今日は、横浜駅周辺を少しだけ散策。滝の橋付近の滝の川ではスズキが遡上していました。
【主な経路】(横浜駅)~彫刻通り~高島台~東急フラワー緑道~東神奈川~神奈川公園~(横浜駅)
街角のアート作品
呑象髙島嘉右衛門先生ハ
壯年明治維新ノ風雲ニ際
會シ志ヲ國運ノ興隆ニ致
シ近代産業ノ先駆ヲ爲シ
就中横浜市發展ノ基礎ヲ
築ケル功績大ナリ殊ニ巷
ノ經論ノ易理ニ鍳テ實践
セラレシハ最モ偉ナルト
稱スベシ仍チ先生幼ヨリ
周易ヲ喜ビ研鑽倦ス其ノ
堂奥ニ㕘ジ是ガ功ト利ト
ヲ公益ニ顯揚セラレ其ノ
學ト術トハ大成シテ髙島
易断ノ著トナル傳ヘテ五
十年茲ニ其ノ稿成ルノ地
ニ記念ノ碑ヲ建ツ
昭和三十一年五月吉日
汎日本易學協会
横浜市地域史跡
弁玉歌碑
平成四年十一月一日登録
碑高二四六cm
碑幅一五三cm
碑厚十五cm
この碑は、幕末・明治初期にかけて神奈川三宝寺の住職であった歌人弁玉の歌碑兼顕彰碑です。
弁玉は文政元年(一八一八)江戸浅草俵町に大熊卯八の四男として生まれています。天保元年(一八三〇)十三歳で江戸下谷の清徳寺大潮のもとで得度し、下総国飯沼弘経寺で修行したのち、芝の増上寺に入り、嘉永三年(一八五〇)三宝寺に住職に転じ、以後、明治十三年に没するまで神奈川の人となっています。
和歌は橘守部、岡部東平、普門寺瓊音などに学んだ。とくに長歌に秀れ、文明開化初期には、石鹸王。伝信機などの新事物を巧みに捉えて長歌にうたい注目されています。また、明治一〇年、横浜の発展に尽くした高島嘉右衛門の功績を称え建立された「望欣台碑」の碑文を揮毫し、文明開化期の横浜の発展経路を明確に伝えています。
長歌集「由良牟呂集」は、明治十二年(一八七九)弁玉が没する一年前に門人によって出版されています。
文明開化期の横浜の発展を知るうえで貴重な史跡です。
平成五年三月
横浜市教育委員会
従二位藤波大中臣敎忠篆額
我東京之人資竺輕簿雖有才慧不能耐事故於商賈亦難成業況於僧徒呼況於
技藝呼余之雚識僧辨玉者久寓芝山與余來往相熟然不知其善國家不知其為
東京之人也一別杳然絶無信息側聞其隱棲于神奈川又聞其善國家之名余欲
訪之而事業倥偬不得命駕也庚申四月二十五日溘然傾逝現六十三年其徒某
具小行狀而請余碑文余閲之即辨玉為東京淺草之人大熊卯八之次男幼稱鐵
之助十歳投於下谷清德寺就大潮和商受戒祝髪旣長而梵誦之餘暇入橘守部
之問而學和歌又接先輩定玄東平以傳承歌法殆經十六年是故得臻妙域而四
法来學者得敎千百人嗚呼東京之人而成此偉藝豈不奇哉豈不寄哉辨玉長在
芝山僧寮竟住檀林而披香紫至于其極則可箽增上知恩大刹而著朱緋此暇榮
則榮矣然較之善歌不朽之名則固不待言也今春旣巳建碑又無幾而當刻歌集
也辨玉之靈含笑于泉不可知互余於東京會與善歌人締交其尤者為游清遊翁
文雄此三人住京之故其名赫奕然至于伎倆則未勝辨玉也今時現存之歌人碌
碌不足數年余謂辨玉若住東京則其来學之多不止於數十百人呼抑辨玉愛神
奈川之佳景而不欲住東京也可謂清矣可謂高矣余欽仰之餘乃為之銘曰
神奈川濱 隱殆三紀 梵唄纔終 古歌便起 唯娯水石 豈念桑梓 玩
東海光 契西行旨 齡欠脩遐 名數遠邇 此勒貞珉 不朽足恃
維跱明治十六年 歳次癸禾春三月東京下谷隠士枕山大沼厚撰并書
露木宗吉銘
【参考】
上昇 高橋秀 1992年:西区北幸1丁目11-20
作品名不詳:西区北幸2丁目1-22
ヤマブドウ Vitis coignetiae
髙島先生顕彰碑
弁王歌碑
望欣台の碑
アケビバナナ Musa velutina
亀
スズキ Lateolabrax japonicus