには定評があります。



曹洞宗徳雄山建功寺
 建功寺は、永禄年間(一五六〇頃)当寺二世聲庵守聞和尚が寺尾城主諏訪馬之助の帰依を受けて創建し師の伊勢原龍散寺三世大州長譽和尚を勧請、開山した禅寺で、慶長十四年(一六〇九)この地に堂宇を建立した。開基諏訪氏の定紋諏訪梶を寺紋とし、寺宝として延宝三年(一六七五)鋳造の法堂鐘がある。
 平成七年七月 第十七世 大観信歩代



馬場の赤門(旧澤野家長屋門)
人類は太古の昔より地上に石を立て土を盛り上げてそれが碑となり塚となって後世に傳えられた。我が家の祖先は二百有余年前此の地に分家祖先三代にわたりよく働き郷土郷党のために尽した。
東西馬場北の寺尾西四ヶ村徳川幕府直領の総代名主として名字帯刀並びに間口八間半の長屋門に紅殻塗を許された人稱して、「赤門」と呼び近郷の目標となる。明治の初年には土地所有の面積十八万坪記録したが第二次世界大戦敗戰の余波は我が家にも及び、所有地の大部分が解放を命せらるに至った。
之は歴史の興亡を考へれば止むなきを得ない事ではあるが子々孫々に至るまで祖先の功労威徳に報いる事、守護神伏見稲荷の祭祀を忘るべからず。
心今もいこい
    在さむ自然林
永久に傳えむ鳥のすみかに
 昭和五十二年七月 *)
沢野家九代豊ス々選文建碑
 川崎市会議員篠田茂男書
*:近くに石碑もあり、仮名遣いの違いなどを除けば同文だが、そちらでは「昭和四十八年五月」となっていて、篠田氏の名前もない。


【板碑】
   告
  馬場の赤門【板碑】
江戸時代の名主(代官の支配下に村内の民政を扱った)屋敷の長屋門で幕府より紅がらぬりを許された。安政年間一八五五年に建てられ東寺尾、北寺尾、西寺尾、馬場、四ヶ村総代名主当時の建物です。
     ふるさと新発見
        寺尾奉行


【大理石碑】
  赤門
江戸時代の名主(代官支配下に村内民政を扱った)屋敷の長屋門で幕府より紅がらぬりを許るされた。安政年間(一八五五年)に建てられ東寺尾北寺尾西寺尾馬場四ヶ村総代名主当時の建造物
 昭和四十五年十二月
    寺尾郷土研究會


馬頭観音像:鶴見区馬場5丁目1-9


     告
 馬頭観世音像
鶴見区内には十五基ほどある観世音像にはほとんどが個人で建てたものだがこの像は台石正面に「寺尾村池谷講中」と書かれてあり、村で建てた珍しいものである。
寺尾城から来た馬が立ち止まって動かない事から馬の完全祈願として建てられた説と、運搬馬として神川宿への助郷に〇われたという二つの謂われがあり文化二年(一八〇五に建てられた。
     ふるさと発見
       寺尾奉行



     市場村一里塚由来記
昔街道一里毎に塚を築は塚上に榎を植えて標示した。これもを一里塚という。江戸日本橋を起点に東海道に造られた市場村一里塚もその一つで今(昭和三十八年)から三百六十年前、即ち慶長九年徳川家康が東海、東山、中山、諸道を修理する時築いたものが明治初年
までは相對して道の兩側に同じ塚があったが取りこわされ一方のみ残る。日本橋から数えて五里(三十粁)に當る。永い間風雨にさらされ土が崩れ流れるもので地元有志これを惜しみ昭和二十五年八月大谷石をもって土止めをしこえて三十八年五月補修を加えこの碑を達つ
     昭和三十八年五月
          熊野神社宮司   萩原豊英
          一里塚保存会代表 鈴木菊蔵
                   松本喜代之介
                   外 有志一同


  市場の一里塚
 慶長9年(1604)徳川幕府は、江戸から京都までの街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。
 里程の目標として人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えました。
 ここは江戸より五里目の塚に当り、市内で最初の一里塚です。明治9年(1877)地租改正にあたり払下げられ、左側の塚が現存しています。昭和初期までの塚の上には榎の大木が繁茂していました。
 昭和8年(1932)6月「武州橘樹郡市場村一里塚」(添田担書)の碑が建立されました。
 平成元年(1989)横浜市地域文化財として登録されました。
          横浜市教育委員会
          財団法人横浜国際観光協会
                 平成5年3月


その他の写真
 キンクロハジロと思って望遠撮影していたカモ類はスズガモでした。最近一段と視力が落ちているようです。


【参考】
 キダチロカイ Aloe arborescens
 イチョウ Ginkgo biloba
 スズガモ Aythya marila
 エビヅル Vitis ficifolia
 ハシボソガラス Corvus corone
 コサギ Egretta garzetta
 雷神社(須賀市追浜本町1-9)
 浦谷山法福寺(横須賀市追浜本町1-19)
 青木山延命院本覺寺(神奈川区高島台1-2)
 開塔山日輪院宗興寺(神奈川区幸ヶ谷10-6)
 吉祥山茅草院慶運寺(神奈川区神奈川本町18-2)
 台座の亀(慶運寺)
 浦島観音堂(慶運寺)
 立町歩道橋上より東を望む
 鷲の湯(神奈川区七島町151)
 大口通商店街
 大口駅前
 入江川公園
 福助湯
 徳雄山建功寺:鶴見区馬場1丁目2-1
 馬場の赤門(旧澤野家長屋門):横浜市鶴見区馬場1丁目10-23
 稲荷社:鶴見区馬場2丁目23-13
 デイサービスひまわり畑:横浜市鶴見区馬場3-18-22
 庚申塔:鶴見区東寺尾6丁目36
 大阪(東寺尾)
 熊野神社:寺谷1丁目21-7
 弁天社;弁天池(鶴見区寺谷1丁目16-13)
 鶴見川
 鶴見川橋
 下町稲荷:鶴見区市場下町9-23
 庚申堂:鶴見区市場下町9
 稲荷社:市場一里塚

臺町十五景を訪ねて

 今日は、幕末の浮世絵に残された「臺町十五景」の地を訪ねてみました。いわゆる八景とは少々趣が異なっててはいますので、瀟湘八景型に準えることは困難ですが、世に知らしめたい景色を撰しているという点では共通するものがあります。横浜開港資料館(2019)によれば、初代歌川広重作の「神奈川台石崎楼上十五景一望之圖」に基づき、下記の15景とされています。
 1,2,3,4,8,9,12,15の八つが現在の台町周辺、他は遠景となっていましたので、今日訪ねたのはこの八か所と6の平沼です。なお、4の芝生は現在は西区ですが、かつては神奈川区なので周辺としているものと推定されます。
「臺町十五景」
 01.清水山清水
 02.将軍山櫻花
 03.本覺寺宿鴉
 04.芝生の秋
 05.鹿野山(望)月
 06.平沼塩煙
 07.芙峯遥望
 08.港千鳥
 09.宮洲汐干
 10.野毛海苔舟
 11.橫濱漁火
 12.権現山夕陽
 13.洲乾雪
 14.本牧舶風
 15.洲嵜神社


09.宮洲汐干
 一望圖によれば、滝の川に架かる滝の橋よりやや西側の地点ですので、現在の神奈川公園当りの干潟と思われます。神奈川公園ではイチョウの黄葉が終りに近づいており、第一京浜を隔てた幸ヶ谷小学校では、壁画の改修作業中でした。


15.洲嵜神社
 洲嵜神社は、12世紀に源頼朝が安房国から勧請したと伝えられる古社です。かつては神奈川湊がすぐ前だったようです。

◎洲崎大神
 洲崎大神は、建久二年(一一九一)、源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。
 「江戸名所図会」の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。神社前から海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたり。そこが、かつての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。


【経年劣化に伴う掠れが激しいため誤判読の可能性あり】
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洲﨑大神由緒畧記
祭神 天太玉命
   天比理刀賣命
相殿 素盞男命
   大山咋命
例祭 六月六七八日
創立 建久二年六月二十六日
祭神天太玉命は神祇政治の祖神、天比理刀賣命はその御妃の神にまします。源頼朝公石橋山の合戦に敗れ相州真鶴より海路安房に渡り安房洲崎の安房神社に参籠再起を祈り後に天下を平定して鎌倉幕府を開くや神恩を忘れず安房神社に幣帛を奉ると共にこの地を按定して御分霊を勧請して一祠を創建し鎌倉幕府直轄の神社として祭典を厳修せる。頼朝公奉献の神境今に伝承す。
昭和十五年に御鎮座七百五十年祭を執行す。大正十二年九月一日の震災、昭和二十年五月十日戦災等、氏子と共に度々火災に戦災に炎上せるも氏子民の協力奉仕により共に再建復興され昭和三十一年六月竣工奉告祝賀祭を執行す。
  昭和三十一年六月     宮司 吉田〇〇(読み取れず)
————————————————————————–
参考文献
 洲崎大神(武蔵国橘樹郡神奈川宿青木町御鎮守・洲崎神社)情報, Accessed:2020/12/21.
 神奈川区誌編纂刊行実行委員会(1977)神奈川区誌、628+59p.


12.権現山夕陽
 権現山は戦国時代の古戦場でしたが、幕末の埋め立て事業で平削され、現在の山頂附近は幸ヶ谷公園となっています。桜の名所としても知られていますが、近年は手入れが行き届いておらず、委託業者に刈り込まれた姿を、年輩の男性が嘆いていらっしゃいました


◎権現山
 かつてこのあたりは権現山と呼ばれ、本覚寺のある高島台と尾根伝いに繋がる急峻な山であった。戦国時代、当時の関東の支配者上杉氏の家臣上田蔵人は、北條早雲に味方して謀反を起こし、この山上に砦を築いてたてこもった。合戦は上杉氏の勝利に終わったが、その後、上杉氏の力が弱まり北條氏による関東支配が始まった。
 幕末から、明治にかけて、お台場や鉄道用地に埋め立て、開削などのために山は削られ、現在のように低くなった。


08.港千鳥
 現在の青木橋の辺りと思われますが、今では当時を偲ぶものはなにもありません。当時は尾根続きだった権現山と高島台の間には、JR線と京急線が引き切りなしに行きかっています。


03.本覺寺宿鴉
 青木山本覺寺は、江戸時代にアメリカ領事館として利用されたことで知られており、当時山門近くに聳えていた玉楠(タブノキ)に星条旗が掲げられていたと伝えられています。現在でも境内に6本の名木古木が残っています。


◎本覺寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(一五三二)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。
 開港当時。ハリスは自ら見分け。渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらには湾内を見通すことができる本覺寺をアメリカ領事館に決めたという。
 領事館時代は白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。


02.将軍山櫻花
 神奈川区誌(1977)によれば、現在の大網神社は、創建時は将軍飯縄大権現と称し、鎮座地も現在の裏山上だったそうです。この山の桜を愛でた一景と思われます。天狗が高尾山から安房に渡る際に立寄るという言い伝えがあるそうで、境内には稲荷社、龍神社、弁天社もありました。


◎大網金刀比羅神社と一里塚
 この神社は、社殿によると平安末期の創立で、もと飯縄社といわれ、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大網金刀比羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から崇められ、大天狗の伝説でも知られている。
 また、江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目にあたり、土盛の上に樹が植えられた大きなものであった。


01.清水山清水
 斉藤(2019)によれば『①清水山は台町の坂の頂上にある大日堂の山号』とのヒントがあったのですが、この大日堂がどこにあったのか探し当てることは出来ていませんでした。一方、神奈川臺関門跡の碑の裏山に『東海道清水山』という立札がありましたので、このあたりのことの様です。当該地近くの私有地に井戸が残されていました。


◎神奈川台の関門跡
 ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(一八五九)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が造られた。そのうちの西側の関門が神奈川台の関門である。明治四年(一八七一)に他の関門・番所とともに廃止された。


 以上の七か所が台町エリアの景で、後は台町から見渡すことの出来る景になります。


04.芝生の秋
 芝生は現在の浅間町の旧名で、昭和の初期までは神奈川区でした。建造物の少なかった時代には台町から浅間神社がよく見えたに違いありません。浅間下歩道橋からはランドマークタワーがよく見えました。


◎浅間神社と富士の人穴
 創建は承暦4(1080)年、富士浅間社の分霊を祭ったものと伝えられています。旧芝生村(しぼうむら)鎮守。本殿のある丘は袖すり山と呼ばれ、昔は山の下がすぐ波打ち際であったといいます。境内西側の崖に富士山に通じていると伝えられる「富士の人穴(ひとあな)」と呼ばれる古代の橫穴墓があり、東海道を往還する人々が見物する名所となっていました。しかし今は、周辺の開発によって見ることもできなくなってしまいました。


06.平沼塩煙
 平沼も地名こそ残っていますが、今はすべて埋め立てられ、当時の塩焼きを偲ぶことが出来るのは水天宮くらいでしょうか。広大な土地にガスタンク、住宅展示場、横浜イングリッシュガーデンがあるのがこの地区です。


以下は、以前に撮影した関連地の映像です。
05.鹿野山(望)月-東京湾観音


07.芙峯遥望-野毛のつり橋から見た富士山


 10.野毛海苔舟-野毛福満弁財天


11.橫濱漁火-氷川丸


13.洲乾雪-象の鼻パーク


 14.本牧舶風-本牧八聖殿


【参考文献】
 斉藤司(2019)、神奈川宿台町からの眺望と横浜、Accessed 2020-12-13.
 神奈川区誌編纂刊行実行委員会(1977)神奈川区誌、628+59p.


 以下はその他本日撮影の写真です。


【参考】
 街角のアート
  仮想境界面/物体-1(2008年):矢萩喜従郎(Imaginary Boundary Planes / Object -1 2008 : Kijuro Yahagi)
  仮想境界面/物体-2(2008年):矢萩喜従郎(Imaginary Boundary Planes / Object -2 2008 : Kijuro Yahagi)
  仮想境界面/物体-3(2008年):矢萩喜従郎(Imaginary Boundary Planes / Object -3 2008 : Kijuro Yahagi)
  仮想境界面/物体-4(2008年):矢萩喜従郎(Imaginary Boundary Planes / Object -4 2008 : Kijuro Yahagi)
 金港公園
 イチョウ Ginkgo biloba
 タラヨウ Ilex latifolia
 滝の川
 キンクロハジロ Aythya fuligula
 タブノキ Machilus thunbergii
 神奈川台関門跡
 亀のデザインの車止め
 沢渡中央公園
 メタセコイア Metasequoia glyptostroboides
 ツワブキ Farfugium japonicum
 亀型ブロックと通常ブロックの境界
 アオサギ Ardea cinerea
 ウミウ Phalacrocorax capillatus
 常盤山査子(ピラカンサ) Pyracantha spp.
 ビワ Eriobotrya japonica

入江川を遡る~河口から西園橋まで

 現在神奈川区に流入する河川は、滝の川と入江川の2川です。滝の川は片倉町辺りが源流域ですが暗渠化が進み、表面流下しているのは国道1号線から南東側の1km程の短い河川です。一方、東寺尾辺りの支流を集める入江川は、第一京浜まではごく普通の小川ですが、明治時代の埋め立て地に流入するや、複雑な派川(運河)にわかれています。主要な2派川の他に少なくとも7つの小派川に分かれているようです。今日はこの入江川を遡ってみました。途中、いくつかの神社、カナガワの地名の元になったとも言われる上無川の旧地も立ち寄りました。
 神奈川区河川マップ  名木古木  神社  石塔  ひまわり


 星野橋ほしのはし
 星野橋人道橋ほしのはしじんどうきょう
 龍宮橋りゅうぐうはし
◎龍宮橋と周辺-わが町かながわ50選
 明治以降、埋立が進んだ土地をぬうように通る運河には、龍宮橋をはじめ、星野橋(現在地)・村雨橋など、いくつもの橋が架かり、船運が減った今は、静かな水辺に水鳥が暮らしています。この先、海側にある龍宮橋からは、ポートサイド周辺の景色を臨むことが出来ます。
 (旧貨物線橋梁)
 浦島第4号橋梁



 村雨橋むらさめはし
 千鳥橋ちどりはし
 瑞穂橋みずほばし
 瑞穂大橋みずほおおはし
◎瑞穂橋付近-わが町かながわ50選
 橋のたもとから、みなとみらいやハマウィングを一望できます。夜には手前の水面にライトアップの光が映り、横浜港の夜景が昼とは違った雰囲気をつくりだします。
 首都高1号横羽線



 荒木橋あらきはし
 新浦島橋しんうらしまはし
   新浦島橋の今昔
 入江川第二派川に架かる新浦島橋は。浦島町と新浦島町1丁目を結ぶ橋として、明治41年(西暦1908年)頃に築造されました。
 現在の新浦島町は、明治40年(西暦1907年)に開始された埋立工事により造成され、新浦島橋は長い間、民間企業(日本カーボン株式会社等)の専用橋として使用されていましたが、昭和62年(西暦1987年)に横浜市に移管されました。
 新浦島橋の旧橋は、特徴的なレンガ造りの橋脚で支えられ、地域から愛されていましたが、橋脚・床版の劣化が激しくなり、また地震対策も必要とされていただめ、平成25年(西暦2013年)に架替工事を開始し、平成30年(西暦2018年)に新しい新浦島橋が開通しました。
 ここに展示されているのは、旧橋のレンガ造りの橋脚の一部です。この橋脚のようにもレンガの小口で構成される段と長手のみで構成される段が交互に積層するレンガの積み方は、「イギリス積み」と呼ばれます。
 また、新しい新浦島橋の桁の色はレンガをイメージした色とし、橋の四隅の親柱には、レンガ積みのデザインを採用し、レンガ造りの橋脚のイメージを残すように工夫しています。



 常盤大橋ときわはし
 富士見大橋ふじみはし
 入江川河口方面/首都高1号横羽線・貨物線



 入江橋いりえばし
 京急本線・JR線(子安川カード)
 私用の橋(現在不使用)
 宮前橋みやさきはし
 下大入橋しもおおいりはし



 入江橋
 大門橋だいもんはし
 大入橋おおいりはし
 はぜ橋
 神滝橋かみたきはし



 神之木橋かみのきはし
 神入橋かみいりはし
 こぶな橋
 神尾橋かみおはし
 学校下橋がっこうしたはし


 


 久保下橋くぼしたはし
 (橋名不明)
 西園下橋さいえんはし



 神奈川駅中図絵に見える『荒宿?橋』というのは、現在滝の川に架かっている幸ケ谷の土橋どはしとは別で、金川砂子の図会から見ると、神奈川小学校の場所にあった慈雲寺と神明宮の間を流れる上無川に架かっていた橋のようです。
【上無川】
上無川かみなしがわ
 「神奈川」は、鎌倉幕府の執権、北条時宗の発した文書の中にも記されている古い地名であるが、その由来にしさまざまな言い伝えがある。
 その一つとして「江戸名所図会」の上無川に項には「神奈川本宿の中の町と西の町の道を横切って流れる小溝で、水が少ししか流れておらず、水源が定かでないたる上無川という。カミナシガワのミとシを略してカナガワというようになった」という説が記してある。
 上無川は、現在の神奈川小学校東脇にあったとされているが、関東大震災後の復興計画により埋め立てられ、今では、川の姿を見ることはできない。


【神社】


洲崎大神:神奈川区青木町5-29
井戸守稲荷社/元町稲荷社(洲崎大神境内社)
【経年劣化に伴う掠れが激しいため誤判読の可能性あり】
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洲﨑大神由緒畧記
祭神 天太玉命
   天比理刀賣命
相殿 素盞男命
   大山咋命
例祭 六月六七八日
創立 建久二年六月二十六日
祭神天太玉命は神祇政治の祖神、天比理刀賣命はその御妃の神にまします。源頼朝公石橋山の合戦に敗れ相州真鶴より海路安房に渡り安房洲崎の安房神社に参籠再起を祈り後に天下を平定して鎌倉幕府を開くや神恩を忘れず安房神社に幣帛を奉ると共にこの地を按定して御分霊を勧請して一祠を創建し鎌倉幕府直轄の神社として祭典を厳修せる。頼朝公奉献の神境今に伝承す。
昭和十五年に御鎮座七百五十年祭を執行す。大正十二年九月一日の震災、昭和二十年五月十日戦災等、氏子と共に度々火災に戦災に炎上せるも氏子民の協力奉仕により共に再建復興され昭和三十一年六月竣工奉告祝賀祭を執行す。
  昭和三十一年六月     宮司 吉田〇〇(読み取れず)
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参考文献
 洲崎大神(武蔵国橘樹郡神奈川宿青木町御鎮守・洲崎神社)情報、, Accessed:2020/12/21.
 神奈川区誌編纂刊行実行委員会(1977)神奈川区誌、628+59p.


和田森稲荷神社:神奈川区神奈川2丁目10-22


顕彰碑
 このたび榎本金右衛門殿と佐藤眞弘殿より敬神の発露と町内発展のご意志から和田森稲荷神社および浜町二丁目町内会館の敷地の寄贈を受けました。ついては両氏の町内発展に尽くされた顕著な功績に感謝しここに碑文として末永く顕彰します。
 寄贈された土地
横浜市神奈川区神奈川二丁目拾番二十一の土地
 二十二、四六坪
昭和五十九年四月吉日



神明宮:神奈川区東神奈川2丁目34-6
◎神明宮
神明宮の草創についてはいくつかの伝説があるが定かではない。「新編武蔵風土記稿」は別当能満寺の草創と同じ正安元年(一二九九)の勧請としており、この神社に能満寺が草創当時より極めて密接な関係にあったことを伺わせる。
 かつて境内を流れていた上無川に牛頭天王の御神体が現れ、洲崎神社およびこの神社に牛頭天王を祠ったとの伝承もある。また、境内にある梅の森稲荷には、若い女旅人にまつわる哀れな話も伝わる。


村社碑
 神明社在神奈川邊明治十八年七月
 更為村社蓋其創立雖不詳係文治年
 前云社前一川當時水滿今日流涸神
 奈川邑昔者人少今則家多而神明歸
 信者二百五十餘戸古來其尊崇可知
 也今也有志者相謀茲建村社碑亦紀
 念之意〇
 明治十八年九月 櫻門撰併書
          石井新五郎刻


◎能満寺:神奈川区東神奈川2丁目32-1
 能満寺は、海運山と号し、古義真言宗に属す。正安元年(一二九九)内海新四郎光善というこの地の漁師が、海中より霊像を拾い上げ、光善の娘に託していう霊像のことばにしたがって建てたものがこの寺であるとの伝承がある。本尊は高さ五寸(十五センチ)木造坐像の虚空蔵菩薩で、海中より出現したと伝えられる。
 かつては、神明宮の別当寺で同一境内地に同社もあったが、神仏分離令で分かれ今日に至っている。


銀太郎稲荷:神奈川区新町5-2


白山神社:神奈川区浦島町373


青木稲荷大明神/白頭山竜神(白山神社境内社)
飯縄権現社(白山神社境内社)



祠:神奈川区子安通1丁目
中外神社:神奈川区守屋町1丁目1-4


福本稲荷神社:神奈川区子安通1丁目


稲荷社:神奈川区大口通68-2


白幡身代り地蔵尊:神奈川区白幡町3-16


  身代り地蔵の由来  奉賛会
昔尾張の國から幼い兄妹が武蔵の國に住む叔父を尋ねて旅を続けこの地蔵尊前まできた処辻強盗が現れ太刀を振りかざして襲ってきました。兄妹はとっさに地蔵尊の蔭にかくれたため、太刀の手元が狂い地蔵尊の首を切り落としました。そのはずみで刀は折れ切先は辻強盗につきささり、返り血で地蔵尊は朱に染まってしまったが、兄妹は危うく難を免れたと伝えられています。以来、土地の人はこれを身代り地蔵尊または血染めの地蔵尊と呼び益々信仰するようになりました。
幼い兄妹の命を救った地蔵尊のご利益により現在に至るも参詣者の後を絶たないのもむべなるかなと思われます。 合掌
  昭和五十二年十月 寄贈 赤澤房美
              坂本新一 (刻)


 その他、本日撮影の写真です。


【参考】
 ナギ Nageia nagi
 金港橋きんこうはし
 イチョウ Ginkgo biloba
 神奈川水再生センター
 神奈川通公園
 災害用井戸(神奈川区浦島町)
 庚申塔:神奈川区子安通2丁目206
 入江川公園
 大口子育地蔵:神奈川区大口通66
 みなとみらい方面(神之木台より)
 スナックひまわり:神奈川区白幡町1-10

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