浦賀を起点に……

 今日は、横須賀を歩いてみました。
【主な経路】
(自宅)-浜見台-(京急田浦-浦賀)-光風台-若宮台-佐原-池田町-吉井-大津-三春町-米が浜-ヴェルニー公園-(逸見駅)


【参考】
 ヤブツバキ Camellia japonica
 シシウド Angelica pubescens
 西叶神社
 庚申塔群(放光山延壽院常福寺)
 コバノセンナ Cassia coluteoides
 プラタナス (JR横須賀駅前)
 ヒラドツツジ Rhododendron × pulchrum
 安房口神社
 (三春町)春日神社
 メタセコイア Metasequoia glyptostroboides(横須賀中央駅前)


【芝守稲荷神社】浦賀3丁目10


【白井稲荷大明神】


【茅山の庚申塔】佐原5丁目28-10

  茅山の庚申塔
 この庚申塔は百メートル程久村寄りのT字路の山裾にあった。そこは広場で、馬のかなぐつ(馬蹄)わつけたり、牛をつないだりする小屋があり、子供達の格好の遊び場であった。(現在は住宅が建っている。)
 庚申供養塔は災いを防ぎ幸福を招く意味をこめて、村境に建てられることが多い、そこは久村の境であったが住宅建設のためこの場所に移された。六基のうち年代のわかるものでは最古は享保四年(一七一九年)新しいものは天保十三年(一八四二年)である。二基は不明。茅山については「茅山」「賀山」「香山」と三様である。
 当時は各村の地境に建てられ、道の目印や隣接の村の境とし、他の地区より悪霊や疫病の侵入を防ぐのに建立したという。
 平成十七年三月 久里浜地域文化振興懇話会


【茅山稲荷】佐原5丁目24


【(佐原)稲荷社】佐原5丁目10


【(岩戸)熊野神社】岩戸1丁目4-1


【佐原十郎義連城跡】

   佐原城跡
 山嶺3方を囲み切り立つ懸崖は、よじ登るのが難しい。 -中略- 面積は、約1萬2千㎡あり、今は畑なり、考えるに、三浦義明がいた衣笠城から地の利を得た場所に館を築き義連(よしつら)を住まわせた。地名から佐原十郎という。
 治承4年(1180)8月27日に衣笠城が落城。義連は、兄の義澄らと頼朝に従い房総に行く。敵がこの城を攻め火を放ち去る。数年後、義連は、源義経に従い平氏を討ち帰る。又この地に(館を)築いている。後に左衛門尉となり奥州に移ると旧記に見える。この時よりこの跡が残されている。(現代語訳)
 義連の古館 久里浜志録 加茂捨三郎元善 著(大正2年稿)
 佐原十郎義連城跡の碑は、明治26年(1893)9月8日佐原の住民が義連公を顕彰するために建立した。
                      佐原町内会


【(池田)稲荷社】池田町5丁目9


【巡拝供養塔と庚申塔】池田町5丁目9

   巡拝供養塔と庚申塔
 ここは、昔の大津村池田の入り口にあたる。この巡拝塔は経塚とも呼ばれ、里の文人の竜崎戒珠が建立した笠塔婆型供養塔である。碑面文字のとおり篤い信仰心から霊場を巡り、写経の後、天保九年(一八三八)造塔された。
 庚申塔は
庚申信仰から里人が講中を造り庚申の日に集合し、五穀豊穣・家内安全を祈り造塔された。文政十一年(一八二八)から大正十年までのものが十一基現存している。刻像塔一基の他はいずれも文字塔で青面金剛の刻字がある。青面金剛は憤怒の厳めしい姿で悪疫退散の力があり、日月・三猿ともに現世安穏・来世安楽、子孫長栄の意である。
 平成二年二月  大津地域文化振興懇話会


【香之谷戸稲荷】吉井3丁目11


【赤門】安浦町1丁目

市制施行七十周年記念
 横須賀風物百選
  赤門
 この門は、かつて朱塗りであったことから「赤門」と呼ばれています。
 武家屋敷などでは、主家を防衛するために、屋敷の外郭に家来のための長屋を建てて、その一部を門としました。門の屋根と家屋の屋根を一連にした形の建造物を「長屋門」と呼び、この赤門もその一つです。
 初めは上級武家の門で、建て方も複雑堅固なものでしたが、後に武家以外の者でも、特に功労のあった家などには、出窓や出格子のない簡単な長屋門の建築を許されました。
 この長屋門の主であった長嶋家は、三浦氏の子孫と伝えられ、戦国時代、小田原北条氏の支配下にあって浜代官を務めました。更に、江戸時代には、三浦郡の総名主を務めたほどの家柄なので、この門の建築を特に許されたものと思われます。
 かつて、この門前の道路は、白砂青松を連ねた海に面していて、猿島や千葉の山々が手にとるように見えた景勝の街道で、数多くの旅人の眼を楽しませてきました。門前の右手にある石柱の道標がかすかに当時を物語っています。
 横須賀市民文化遺産にも指定され、現在も広く市民に親しまれています。

東海道を歩く-品川宿界隈

 本日外勤。帰りに旧東海道を辿ってみました。


【旧細川邸のシイ】

東京都指定天然記念物
   旧細川邸のシイ
     所在地 港区高輪一丁目十六番二十五号 高輪支所内
     指定  昭和三十六年一月三十日
 高輪支所の丘陵上に独立する単木で、樹高一〇・八メートル、幹囲り八・一三メートル、枝張りは東に六・七メートル、西に二・七メートル、南に五・六メートル、北に五・八メートルを測る巨樹である。幹の下部に大きな空洞があったため、昭和五十六年には大規模な外科手術を実施した。
 スダジイは、別名イタジイともナガジイとも呼ばれ、本州の福島県・新潟県以南、四国、九州、沖縄に分布する常緑高木である。葉は長楕円形では先は尖り大きな鋸歯がある。果実は先の尖った卵円形で二年目に熟し食用になる。古くは材は建築や家具用に使われていた。
 旧細川邸とは、肥後熊本藩細川家の下屋敷のことであり、元禄十六年(一七〇三)二月四日、赤穂事件の大石内蔵助良雄・吉田忠左衛門兼亮・小野寺十内秀和・原惣衛門元辰ら十七人が切腹を命ぜられたところとして、屋敷跡は東京都指定旧跡に指定されている。
 平成七年三月三十一日 建設
          東京都教育委員会


 上述の数値は自称ですが、環境庁による2000年の調査によると幹周740cm、樹高17mとなっています。


Natural Monuments
Kyu Hosokaea-tei no Shii
(Castanopsis sieboldii at the Former Residence of Hosokawa Family)
Address: 1-16-25 Takanawa minato City
Designated on January 30, 1961
  This beech tree Castanopsis sieboldii, natural monument, stands on the hill behind Takanawa Minato city office. It used to be a giant tree but was largely scale in 1981 because it had a huge hollow in the lower trunk that may cause collapse/ However, it still remains as large about 10.8m height and 8.13m of trunk circumference now.
  Castanopsis sieboldii, which belings to the Fagaceae hamily, is one of the major evergreen tall trees in the warm temperate forests in Japan. The leaves have the length of 5-10 centimeters, width of 2-3 centimeters. The tree blooms is early summer and bears egg-shaped fruits that become ripe and edible in the second autumn. Castanopsis has been used for building and furniture for long time.
  This tree stands on the remains of residence of Hosokawa family (chusingura revenge, where 17 Ako Roshi including Ohishi Kuranosuke Yoshitaka committed seppuku 10 1703.
          Tokyo Metropolitan Board of Education


【二本榎】

   二本榎の由来
 その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手(たかなわて)」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
 誰いうことなくこの榎を「二本榎(にほんえのき)」と呼ぶようになりました。
 それがそのまま「日本榎」(にほんえのき)という地名になって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
 戦後、地番変更で高輪何丁目などと地名は変わりましたが、「榎」は幾度となく新稙・移植が行われ、町の大切な象徴になっております。
          平成十七年(二〇〇五年)十二月 港区


【品川宿の街道松】

「東海道品川宿」
 「東海道五十三次」といわれる江戸から京都間の五十三の宿の中で、品川宿は諸街道の最初の宿場町である。
 旅人は、品川宿を経由して丁酉を目指し、また家路についたことから「東海道の玄関口」として栄え、宿内の家屋は一六〇〇軒、人口七〇〇〇人規模で賑わっていた。
 今でも道幅を保ち、かつての宿場町として活気が息づいている。


 この松は品海公園の改修工事竣工を祈念し品川宿で五本目の「街道松」として品川宿の方々から寄付していただいたものです。
     平成十二年四月 品川区


【仙台坂のタブノキ】

品川区指定天然記念物
  仙台坂のタブノキ
     所在 品川区東大井四丁目三番一号
     指定 昭和五十三年二月十四日(第八号)
 本樹は目通り四・六メートル、樹高二十メートルで、推定樹齢約三百年、樹勢旺盛で美しい樹容を見せている。
 タブノキは一名イヌグスともいい、クス科に属する高木で、熱帯から暖帯に生育する。我が国では四国。九州。沖縄に多く、東京でもかつては海岸沿いに随所に見られたが、震災。戦災等でその数も少なくなった。区内では鹿島神社や滝王子稲荷神社等にも古木が見られる。
  平成二十三年三月三十一日 品川区教育委員会


【参考】
 スダジイ Castanopsis sieboldii
 エノキ Celtis sinensis
 クロマツ Pinus thunbergii
 タブノキ Machilus thunbergii

逗子から大船へ

 先週は、港南台から大船へ歩いてみましたが、今日は逗子から大船に向かって散策してみました。
【主な経路】
(新逗子駅)-九木-浄明寺-雪ノ下-扇ヶ谷-山ノ内-(大船駅)


【庚申塚】鎌倉市浄明寺3丁目12-52

市指定有形民俗資料 庚申塚(いなり道)一基
 昭和五一年十二月十四日指定


【鎌足稲荷神社】鎌倉市浄明寺3丁目9-3

  鎌足稲荷神社 Kamatari Inari Jinja
[ご祭神]稲荷大神 Inari no Ôkami
[ご神徳]商売繁盛、殖産興業、家内安全、心願成就、厄除、開運
[由緒]
 大織藤原鎌足公は乳児の時、稲荷大神さまから鎌を授けられ、以来、常にお護りとして身につけ、大神さまのご加護を得られました。大化元年(645)、中大兄皇子(後の天智天皇)らとの協力のもと蘇我入鹿を討って大願を成就された。鎌足公は、翌大化2年(646)東国に向かわれ、相模国油井の里に宿泊されました。その夜、「あなたに鎌を授けて守護してきたが、今や入鹿討伐という宿願をなし遂げたから、授けた鎌を我が地に奉納しなさい。」との神告があり、お告げのままに鎌を埋納し、祠を営んでお祀りしたのが、当神社の始まりです。鎌倉の地名は、鎌足公が鎌を埋納したことによるとされています。
 「お稲荷さま」というとキツネをイメージする人もいますが、キツネは稲荷大神のお使いであって、稲荷大神そのものではありません。
As an infanr, Lord Fujiwara-no-Kamatari was given a sickle by the Inari no Ôkami. By keeping the sickle with him at all times as a charm, Lord Kamatari was granted the protection of the deity. In 645 A.D. hr joined Nakano-ôe-no-ôji (later the Emperor Tenchi) to vanquish the noble Saga-no-Iruka and thus succeeded in fulfilling his greatest wish/ Lord Kamatari then headed a message from the Inari no Ôkami, who told him, “I gave the sickle to you and have protected you ever since, but now you have archieved your greatest wish by defeating Iruka, so you must return the sickle to me and to the land.” Doing ad he was bidden, Lord Kamatari buried the sickle, and this action and his prayers offered up to the god were the beginnings of the Kamatari Inari Jinja. The place name Kamakura id said to signify the lacation where Lord Kamatari buried the sickle, or <<kama>>.


【右大師道碑】鎌倉市二階堂935


【法華堂跡】西御門2丁目

国指定史跡 法華堂跡(ほっけどうあと)(源頼朝墓・北条義時墓)
 この平場は、鎌倉幕府第2代執権の北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。北条義時は、父の時政や姉の政子らとともに源頼朝による開創を助けました。承久3年(1221)の承久の乱においては後鳥羽上皇方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権としてより強固なものとなりました。
 義時は貞応3年(1224)に62歳で没しました。『吾妻鑑』には、源頼朝の法華堂の東の山上を墳墓の地とし、そこに新法華堂(義時の法華堂)を建てたことが記されています。
 義時の法華堂は鎌倉時代の終わりには途絶えたようですが、平成17年(2005)に行われた発掘調査により、8.4m四方の平面正方形の建物跡が確認され、『吾妻鑑』の記述が裏付けられました。
         平成24年3月 鎌倉市教育委員会


 法華堂跡
 三浦泰村の墓
 毛利季光の墓
 島津忠久の墓
 碑を支える玄武
 大江廣元の墓


【(西御門)白旗神社】鎌倉市西御門2丁目1-24

   白旗神社 由緒記
一、祭神  源頼朝公
一、例祭日 一月十三日
一、
 この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって髻の中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。
 正治元年(1179)一月十三日頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し、仏事を執り行い多くの武将も参列した。
 現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和四十五年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。
 持仏……守り本尊として、常に身近に置いて信仰する仏像。


   源頼朝の墓 The grave of Minamoto Yoritomo
 源頼朝は、治承四年(1180)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦二年(1185)に平家を滅ぼしました。また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下三丁目附近)に開いて武家政治の基礎を築きました。
 正二元年(1199)に五十三歳で没すると、自身の持仏堂である法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。
 現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪が整備したものとそれます。
     鎌倉市


In 1180, Minamoto Yoritomo raised an army in order to overthrow the Heike clan, and with Kamakura ad his headqurters, he defeated the Heike clan in 1185.
in addition, the creation of the Kamakura Shogunate in Okura (approximate current lacation – Yuki no Shita 3-chome) established the foundations of the Samurai system of government in Japan.
In 1199, at the age of 53 Yoritomo passes away and was laid to rest at his own place of worship, Hokkedo, which then became a very holy place as his gravesite, Hokkedo was later abolished, however traces of its location remain around the top of this hill.
It is said that the current pagoda in the site was erected by the Shimazu feudal lord, Shimazu Shigehide.


国指定史跡 法華堂跡(ほっけどうあと)(源頼朝墓・北条義時墓)
 この平場は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。治承四年務(1180)平家追討のために挙兵した源頼朝は、同年鎌倉へ入りました。元暦2年(1185)に平家を。文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、鎌倉を拠点とする武家による全国的な政権の基礎を築きました。以降、江戸時代が終わるまで、約700年間にわたり、武家による政権が続くことになります。
 建久10年(1199)に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、のちの時代の武士たちからもあつい信仰を集めました。
 鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存続しましたが、17世紀の初頭までには堂舎がなくなり、石造りの墳墓が建てられました。現在の墓域は、安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪によって整備されたものです。
         平成24年3月 鎌倉市教育委員会


【築山稲荷】鎌倉市雪ノ下3丁目1-32


【旗上弁財天社】鎌倉市雪ノ下2丁目1-3

   旗上辨戝天社御由緒記
 治承四年(一一八〇)八月源頼朝公は伊豆国に源家再興の旗を上げ、石橋山の戦いに敗れて房総に転じ、十月鎌倉に移るや直ちに鶴岡八幡宮を創建し、居館を定めて平家討伐の本拠とした。
 夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(一一八二)大庭景義に命じ境内の東西に池を堀らしめ、東の池(源氏池)には三島を配し、三は産なりと祝い、西の池(平家池)には四島を造り四は死なりと平家滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。
 そして東の池の中に辨戝天社を祀ったのが当社の始めで、明治初年の神仏分離の際境内にあった池の堂塔と共に除かれた。その後昭和三十一年篤信家の立願によって再興され、さらに昭和五十五年九月鶴岡八幡宮創建八百年を記念して、江戸末期文政年間の古図に基づき現在の社殿が復元されたのである。
 因みに辨戝天信仰は、鎌倉時代既に盛んで妙音芸能の女神福徳利戝の霊神として世に広く仰がれている。当社に祀られていた辨戝天像(重文)は鎌倉彫刻の代表傑作で、種々の御神徳が如実に具現された人間味溢れた御神像である。
祭日   例大祭 四月初巳の日  祈願祭 毎月巳の日
旗上奉納
 二引の白旗に御神号を記したのが用意してあります。お申込み下さると願意氏名を記し、祈祷して奉納し、毎月神前に掲げます。
旗上祈祷
 源頼朝公旗上げして後、遂に大願成就した神徳により開店、事業拡張を始め家内安全、商売繁盛、必勝祈願、病気平癒、縁結び等の申込みを受け付けております。
政子石拝観 古来縁結びの霊能があり、姫石とも称し世に知られている。


【紅葉神社】鎌倉市雪ノ下2丁目1


【白旗神社】鎌倉市雪ノ下2丁目1


【鶴岡八幡宮】鎌倉市雪ノ下2丁目1

   鶴岡八幡宮
御祭神 応神天皇
    比売神
    神功皇后
当宮は源頼朝公が前九年の役平定後、康平六年(一〇六三)報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる。治承四年(一一八〇)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の八幡宮を遥拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉還し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に努めた。建久二年(一一九一)大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝公は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整えた。以来当宮は武家の守護神として北条・足利・後北条・徳川各氏も社領等の寄進、社殿の修造を行い篤く尊崇した。
  主な年中行事
▼歳旦祭    一月一日
▼大祓     六月・十二月晦日
 古神礼焼能祭 半年間の罪穢を祓清め、また古い神札やお守りを焼能する
▼ぼんぼり祭  八月立秋前日~八月九日
▼例大祭    九月十四日~十五日 旧暦八月十五日の放生会にちなむ
▼流鏑馬神事  九月十六日 頼朝公により始行された勇壮神事
▼御鎮座祈年祭 十二月十六日 建久二年当宮鎮座日(旧暦十一月二十一日)
         御神楽を奉奏する


 鶴岡八幡宮拝殿
 ビャクシン Juniperus chinensis (市指定天然記念物)
 大イチョウ Ginkgo biloba


【祖霊社】鎌倉市雪ノ下2丁目1


【丸山稲荷社】鎌倉市雪ノ下2丁目1


【新宮神社】鎌倉市雪ノ下2丁目18

  今宮
 四條天皇延應元年鎌倉中處々喧譁闘争ノ事アリ特ニ其ノ五月廿二日ニハ大騒動ヲ起セシト云フ茲日後鳥羽院ハ隠岐ニ崩御シ給フ由リテ斯ハ其ノ怨念ノ然ラシメシ所ナラントテ寶治元年四月大臣山ノ西麓ニ今宮ヲ建テ其院ノ尊霊ヲ勧請シ奉リ順徳院及ヒ護持僧長賢ヲ合祀セラル長賢は承久ノ後官軍ニ属シテ奮戦後捕ハレテ陸奥ニ謫セラレシ者ト云フ今宮ハ又新宮ト書ス。
   昭和四十年 十二月  鎌倉町青年團


【道元禅師顕彰碑】鎌倉市雪ノ下2丁目8

 曹洞宗高祖 永平道元禪師七百五十回大遠忌に値り、我等遠孫茲に心を一にして、禪師鎌倉行化の事跡を些か詳らかにしその恩澤に報いんとする。
 高祖越前入山後五年目の寶治元年(一二四七)八月三日、時に禪師四十八歳、永平寺開基大檀那波多野義重公(越前志比庄の地頭、京都六波羅探題評定衆)よりの鎌倉下向の懇請黙し難く、公の先君鎌倉幕府三代将軍源實朝公供養の爲同年十一月十五日奉修せる鶴岡八幡宮放生會の佛縁を期してか、永平寺叢林を始めて離れ、漸くのこととして鎌倉行化の途に着く。
 禪師がその師、天童如浄禪師の遺誠を固く守り、権門に近づくことを極力厭い能くよく留意し、「只菅打坐」の法燈を行持されたことを拝するとき、この行化は必ずしも心に添うものではなかったと推察される。然し、翌寶治二年三月十三日、永平寺歸山までの凡そ半年餘、その羽多野公の邸を始め名越白衣舎等鎌倉近在の諸處に在って、執権北条時頼公竝びに妻室など、道俗諸縁の求めに應じ、説法授戒等の化導を爲し正傳の佛法を弘められたと傳えられる。以後一生不離叢林のの志を益々強め、世壽五十四歳を以て遷化されるまで、永平寺に在って門弟等を教化示誨された行實等に觸れるとき、感慨深いものを覚えるのは、我等法孫のみであろうか。
 尚 時下って室町時代五山僧の記したものの中に、執政に日々懊悩する時頼公に對して、禪師が大政奉還出家入道を淡々と提言されたと見い出されることは、禪師の佛法中心第一の立場を物語って餘りあろう。
 終わりに、禪師鎌倉滞在中に詠じられたと傳わる和歌を刻し報恩の丹心を表す。
          大本山永平寺監院 南澤道人 撰
  維持 平成十四壬午平年三月吉辰謹拝健之


【青梅聖天社】鎌倉市雪ノ下2丁目7-8

  青梅聖天社
 双身歓喜天(そうしんかんぎてん)(鎌倉市指定文化財南北朝時代作)を本尊に祀ります。
 当歓喜天様は、『新編鎌倉志』巻之三に「鎌倉ノ将軍一日疾劇(やまひはなはだ)シフシテ。時ナラズ青梅ヲ望マル、諸所ヲ尋ヌルニ、此宮ノ前ニ俄ニ青梅実ノル、是ヲ将軍ニ奉テ、終ニ疾癒(やまひいへ)ヌ」とあり、青梅(おうめ)聖天とよばれました。
 歓喜天は退聖歓喜天とも称され、仏教を守護し、邪悪を除去し、諸願を成就させてくれる尊体として信仰されてきました。
 御本尊は男神と女神が「相抱き正位」して顔をみつめあう姿に造られた珍しい像で、歓喜天信仰を考える上でも貴重な文化財です。
 一般には夫婦和合の利益あり、などとも説かれておりますが、足柄峠の『聖天堂』と同様に、峠を往来する人びとの安全を願ってのことでした。
     平成九年十月十三日 市文化財指定
          小福呂坂 町内会


 青梅聖天社
 稲荷社(青梅聖天社境内社)
 石仏(小福呂坂)
 石塔群(小福呂坂)


【志一稲荷】鎌倉市雪ノ下2丁目3

 庚申塔(鶯山)


【岩窟不動尊】鎌倉市雪ノ下2丁目2-21

 庚申塔群


【八坂神社】鎌倉市扇ガ谷1丁目15


【稲荷大明神】鎌倉市扇ガ谷4丁目1-9

   お稲荷様
 世にお稲荷様と申上げている稲荷神社は倉稲魂神(うがのみたまのかみ)をお祭りしたもので今から約千三百年の昔、和銅四年の二月の初午の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。
 この神様は稲がなるイナリの別名が示すように五穀の生育やすべての産業を育成する広大な御神徳のある神ですからあらゆる人々の信仰をうけ全国各地の神社や邸内に祭られています。
 鎌倉で由緒ある稲荷は隠里稲荷で鎌倉風土記によると源頼朝が伊豆の蛭が小島にいたとき病の床につき三晩続けて同じ白ひげの老人の夢を見ました。その老人の言うとおりに薬を飲みますと病はなおりこれが縁で幕府ほ開くことが出来たということです。この白ひげ老人が隠里稲荷の化身であったということです。
 お稲荷様は大切にお祭りしましょう。
     英勝寺


【鎮守稲荷大明神】鎌倉市扇ガ谷2丁目12


【岩船地蔵堂】鎌倉市扇ガ谷3丁目3

岩船地蔵堂
 亀ヶ谷辻(かめがやつじ)に建つこの堂は、古くから頼朝の娘大姫(おおひめ)を、供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。
 木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相模陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵者當時大将軍頼朝公御皇女之守本尊也』との記述があり、続けて元禄三年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が記されています。『北条九代記』にも許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。
 このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに虹をさす木造地蔵尊を前立像として安置し、供養いたしました。
 心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通りください。
  平成十三年十一月吉日     海蔵寺


【亀ヶ谷切通】

 亀ヶ谷切通
 地蔵尊:鎌倉市扇ガ谷3丁目11
 六地蔵


【第六天】鎌倉市山ノ内1523

「第六天」の由来
 建長寺の四方鎮守には、中央五大尊と八幡(東)・熊野(北)・子神(西)・第六天(南)があり、第六天は上町に鎮座する。
 延宝二年(一六七四)の徳川光圀『鎌倉日記』に「円覚寺ヲ出テ南行シテ、第六天ノ森ヲ見ル」とあり、また、延宝六年(一六七八)の建長寺境内図(伝徳川光圀寄進)には、「四方鎮守第六天と記されている。
 社殿に納められた建長寺第一一八世真浄元苗(しんじょうげんみょう)筆の」天保二年(一八三一)の棟札によって、宝永四年(一七〇七)に建立した社殿の破損が著しいため、村人が願い出て再建したことが知られる。
 社殿の形式は一間社流造(ながれづくり)で、幕末社殿としては古風を尊重した造りといえよう。
 社殿内には第六天像が中心に祀られ、前列には持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王像が安置されている。いずれも江戸時代の作で、小像ながらも彫技は丁寧で量感に満ちた佳作である。
 第六天は仏教では他化自在天と称し、魔王の如き力を持つといわれ、神道では第六天神、すなわち、第六番目の神と認識されている。
 神奈川県内にし第六天を祀る社が一八〇社以上あり、厄除けの神や方位神として信仰される。
 現在、建長寺の四方鎮守の中で、その位置と沿革が明らかなのは第六天だけで、建長寺研究上の重要な資料であるばかりでなく、地域にとっても貴重な文化遺産として永く後世に伝えたい。
 また、第六天は上町の氏神でもあり、例祭は毎年七月十五日から二十二日にかけて行われる。
  平成七年六月吉日
     鎌倉市教育委員会 文化財保護課
     鎌倉市山ノ内上町町内会
             加藤利雄 謹書


【稲荷大明神】鎌倉市山ノ内1473


【安倍晴明大神碑】鎌倉市山ノ内


【一福弁財天尊】鎌倉市大船1丁目1


【鹽釜神社】鎌倉市台1丁目5-15

  鹽竈神社
御祭神御由緒
 鹽竈神社の御祭神は
 塩土老翁神(しおつちのおぢのかみ)(別宮)武甕槌神(たけみかづちのかみ)(左宮)経津主神(ふつぬしのかみ)(右宮)の三神を御奉祀する。延命長壽・産業開發。海上守護・安産守護の神・武德の神として御神德高く広く崇敬尊信せらる。
  掲載日七月十日


 以下、本日撮影のその他の写真です。

【参考】
 ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii subs. thunbergii f. thunbergii (鶴岡八幡宮東鳥居)
 ユリカモメ Larus ridibundus
 カワラバト Columba livia
 ビャクシン Juniperus chinensis 鎌倉市指定天然記念物(昭和三十八年七月十七日指定) (鶴岡八幡宮)
 イチョウ Ginkgo biloba (鶴岡八幡宮)
 タチツボスミレ Viola grypoceras (青梅聖天社)
 イヌホウズキ Solanum nigrum
 ケチヂミザサ Oplismenus undulatifoliu
 ツワブキ Farfugium japonicum
 トネアザミ Cirsium incomptum
 ホトトギス Tricyrtis hirta
 スミレサイシン Viola vaginata
 カタヒバ Selaginella involvens

今年の紅葉は…

 昨日に続き、今日もまぁまぁのお天気。やっと訪れた紅葉の季節ですが、どこも色づきは今一のようです。
【本日の主な経路】
(杉田駅)-中原-森-汐見台-久良岐公園-上大岡-大岡公園-蒔田公園-霞ヶ丘-藤棚-横浜イングリッシュガーデン-平沼-(横浜駅-金沢文庫駅)-稱名寺-洲崎町-六浦-(自宅)


【参考】サクラとモミジの品種は自称を採用しています。
 ヒイロタケ Pycnoporus coccineus
 ドウダンツツジ Enkianthus perulatus
 ヒイラギ Osmanthus heterophyllus
 サザンカ Camellia sasanqua
 イロハモミジ Acer palmatum
 コナラ Quercus serrata
 ホトトギス Tricyrtis hirta
 トネアザミ Cirsium comosum ver. incomptum
 久良岐能舞台
 ショウジョウノムラ Acer amoenum ‘Shojo nomura’
 ノムラカエデ Acer amoenum ‘nomura’
 オオモミジ Acer amoenum
 ヤツデ Fatsia japonica
 ヤノネボンテンカ Pavonia hastata
 シマトネリコ Fraxinus griffithii
 クヌギ Quercus acutissima
 ケヤキ Zelkova serrata
 横浜緋桜(よこはまひざくら)Cerasus jamasakura cv. Kenrokuen-kumagai x C. campanulata
 染井吉野(そめいよしの)Prunus x yedoensis
 イチョウ(大井橋) Ginkgo biloba
 ジュウガツザクラ Cerasus x subhirtella cv. Autumnalis
 八重紅枝垂(やえべにしだれ)Ceraus pendula cv. “Pendula-rosea”
 神代曙(じんだいあけぼの)Cerasus x yedoensis ‘Jindai akebono’
 イチョウ(蒔田公園) Ginkgo biloba
 メタセコイア Metasequoia glyptostroboides
 セイヨウツクバネウツギ Abelia spp.


 横浜イングリッシュガーデンの冬のバラは、花数こそ少ないものの、春の頃より濃い花色は、錦秋にふさわしい色合いです。
【参考】


 横浜イングリッシュガーデン
 クリスマスツリー
 マウンテンウィッチオルダー Fothergilla major
 十月桜 Cerasus x subhirtella cv. Autumnalis
 子福桜 Cerasus x ‘kobuku-zakura’
 アーコレード Cerasus sargentii × C. subhirtella‘Accolade’
 サー・セドリック・モリス Rosa ‘Sir Cedric Morris’
 イロハモミジ ‘猩々枝垂'(紅枝垂) Acer Palmatum ‘Shojo-shidare’
 ハナミズキ Cornus florida
 ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis
 バラ Rosa
  シティ・オブ・ヨコハマ “CITY OF YOKOHAMA”
  フレアー・ライナー ‘Flare Liner’
  夢香 ‘KEIfumoka’ YUMEKA
  センセーション ‘FRYromeo’ SCENT-SATION
  サンセット・セレブレーション(ウォーム・ウィッシズ) ‘FRYexsotic’ SUNSET CELEBRATION (WARM WISHES)
  アドミラル・ロドニー ‘Admiral Rodney’
  ピンク・キャット ‘Pink Cat’
  スイート・マザー ‘Sweet Mother’
  さくら ‘ZENposakura’ SAKURA
  桜木 ‘Sakuragi’
  カレーズ ‘Karez’
  カーディナル ‘KORlingo’ KARDINAL
  イージー・ダズ・イット ‘HARpagent’ EASY DOES IT
  ピュール・カプリス ‘Pur Caprice’
  おぼろ月夜 ‘ZENhaoboro’ OBOROZUKIYO
  田毎の月 “Tagoto no Tsuki”
  ソレロ ‘KORgeleflo’ SOLERO
  りくほたる “Rikuhotaru”
  紫の園 ‘Murasaki no Sono’
  つる エンジェル・フェイス ‘Angel Face, Climbing’
  アイズ・フォー・ユー ‘PEJbigeye’ EYES FOR YOU
  ブルー・フォー・ユー ‘PEJamblu’ BLUE FOR YOU
  フォー・ユア・アイズ・オンリー ‘CHEweyesup’ FOR YOUR EYES ONLY
  シスター・エリザベス ‘AUSpalette’ SISTER ELIZABETH
  ベル・エポック ‘FRYyaboo’ BELLE EPOQUE
  一葉 ‘ZENfuichi’ ICHIYOH
  プレイ ‘Pray’
  ラヴェンダー・ピノキオ ‘Lavender Pinocchio’

【参考】
 金沢山称名寺
 カイノキ Pistacia chinensis:金沢山称名寺
 ムクノキ Aphananthe aspera:金澤八幡宮
 ロウヤガキ Diospyros rhombifolia

栄区から大船へ

 今日は11月9日の続きで栄区から歩いてみました。
【おもな経路】
(港南台駅)-上郷町-公田町-岩瀬町-笠間-今泉-大船-台-小袋谷-(大船駅)


 稲荷森の水辺広場
 カルガモ Anas poecilorhyncha
 流レニ乗ッテドコマデモ(杉みちの作):第4回横浜彫刻展(Yokohama Biennale ’96)
 サザンカ Camellia sasanqua
 コナラ Quercus serrata
 霊峰富士(朝日平和台より)
 センリョウ Sarcandra glabra
 ギョリュウバイ Leptospermum scoparium
 ネズミモチ Ligustrum japonicum


【相武国境碑】栄区元大橋1丁目26

朝比奈峠~円海山~鍛冶ヶ谷を結ぶ尾根が相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の境で、古代の通路でもあった
昭和五十七年三月吉日 戸塚区役所本郷支所
           本郷郷土史研究会


【稲荷森稲荷社】栄区上郷町169


【上郷琴平神社】栄区上郷町169


【皇女神社】栄区公田町1529

     皇女神社の由来について
位置 横浜市栄区公田町1530番地 社地面積84坪
祭神 照玉姫
縁起
 照玉姫は葛原親王の皇妃で、往昔親王に従って東国に下ったが天長元年9月28日(西紀824年)当地で死せられた。里人達は嘆き悲しみ、懇ろに葬り塚を造営した。此の塚を皇の御前塚又は、女葛塚と呼んで、永く永く姫の遺徳を慕っていた。文禄元年2月信永と云う僧侶が当地を訪れた際、姫の遺徳を知り、社を建立して其の霊を勧請したもので、又当時姫の次女であった相模の局、大和の局の2人が姫の死後尼となり塚守となっていたが、相次いで両名とも死去した。里人は、これを姫の塚の傍に葬り両塚明神として崇めたと伝えられるが、現在の両塚の所在はあきらかではない。(以上皇国地誌(皇国地誌残稿)による)
 これは、今をさかのぼること400年昔の事である。以来、私達の祖先は毎年10月1日を例祭日と定めささやか乍らお祭を奉納していたが、明治42年7月に至り桂村公田村地内の小社4社が神明社に合祀され、皇女神社の地も神明社の所有となったが、当地の人々は尚姫への遺徳偲びがたく、大正2年原塚(当時吉五郎)の屋敷続きの山林の一角を借地仮社殿を造営して神明社より神体を分祀し、毎月1日、15日にし必ず参拝し、又家々の喜びも悲しみも総てを神前に報告したものである。昭和5年7月に至り氏子12名が相寄り資金を放出して、金80円也で神明社現社地を買い戻し、昭和12年9月お社を現在地に遷したもので、其の間氏子は勿論、近隣からも信仰厚く、日清日露戦争の際は、多くの人々が願掛の為参拝した。
     平成4年10月  氏子中


【文献】本郷郷土史研究会編集(1982)上臈塚、本郷の民話と伝説、46-49.


【アラハバキ神祠】栄区公田町627-14

 三浦半島では珍しい荒脛巾(あらはばき)神を祭る祠です。武蔵一之宮氷川神社の摂社である門客人神社では同じ神を祭っています。


【桂公田神明社】栄区公田町445-6

 境内社:桂公田神明社
 庚申塔
 普寛行者碑
 長﨑大明神碑
 国常立尊御嶽大神碑


【梵天鎮魂碑】


【五社稲荷神社】鎌倉市岩瀬1399

     五社稲荷神社略記
御祭神 倉稲魂神(うがのみたまのかみ)保食神(うけもちのかみ)大己貴神(おおあんむちのかみ)太田神(おおたのかみ)大宮能売命(おおみやのめのみこと)
例祭日 八月最終土・日曜日
由緒
 建久年間(一一九〇~一一九八)源頼朝の随身一騎奉行である岩瀬与一郎義正が当地に居住せし時、五穀豊穣と安寧を祈って創建、江戸期にし鶴岡職掌(つるがおかしきしょう)、坂井越後が神職を兼ねていたと「相模国風土記」にある。岩瀬氏は常陸国奥七郡を支配していた佐竹孝義の嫡男、義政の近習で常陸国那賀郡大宮郷岩瀬(現、常陸大宮市上岩瀬)の岩瀬城城主であったが「吾妻鏡」によると治承四年(一一八〇)十一月、源頼朝による佐竹氏攻めの際、常陸国中手前大矢橋(現、花見川にかかる大谷橋)で捕らえられ、常陸国中(現、石岡市)の頼朝本陣にて見参した際、頼朝に諫言し、その武勇を認められ家人となり当地に居を構えたと伝わっている。
 その後天明二年(一七七二)旗本、木原家名主、栗田源左衛門政春等により百一両を投じて再建されたことが、棟札、古文書に記されている。天明の飢饉の折、御神威の発揚で飢饉を乗り越え民心を引き締め、神社では粥を振る舞い、村内の被害はわずかに終わり、これも五社明神のおかげと益々崇敬されたと伝わる。
 明治六年村社に列し、昭和四十六年屋根銅板葺替工事、昭和五十六年~六十二年神社本庁振興対策指定の折、社殿一部改修、手水舎新築を行い、平成十二年神輿の再建、平成二十年社務所の改築を行った。
末社  平島弁財天社
御祭神 田紀理毘売命(たぎのひめのみこと)田寸津比売命(たぎつひめのみこと)市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
例祭日 五月巳の日
由緒  寛政九年(一七九七)江の島神社の御分霊を奉齊、平成三年平成天皇御大典奉祝記念として改築した。
     五社稲荷神社社務所
     電話〇四六七(四七)四七九八


【笠間鹿島神社】栄区笠間3丁目4-24

 国常立尊御嶽大神(笠間神社境内)
 天祖天神(笠間神社境内)


鹿島神社の歴史
 平安時代(794~1185年)の頃田立地区に集落を形成していた、藤原一門の山内須藤氏によって、一族の精神的支柱として創建された小菅ヶ谷の「春日神社」の祭神四柱の一柱である「武甕鎚神」を勧請し、祭神としたのが「鹿島神社」の始まりと推定されています。その後、稲作を主とする田立の人々は「鹿島神社」を精神的支えとし、穀倉地帯を作り上げ、毎年の祭祀を、厳修して来ました。
 しかし、明治41年政府の「一村一社」と言う宗教政策により田立地区の有る笠間地域の村社には「青木神社」が指定された為「鹿島神社」は強制的に青木神社に合祀されましたが、昭和期に入りまして、第二次世界大戦が終った後、5年を経た昭和25年(1950年)10月「鹿島神社」は青木神社から分離され独立して旧に復し、現在に至っております。
 「神奈川県神社誌」に記載されている「鹿島神社の創立」はこのことを指しています。


鹿島神社の際神
 鹿島神社の際神は、鹿島神宮(茨城県)、春日大社(奈良県)の祭神と同様「武甕鎚神(たけみかづちのかみ)」別名「鹿島神(かしまのかみ)」です。武甕鎚神の神格は、「剣神、武神、軍神、雷神」であり、以下の神徳(ご利益)が有ります。
武道守護、殖産興業、国家鎮護、芸能上達、豊漁、航海安全、病気平癒、延命長寿、交通安全、厄除け、縁結び、安産
 その他にも「武甕鎚神」は大鯰を操り地震を制御する「地震の神」とも言われています。


昇龍伝説(田立舞)
 稲作を主とする田立地区の人々は水害と胸までつかる泥田に苦しんでいましたが、ある日大音響と共に水田が、盛り上がって上空高く舞い上ると泥田が美田に一変しました。この様な幸運は田立地区の人々の変わらぬ「鹿島神社」への敬虔な信仰により「龍が舞い上り水田の泥水を、吸い上げて、美田に変えてくれた」と信じられています。現在でも、田立地区では「幸運を呼ぶ昇龍伝説」として語り継がれており、最近では「鹿島神社」は「幸運を呼ぶ神社」との噂が静かに広がっています。隠れた「パワースポット」の噂も!!昇龍のライトアップも可能です!


【天照皇大神宮山王神社】栄区笠間2丁目25-1

 天照皇大神宮碑
 山王神社
 天照皇大神宮境内社
 稲荷社(天照皇大神宮境内社)
 庚申塔群(天照皇大神宮境内社)


【石塔】栄区笠間2丁目26


【青木神社】栄区笠間5丁目4-1

【境内掲示板より】
  宗教法人 青木神社 由緒沿革
鎮座地 横浜市栄区笠間五丁目四番一号
御祭神 天手力雄命(あまのたぢからおのみこと) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊弉冉尊(いざなみのみこと) 天照大神(あまてらすおおみかみ)
由緒
 新編相模風土記及び口碑の伝える所によると第九十六代・後醍醐天皇の御代、建武二年(西暦一三三五年)足利直義配下の武将近藤出羽次清秀が小坂郷領主と成り、平素尊崇せる天手力雄命・伊弉諾尊・伊弉冉尊を奉斎し近藤一族並びに領内鎮護の神社とした。
 これ即ち当社の設立なり。現在は郷土笠間の総鎮守として崇敬されている。
沿革 明治以降は神祇院が置かれ政令により明治六年村社に指定される。
   明治四十一年村内の無各社 神明社および鹿島神社を合祀
   大正十一年神饌幣帛共進神社に指定される。
   昭和二十五年宗教法人鹿島神社を分祀
   昭和二十八年宗教法人青木神社として認証
   昭和五十二年本殿・拝殿改修整備
   昭和六十二年参道石段・鳥居・狛犬等境内整備
   平成六年境内擁壁・玉垣・手水舎等境内整備
   平成九年青木神社社務所新築
   平成十一年青木神社宮神輿及び神輿倉新築
   平成二十二年境内稲荷社を改築し、笠間稲荷社として整備


【配布資料より】
     青木神社 案内
御祭神 天手力雄命(あまのたぢからおのみこと) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊弉冉尊(いざなみのみこと) 天照大神(あまてらすおおみかみ)
御利益
 開運、国家安泰、家内安全、事業発展、必勝、縁結び、延命長寿、五穀豊穣、学業成就、子授け、安産、厄除
由緒沿革
 口碑によると建武2年(西暦1335年)足利直義配下の武将近藤出羽次清秀が領内笠間村の高所(現在の社地)に社殿を建立し、近藤一族と領内鎮護の神社としたという。新編相模風土記には「青木明神社村の鎮守、村持」と記されている。明治6年政令により村社に列せられ神饌幣帛共進神社に指定される。明治41年村内の鹿島神社及び神明社を合祀、昭和25年鹿島神社を分祀、昭和28年宗教法人青木神社として認証される。その後、社殿改造、境内整備、駐車場設置、社務所新築、宮神輿改造、稲荷社改築等、整備改善を経て現在に至り、郷土「笠間」の総鎮守として崇敬されている。
祭事 歳旦祭        1月1日 午前0時30分より
   左義長(どんど焼き) 1月  中旬
   初午祭        2月
   夏越大祓       6月
   例大祭        9月  第3日曜日 午前9時50分より
   七五三祝       11月
   師走大祓       12月
   その他  初宮詣、厄除。地鎮祭、安全祈願祭等、祈祷神事随時予約受付
鎮座地 横浜市栄区笠間5丁目4番1号 WEBサイト 
http://aokijinjya.jp

連絡先 TEL. 045-893-2708 FAX 045-891-2178


  二十三夜供養塔
農耕を司る月読尊を祀った供養塔です。
 月待供養塔ともいいます。
十五夜から八日過ぎた、二十三夜の月は真夜中に東の空から昇ってきます。
 月を信仰の対象とした村人たちが、その夜、煮炊きした食べ物や飲み物を持って集まり、精進・勤業し、飲食を共にしながら境内で真夜中に出る月を待つ月町の行事を行いました。
 その際の供養に建てた月待塔のひとつが二十三夜供養塔です。
 村人たちが真夜中までいっしょに行動し飲食を共にすることで絆を確かめ合ったことと思います。
 この供養塔は萬延元年閏三月に建てられたものです。
     青木神社


【子の神祠】鎌倉市今泉1丁目2-6

 子の神様です。腰から下の痛みの有る方の神様です。お願いして下さい。


【不明の社】鎌倉市今泉1丁目9


【庚申塔】鎌倉市今泉1丁目9


【今泉白山神社】鎌倉市今泉3丁目13-20

市指定有形民俗文化財 庚申塔(寛文十二年銘)一基【一番右】


【子守神社】白山神社境内社
   子守神社
祭神 天之水分神(あめのみくまりのかみ)国之水分神(くにのみくまりのかみ)(子授・安産・子育ての神)
 元は水の配分をつかさどる神であるが、このみくまりをみこもりと訛って早くから子守神として信仰があった。
 豊臣秀吉はその子、秀頼のために祈り、本居宣長はその父母の祈請により誕生したとして参詣を重ねたことが和歌や「菅笠日記」によって知られる。当地では、初宮詣・七五三詣に先立ってこのお社にお参りするのが古くからの慣わしです。


【大船熊野神社】鎌倉市大船2028

 地神塔(熊野神社境内社)
 稲荷社(熊野神社境内社)
 琴平宮(熊野神社境内社)
 庚申塔:鎌倉市大船2039


【(台)八幡神社】鎌倉市台2044

 稲荷社(八幡神社境内社)
 庚申塔群(八幡神社境内)


【厳島神社】鎌倉市小袋谷2丁目13-21

 稲荷社(厳島神社境内社)


鎌倉市指定有形民俗文化財 石造庚申塔
 この塔は寛文10年(1670・江戸時代)の舟型塔で上部中央にキリク(阿弥陀)、それより下方右にサ(観音)、サク(勢至)の種子が刻んである。
 阿弥陀三尊の種子を塔につけた庚申塔としては鎌倉では最も年代が古い。
 塔身には願文と思われる文字が刻んであるが、風化がはなはだしく全体は判読できない。下部の檀には、三猿が正面向きに右から「雄のいわざる」「雌のきかざる」「雄のみ゛ざる」が横に並び、悪いことには「いわない」「きかない」「みない」と教えている。
 厳島神社の参道へ移すまでは、小袋谷の「水堰橋」の北側にあった。
          平成17年(2005年)
          小袋谷厳島神社氏子会

注:
 庚申塔は干支の(えと)の庚申(かのえさる)に当たる日に、人の体内にいる虫が天の神にその人の罪を告げようとするために、この日に限って徹夜するという信仰に基づいて建てられたものといわれています。
 また、庚申様は豊作を祈り、病を災いを防ぐ神としても知られています。


【不明の社】鎌倉市小袋谷2丁目22


【石造道標】鎌倉市小袋谷2丁目22


【水天宮】鎌倉市台5丁目3-7

今日は近所で-田浦、船越の稲荷社など

 やっと雨が上がったので、近所を散策しました。
【主な経路】
(自宅)-浜見台-船越-田浦-三浦アルプス西峰ルート-沼間-沼間隧道-船越-南郷公園-追浜町-(自宅)


【参考】
 イソギク Chrysanthemum pacificum
 横浜横須賀道路橋脚
 送水管路1号トンネル
 送水管路2号トンネル
 紅枝垂れ(イロハモミジ) Acer palmatum var. matsumurae cv. Ornatum
 スギ Cryptomeria japonica
 セイタカアワダチソウ Solidago altissima
 ヤクシソウ Youngia denticulata
 ユウガギク Aster iinumae
 ツワブキ Farfugium japonicum
 スダジイ Castanopsis sieboldii (倒木)
 コナラ Quercus serrata (倒木)
 ハゼノキ Rhus succedanea
 ハナシュクシャ Hedychium coronarium
 キミノセンリョウSarcandra glabra f. flava
 タチツボスミレ Viola grypoceras
 サザンカ Camellia sasanqua


【白川稲荷跡地】船越町6丁目
 皆ヶ作(かいがさく)隧道の入り口脇にあった神社です。往時の姿はグーグルマップからの転載です。


【馬頭観音堂(8基)】田浦町3丁目
 ここの石塔群は8基すべてが馬頭観音で、そのうち2基は座像で、形像は一面二臂と三面ハ臂、いずれも馬口印を結んでいるようです。


【御嶽稲荷神社】田浦町3丁目92


【庚申塔群】田浦町3丁目


【泉稲荷大明神】田浦泉町


【稲荷社】田浦泉町


【伏見白赤稲荷大神】田浦大作町


【白若稲荷大神】船越町3丁目22

   由緒書
船越三丁目二十二番地に、鎮座する白若稲荷社は、その歴史も古く、一説によると当地に鎮座する前は、相模国田越村(現逗子市)方面より、船越三郎左衛門(年代不詳)なる豪族が祠を背負って当地に鎮座されたと言い伝えられている。
 当時この地は人家も少なく僅かな住民による農業(養蚕、雑穀、野菜作り等)がなされ、おそらく住民の五穀豊穣を祈念する守護神として祀られたものと思われる。
 その後、鎌倉街道の路傍に祀られ道行く人の安全を護ると共に、住民の信仰を、更に深めるようになった。また世相の移り変わりと共に、稲荷社はこの下の広場に移され、しばらくの間鎮座していたが、守護神としての祠は高台にお祀りすべきであるとの敬信者の願いにより、昭和三十五年五月有志により現在地に移鎮祭がなされた。
 多発する交通事故を解消するために、現在では交通安全の守護神としても祈祷なされている。参拝者が年々年々増えていることは、白若稲荷社の発展と共にに特筆すべきところである。
          平成六年五月吉日
                白若稲荷講中

マルカメムシの災難

 ようやく寒さが本格化してきた今日、トイレで翅を拡げたまま、お亡くなりになっているマルカメムシを発見しました。(平たくなっているので)誰かに踏み潰されてしまったようです。


マルカメムシ Coptosoma punctissimum
 2013.10.27  2019.10.27


13.マルカメムシ
Coptosoma punctatissima Montandon
 体長 4.5~5.7mm。光沢ある黄褐色で黒色点刻を密布する。頭部側葉は中葉の前方で左右のものが接触し,触角第2節は最短節であるが幅よりも明らかに長い。マメ科植物の雑草,とくにクズの茎上に多く,時にマメ科作物を加害する。初夏の頃2列に並んだ卵塊をを産下する。卵は一般のカメムシ卵と異なり,バナナを短く扁平にしたような形で擬卵蓋のまわりに指状の突起が放射状につく。卵塊の所々に微生物を含んだ排泄物が付着され,孵化幼虫はこれを吸収して腸内に共生させる。幼虫の背面および側縁には長い剛毛を多数生ずる。分布:本州・四国・九州;支那。
[安松京三・朝比奈正二郎・石原 保(1965)原色昆虫大圖鑑第3巻、p75、北隆館、東京.]より転記。
–> 私の恩師でもある石原先生の専門は半翅目でした。

本日、大宮へ

 今日は冷たい雨の降る一日。急に寒くなったのに合わせて、大宮でも紅葉が見頃になっていました。


 昼食は茉莉花作
 三の鳥居:武蔵一之宮氷川神社
 参道を行く茉莉花

二の酉は、若松町へ

 本日(11/20)は二の酉、一の酉(11/8)は横浜大鷲神社を訪ねましたので、今日は横須賀若松町の大鷲神社に寄って帰りました。


【横須賀大鷲神社】若松町3丁目17


【(米が浜)神明社】横須賀市米が浜通1丁目14