夏休み最終日の今日は、いつもの道を、いつもよりゆっくりと歩いてみました。芝生村は現在の浅間町あたりで、臺町十五景のひとつ『芝生の秋』に撰されています。
維管束植物の分類【概要、小葉植物と大葉シダ植物、裸子植物、被子植物(APG-IV体系)】【生物系統樹】
臺町十五景を訪ねて
【本日更新】マメ科 ヒガンバナ科 キク科
【参考】
GRC横浜ベイリサーチパーク・ロビー
神奈川新町
ホルトノキ Elaeocarpus sylvestris
○アカシア・デアネイ Acacia deanei
メリケンカルカヤ Andropogon virginicus
オリーブ Olea europaea
(芝生)浅間神社より
○キバナタマスダレ Sternbergia lutea Yellow Autumn Crocus
ハナトラノオ Physostegia virginiana
職人が移住してきた芝生村
テイカカズラ Trachelospermum asiaticum
浅間台みはらし公園より
浅間台の袖すり山変じて岡野町となる
ナミアゲハ Papilio xuthus
ヒガンバナ Lycoris radiata
キツネノマゴ Justicia procumbens
エノキ Celtis sinensis
Yamanashi工房ひまわり
芝生追分の石塔群
ノゲイトウ Celosia argentea
東海道相州道追分・庚申堂
ヤマイモ Dioscorea opposita
ルルドのマリア像:エスコラピアス修道会
○レモンマリーゴールド Tagetes lemmonii Lemmon’s Marigold
金沢横丁(保土ケ谷宿)
クマツヅラ Verbena officinalis
シロバナマンジュシャゲ Lycoris x albiflora
職人が移住してきた芝生村
明治に入ってから旅行の自由、田畑勝手作などの各種の規制が外されました。特に横浜は開口以後、移住が自由とされね当時にはまりな職業の機会に恵まれた稼ぎ場として、地方からの移住者が多くありました。この地にあっ芝生村(現、浅間町)も開港場に地続きのため、移住者がが多くありました。明治初期の芝生村の移住者明細を見ると、食麩、升酒小売、水茶屋、舟乗、大工、紺屋、提灯張、木具、髪結、湯屋、看板書などと職人が多いことに気が付きます。開港当時の横浜の建設に芝生村の各種の職人が果たした役割は大きかったものと推察されます。
浅間台の袖すり山変じて岡野町となる
西区の地形は、南側の久保山、野毛、戸部の台地と北側の浅間町の台地と両台地の谷あいに位置する帷子川の河口低地によって形成されています。江戸時代の終わり頃までの帷子川は、保土ケ谷宿に河口がある、美しい入江が深く湾入する、着物の袖のような形をしていたことから、袖ヶ浦と呼ばれていました。通称「袖すり山」と呼ばれていた浅間台辺りの斜面が、一部大きくえぐられているのは、袖ヶ浦の埋め立ての土取り場であったためで、袖すり山の土で埋め立てられたところが岡野町となりました。埋め立ての土はモッコ、大八車、トロッコで運ばれていました。トロッコを通すための足場は大きな丸太で高く築き上げられ、新玉間川を越えて岡野へ運び、足場は震災後も田畑の中に残っていました。浅間町にはこうした埋め立てに従事した人々の生活がありました。