月別アーカイブ: 2019年10月

夏の七草2019

 夏はもう終わりの筈ですが、気がつくと夏の七草全7種を撮影できていました。


 シロザ:(白藜、Chenopodium acuminatum var. album
 イノコヅチ:(猪子槌、Achyranthes bidentata var. japonica
 イヌビユ:(犬莧、Amaranthus blitum)
 スベリヒユ:(滑莧、Portulaca oleracea
 シロツメクサ:(白詰草、Trifolium repens
 ヒメジョオン:(姫女菀、Erigeron annuus
 ツユクサ:(露草、Commelina communis


夏の七草2016 夏の七草2012

三浦の社を巡って

 今日は三崎口を起点として城ヶ島方面を歩いてみました。これで、横須賀以南のGoogleMapに載っているようなメジャーな社は概ね撮影できました。次は文献調査ですが、こちらはなかなか捗りません。
  訪問済みの神社、等
【主な経路】
 三崎口駅-原妙義神社-稲荷神社-宮川神明社-三浦三峯神社-(向ヶ崎)諏訪神社-(向ヶ崎)龍神社-(晴海)龍神社-櫻稲荷神社-日枝神社-稲荷社-城ヶ島海南神社-楫の三郎山神社-洲乃御前神社-東岡城辺稲荷神社-三崎口駅


【原妙義神社】三浦市三崎町六合196

 原妙義神社由来
群馬県甘楽郡の妙義神社から御分霊、この地に鎮座されたと伝えられているが何時の時代かは本社にも記録が無く、この里の古老に聞いても定かでない。しかし境内のお清水鉢には日露戦争(明治三七年~三八年)に従軍し、無事凱旋した原の里人が奉納した旨が記され、さらに銀杏の木の大きさから推察すると鎮座はそれよりかなり以前のことと思われる。社前に居住する織部氏所有の敷地に社殿を建立、以後同氏は代々神社をお守りしてまいりましたが、近年織部氏の御奇特により原区に寄贈されました。毎年九月の祭司は古くから三崎海南神社宮司が執行、管理運営等については原稲荷神社の総代会が行っています。妙義さま(当地ではこのように親しくお呼びしている)は、開運、商売繁盛の神、火伏の神、縁結の神、農耕の神、学業の神として崇められ、御神木の銀杏の木の皮の一部をお守りとして受験する子供に持たせると合格するご利益があると言われ、御祭神である学問の神様、菅原道真公の御遺徳と伝えられる。
本社、群馬県妙義神社の御祭神は、日本武尊、豊受大神、菅原道真公、権代納言長親卿
創建は宣化天皇の二年(今から一四〇〇余年前)
         平成二十二年十一月
   原妙義神社


【原稲荷神社】三浦市原町10

(説明版通り、字句修正せず)
     原稲荷神社由来
原区の氏神様として古くより住民の深く信仰するところであるが、その創建は江戸時代とも又はそれ以前ともいわれているか定かではない。唯、境内に奉納されている。眷属(お狐様)には元治元年(一八六四)年を刻み込まれた年号を読み取れることができる。
祭神は「宇迦之御魂大神」「須佐之男命」の二柱を祀る。
三浦市郷社海南神社との所縁は、遠く貞観六年(八六四)ごろ藤原資盈、盈渡姫と家臣が三崎に漂着した時、海岸に藻を拾いに来ていた原部落の者が藤原資盈(すけみつ)主従を助けて案内したと云う故事があったことから海南神社の祭礼には、原区の氏子が雨の面、風の面をかぶって神輿渡御の道案内の先頭に立つ「謂われ」だと、伝えられている。(黒塗りが雨の面、朱塗りが風の面)三崎郷土史参考
明治四十二年三月十二日政令により郷社海南神社に合祀されたが、或る日稲荷大明神が原区の古老の夢枕にたたれ、原のお社に帰りたい旨のお告げがあったということで昭和二十七年区民の総意によってもとの境内地に再建した。その後本殿の老朽化により平成十四年七月新築したお社が現在の原稲荷神社である。
毎年九月三日が例祭日であるが、近年種々の都合により九月第一日曜日に海南神社宮司によって祭詞奏上が行われ、原区芸能保存会の祭り囃子の和太鼓、獅子舞が奉納される。
四年毎の大祭には神輿、山車が区内を練り、歩き、各所で祭詞を奏上獅子舞を舞いながら家内安全五穀豊穣商売繁盛の祈願を行う行事がある。
         原稲荷神社 社務所
          三浦市原三番十三番地


【宮川神明社】三浦市宮川町17-46


【三浦三峯神社】三浦市岬陽町20-3


【(向ヶ崎)諏訪神社】三浦市3


【(向ヶ崎)龍神社】向ヶ崎町8


【(晴海)龍神社】晴海町8


【櫻稲荷神社】三浦市晴海町18


【(晴海)日枝神社】三浦市晴海町19-13


【(向ヶ崎)稲荷社】向ケ崎町17


【城ヶ島海南神社】三崎町城ヶ島408


     城ヶ島海南神社
 明治中頃の資料を見ると「三崎海南神社の分霊なり、元亀(一五七〇~一五七二)以前、村民は毎月三日三崎海南神社に詣りを例とす。然るに烈風暴風に際し、渡航甚だ難しい故に、分霊を勧請して村社と定むと云う。」と書かれており、三崎の海南神社を分霊したことが分かります。(祭神は)藤原資盈公(ふじわらすけみつこう)、相殿に右大将源頼朝公(うだいしょうみなもとよりともこう)楫三郎公(かじのさぶろうこう)
 遊ヶ崎海岸(宮ヶ崎)に鎮座されていましたが、暴風で破損され明治十一年、三崎を望む現在地に遷したと言われています。
 明治の中頃まで、海南神社の祭礼は七月十八日に行われ、船祭りの形をとり、花暮が年番のときには、城ヶ島からも御座船を出し、御船唄を唄いながら。神輿の海上渡御が行われていました。この御船唄は、保存会によって歌い継がれ、祭礼などで披露されています。
 現在は、毎年七月十七日が例祭日で神事・御神楽の奉納を行っていますが、神輿渡御は五年に一度七月十七日、十八日に行っています。
     平成二十三年五月吉日     城ヶ島海南神社総代


【楫の三郎山神社】三崎町城ヶ島670


  (かじ)の三郎山
 この楫の三郎山は、対岸の三崎にある海南神社の際神藤原資盈公が貞観六年(八六四年)故あって九州博多を出航し、途中暴風にあい漂流の末、三崎に着岸されました。このとき、御座船の楫とり役を司っていた家臣三郎をこの山に祀り、楫の三郎山と呼ぶようになったと伝えられています。
 また資盈公が「わが住むべき地があるか」と問われたので、三郎がそのとっていた楫で占い、楫が落ちた所に鎮座、これが神号になったとも伝えられています。
 大正初年頃までは、この山に主の大蛇がすんでいるから上るとたたりがあるとの言い伝えがあり。誰一人登ったことがなかったと言われています。
 今では、航海の安全と大漁を祈願する漁業関係者の信仰が厚く毎月七日、十七日、二十七日に多くの人々が参拝に訪れています。
          三浦市


【洲乃御前神社】三崎町城ヶ島安房崎
  安房崎と洲の御前【注:誤記はルビで修正】
 安房の国といえば当地より望見する南房総の一帯をいいますが、その安房に向く岬という意味から安房崎の地名がついたといわれております。
 海のかなたにあこがれる人々の心は昔も今も変わりありませんが、往時この岬に立って海越しに安房の国を眺めた人の想いはどのようであったでしょうか。
 洲の前御前社は三崎の海南神社の祭神藤原資盈の家臣四郎を祀ったといわれていますが、この祭神は、石を噛み砕き鉄を爪で切るほどの勇猛大剛なので、始め洲荒御前と称したといわれます。
 境内には、源頼朝が洲の御前社参詣の折に催した宴に使った揚子(楊枝?)を挿したのが育って周囲三メートル余にもなった「びゃくーん(びゃくしん)」の大樹がありましたが、貞観三年(一六八六)四月台風の日、自然発火して焼失したと伝えられています。
 安房崎の「はな」は海中に突出した磯のため浅瀬が多く、航行する船舶の難所であったため昭和三十七年現在ある白亜のスマートな無人灯台が設置されました。
          三浦市


【出世稲荷社/鬼王権現社】三浦市三崎1丁目10


【東岡城辺稲荷神社】三浦市城山町1-14


 以下、本日撮影のその他の写真です。


【参考】
 ユウゲショウ Oenothera rosea
 地蔵尊:三浦市初声町下宮田215-4
 タンキリマメ Rhynchosia volubilis
 夫婦地蔵(3基)と地蔵尊
 六十六部巡拝祠:三浦市三崎町六合12-1
 オオヤマフスマ Arenaria lateriflora
 ツルレイシ(ニガウリ) Momordica charantia var. pavel
 青首大根 Raphanus sativus var. longipinnatus
 アレチウリ Sicyos angulatus
 ホテイアオイ Eichhornia crassipes
 ハナセンナ Cassia corymbosa
 ヒメマツバボタン Portulaca pilosa
 神奈川県水産技術センター
 にじいろさかな号
 島の娘:小川清彦作
 大島桜(おおしまざくら)Cerasus speciosa
 トビ Milvus migrans
 ミヤコグサ Lotus japonicus
 ハマエノコロ Setaria viridis
 ソナレムグラ Leptopetalum strigulosum
 ハマエンドウ Lathyrus japonicus
 地蔵尊:城ヶ島灯台公園
 城ヶ島灯台
 ツルボ Barnardia japonica
 スカシユリ Lilium maculatum
 メドハギ Lespedeza cuneata
 馬の背
 ハマゴウ Vitex rotundifolia
 ワレモコウ Sanguisorba officinalis
 ワダン Crepidiastrum platyphyllum
 安房崎灯台
 鋸山 遠望
 シロダモ Neolitsea sericea
 北原白秋詩碑
 道祖神(?)(ごはん亭茶屋)
 ノブドウ Ampelopsis glandulosa var. heterophylla
 庚申塔(3基):東岡城辺稲荷社
 庚申塔群(6基)、地蔵尊:三崎町小網代
 富山(とみさん) 遠望
 コマツヨイグサ Oenothera laciniata


     誌
慶安元年烽火台トシテ始マリ延寶六年篝火台ニ改メ 明治三年洋式灯臺ヲ創設 大正十二年大震災ニ倒壊 同十五年改築完成ス
茲ニ八十年ヲ記念シ碑ヲ建テ感謝ノ徴衷ヲ表ス
  昭和二十四年七月九日
     三崎町


慶応二年江戸条約により端を発し洋式灯台の建設が始まりました。この城ケ崎灯台も明治三年十一月初めて一条の光を放ってより、油、ガス、電気とその発展の過程において時代毎に新しい技術を吸収し独創的な開発改良を重ねて現在に至っております。その間、関東大震災、太平洋戦争と破壊的な打撃を受け、その歩んで来た道は決して平坦なものではありませんでした。
 由緒あるこの灯台も平成二年十一月にし百二十年と言う歴史を刻みましたがこのむ間幾多の船人達の命と貴重な財貨を人知れず救って来た功績を永く顕彰し、その陰には黙々と守って来た代々灯台職員各位の苦労に感謝すると共に、みの年を節目として無人となるため島民有志一同会い集い感謝の念を後世に伝えるべく石碑に託しここに建立するものである。
  平成三年十月五日
     城ヶ島観光協会


   北原白秋詩碑
雨はふるふる 城ヶ島の磯に
  利休ねずみの 雨がふる
雨は真珠か 夜明の露か
  それとも私の 忍び泣き
舟はゆくゆく通り矢のはなを
  濡れて帆あげた 主の舟
舟は櫓でやる 櫓は唄でやる
  唄は船頭さんの心意気
雨はふるふる 日はうずぐもる
  舟はゆくゆく 帆がかすむ


Kitahara Hakishu Memorial Monument inscribed with Poem
Jougashima no Ame (Rain Over Jougashima)
The rain is falling, falling, over the rocky shores of jougashima.
Tha rain, grayish greened, is falling.
The rain id falling like parles oe like mist at predawn.
Or like my tears on my cheek.
A boat is going, going, passing the tip of Toriya.
You put up the sail in the mist.
Oh, a boat goes with an oar, an oar the terryman pulls singing a song.
The song comes out of his heart.
The rain id falling, Falling, and the sky is covered bu light clouds.
The boat is going down, down, and the sail is being lost in the haze.


大正二年(一九一三年)五月、白秋は家族とともに東京から三崎に移り向ヶ崎に新居を構えます。大正三年(一九一四年)三月まで十ヵ月ほどの三崎時代ではありましたが、この間、多くの作品が残されています。三浦三崎には、市内各所に白秋の足跡があり、まさに白秋詩魂のふるさとということができます。「城ヶ島の雨」は、大正二年に白秋が船唄として作詩し、これに梁田貞が作曲してできた作品です。この詩碑は、白秋の筆跡を彫り、昭和二十四年(一九四九年)七月、ここから五十メートル東の磯に建てられ、のち現在地に移されました。
          三浦市


Hakushu moved from Tokyo to Misaki, and established his new home at Mukougasaki in May of 1913. Although he lived in Misaki only for 10 months until March of 1914, a lot of works ware made during this period. It is able to remark that Miura Misaki is the homeland of Hakushu’s poetic sentiment when you look to the marks which he left in various parts of the city. 「Rain Over Jougashima」 is a song whose lyric Hakushu wrote in 1913 as a sailor’s song and Tadashi Yanada set this poem to music. Hakushu’s handwriting was craved in this Memorial Monument which was built at the shore that located 50 meters to the east from here July of 1949. Later it was removed here.
          Miura City

南区・中区の霊場拾遺

 これまでに撮影していなかった中区と南区の社などを訪ねました。
【清水ヶ丘教会】南区南太田1丁目37-10


【(元長者町)水天宮】南区西中町4丁目


【稲荷社】南区浦舟町5丁目


【日本キリスト教会横浜海岸教会】


【横濱媽祖廟】中区山下町136


【末日聖徒イエス・キリスト教会 山手ワード】

 1901年9月1日の朝、末日聖徒イエス・キリスト教会4人の宣教師は謙遜な心をもって集い、「真理を宣言し、主の目的を成就するため」、日本を奉献した。ヒーバー・J・グラント、ルイス・A・ケルチ、ホレス・S・エンサイン、アルマ・O・テーラーの各長老は、横浜の、この地にほど近い人目につかない場所へ歩いて行き、小さな森の中でともにひざまづいた。十二使徒定員会会員で日本伝道部の部長でもあったグラント長老は、そこで奉献の祈りをささげた。
 その祈りについて、テーラー長老は次のように記している。「彼の舌は緩められ、御霊が豊かに宿った。御霊の力があまりにも強かったために、彼の口から言葉が出るたび、わたしたちの心は内に燃え、神のみ使いたちが近くにいるのを感じたほどであった。」
 この碑は、日本各地の忠実な協会員によね一世紀にわたる献身を記念するものであり、イエス・キリストの福音がこの偉大な国の人々に今後も祝福をもたらし続けるという希望の灯としてここに立つ。
          2001年9月1日


【諏訪神社】中区諏訪町13


【琴平神社】中区和田山1-35

  琴平神社由緒
御祭神 金山彦命
    大物主命
由緒
 当神社は、小田原北條家に属せし、橋本伊賀守がその守護神として奉斎し、正親町天皇の御代天正四年(室町時代)に創建された神社と言われている。
 天徳寺の持神社であった琴平神社が。明治政府の神仏分離政策に基づき、お寺より離れて、神社として祭祀を行う事と成った。
 大正十二年九月の関東大震災で総欅権現造りの社殿を始め、社務所・石鳥居・六十九段の石段等が倒壊したが、昭和三年の昭和天皇御大典を記念して、社殿・社務所を再建し、更に昭和六年に木造鋼板張の鳥居及び堅石造りの石段をも復活させて、旧来の神社の姿に蘇った。
 その御神徳は顕著にして、本牧・根岸の地元は基より、遠くか房総方面からも参拝者が有り、特に漁業関係者の信仰が厚かった。
 しかし乍ら、昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲に依り、社殿を含む一切の建物、工作物が消失し、更には終戦後、進駐軍が境内地を含む附近一帯を接収した為に、神社の再建が出来ず、仮に中区西之谷に鎮座する北方皇大神宮に、奉斎して祭祀を行っていた。
 平成元年に接収解除に伴なう横浜市の区画整理事業も終了し、戦前の鎮座地(中区本牧字天徳寺七〇八番地)が山頂公園計画地の内に含まれている為、その近くの現在地に換地され、平成三年五月に四十五年振りに、社殿・社務所等を再建して、仮鎮座地の北方皇大神宮より遷座して現在に至っている。
 一、例祭日
    春の大祭 五月十日
    秋の大祭 十月十日
 一、鎮座地  横浜市中区和田山一番地の五


【吾妻神社】中区本牧原29-18

吾妻神社
 本牧は江戸時代から漁業が盛んな街で江戸日本橋新肴場と呼ばれる魚市場へ鮮魚を卸していました。吾妻神社は地域の漁業関係者からの信仰も厚く、現在も残る御影石造りの石玉垣に刻まれた名前からねその様子がうかがえます。
御由緒
 創建年代は不明ですが江戸時代の古文書に本牧本郷村原地区の鎮守として紹介されています。かつては吾妻権現社、吾妻明神社とも呼ばれていました。
 横浜大空襲により消失した御神体の背面には文和三年(一三五四年)正月十七日祠基謹平重広と銘記してあったと伝えられることから新田義貞の家臣篠塚伊賀守重広が勧請したとの説があります。また、木更津の吾妻社の御神体が波に漂っていたところを当時の漁師吉太夫が網ですくい上げ天和三年(一九八二年)に社殿を建てて祀った、との説もあります。
御祭神 日本武尊
例祭 一月十七日 七月十七日
御利益 子どもの神・疳の虫・病気平癒・安産・海上安全・大漁満足
境内社 嬬恋稲荷社
          令和元年五月
           吾妻神社総代 奉納


【本牧神社】中区本牧和田19-1

  本牧神社本殿遷座に際し
 本牧神社(旧称・本牧十二天社)は、旧来、本牧岬の先端(本牧十二天一番地)に張り出した出島の中に鎮座し、巨古木蒼然たる杜に囲まれ、鳥居の脚元には波頭打ち寄せる風光明媚な鎮守様でありました。
 その様子は江戸名所図会にも「本牧塙 十二天社」として描かれ、江戸湾を往来する廻船からは航路安全、地元民からは守護神と崇められ、本牧十二天の地に八百年以上も鎮座してあつい信仰を受けていたのです。
 しかし、先の大戦の終戦直後の昭和二十一年、ひの本牧地区は二十三万坪に及ぶ進駐軍の強制接収に遭い、以来、平成五年までの四十七年間、神社は本牧町二丁目に仮遷座を余儀なくされ、多くの氏子共々、苦難の時期を過ごしておりました。
 伝記には、建久二年(西暦一一九二年)、源頼朝公が鎌倉幕府を開くにあたり、旗門(北東の方角)守護を祈念して平安時代から存せる神殿に朱塗厨子を奉納した、とございます。
 また、鎌倉将軍維康親王より社領の寄進。中頃。両菅領よりも同様に社領寄進。天正年間には徳川家康公の関東御入国に際し、高十二石免御朱印の下置、以来、徳川十五代将軍より御代々頂戴-とあり、方除け、厄除けにご神徳が顕然(あらたか)として、武家や庶民からあつい信仰を受けてきたのです。
 また、室町時代の永録九年(西暦一五六六)から四百年以上も地元住民に受け継がれて来た当神社の「お馬流し」神事は、「ハマの奇祭」として神奈川県指定無形民俗文化財、県民俗芸能五十選であり、毎年八月上旬に現在も斎行され続け。強度の祭りとして保持されております。
 米軍の接収解除とともに、返還地域一帯は横浜市による区画整理事業が施行されました。産業道路の直線整形、消防署の建設などの公共事業計画に伴い、当神社の社有地は従前地の「本牧十二天一番地」ではなく、この「本牧和田」の新天地に換地されました。
 この新社地は、表通りに続く前面も、後背地の丘も公園であり、境内地全面が南向きの雛壇形状という、鎮守様をお祀りするのに絶好の境内地であります。
 四十七年前、仮遷座を忍ばれておられた大神様に、氏子崇敬者の創意による赤誠を捧げ、浄財を募って建立されたのがこの新神殿でございます。
 権現造りの神殿は、総銅板葺きで、唐破風と千鳥破風の二重破風、屋根坪は百坪を超して横浜最大を誇ります。本牧地区住民の敬神の念のあつさ、郷土愛の深さを如実に表すとともに、広く慕われるご神威、ご神徳の賜物でございます。
 本牧地区の目覚ましい再開発とともに、大神様に新しいご社殿、すがすがしい聖域の境内にご鎮座いただくことは、更なる御神徳の発揚をたまわり、私達が祖先から連綿と受け継いで来た「郷土・本牧」の住民一同の「心の寄りどころ」として、のた、明日を担う子供達には幼き日の懐かしいふるさとの思い出となる、と強く関心致しております。
 氏子崇敬者の皆様の、弥栄の御発展とご隆昌を祈念申し上げますとともに、本門神社のご神威を弥増しに増すために、今後も展開される神社の諸事業に、更なる強いお力添えを賜りますよう、衷心より重ねてお願い申し上げる次第です。
               再拝
  平成五年十月吉日
     本牧神社復興奉賛会
     本牧神社氏子総代会
     本牧神社々務所


木造祭礼船が復興しました
 当社の例祭に行われる「お馬流し」は、永録九年(一五六六年)から四百年以上受け継がれております。「お馬さま」は茅(カヤ)で作られ、馬頭亀体をしており、旧本牧六ヶ村にちなんで毎年六体が羽鳥家の当主により作られます。この「お馬さま」は一年間の本牧中のあらゆる災厄を背負っていただき、東京湾沖合に流す神事が「お馬流し」です。
 平成二十五年、氏子、崇敬者の皆さまのご支援を得て、木造祭礼船が修理・復興され、五十年ぶりにその勇姿を本牧の海に浮かべることができました。埋め立て前までは、三~四十名の若衆が乗り込み、お馬さまを流したあとは、岸に向かって力いっぱいの競漕が行われ、その勇壮な姿に本牧中が大いに沸き立ったものです。
 只今は、お馬流しの当日、本牧漁港では修理。復興のなった木造祭礼船によるかつての勇壮な姿を、皆さまにお見せする工夫をいたしております。
「お馬流し」


本牧神社 年間祭典神事
  1月 1日  歳旦祭
  1月 3日  元始祭
  2月上旬  宇氣の稲荷初午祭
  2月中旬  祈年祭
  2月下旬  本牧天神社例祭
  5月 5日  本牧水天宮例祭
  6月下旬  夏越大祓式
  8月初旬  例大祭 お馬迎え式
       お馬送り式 お馬流し
  9月上旬  八王子大神例祭
 10月15日  熊野速玉社例祭
 11月23日  新嘗祭
       宇氣の稲荷社例祭
 12月31日  年越大祓式
 毎月1日、15日 月次祭 午前8時30分斎行(どなたでもご参列できます)


   本牧神社御祭神
主祭神 大日霊女命(おおひるめのみこと)(天照大御神(あおてらすおおみかみ))
 相殿 須佐能男命(すさのおのみこと)
    大山津見命(おおやのつみのみこと)
    木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
摂社
■正一位宇気の稲荷社  「宇気」は「豊受」の「ウケ」で、五穀豊穣をつかさどる「保食の稲荷大明神」の意。また「宇気」は「有卦」てあり、「有卦に入る」という言葉のように、陰陽道で「吉兆」を啓示し≪素晴らしい人物や金運にめぐり逢える≫とも言われる。気学では、「宇」は「家の屋根のひさし」を意味し、「宇気」は「家に《気》が満ち満ちているさま」を具現し、商売繁盛・社業繁栄・五穀豊穣・開運招福にご神徳あらたかと伝えられる。
■本牧天神社  学問の神様といわれる「菅原道真」公をまつり、横浜の名園「本牧三渓園」に間門より移築されている「間門天神」と同様、京都の北野天満宮よりご分霊をいただいている。特に受験生などに合格祈願。学業成就のご神徳を慕われている。
■本牧水天宮  横浜には珍しい水天宮は、安産の守り神として名高い。懐妊五カ月目の戌の日に参拝し、「壽」と書いた岩田帯を締め、安産のうちにすこやかな赤児を授かるように祈念する。
■縁切り熊野神社  速玉之男神(はやたまのをのかみ)をまつる。日本書紀によれば、イザナギノミコトが黄泉国の醜さを嫌ってイザナミノミコトに対し族離れ(うからはなれ)(離縁宣言)をなされたとき、振り払った衣の裾からお生まれになった神。「悪しき縁を断ち、けがれを祓う」ところから、転じて「良縁にめぐり逢い、相整う」という。
阿夫利神社(あふりじんじゃ)  大山阿夫利神社より分霊を受け、大山祇神(おおやまずみのかみ)をまつる。森林・山岳の神であると共に、大山が、相模湾、東京湾の漁師に好漁場を知らせる目安(山アテ)であることから、大漁満足、航海安全のご神徳で知られる。
■若宮八幡宮  「若宮」とは本宮のご分霊を奉斎しているの意。京都・石清水八幡宮より受けている。誉田別命(ほんだわけのみこと)(應神天皇)、比賣神(ひめがみ)息長帯姫命(おさながたらしひめのみこと)(神功皇后)を併せのつり共に軍神、武勇の神として源氏をはじめ、その流れを汲む武将(新田・足利・戦国大名の武田・佐竹・里見・小笠原・南部、徳川・池田・蜂須賀等)に崇拝されてきた。


【宇気の稲荷社】本牧神社境内社

   宇気の稲荷社
 稲荷大明神(宇賀御霊命=うがのみたまのみこと)は五穀豊穣、商売繁昌、社業繁栄、開運招福にご神徳あらたかといわれる。
 宇気(うけ)は、豊受(とようけ)の「ウケ」。「豊」は物事が満ち足りているさまを表す美称。「ウ」は発語、「ケ」は元々、百千草の生命力を崇めた語で、それが万物に生命の存在を認める日本人の生命観となり、のちに五穀豊穣などの稲荷信仰へと受け継がれた。 また、「宇気」は有卦(うけ)であり、「有卦に入る」という言葉があるように、陰陽道においては吉祥(きっしょう=めでたいしるし)の連綿、続現を示し、《素晴らしい人物や隆昌運、金運に次々とめくり逢える》といわれる。
 気学では、「宇」は「家の屋根(ひさし)を意味し、」「宇気」は「家に《気》が充ちているさま」を具現することから、この宇気の稲荷社には、祠(ほこら)に覆殿(おおいでん)を付けた。
 感情にあたっては、本牧神社の主祭神である天照皇大御神(あまてらします・すめおおみかみ)の悠久の御璽(みしるし)、大御稜威を拝受して帰浜、相殿に奉鎮した。
  平成十六年甲申年吉日  奉納


【熊野速玉社】本牧神社境内社

縁切り 縁結び
 縁の神 熊野速玉社
 室町時代より本牧十二天社(本牧神社の旧称)の境内社として祀られていた六社のうちの一社。速玉之男神を祀る。和歌山県新宮市にある熊野速玉大社より勧進された。御神紋は三本足の八咫烏。
 日本書紀によれば、速玉之男神は伊邪那岐命が黄泉国の醜さを嫌って、伊邪那美命に対し族離れ(別離宣言)をなされたとき、振り払った衣の裾からお生まれになった神。「悪しき縁を断ち、汚れを祓う」といわれ、転じて「良縁に巡り逢い。相整う」という。
 傍らの双胴の絡み合う木は「榎」で、榎は「縁の木」(ゑんの気)といわれ、心深く念じながらぐるりと根元を右に廻れば、さらに絡み合い、「良縁」が深まり相整う。左に廻れば絡みを解いて悪縁との「縁切り」が叶い、新しき「ゑにし(縁)を期すことが出来るという。」


【稲荷社】中区根岸町1丁目18


【稲荷社】中区根岸町2丁目46


【御嶽神社】中区根岸町2丁目113


【子育地蔵尊(大聖院)】根岸山大聖院覺王寺:磯子区東町9−6


【浜マーケットの小島家が閉店】

2015年1月24日撮影
 先月通りかかったときには営業していたのですが……。


街角のアートワーク-伊勢佐木町、馬車道など

 みなとみらい地区に続き、伊勢佐木町と馬車道の街角アートを訪ねました。


【伊勢佐木町1丁目】

 作品名不明(東側入口)
 若い女像(佐藤忠良作)


【伊勢佐木町2丁目】


 Monument-Town Poeple
  〇鐘を鳴らす神父
  〇ふるいをかける農婦
  〇パンを焼くパン職人
  〇オルゴールをならす街の芸人
  〇ラッパを吹く街の音楽家
  〇靴をつくる靴職人
  〇鉄をうつ鍛冶職人
  〇粉をひく農夫
  竣工-1978年11月11日
  制作-株式会社竹中工務店/株式会社乃村工藝社


【伊勢佐木町3丁目】


 作品名不明(マクドナルド伊勢佐木町店前)


【伊勢佐木町4丁目】


 イセザキ・ベルタワー ISEZAKI BELL TOWER 1982年11月12日
 伊勢佐木町ブルース歌碑


 「伊勢佐木町」の名は、故青江三奈(平成十二年七月二日没)さん歌唱の「伊勢佐木町ブルース」によって、全国の人々に知られるようになりました。
 当組合では、青江さんに深く感謝し、記念として、この地に歌碑を建立しました。
 伊勢佐木町ブルース歌碑は「楽器の王様」といわれるグランドピアノをモチーフとし、ピアノ部分は「ざくろ石」、台座部分は「黒こかげ石」を使用して制作してあります。
 青銅製のレリーフは彫刻家熊谷友児氏製作によるものであり、黄銅版に刻まれた楽譜は「伊勢佐木町ブルース」の題名と「青江三奈」の名は青江三奈さんのご主人である、作曲家・花礼二氏に書いていただきました。
 台座部分にスピーカーを内蔵し、スイッチを押すと「伊勢佐木町ブルース」が約1分流れます。(10:00~20:00)
 裏面には、二十世紀に親しまれた横浜にちなんだ歌の中からアンケートで選ばれた五十曲の曲名が刻まれており、さらに二十一世紀に生まれてくる歌の中から後世に残したい曲名を刻み加えて、末永く親しまれる「歌碑」にしていきたいと考えています。
               協同組合 伊勢佐木町商店街


【伊勢佐木町店5丁目】


 作品名不明(やよい軒伊勢佐木町店前)
 花びら風車 Flower Windmill 1991 住谷正巳 Masami Sumiya


【伊勢佐木町店6丁目】


 作品名不明(ファミリーマート横浜イセザキモール店前)
 波の華 Namino hana 1991 住谷正巳 Masami Sumiya


【伊勢佐木町店7丁目】


 作品名不明(ローソンLTF伊勢佐木町店前)
 作品名不明(横浜銀行阪東橋支店前)2019.10.7撮影


【吉田橋関門跡】中区伊勢佐木町1丁目

横浜市地域史跡
  吉田橋関門跡
     瓶せて五年十一月一日 登録
     所有者 横浜市
 安政六年(一八五九)六月二日、横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことにより「吉田橋」と呼ばれました。
 吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを殿締まりました。
 関門は、当初港町側に設けられましたが、文久四年(一八六四)二月に吉田町側に移設されました。
 関内、関外という呼び名はこのとき以来で、関内は馬車道側、関門は伊勢佐木町側を指し、その関内は明治四年に廃止されました。
  平成二十四年三月     横浜市教育委員会


 [(かね)の橋]
明治2年(1869年)、英国人土木技師R.H.ブラントン(RICHARD HENRY BRUNTON 1841~1901)により架け替えられた吉田橋は、橋長24m、復員6mの日本最初のトラス橋であり、「(かね)の橋」として市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集めました。現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したものです。

 【ブラントンと横浜】
明治元年(1868年)政府の招聘により来日したブラントンは、開国に伴い、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通や横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。
 横浜居留地測量                  1868~70
 電信敷設                     1869
 新橋・横浜間の鉄道意見書             1869
 吉田橋(鉄の橋)架設                1869
 居留地下水道整備・マカダム式像路舗装街路照明計画 1869~71
 水道計画                     1870
 港築計画                     1870,73,74
 新埋立居留地造成計画・施工            1871
 中村川拡幅等設計・施工              1871
 日本大通り設計・施工               1871
 修技校開設                    1871
 横浜公園設計・施工                1871,72


【馬車道】

 太陽の母子像:中区常盤町4丁目47
 平和Ⅰ PEACE I マルタ・パン Marta Pan 1986
 浜の時守 1986 兒玉慎憲
 下岡蓮杖顕彰碑:中区弁天通4丁目67
 CAVALLO 1975 VENANZO CROCETTI
 作品名不明(ローソン 横浜本町四丁目店前)


太陽の母子像
 製作者 本郷 新
横浜沿革史に『明治二年六月馬車道通常盤町五丁目ニ於テ町田房造ナルモノ氷水店ヲ開業ス……』と誌されています。日本でのアイスクリームの誕生です。私達はこれを記念し、このゆかりの地に、モニュメントを建て寄贈いたします。
  昭和三十一年十一月三日
     社団 日本アイスクリーム協会
     法人  同   神奈川県支部


日本写真の開祖 写真師 下岡蓮杖(一八二三~一九一四)
                  伊豆下田に生まれる
 嘉永元年(一八四八)狩野派の青年絵師が、銀板写真に遭遇し、そして絵筆を折り捨て写真術習得の道を歩み出した。この青年こそ、日本に写真師という職業を確立した日本の写真の開祖 下田蓮杖その人である。
 蓮杖は、来日の外国人から湿板写真の機材を入手し、筆舌に尽くしがたい辛苦の歳月を経て、文久二年(一八六二)野毛に初めての写真館を開業し、その後、弁天通りに進出し、慶応三年(一八六七)太田町五丁目角地に「富士山」と「金楽堂」「相影摟」の看板を掲げた写真館を開き大繁昌をした。
 数多くの門下生を育て、我が国に於ける写真技術の先覚者として近代文化の発展に貢献した。その業績に敬意を表し、文明開化の地、馬車道通りに写真師発祥一二五周年、日本写真の開祖写真師下岡蓮杖顕彰碑を昭和六十二年(一九八七)建立をみたのである。
顕彰碑 下岡蓮杖顕彰碑建立実行委員会
碑文  横浜市写真師会設立百周年記念実行委員会
  平成二十二年(二〇一〇)六月一日


 その他、本日撮影の写真です。
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【参考】
 横浜橋商店街
 「かめや」と「Caretta」
 地蔵尊(牛鍋荒井屋)
 近代のパン発祥の地碑
 旧露亜銀行横浜支店
 継往開來碑:横浜市中区山下町185
 百段館
 麒麟麦酒開源記念碑(麒麟園)
 風の塔


  近代のパン発祥の地
 一八五九年欧米諸国との貿易がはじまるや、幕府は、日本大通五番地の横浜郵便局を中心とするこの地区に外国人の日用品街「お貸し長屋」を建てた。
 その一画で、内海平吉は一八六〇年。フランス人にパンの製法を習って「パン屋」をはじめた。
 当初は「焼き饅頭」のようなものができた。だが、これが現代日本人の日常生活につづくパン食文化の初めである。パンの元祖「富田屋」として知られた。
 その後、イギリス人クラークのパン屋「ヨコハマベーカリー」が登場する。ここで修業し、受けつぎ発展したのが内木彦太郎の元町「ウチキパン」で、イギリス流の山型パンである。
 現代日本の日常生活に根づくパン食文化「パン屋」が、はじまったこの地区に、横浜市中区制九〇周年を記念し「近代のパン発祥の地」を設置する。
          二〇一六年十一月
          設置者 横浜市綜合パン協同組合
          全日本パン協同組合連合会


  継往開來
過去を継承し未来を開く~このモニュメントは未来を切り開く<斧>をデザインしたものです。1859年横浜が開港し、ここ旧外国人居留地に欧・米・アジアの人々が集い、日本の近代化と国際化の種子がまかれました。中国人は貿易の場で「買弁」などの仕事に携わり、中華街を築いてきました。居留地の志を受け継ぎ、善隣友好・温故知新を胸に中華街は横浜の発展とともに歩んでいきます。


  百段館
 1859年に横浜港が開かれ、この館は右手の館内には外国商館が建ち並び、左手の丘の上には多くの外国人が住んでいました。ここ元町は、その外国人のための商店街として賑わっておりましたが、今日ではその伝統を受けついで多くの人に愛される街に発展しております。
 上の写真の医師団は浅間神社へ昇るもので、101段あって「元町百段」と呼ばれ親しまれておりました。その石段も1923年の関東大震災で惜しくも崩れてしまい今はその跡もありません。
 この史実を伝える意味から、この館の建設に当たっては階段を101段とし、その名を「百段館」と名付け、永く「元町百段」の名を称えることといたしました。
 1991年9月
          百段館主 株式会社チャーミー田中
               田中弘孝
               杉島和三郎


  麒麟麦酒開源記念碑
 1870年、アメリカ人ウィリアム・コープランドは横浜・山手にビール醸造所スプリング・バレー・ブルワリーを設立し、日本で初めて産業として継続的にビールの醸造・販売を行いました。コープランドはその功績から、「日本のビール産業の祖」と呼ばれています。
 1885(明治18)年、スプリング・バレー・ブルワリーの建物と土地は、日本在住の外国人経営の会社ジャパン・ブルワリーに引き継がれ、1888(明治21)年に「キリンビール」が発売されました。そして、1907(明治40年)、ジャパン・ブルワリーの事業を引き継ぎ麒麟麦酒株式会社が創立。1923(大正12)年の関東大震災まで、この地においてビールを醸造しました。石碑はこの地がキリンビール発祥の地であることを記念して、1937(昭和12)年に建立されたものです。
※石碑建立当時は、スプリング・バレー・ブルワリーの建立は1872(明治5)年とされていましたが、その後の調査で1870(明治3)年であることが判明しました。