杉山神社を巡る-番外編:杉山弁天

 嚴島神社といえば安芸の宮島ですが、横浜にも2社あります。祭神から見ても横浜市周辺に分布する杉山神社とは明らかに別系統ですが、かつて杉山弁天と呼ばれたそうです。今日は大桟橋に用事があったので、その帰りに武蔵の嚴島神社を訪ねました。


【(羽衣町)嚴島神社】横浜市中区羽衣町2-7-1
 これまで何度か尋ねたこともある横濱辨天です。鳥居の扁額にも『横濱辨天』と書いてありますが、石碑の銘にもある『嚴島神社』が正式名称のようです。境内に由緒書きはないのですが、元町嚴島神社の由緒書きから類推すると安芸の嚴島神社の系統であると思われます。境内社は、銭洗弁天社と豊受稲荷神社です。


【元町嚴島神社】
 これまで由緒書きを真剣に読んでいなかったのですが、改めて読んでみますと、横濱辨天の別当が起源であることがわかりますし、祭神は安芸の嚴島神社と同じ宗像三女神です。御神木のイチョウは、横浜市指定名木古木201041になっています。


元町嚴島神社縁起
 当神社は、今から約七〇〇年前より元横浜洲干島に鎮座していました清水弁天、洲干島弁天を、元禄年間に合祀し、元町一丁目の増徳院仮殿に御神体を奉安していました。しかし明治維新の神佛混淆の禁止により、増徳院から分離し、嚴島神社(いつくしまじんじゃ)として元町一丁目十五番地に社殿を造営、元町の鎮守様となりました。
 御祭神は、市杵島姫君(いちきしまひめのみこと)、多紀理姫命(たぎりひめのみこと)、多岐都姫命(たきつひめのみこと)の弁天三神と、当地に祀られていた木花開耶比売命(このはなさくやひめのみこと)を合祀し、嚴島神社の御祭神としてお祀りしております。社殿は関東大震災により焼失しましたが、御下賜材により仮殿を建設し、昭和初期、当地に遷座し再建されました。第二次世界大戦でまたもや灰燼に帰しましたが、昭和三十六年に氏子崇敬者の熱意により社殿を建立し今日にいたっています。
 嚴島神社は、商売繁盛、合格祈願、縁結びの神様でもあり、元町の発展隆盛の守護神であります。境内には末社として金刀比羅宮と、当地の名主であった石川家で奉祀されていた皇太神宮を遷座しお祀りしております。


 以下、杉田まで戻る途中で撮影したその他の写真です。

【石川町諏訪神社】横浜市中区石川町4丁目164
 随分と日が短くなったもので、石川町駅を過ぎる頃には日が沈んでいきました。


   諏訪神社由緒
 当石川町に鎮座の諏訪神社は、文明十三年(室町時代)の創立です。
 当時現在により高所に小祠があり、諏訪神社と号されて附近一帯の住民からの崇敬篤く燈明の絶えないことから石川河岸を出入りする漁船の目標となったこと『武蔵風土記久良岐郡石川村の章』に見えます。
 災害により社殿消失という不幸を経ましたが、現在三千戸の氏子を有し昭和三十八年八月には新社殿の再建もなり「はまのお諏訪さま」と親しまれ氏子と共に存続発展し続けています。
御祭神 建御名方命 たけみなかたのみこと
祭礼     一月一日    元旦祭
豆まき    二月三日    節分祭
春のおまつり 二月十七日   祈年祭
夏のおまつり 八月第一土曜日 例大祭
       十一月     七五三祈願祭
秋のおまつり 十一月二十三日 新嘗祭
毎月     一日と十五日  月並祭


【八幡橋八幡神社】横浜市磯子区原町10-9
 氷川明神が合祀されているとのウェブ情報があります。多摩川から南にはほとんど分布のない氷川神社ですので、もしそうであれば最南端の氷川神社かも知れません。
–> 出展は『書上(1823年)』のようです。
【文献】磯子区制50周年記念事業委員会(1978)、磯子の史話、p.380.


根岸旭台のレストラン『ドルフィン
 アルバム『ミスリム』に収録された名曲『海を見ていた午後』のモデルとなったとされるレストランです。

海を見ていた午後
 作詞作曲:荒井由実

あたなを思い出す この店に来るたび
坂を上って きょうもひとり来てしまった
山手のドルフィンは 静かなレストラン
晴れた午後には 遠く三浦岬も見える

ソーダ水の中を 貨物船がとおる
小さなアワも恋のように消えていった

あのとき目の前で思い切り泣けたら
今頃二人 ここで 海を見ていたはず
窓をほほをよせて カモメを追いかける
そんなあなたが 今も見える テーブルごしに

紙ナプキンには インクがにじむから
忘れないでって やっと書いた遠いあの日


根岸山大聖院覺王山の子育地蔵尊

杉山神社を巡る-Part8 日吉から八丁畷へ

 今日は、旧橘樹郡、現在の日吉周辺の杉山神社を尋ねました。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 井田神社(合祀社):川崎市中原区井田中ノ町13-23
 久末天照大神社 (合祀社):川崎市高津区久末642
 (40)杉山神社:川崎市高津区末長2丁目28-1
 (41)久本神社:川崎市高津区久本1丁目16-13
 新城神社(合祀社):川崎市中原区新城中町4-14
 小杉神社(合祀社):川崎市中原区小杉御殿町1丁目1010
 丸子山王日枝神社(合祀社):川崎市中原区上丸子山王町1丁目1555
 (39)杉山大神:川崎市幸区小倉11丁目4-6


【井田神社(合祀社)】川崎市中原区井田中ノ町13-23
 正式名称は、天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)ですが、地元では井田神社で通っているようです。これも合祀神が多いためと思われます。

天照皇大神宮御祭神
 大日孁命(おおひるめのみこと)
 五十猛命(いたけるのみこと)
 面足命(おもだるのみこと)
 惶根命(かしこねのみこと)
 日本武命(やまとたけるのみこと)
 須佐之男命(すさのおのみこと)
年中行事
 一、初詣   元旦午前0時
 一、節分祭  二月三日
 一、秋季大祭 十月第一日曜日


【久末天照大神社 (合祀社)】川崎市高津区久末642
 通称は、久末(ひさすえ)神社ですが、正式名は久末天照大神社です。ここには、旧村にあった杉山神社2社が合祀されています。現在改修工事中で、今年度末に竣工予定とのことです。

 久末天照大神社誌
鎮座地 川崎市高津区久末伊勢原六四二番地
祭神  天照皇大神
     五十猛命  天御中主尊  稲倉魂命
     面足命   惶根命    猿田彦命
境内末社 御嶽社・稲荷社
境内面積 四百六十八坪
例大祭日 十月十日
氏子区域 久末全域
建造物 一、本殿   一棟  一、鳥居  一基
    一、拝殿   一棟  一、神号碑 一基
    一、神輿庫  一棟  一、慰霊碑 一基
    一、神社会館 一棟  一、社誌碑 一基
沿革
 この土地拓けて数百年、此処伊勢原の地を中心として久末の村が形成され、各集落の氏神たる六社の神社を祀り、殖産興業、村内安全、五穀豊穣の守護神として長く村人達の篤い崇敬を受けてきた。
 明治三年五月天照大神は村社に列格、明治四十二年十月稲荷社をはじめ杉山神社二社、面足明神社、十二天社、道祖神を村社内に合併して久末の総鎮守となる。
 昭和二十八年宗教法人法により、宗教法人天照大神設立。神社本庁に属する。
古記録
 文化九年刊行の新編武蔵風土記稿巻六十三橘郡之六、稲毛領久末村の條に
杉山社蟹谷村の境字下宮に有、二間に三間の社にて西向なり村の鎮守なり
神明宮字伊勢原の中央にあり例祭は杉山の神社と同日にてこれも村の鎮守にり云々
稲荷社字大谷の丘上にあり鈴木を氏とする者の土神云々ゆへ土俗に鈴木稲荷と呼ぶ


【(40)杉山神社】川崎市高津区末長2丁目28-1
 この地域では珍しく『杉山』の名前が残っている旧末長村の杉山神社です。今日はお祭り日だったらしく人で賑わっていました。境内社は熊野神社と稲荷神社、御神木のスダジイはたいそう立派で、町の樹50選 No.5 に指定されていました。

  杉山神社
 杉山神社は、古代より末長部落の鎮守として祭神に五十猛命を祀り、住民は崇敬していたが、昭和三十九年四月五日未明不慮の火災に遭い、惜しくも由緒ある社殿が全焼の難をうけた。
 依頼八年の間、氏子会においては、神社再建を念願し努力を續けていたがその機も熟し昭和四十六年一月氏子の總意により、地域安穏、住民和平を祈念して、杉山神社再建計画が樹てられ、爾来氏子はじめ地域住民が一致協力、再建資金参阡七百余萬圓也の奉納浄財を基として昭和四十六年六月十一日地鎮起工、昭和四十六年十二月十三日よ上棟により本殿社務所の建築及び境内の整備並びに将来の神社維持管理に費するための附属建物の建築等再建計画を発してより一年有余にして悉く完成し、昭和四十七年五月二十日嚴かに、祭神の鎮座を仰ぎ遷宮大祭を行う。
 茲に杉山神社再建の遷宮大祭を記念し碑を建立する。
  昭和四十七年五月二十日
          杉山神社氏子總代代表 岸田茂隆
          杉山神社再建委員長  関口武雄


【(41)久本神社】川崎市高津区久本1丁目16-13
 ここには、旧久本村にあった杉山神社2社、八幡社、神明社の4社が合祀されています。この地域の神社の神職は溝口神社で兼務しているらしく、溝口神社の募集広告が出ていました。主神は天照大神のようです。


【新城神社】川崎市高津区新城中町4-14
 旧新庄村の神明社に杉山神社と天神社を合祀して成立したそうです。

  新城神社 由緒
祭神 天照皇大神
 當新城神社創立の年月日は不詳であるが、最も古い棟札によれば、元禄七年九月領主中川佐平太重興候、建立とあり更に明治三十年六月新城村内にあった杉山神社及び天神社を合祀して「新城神社」と改称された。
 昭和六十三年末、都市計画道路「新横浜-宮内線」の延長に伴ひ一部が買収され御社殿は現在の位置に移された。
 平成元年十月吉日


  新城囃子曲持(しんじょうはやしきょくもち)新城神社(しんじょうしんじゃ)
 新城囃子曲持とは、囃子にあわせて米俵や酒樽などを持ち上げて曲芸を競う技芸です。その由来は、江戸時代に若者連中が力石を持ち上げて、力自慢を競ったことに始まるといわれています。
 川崎市域において、かつてこの曲持を行っていた所は、大師河原・加瀬・二子・諏訪・新城などですが、現在では新城だけにしか伝承されていません。
 新城囃子曲持は、明治時代に高津区諏訪より伝えられ、一時中断していましたが、昭和四十八年、新城に伝わる鎌倉囃子系統の囃子と一緒になって復活し、現在は毎月第一日曜日新城神社境内で演じられています。
 川崎市教育委員会は、新城囃子局持を昭和五十三年七月七日、川崎市重要習俗技芸に指定しました。
 昭和五十八年十月
      川崎市教育委員会


【小杉神社(合祀社)】川崎市中原区小杉御殿町1丁目1010
 旧小杉村の杉山神社と神明社を合祀して成立、神明社の相殿には総社権現が合祀されていたため、計3社からなるとのことです。御神木のケヤキ(まちの樹50選 No.4)は樹齢150年とのことです。


【丸子山王日枝神社(合祀社)】川崎市中原区上丸子山王町1丁目1555
 大同四年 (八〇九年)に坂本日吉大社から勧請されたといわれ、大正七年に村内の八幡社・天神社・大六天社・熊野社・神明社・諏訪社・杉山社を合祀したそうです。

   日枝神社御由緒
 社の言伝えによると第五十代桓武天皇の御嫡子貞恒親王の次男恵恒僧都は不思議な子細があって山中に入られ近江の国坂本一本松のあたりに住まわれた。この人が山本平内左衛門尉恒重である。
 弟の次郎左衛門尉恒明と共に能く社に仕え山王権現(日吉大社西本宮)の御分霊を奉じて美濃国赤坂へ来たが更に尾張の国熱田神宮に一年間合わせ祀られ、その後次第に関東に下られ武蔵の国稲毛庄河崎村守山にお宮をつくりお祀りしたが、神意にかなわず、四方八方へ光を放った。庄内の道俗一度が驚いて馳集まり直ちに丸子にお送りして、お宮をつくりお祀りしたのが現在の日枝神社である。
 時に大同四年(西暦八〇九年)六月十四日であった。御鎮座以来御供田として上丸子今井村は当社権現の社領と定められた。その後治承二年(西暦一一七八年)五月上旬、小松内大臣平重盛公は武里蔵人太夫という侍を関東につかわして山王権現の社伝を再建せられ九寸五分の御剱を奉納された。
 徳川三代将軍家光の寛永九年(西暦一六四二年)八月十七日より徳川幕府末期までは御朱印弐拾石を賜った。明治二年(西暦一八六九年)七月四日山王権現を日枝神社と改称した。 古くより傳わる特殊神事の歩射祭(おびしゃ祭)は一月七日古式に基ずき盛大に挙行されている。八月の大祭には一体の大神輿と十数体の各町内神輿及び山車の曳行で賑わう。
 現在の御神殿は元文五年(西暦一七四〇年徳川吉宗時代)の建造で幣殿及び拝殿は関東大震災で崩壊し昭和三年に再建された。
 尚、当社所蔵の古文書には北条氏の虎の印判状二通徳川氏奉公人連署奉書一通と御本殿一棟が川崎市の文化財に指定され、また平重盛公奉納の小太刀と江戸中期御造営と伝えられる大神輿も社宝として大切に保存されていた。

○○十六代後裔
   宮司 山本五郎
奉納 山本文吉
  平成九年八月吉日
      塚越


   御神木由来
 高く聳える山王さんの大杉は、丸子の誇りであり、遠く中原街道ょ行き交う近郷近在の人々に心の安らぎを与えてくれたと云う。樹齢七百年余、高さ三十米、周囲八米の巨木で、昔は三本になっていたが、明治時代に一本が、大正の頃に一本が倒れ、最後の一本も遂に昭和九年に伐採された。この大杉を御神木と崇め、碑に刻み永く後世に伝えるものである。
 平成九年九月吉日
           日枝神社宮司 山本五郎代


【(39)杉山大神】川崎市幸区小倉1丁目4-6
 旧橘樹郡小倉村の杉山大神です。杉山大神を名乗っている神社は、同じ旧橘樹郡の六角橋にもあります。

 杉山大神由緒
鎮座地 川崎市幸区小倉二七七番地
祭神  五十猛命(いそたけるのみこと) 素戔嗚尊(すさのおのみこと)第二子 緑豊かな国造りの神
    天照大神 日本国全体の守護神
境内社 道祖神者 道路、交通の守護神
大祭 八月 元十月十八日斎行
特別行事 湯立(ゆだて)の式 大祭当日行う(けが)れを清める式
由緒遠隔
 当社の鎮座は古く、飛鳥時代、大化の改新によって国郡制度を敷いた頃より祀られており、近年まで境内地にあった神木樹齢一千年余の二株の古松が、その歴史を物語っている。当時、小倉村し皇室直轄領として栄え、杉山大神は農業生活の中枢をなして来た。
 戦国時代に至り、北條氏の家臣で、小机城主であった笠原氏の崇敬を受け、しばしばその代参を迎えた。
 江戸時代には、小倉村は旗本松下氏の領地となり、毎年米三俵の寄進を受けて神社は維持された。領主松下氏は、乗馬して参詣したと伝えられ、近年まで鳥居前に下馬札が立てられていた。
 新編武蔵風土記には「杉山社村の東北端にあり、本社に覆屋あり、前に鳥居あり、本地不動、長さ三尺許りの立像なり、村の鎮守なり、無量院持」とある。
                     宮司 岩澤具治記
祭事 一月 元旦祭 交通安全 村鎮祭
   三月 春水祭
   九月 赦日祭
   十一月 七五三祭
 昭和六十一年一月一日 奉納 岸 正久


 その他、本日撮影の写真です。
小倉(おぐら)神社】川崎市幸区小倉3丁目28-13
 辿りついた時には、すっかり日が暮れていました。杉山神社が合祀されているとのウェブ情報もあったのですが、由緒書きからも文献からもこれは間違いの様です。


  小倉神社由緒
御祭神 素戔嗚尊
    誉田別尊
例大祭 八月二十三日
小祭  七月五日
摂社 大六天社
   富士浅間社
 當社は小倉村に古くから鎮座する八雲神社八幡神社の二社を合祀し去る昭和三十一年八幡神社の故地に新社殿を創建して御祭神の神徳を仰ぎ郷土の繁栄と氏子一同の福祉を祈念するため、奉斎したものであります。
 八雲八幡両社創建の時代は明らかでありませんが、八雲神社境内出土の板碑類により鎌倉時代以来神聖視されていた土地に村民が鎮守神を奉齋したことに始まるのは明らかで、およそ八百年前に遡るものと伝えられています。
 御祭神素戔嗚尊……(以下、写真不鮮明につき、略します)


【善教寺】川崎市中原区井田1丁目20


【(井田)稲荷社】川崎市中原区井田1丁目16-50


【(蟹ヶ谷)熊野神社】川崎市高津区明津142
 通りかかった熊野神社では、お祭りの最中でした。


【八太神社】川崎市高津区蟹ヶ谷285


 八太神社
鎮座地 川崎市高津区蟹ヶ谷二八五番地
祭神  天太玉命(アメノフトダマノミコト)
元旦祭 一月一日
歳の神(どんど焼き) 一月
節分祭 二月三日
例祭日 十月
当社の創立年代は不詳であり、八太大権現社として丘の半ばにあり、幣束を神体とし、明治末隣村(子母口)神社に合併されたが昭和初頭に戻し、八太神社と改称する。


【南林山普門院蓮花寺】川崎市高津区久末1292


【福徳稲荷、子育地蔵、庚申塔】川崎市高津区久末1288


  福徳稲荷『お稲荷様』
 お稲荷さんは五穀豊穣・商売繁盛の神として、民衆の日常生活に密着にしている身近な神です。五穀と養蚕を司る穀物神・農耕神としてのウカニムタマ(宇迦之御霊・倉稲御霊)で稲荷明神として知られています。
 真言密教の開祖・空海(弘法大師)は東寺(教護国寺)を真言密教根本道場として建立を進めていた際、稲荷山から建造用の木材を提供されたことがきっかけとなり、お稲荷さんは東寺の守護神として祀られました。空海が東寺を朝廷から与えられた時、稲を担いだ翁に会いますが、その翁が稲荷神であったともいいます。
 稲荷信仰には狐が付き物です。お稲荷さんに油揚げを供えるのは、お稲荷さんに仕える狐が油揚げが好きだと考えられたからです。真言密教では、稲荷神をインド伝来の鬼神・ダキニテン(陀枳尼天)と同一であるとしています。ダキニテン(陀枳尼天)は、夜叉、または羅刹の一種で自在に神通力を使い、平安時代には、その本体を霊狐とみなされるようになり、狐の霊力にあやかろうとする信仰が広がり、稲荷自体を狐だと考えるようにもなったのです。
 現代におきましては、信仰が篤ければ人々のあらゆるお願いを成就してくださる功徳が戴ける有難い神仏として崇められておりますが、悪しき事には七代に亘たたりがあるとも云われております。
ご真言 オン ローキャ ローキャ  キャラソワカ
 平成十九年四月一日
  蓮華寺檀信徒総代長 森 學 殿 寄進
  蓮華寺 第四十二代 森重 代
                (一部HPより引用)記


【千年神社】川崎市高津区千年539


  千年(ちとせ)神社
鎮座地 川崎市高津区千年五三九
祭神  天照皇大神
    天児屋根命
    大和武尊
元旦祭 一月一日
春祭  四月十三日
夏祭  七月七日
秋例祭 十月
七五三 十一月
大祓  十二月
昭和三十年十月四日
 御嶽神社 春日神社 神明神社
 三社合社し千年神社と改称する


【子育て地蔵尊】川崎市高津区新作3丁目11


【馬頭観音】川崎市高津区末長2丁目17


【後明谷戸庚申塔】川崎市高津区末長2丁目9-45


   後明谷戸庚申塔(ごみょうやとこうしんとう)
建塔 元禄九年(西暦一、七二四年二月)庚申塔は祖霊供養・先祖のご加護によって厄難をのがれご加護によって厄難をのがれ安穏なるを祈願して青面金剛像。三猿を彫像、二体の庚申塔がお堂に安置されています。
庚申は庚(かのえ)申(さる)のことで中国の道教にならって、陰陽道の十干十二支説によるものであり、招福長寿。厄除和合・無病息災・地域住民道行く人々の安全祈願の道祖神として崇められております。
   平成二十八年ハ月吉日
      末長後明講中
      石碑奉献 ㈱丸貞
        〃  ㈱成建


【三社宮】川崎市中原区下沼部1745


    三社宮の誕生
 明治四十五年四月一日(一九一二)付けで東京府(都)と神奈川県の境が多摩川によって区切られたため、玉川のこちら側らあった下沼部は、荏原郡下沼部より分村することになりました。分村して神奈川県橘樹郡御幸村下沼部となりました。
 当時の氏神様は、浅間神社(今の大田区亀甲山々上)でしたが、分村することになったため氏神様も分社する事になりました。
 これより先、東京側下沼部に鎮座する赤城神社が明治四十二年七月一日に浅間神社に合祀されたため空社殿を譲り受けることになりました。
 社殿の引渡しは、明治四十五年七月中旬に行われたそうです。渡し舟二隻を清めて、川を下り接岸、向河原十五軒の氏子に引渡したとのことです。
 社殿に向かって右側に赤城神社の社殿であるため「磐筒男命(いわつつおのみこと)」中央には、昔から氏神様である浅間社の「木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」左側には昔から村にあった稲荷堂の「宇加之霊(うかのみたま)」を合祀して「三社宮」と命名しました。 昭和十一年七月、日本電気株式会社が下沼部地区の現在地に玉川工場を設立し、村は急速に発展しました。それに伴って、道路を拡張(現在の駅前通り)することになり、それまでの下沼部一九一五番地から、現在の社殿は昭和十三年五月に移築しました。
 以上が三社宮の歴史です。
                         三社宮 氏子中
                         平成十二年一月吉日


【神明大神】川崎市中原区中丸子492


  神明大神の記
 古くこの地は武州(ぶしゅう)橘樹郡(たちばなこうり)中丸子(なかまりこ)村と呼ばれ天正年間(西暦一五七三-九一)ここに在住する農耕者は七苗(しちみょう)を宗家とする一族であり極めて小さな集落であった。この人達は五穀の豊饒(ほうじょう)と疫病よりの済度(さいど)を祈願するために出羽(でわ)(くに)羽黒権現(はぐろごんげん)勧請(かんじょう)して中丸子村の鎮守社(ちんじゅしゃ)羽黒権現宮を造立して祭祀を行ってきた。このお宮の本地佛(ほんじぶつ)薬師如来(やくしにょらい)であり、すべての病を除き特に眼病平癒の霊験(れいけん)(あらたか)で、江戸や近国の者来旨し様々の立願が(かな)いご利益の程○○○の人知るところであった。
 明暦二年(西一六五六)当時の領主徳川の幕臣本郷勝右ヱ門源重泰(ほんごうかつうえもんみなもとのしげやす)本郷勝三郎源長泰(ほんごうかつさぶろうみなもとのながやす)によって本殿及拝殿が造立○○○この建物はとち(ふき)、こけら葺、色々の彫物などを配し立派なものであった。境内には他に日光、月光、神明、稲荷、座王、文朱、弁財天、天満宮、本地宮、御幣堂(ごへいどう)の末社があった。露維持四年に羽黒大権現宮を羽黒神社に更に明治三十四年には神明大神と改称し祭神を稲田姫命(いなだひめのみこと)とした。この際総ての末社を本社に合祀した。大正十一年には神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進(ぐしん)される村社となった。現在の社殿は昭和八年に改築され本殿は明暦時のものをそのまま残し、拝殿は新築したものである。昭和二十八年宗教法人神明大神として認証を受け、今日まで祭祀を行っている。その昔より当社の年次大祭は穀物の収穫期の十月八日で、夏祭と呼ばれている水神祭は五月八日であった。尚一月七日には村中の邪気を拂い平穏を祈り、五穀の豊饒を祈願する「おびしゃ」と称する大〆縄縒(おおしめなわよ)り行事がある。
 神木の大欅は「おしゃもじ」と呼び六百有余年の年輪を重ねた鎮守の象徴である。
昭和六十年(西一九八五)四月吉辰
             氏子総代連中 選文


【稲荷社】川崎市幸区鹿島田3丁目10-18


【鹿島大神】川崎市幸区鹿島田2丁目22-44


【横浜熊野神社】横浜市鶴見区市場東中町9-21



【参考】
 慶応大学日吉キャンパス
 シャリンバイ Rhaphiolepis indica
 ヒメキンセンカ Calendula tournefortii
 コシロノセンダングサ Bidens pilosa var. minor
 ナズナ Capsella bursa-pastoris
 武蔵新城駅前
 本日、スーパームーン

【文献】
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.

【本日の主な経路】
東急東横線日吉駅-善教寺-(井田)稲荷社-井田神社(合祀社)-(蟹ヶ谷)熊野神社-八太神社-久末天照大神社 (合祀社)-南林山普門院蓮華寺-福徳稲荷、子育地蔵、庚申塔-千年神社-(新作)子育て地蔵尊-(末長)馬頭観音-(40)杉山神社-後明谷戸庚申塔-(41)久本神社-新城神社(合祀社)-小杉神社(合祀社)-丸子山王日枝神社(合祀社)-三社宮-神明大神-(鹿島田)稲荷社-鹿島大神-(39)杉山大神-小倉神社-横浜熊野神社-京急本線八丁畷駅

杉山神社を巡る-Part7 中山から新横浜へ

 最近の定番となった杉山神社巡り、今回は横浜線中山駅周辺を尋ねました。このエリアは旧武蔵國都築郡に相当し、中でも西八朔の杉山神社は延喜式神名帳に記載された式内社であった可能性が高い社の一つとされています。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 (05)青砥杉山神社: 横浜市緑区青砥町1119
 (02)中山杉山神社: 横浜市緑区中山町718
 上白根稲荷社:   横浜市旭区上白根町221
 (01)寺山杉山神社: 横浜市緑区寺山町177
 (03)三保杉山神社: 横浜市緑区三保町2079
 (11)西八朔杉山神社:横浜市緑区西八朔町208
 (10)千草台杉山神社:横浜市青葉区千草台17-2
 (06)市尾杉山神社: 横浜市青葉区市ヶ尾町641
 (09)佐江戸杉山神社:横浜市都筑区佐江戸町2020
 (14)池辺杉山神社: 横浜市都筑区池辺町2718


【(05)青砥杉山神社】横浜市緑区青砥町1119
 青砥というと金沢区の青砥山鎌倉の青砥藤綱舊蹟碑などを思い浮かべますが、緑区にも藤綱が住していたと伝えられています。旧青砥村の杉山神社の境内には、稲荷社と御嶽社がありました。

   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと) 日本武尊(やまとたけるのみこと) 應神天皇(おうじんてんのう) 大日孁貴命(おおひるめむちのみこと) 面足尊(おもだるのみこと)
例祭日 十月五日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


   御嶽神社
この社はその昔、武蔵国青戸と稱した頃武州御嶽神社の分神として恩田川のほとり現在の都橋から約三百米上流に祀られ農業の神として住民から信仰を集めておりました。その後大正四年頃当神社境内に合祀され今日に至りました。
当時御堂のあった周辺の場所を御嶽堂と呼び青砥町字御嶽堂として最近までその名を留めておりましたが土地の区画整理等により順次消減されつゝあるのが現況であります。
現在の社は昭和五拾参年杉山神社改修の祭当所大工棟梁市川倉之亟氏が寄進されたものであります。


【(02)中山杉山神社】横浜市緑区中山町718
 中山駅から一番近くに鎮座する旧中山村の杉山神社です。拝殿前に芭蕉の句碑がありました。

   杉山神社の由来
杉山神社の名称は、約1400年前の白鳳時代西暦660年「天武天皇」の命により武蔵の國、「杉山の岡」に祀られたものと言われており武蔵風土記(市橋注:新編武蔵風土記稿のことを指していると思われる)によると「鶴見川、恩田川」周辺が先に述べた杉山の岡で「杉山神社」という名称は72社あるそうですが、恩田川(市橋注:多摩川の間違いと思われる)の北側にはほとんどありません。
「中山杉山神社」は昔、相次ぐ戦乱にて喪失し再建が繰り返された為、古文書等を殆ど焼失し、創立の年は不明ですが、再建文書によりますと約800年前の鎌倉時代には既に建立されていたものと推測されます。記録によりますと350年前の慶安2年5月に再建された文書が残っているそうです。
神社庁への届け出記録によると
① 慶応元年6月 再建 (1865)
② 明治6年12月 村社13位に列格(現在は11位です)
③ 大正8年9月 稲荷社、第6天、御嶽社を合祀
④ 昭和28年8月 宗教法人中山神社として登録
         宗教法人化の神社8万社、横浜288社
⑤ 昭和32年3月 火災により焼失
⑥ 昭和33年9月 再建(神殿13.9坪 2800万円)
⑦ 本神社の宮司は 21年7月より 緑区荏田 剣神社宮司(斉藤清治氏)
          54年7月より           (斉藤一麿氏)
          15年7月より           (斎藤勝幸氏)
本神社の奉斎神は 「五十猛命(いそたけるのみこと)」 3柱
         大六天稲荷様 ?
         御嶽様    ?
主神「五十猛命(いそたけるのみこと)」は素戔嗚尊(すさのうのみこと)のお子様で父親と朝鮮に渡り、杉檜など多くの樹種を持ち帰り、植林したり、航海の技術を伝授した功績の有る方でした。
「有効の神」として崇敬されている神様です。
「五十」は豊穣を意味するところから「農業の神」、「猛」は強い人武勇を表して居ます。
  2016 平成28年10月
 緑区中山町 田辺年末氏の文献より 相沢 淳 清書

天武天皇
 631~686 飛鳥時代 第40代の天皇
      この時代はまだ年号はありませんでした。


【上白根稲荷社】横浜市旭区上白根町219-5
 旭区(旧保土ヶ谷区、都筑郡)で唯一の杉山神社は、稲荷社に合祀されています。


【(01)寺山杉山神社】横浜市緑区寺山町177
 旧寺山村の杉山神社ではイチョウの黄葉が見頃で、コウヤマキとヒマラヤスギの緑とのコントラストが目に鮮やかでした。庚申塔には寛永二巳年(1749年)の銘が読み取れます。


【(03)三保杉山神社】横浜市緑区三保町2079
 旧三保村の杉山神社の扁額では、『』の字を使っていました。境内社は天満宮です

   社殿新築之碑
宗教法人 杉山神社
 祭神   日本武尊
 合祀祭神 天照大神
 合祀祭神 猿田彦命
境内神社 天満宮
 祭神   菅原道真
 杉山神社は創建の時期は不詳ながら、慶長九年(一六〇四)まで近隣併せ八か村の総鎮守である。その後久保村(三保村)の鎮守となる。
 明治維新以降国家管理の下、明治六年(一八七三)村社に指定され、同四十一年(一九〇八)村内ニ社を合祀、大正九年(一九二〇)神饌幣帛料共進神社に列せられる等の経緯を辿るも、昭和二十一年緊急勅命に基づき神社本庁を包括団体とする自主団体として存続する事となり、同二十八年宗教法人杉山神社として設立され現在に至る。
 明治元年(一一六四)に再建された本殿などは、大正九年の大改修を含め数字にわたり、修復されたが、近年頓に老朽化が著しく、また茅葺き屋根拝殿の維持管理が困難にこと等から、平成八年十月氏子が相諮り広く浄財を募って、新築する事とし、同九年五月建設委員会と組織の上設計管理㈱社寺建築設計事務所(東京都江東区)、施工㈱上林工務店(長野県上伊那郡)により、同十年十月三日例大祭に合わせ鳥居・玉垣・手水舎等付帯工事と共に無事完工をみ、遷座祭を挙行した。
 また、平成十一年十二月これまで合祀の天満宮を境内神社として創立し、遷座し得たことを併せ奉祝するものである。
  平成十二年十月吉日
     建設委員長 矢嶋誠司


【(11)西八朔杉山神社】横浜市緑区西八朔町208

  改築記念
延喜式内社
武藏總社六之宮 杉山神社
   大國魂神社宮司 猿渡盛文拜書
一、祭神五十猛命、配神大日霊貴命、素戔嗚尊、太田命
一、由緒
 当神社は武蔵国の総社天国魂神社の六ノ宮である。続日本紀承和五年(八三八)二月庚戌の條に武藏国都筑郡杉山神社預之武藏国の総社、大国魂神社の成立は、人皇十二代景行天皇四十一年都筑郡杉山神社は六の宮として西殿に祭られた。「武蔵総社誌」上巻に六所宮東西の御殿に鎮座す。一所大神等は東御殿に、一の宮小野大神、二の宮小河大神、三の宮氷川大神、以上三所鎮座す。西御殿に四の宮秩父大神、五の宮金佐奈ノ大神。六の宮杉山ノ大神、以上三所鎮座す。件の六所を総称して六所宮と称す。この六ノ宮に該当する神社が西八朔の杉山神社である。「風土記稿」に「慶安年中社領の御朱印を賜う。其の文左にのす。」
武藏国都筑郡西八朔村、極楽寺杉山明神社領同村之内五石六斗事任先現寄附之訖全可収納並境内山林竹木諸役当免除如来永不可有相違者也 慶安二年(一六四九)八月二十四日 御朱印。
 以上の事実によって当神社こそ式内社の由緒深きものである。
一、社格
 明治六年十二月被列郷社との辞令 神奈川県庁より御下附あり。
 大正九年九月十日神奈川県告示第三六二号を以って神饌幣帛料共進すべき旨仝県知事より指定あり。
 昭和二十八年八月一日神奈川県指令第三九九〇号を以って宗教法人杉山神社として仝県知事より認証された。
一、社殿
 境内地昭和五十七年十一月三日改築遷宮祭執行。境内地一四六三坪
昭和五拾七年拾壱月吉日     杉山神社宮司 志村文雄 撰文謹書

(市橋注:西八朔社が式内社であった、というのは可能性のひとつに過ぎない)


   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと) 大日孁命(おおひるめのみこと) 素戔嗚尊(すさのおのみこと) 大田命(おおたのみこと)
例祭日 十月一日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


【(10)千草台杉山神社】横浜市青葉区千草台17-2
 千草台の杉山神社の御神木は、樹齢400年と云われるケヤキ(横浜市名木古木指定48181)です。

新社殿25周年記念碑
  杉山神社
鎮座地 横浜市青葉区千草台十七の二
御祭神 五十猛命(いそたけるのみこと) 素戔嗚尊(すさのおのみこと)  大日孁命(おおひるめのみこと) 豊受姫命(とようけひめのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと) 保食神(うけもちのかみ)
御祭神五十猛命は、素戔嗚尊の御子神で天降りの時に天津樹種を持ち降り植樹農業を薦めた。
素戔嗚尊は、日の神天照皇大神の石戸隠れの後、追放になり出雲の八岐大蛇(やまたのおろち)退治で有名である。
 大己貴命(おおなむちのみこと)は、大國主神の別名、國土開拓はもとより航海、農業、交通、医薬、殖産興業、百般の事物に無限の御神徳をそそがれる神である。
由緒
 旧村社 杉山神社
 武蔵風土記に下谷本鎮守杉山神社と記され、徳川初期の創立である。
 大正三年八月一日 社殿拝殿神楽殿新改築
 昭和二十七年十月二日 神奈川県指令第三九八九号を以って宗教法人杉山神社とする。            境内坪数五七五、九〇五坪
 昭和四十九年十月六日 新社殿新築落成
     平成十年九月吉日
           宮司 志村幸男


   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと) 素戔嗚尊(すさのおのみこと) 大日孁命(おおひるめのみこと) 豊受姫命(とようけひめのみこと)  大己貴命(おおあなむちのみこと) 保食命(うけもちのみこと)
例祭日 十月七日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


【(06)市尾杉山神社】横浜市青葉区市ヶ尾町641
市ヶ尾杉山神社の境内社は稲荷社です。

   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと)
例祭日 十月五日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


お足もとに敷かれている御影石 敷石は(稲荷さま参道にも使用)もと横浜市 市電の軌道に使用されていたものを奉賛会会員 塚 一男さんよりご寄贈いただいたものであります。
     平成23年1月吉日
     下市が尾杉山神社奉賛会


【(09)佐江戸杉山神社】横浜市都筑区佐江戸町2020
 佐江戸の杉山神社の境内社も稲荷社です。

   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと)
例祭日 九月二十七日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


【(14)池辺杉山神社】横浜市都筑区池辺町2718
 池辺杉山神社の御神木はケヤキ(横浜市古木名木48177)です。昭和三年に建立されたという狛犬は近隣では例を見ないユニークなものです。境内社は、鹿嶋大神宮と稲荷社です。

  池辺杉山神社 由緒
 創立年代は不詳ですが、建立は元文元年(一七三六年)十一月江戸時代、徳川幕府八代将軍徳川吉宗の時代と推定されます。五十猛命(いたけるのみこと)を御祭神として、古くから池辺の鎮守として崇敬されています。
 明治六年十二月には村社として祀られ、対しよう九年十二月には神饌幣帛料供進神社に列しました。
 昭和三年、昭和天皇御大典を記念して本殿の大改修がなされ併せて、狛犬が建立されました。
 昭和二十二年には神楽殿を、平成十五年には拝殿を新築し、覆い殿を改修しました。


石塚
   由来
 明治初年、七五郎と謂へる人あり。星谷、若林家の出身にして力量抜群たり。藝能一座に見いだされ、全國各地にてその力技を披露、大好評を得たり。その史實を後世に傳うと共に、若者の体力増強を願い愛用のさし石と故郷池辺の安泰を祈念し、地雷石を献納せしもりなりと傳へられる。
 後年、力自慢の若者集い、力比べ体力鍛練等に用いしものが前面の石なりしが、初代は焚火等により崩壊し、二代目のものなり。
 平成三年三月
  池辺町内会町小泉幸三


【その他の社、等】
住吉神社:横浜市港北区小机町110
 小机駅に向かう途中に住吉神社がありましたので立寄りました。

 小机総鎮守住吉神社
祭神 上筒男命(うわつつおのみこと)(表筒男命) 中筒男命(なかつつおのみこと) 底筒男命(そこつつおのみこと)
配神 気久利姫命(きくりひめのみこと) 金山姫命(かなやまひめのみこと) 日ノ神(ひのかみ)
   加供智命(かぐつちのみこと) 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
 小机の住吉神社は、誠に悠久なる歴史を持つ社であります。
 住吉神社は、大概海や川口に近い処を鎮座場所とされ、昔に遡ればそこは海岸であり、川口であったと言う。
 上古小机根古屋と称す百八ヶ村の主郷なりと言う水郷一帯の時代に源を発し、この地方の土民安住の処を得、摂津国(大阪)元官幣大社住吉大社より普ねく分神を勧請せられ、住民は産土神と仰いで奉斎した。
 特に文禄(一五九二~一五九五)年中より慶長(一五九五~一六一四)年間に亙り、小机領の守護神として小机城主矢野兵庫助の崇敬篤く、恒例・臨時の祭典絶ゆることなく、又、文禄中まで小机・川向・本郷三ヶ村の郷社であり、慶長年中に分村の時当社の末社稲荷社の分神を遷された。
 嘉永三年に本殿再建しその棟札を存す。明治六年十二月村社に列格、明治四十三年四月三日村内の白山社・愛宕社・神明社を合併、増神を見るに至り、小机領総鎮守として国守りの神、海路平安の神、和歌の神は元より五穀豊穣、商業繁栄、家運隆盛、旅行安全、交通安全、厄難消除等の神として御霊験あらたかで、この地方に行き享ける者として、夢寐にも忘れることのできない大恩神であります。


 小机領総鎮守住吉神社
     平成大改修造営記念
 当住吉神社は誠に悠久なる歴史を持つ社であります。上古小机根古屋の庄 百八ヶ村の首郷たりと言う水郷一帯の時代に源を発して摂津国住吉大社より普ねく御分霊を勧請し、住民は産土大神と仰いで奉斎、後世まで尊崇感謝の奉祀が続く所以です。
 明治四十三年村内に祠られし白山社愛宕社神明社を合祀、八十五年を迎へました。この意義ある歳、氏子の総意にて社殿の修復造営を行い御祭神に感謝を捧げたいとの念願が氏子崇敬者の奉賛により竣工の慶びを迎へることができました。
 依って奉賛者名の碑を建立し将来大きく開発されて行く郷土が永遠へと無事平穏を御守護給わることを祈念いたします。
    平成七年十月二十二日
         宮司 土岐彰臣
  (以下、奉賛者名略)


 住吉神社末社
金刀比羅社(金比羅大権現)
 祭神・大物主命 おおものぬしのみこと
 大物主命は、大国主命の幸魂・奇魂であり、人造り、国造り、夫婦和合の神。
稲荷社(正一位稲荷大明神)
 祭神・倉稲魂命 うがのみたまのみこと
稲荷神社(正一位稲荷大明神)
 祭神・宇迦之御魂命 うがのみたまのみこと
 イナリは「稲生(いな)り」の意味で、もともと水田耕作を行う、人々の農耕神であった。中世から近世にかけて工業・商業が盛んになると。農業神の性格に加えて、殖産興業の神としても信仰され、各地に勧請された。
 慶長年中まで小机・川向・本郷三ヶ村の中心がこの地であり、多分村の時この稲荷の神を勧請された。
(川向・本郷は、元稲荷神社と称した。)


【本日の主な経路】
横浜線中山駅(05)青砥杉山神社-(02)中山杉山神社-上白根稲荷社-中堀川プロムナード-(01)寺山杉山神社-(03)三保杉山神社-(11)西八朔杉山神社-(10)千草台杉山神社-(06)市尾杉山神社-(09)佐江戸杉山神社-(14)池辺杉山神社-住吉神社-横浜線新横浜駅

【参考】
 平六トンネル上のサクラ
 JR中山駅前
 シバザクラ Phlox subulata
 皇帝ダリア Dahlia imperialis
 フユザクラ Cerasus x parvifolia ‘Fuyu-zakura’
 ネズミモチ Ligustrum japonicum
 コナラ Quercus serrata
 イチョウ Ginkgo biloba
 コウヤマキ Sciadopitys verticillata
 ヒマラヤスギ Cedrus deodara
 台村町の庚申塔
 キンシバイ Hypericum patulum
 立藁
 千草台の銀杏並木
 ノボロギク Senecio vulgaris
 市ヶ尾庚申堂
 川名庚申堂
 (川名)山王神社
 コスミレ Viola japonica (川名山王神社)
 ドウダンツツジ Enkianthus perulatus
 スーパームーン・イブ

【文献】
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.

三の酉(2017.11.30)

 本日酉の日につき、大宮からの帰りに目黒の大鳥神社に立寄りました。


【大鳥神社】下目黒3-1-2
  大鳥神社御由緒
御祭神 主祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) 景行天皇の皇子で。熊襲討伐、東国の蝦夷を平定。
    相殿神(あいどののかみ) 国常立尊(くにのとこたちのみこと) 日本の国開きの神様
        弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと) 日本武尊の妃
御由緒 例祭 九月九日に近い日曜日
 景行天皇の御代(七一~一三〇)当所に国常立尊を祀った社がありました。景行天皇の皇子である日本武尊は、天皇の命令で熊襲を討ち、その後、東国の蝦夷を平定しました。この東夷征討の折当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治まらんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神と称え、手近に持っておられた十握剣(とつかのつるぎ)を当社に献って神恩に感謝されました。この剣が天武雲剣(あめのたけぐものつるぎ)で、現在当社の社宝となっています。
 東征の後、近江伊吹山の妖賊を討伐になられましたが、病を得て(こう)ぜられました。日本書紀に「尊の亡骸を伊勢の能褒野(のぼの)に葬したところ、その陵より尊の霊が大きな白鳥となられ倭国を指して飛ばれ、倭の琴弾原(ことひきのはら)、河内の舊市邑(ふるいちむら)に留まり、その後、天に上られた」とあり、このことから日本武尊を鳥明神と申す訳です。当社の社伝によると「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る」とあり、大同元年(八〇六)社殿が造営されました。当社の社紋が鳳の紋を用いているのはこのためです。江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。
  酉の市(八つ頭と熊手の由来)
 当社の酉の市は都内でも古く、江戸時代に始まります。酉の市が毎年十一月の「酉の日」に行われるのは、尊の熊襲討伐の出発日が酉の日だった為その日を祭日としました。酉の日の当日、御神前に幣帛として「八つ頭」と「熊手」を奉献します。「八つ頭」は尊が東征の時、八族の各頭目を平定された御功業を具象化したもので、「熊手」は尊が焼津で焼討に遭われた時、薙ぎ倒した草を当時武器であった熊手を持ってかき集めさせ、その火を防ぎ、向火をもって賊を平らげ、九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。ここから、古来より、「八つ頭」は人の頭に立つよう出世できるという縁起と結びつき、「熊手」は家内に宝を掻き込むという意味で縁起物として広く信仰を集めました。大鳥神社の社名「おおとり」は、「大取」に通ずる為、宝物を大きく取り込むという商売繁盛開運招福の神様として、多くの人達の信仰を集めております。また、酉の市当日は、社殿において、この縁起のもとになる「開運熊手守」が授与されます。

杉山神社を巡る-Part6 西部7社

 今日は、旧武蔵國南多摩郡と都筑郡に位置する杉山神社を中心に廻ってみました。これらは、境川、恩田川、谷本川の上流域に当たります。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 (43)(小川)杉山神社: 町田市つくし野2-8-3
 (45)西田杉山神社:  町田市金森6-46
 (46)金森杉山神社:  町田市金森7-1
 (44)成瀬杉山神社:  町田市成瀬4-13-16
 (12)上恩田杉山神社: 横浜市青葉区あかね台1-1-6
 住吉神社:      横浜市青葉区奈良町833
 (07)(上谷本)杉山神社:横浜市青葉区みたけ台26-1


【(43)(小川)杉山神社】町田市つくし野2-8-3
 杉山神社考に小川の社として記載されている杉山神社です。境内神社として稲荷社と山神社がそれぞれ二座ありました。

 つくし野杉山神社の由緒・経歴
鎮座地 東京都町田市つくし野二ノ八ノ三
祭神  日本武尊[ヤマトタケルノミコト]
〃   大山祇命[オオヤマギミノミコト]
〃   木花開耶姫命[コノハナサクヤヒメノミコト]
合祀神 事代主命[コトシロヌシノミコト](三島大明神)
〃   大山昨命[オオヤマクイノミコト]山王大権現
 [杉山神社]は神奈川県都筑郡に二十四社、橘郡に三十七社、久良岐郡に五社、南多摩郡に六社と記録があって、当神社は南多摩郡六社の一社である。創建は不詳であるが、光格天皇の文化四年《一八〇七年》十一月に再建され、天保十一年《一八四〇年》六月に地頭・大久保勘三郎藤原忠寿及び家臣・下沢喜多録藤原寿利により再建された。
 更に文久三年《一八六三年》九月に再建(棟札)明治三十六年《一九〇三年》十月二十六日拝殿を新築し、明治三十八年九月三島大明神と山王大権現が合祀された。昭和五年十二月には奥の殿、拝殿を新・改築し、昭和十一年九月に神明造の鳥居一基が氏子により寄進され遷宮式を行った。
 昭和四十年より神社周辺に於いて、小川第一土地区画整備事業が始まり四十三年に完成したが、それを機に氏子の総意に基づき新土地に相応しい社殿を造営することになり、境外地の一部を売却して建築資金に充て更に氏子各位から多額の浄財と奉納金を拝領し社殿、社務所(神楽殿)水屋等を総事業費五千万円を以って造営した。そして昭和四十九年九月二十七日遷宮式を執行して新しく地域の鎮守様として生まれ変わった。
 平成二十八年には、社務所(神楽殿)の建替えと境内の整備を自己資金に氏子及び崇敬者からの寄進を加えて実施、同年八月七日落慶式を行った。
               (平成二十九年五月改訂)


【(45)西田杉山神社】町田市金森6-46
 杉山神社考には金森の杉山神社が2座載っているのですが、そのうちの一社です。扁額では『山宮』となっていました。御神木のイチョウは、町田市指定保護樹木No.1に指定されています。


【(46)金森杉山神社】町田市金森7-1
 もうひとつの金森村の杉山神社です。タブノキが神木で、境内社に八坂神社がありました。天和3年の棟札では杦山大明神となっており、当時は『』の字体が使われていたようです。

  金森杉山神社
鎮座地 東京都町田市金森三二六番地
御祭神 日本武尊
御祭事 元旦祭  一月一日
    節分祭  二月節分の日
    風祭   九月一日
    例大祭  十月第一土曜日
    七五三祝 十一月吉日
境内社
 八坂神社 例祭 七月十五日
境外社
 渋池神社 例祭 四月第一巳の日
 当社は天和三年(一六八三年)十二月、旗本 高木伊勢守の一族が下屋敷に奉斎し、朝夕武運長久を祈願された。
 慶応二年九月と大正六年現在の拝殿を新造立し、昭和十一年十月十七日現在の拝殿を新築した。
 昭和六十一年十月氏子及崇敬者の協力により、本殿、玉垣、屋根替修復並びに敷地の外柵改修工事を行い杉山宮の発展に努めた。
 尚、境内社は八坂神社、祭神素戔嗚尊を奉斎し、境外地に渋池神社を祭り地域の守護神 渋池弁財天として崇敬されている。
 昭和六十二年金森地区神社繁栄のため奉賛会を結成し昭和六十三年より平成二年り三ヵ年に亘奉賛会員及崇敬者六百余名の賛同により、社務所、神楽殿、管理人室及収納庫、のぼり竿の新設、境外社渋池神社の社殿の建替を行い、平成二年九月神社整備事業が完結し今日に至っている。
  平成二年九月


   金森杉山神社の「棟札」(その1)
                       2010・11・27
○金森杉山神社
 市域内の古社を考えるのに忘れてはならないものに杉山神社がある。市域内の分布をみると、金森の2社・三輪・成瀬・小川の各1社の計5社がある。いずれも市内の南部に属するのが特徴である。
 だいたい、いまの横浜市・川崎市にふくまれ、これに町田市域の南の一部が加わる。境川・多摩川・鶴見川とその支流早淵川・恩田川・帷子川・大岡川の流域の村々に固定され、多摩川より北には杉山神社を祀る村がまったくない。
 さて、金森村の2社の杉山社のうち、字西田の杉山社は鎌倉古道にさっていて古社の面影があり、境内に大銀杏がある。金森の杉山社には天和3年(1683)12月の再興の棟札がある。それによると領主高木伊勢守が関係している。
 この両者の祭日は同日で、御神木の木の立像と神鏡は一年交代に安置されて祭りを執行する。神体のある社が本祭で、不在のほうは影祭といっている。
                   (以上 『町田町史』上巻より抜粋)


【(44)成瀬杉山神社】町田市成瀬4-13-16
 旧南多摩郡に分布する杉山神社6社の最後に廻ったのは旧成瀬村の杉山社です。御神木のスギは平成4年に植樹された新しい樹ですので、これからの育成が楽しみです。

  神社由緒
杉山神社
 杉山神社のある地域は武蔵国軟腐、鶴見川流域の一部に限られていて、全国的なもので無く地方民によって崇敬奉祈されたものらしい。昭和五十三年調査(戸倉英太郎書「杉山神社考」)によると鶴見川流域に四十九社存在する。
 成瀬杉山神社の創建は不詳であるが、棟札によると寛文八年(一六六八)十一月代官福井清兵衛と地頭井戸忠兵衛勝吉により社殿が創建され、その後何度かにわたって修造。再建があり、恩田川沿いの水田地帯の中央に位置し、数多くの樹木に囲まれてあって、「田中の明神」として長い間村人に親しまれて崇敬されてきた。
 現在の社殿は昭和五十七年四月二十三日竣工、同年九月二十三日御遷宮祭が執り行われ、平成四年杉山神社の本社とされる、和歌山県に在る伊太祁曾神社から杉苗を譲り受け、ご神木として階段横に植樹された。ご祭神を五十猛命としているが、日本武尊の説もある。
御祭神
 天照大神(アマテラスオオミカミ)
  慈愛の神
 五十猛命(イソタケルノミコト)
  木の神・五穀豊穣の神・商売繁盛
 熊野大神(クマノオオカミ)
  水の神・五穀の神・商売繁盛
祭典
 例大祭 九月吉日
 元旦祭 一月一日  節分祭 節分の日
末社 八坂神社
 創建は安永三年(一七七四)六月十五日で。弘化三年(一八四六)に原の牛頭天王及び、文久元年(一八六一)に谷戸上合の牛頭天王が合祀されたもので、吹上の横浜市境に在ったが、杉山神社の末社として合祀された。
御祭神
 素戔嗚尊(スサノウノミコト)
  疫病除け・厄除けの神
祭典 天王祭 七月吉日

市橋注:戸倉(1956)の文献は1978年に復刻され、その際地図が附された。この地図で49番とされた杉山神社は、葉山町上山口の杉山神社であり、武蔵国に分布する杉山神社とは別系統である。従って、昭和53年に49社とするのは引用間違いである。


   新築造営記念碑
 成瀬は古くから平和で豊かな純農村であったが、昭和四十年代の高度経済成長にしもなって。急激に都市化の波が押し寄せてきた。大きな変革の時を迎え、大規模で計画的な街づくりの必要から、住民の協力による区画整理事業が実施され、近代的都市として生まれ変わった。成瀬一三四一番地にあって、長い間「田中の明神」として親しまれてきた杉山神社も都市計画道路と都営住宅建設のために移転を余儀なくされた。ここに氏子一同相計り、成瀬四五〇七番地に氏子崇敬者の浄財と基本財産の充当による、鉄筋コンクリート神明造の社殿新築を決議した。総工費は約三億七十万円、株式会社大林組の設計施工により昭和五十六年五月着工、翌年四月竣工、同年九月十一日恙なく遷宮式を執り行った。これを記念してこの碑を建立した。
 昭和五十八年九月吉日
               杉山神社
               建築造営員会


  詩碑
 わかば
あざやかな みどりよ
あかるい みどりよ
とりいを つつみ
おやねを かくし
かおる かおる
  わかばが かおる
さわやかな みどりよ
ゆたかな みどりよ
たはたを うずめ
のやまを おおい
かおる かおる
  わかばがそよぐ
   文部省唱歌 作詞松永みやお 作曲平岡均之


【(12)上恩田杉山神社】横浜市青葉区あかね台1-1-6
 恩田の杉山社。御祭神等に関する由緒書きはない一方で、社殿建設寄贈者に関する立派な碑があり、その裏側に箱物建設の経緯が示されていました。御神木に相当する樹木はクスノキですが、境内に古木は見当たりません。

  新築造営記念碑
 この社は、上恩田の鎮守であり幕末のころ落雷のため焼失しましたが、嘉永年間(一八五〇ころ)に再建されました。この再建には、江戸から大工をつれてきて三年がかりで建築されたと伝えられています。
 近郷に見ないほどの彫刻の多い建て物であり、ことに内宮はそののち昭和二十八年(一九五三年)の火災の際、運びだされ今でも当時の立派な様子を見ることが出来ます。
 右のように由緒深い神社でありますが、時の流れと老朽化に加えて、この地の地権者による上恩田土地区画整理組合事業が昭和五十八年(一九八三年)より施行され杉山神社も移転することになりました。ここに氏子一同、一意結束して社殿新築と境内地整備を決議し、平成元年五月着工、翌年七月竣工、そして同年九月十四日(一九七〇年)遷座祭、翌十五日奉祝祭を斎行、ここにめでたく上恩田土地区画整備事業により整備された「あかね台」の一角に偉容を誇る御神殿と境内の整備が竣工するに至り、これを記念してこの碑を建立しました。
 平成二年九月吉日       杉山神社建設委員会


【住吉神社】横浜市青葉区奈良町833
 文献調査が出来ていないのですが、旧奈良村の杉山神社はこに合祀されているようです。

 住吉神社は吾等が郷土奈良の永代に亘る鎮守であって御神体は銅鏡である。
 安永九年時の地頭石元氏の寄進によって新社殿が建立されたが。その後氏子の土志田義辰氏に依って改築された。用材はすべて﨔を用い四周にわたり多くの彫刻が施され近隣にその荘厳さを誇った。しかるに昭和四十七年九月一不逞の輩の放火によって社殿悉く烏有に帰した。氏子一同悲嘆にくれた。たまたま昭和四十八年新年祭に際し氏子三沢重元氏等を中心とし社殿再建の議があり一同の合意するところとなり再建委員会の結成されるに至った。予算五阡萬円余、すべて氏子崇敬者の浄財寄進に依ることとし、鉄筋コンクリー造に銅葺にして建坪四一二五平方米往時の姿をそのまゝ再建し、それに近代仕様を加味し、設計は株式会社農協建設設計センター担当、施工は株式会社松井建設によって請負はれ更に附帯工事等も総て完成し、氏子一同の念願も見事に達成して、昭和五十年秋を期して御遷座の儀が執り行なわれる運びとなった。茲に氏子崇敬者一同の㐂びを深く刻して記念とするものである。
    昭和五十年九月二十三日
                   住吉神社再建委員会


【(07)(上谷本)杉山神社】横浜市青葉区みたけ台26-1
 子ノ神社との合併を阻止することが出来たと伝えられる上谷本の杉山神社です。

      杉山神社ご案内
祭神  五十猛命(いそたけるのみこと)    誉田別命(ほんだわけのみこと)
例祭日 九月十九日
祈願内容 初宮詣 七五三厄 除交通安全 家内安全
     地鎮祭 交通安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
      電話〇四四-九八八-〇〇四五


本日訪ねたその他の神社などです。
【八坂神社/金刀比羅神社】横浜市緑区長津田町


【秋葉神社】町田市南町田1丁目5
 原公民館の隣の秋葉大権現です。小祠ですが、道祖神碑もありました。


【町谷八坂神社】


【鶴間熊野神社】


 熊野神社
祭神 伊邪那岐尊
   伊邪那美尊
由緒
 当熊野神社は和歌山県熊野にある本宮(熊野坐神社)、新宮(熊野速玉神社)及び那智(熊野那智神社)の熊野三山神社を勧請したものである。
 家都御子神(別名素戔嗚尊)を祭神とする本宮大社と熊野速玉神を主祭神とし熊野夫須美神家都御子神を祭る熊野速玉大社、及び熊野夫須美神を主祭神とし、家都御子神、熊野速玉神を祭る熊野那智大社は、平安時代末期にはこの三所を合せて。熊野(三所)権現と称するようになった。
 この熊野三山信仰は九〇七年(延喜七年)には宇多法皇の御幸があったように神霊の霊力により無病息災家内安全が祈願され全国的に一世を風びするに至った。従って当社の創立はつまびらかでないが、数百年前に勧請され社殿の内陣に不須美神の御神像が安置され奉斎されている事に依り知ることが出来る。
 当社の本殿墨書など現存する記録によれば、大飢饉大火疫病等の天変災害に御祭礼を行ない安全祈祷の数々が記されているが、当社の歴史を銘するものとして次のように残されている。
享保十一年四月吉日   本殿造立する
明和九年九月廿一日   社殿再建する
安永六年八月吉日    社殿再建する
嘉永三年三月十五日   社殿再建する
安政五年十一月廿一日  社殿再建する
明治六年十二月吉日   村社に列せら
昭和十年十一月十九日  社殿再建する
昭和二十五年六月廿一日 国有境内地譲与せらる
昭和四十六年四月三日  コンクリート権現造御社殿新築する


【公所浅間神社】大和市鶴間391
 鶴間の総鎮守、浅間神社です。相殿に子之神社と住吉神社、境内社に弁財天社が祭られていました。


  公所浅間神社(くぞせんげんじんじゃ)
当神社は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を主祭神とし、大己貴命(おおあなむちのみこと)表筒男命(うわつつおのみこと)を併せて奉斎されている。創立年代は(つまびらか)でないが源頼朝が創建したと伝えられる文亀神明録に鶴間神社と登載され相模国八十一社の巡拝所の一つとしてまた鶴間郷(大和市下鶴間、相模原市鶴間、町田市鶴間)の総鎮守として古くから崇敬されて来た。
 主祭神木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)は天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の皇妃で木花は桜にして開耶は咲映の意を含んでいる。性質素直にして容姿艶麗(えんれい)国色およぶものがない故にたたえまつった御名で国土の象徴富士に似て気高く其の貞節は日本女性の亀鑑として国民の敬仰するところで、あまねき御神徳のうち火難消除・安産・生業の守護神として尊崇されている。
 併祭神大己貴命(おおあなむちのみこと)は大国主神の別名にて御神徳が広く大きいので幾つもの神名をもっとおられる縁結びの神として親しまれているが単に男女の仲を結ぶだけでなくお互いのよりよき繁栄発展のためのつながりを結んで下さる神、幸福・開運・商売繁盛・防災除けの神として深く信仰され、子之神社として祀られ古来より村の鎮守であった。
 併祭神表筒男命(うわつつおのみこと)は天照大神ご出産のために大事な役割をなされた祓の神で人生の新生と更生・生命の守り神・水の神・海の神・豊漁祈願の神さらには歌の神として厚く信仰され住吉神社として祀られ古来より村の鎮守であった。
 昭和十九年浅間神社が指定村社に昇格の際両社を合祀した。
 昭和二十八年神道指令により宗教法人浅間神社となる。
 昭和四十八年国道十六号線大和バイパス新設のため境内地の大幅な削減により諸般の情勢をかんがみ神社百年の大計を確立のため移転造営を発願する。
 昭和五十九年九月十四日つきみ八丁目十四番(元下鶴間一四三七番)より現在地に遷宮となる。
  鎮座地 大和市鶴間三九一番地
  御社殿 神明造 床面積二七.二坪
  境内地 面積一三二六坪
  祭典
 例大祭  九月第二日曜日
 元旦祭  一月一日
 成人祭  一月第二日曜日
 節分祭  節分の日
 鎮風祭  九月一日
 七五三祭 十一月吉日
 月次祭  毎月第二日曜日


【天満宮】


  天満宮の由来
 祭神は菅原道真公(すがわらみちざねこう)(菅公(かんこう))で平安時代初期に学問の名家に生まれ、文章、詩歌に優れた才能を示し、政治家としては右大臣(うだいじん)にまでなりました。
 大変に教養があり、立身出世(りっしんしゅっせ)をした人で学問、文化の神様として仰がれています。(受験生が学業成就(がくぎょうじょうじゅ)を祈願し目的達成を祈ります。)
 縁日は毎月二十五日とされていますが、菅公の誕生と他界の日がその日にあたるためです。
 神紋(しんもん)は梅で菅公が好み愛された花です。境内にはよく牛の像がありますが菅公が丑年(うしどし)生まれで牛を大切にしたと伝えられています。
 亦筆塚(ふでづか)に使い古した筆を納める風習のあることは菅公が書道の神としてあがめられているためです。このように伝統のある天満宮は昭和六十二年三月金森・西田の氏子と金森三丁目崇敬者の協力のもとに修復造営が行われ斎主の願意を遠く後世まで伝承するものであります。
               拝詞
  昭和六十二年三月大吉
       学業成就祈願成就 天満宮総代


こち吹かば
  匂ひおこせよ
      梅の花
 あるじなしとて
    春をわするな
      菅原道真


【高ヶ坂子育地蔵尊】
高ヶ坂(こがさか)子育地蔵尊
 高ヶ坂の地蔵尊ですが、3体の双体道祖神、十三夜塔など石塔が沢山集められています。


【成瀬弁天社】
 成瀬弁天橋公園内にある小祠です。


【子ノ神社】横浜市青葉区たちばな台2-22-1
 上谷本の杉山神社が合祀される可能性があったといわれる子ノ神社です。

   子ノ神社について
 祭神は大国主命、木花開耶姫の二神である。ご神体は鏡であったが、明治中期盗難にあい、その後は木製の鏡型となった。神社の創設の由緒、時代は共に不詳である。新編武蔵風土記稿には、子ノ神社[見捨地二段計]村の鎮守なり。浅間神社より谷を隔てゝ西にあり。社は一丈に一丈五尺、東に向ふ。社前に鳥居を立つ。之も村民の持なり。と記されるのみである。境内地は明治六年地租改正の折、官有地㐧一種として召し上げられた。
 明治三十九年八月勅令㐧二二〇号による一村一社を基準とする方針の強制に屈し明治四十一年三月四日、無格社浅間神社を当社に合祀した。尚境内に神武天皇の小祠と他に一祠があったがいつか潰滅してしまった。
 神社合併の方針は更に強化され、翌四十二年ごろ、当社を上谷本(現みたけ台)の杉山神社に合併する案も出たが、氏子の猛反対にあい、取り止めとなった然しこの時に神楽殿まで持ち去られることを恐れて、これを他の場所に移設改造し部落の集会所とし、昭和四十五年区画整理のため取潰すまで使用した。
 昭和三十三年三月、先に官有地として召上げられた境内地は氏子総代三名の連署を以て無償譲与申請し認可された。
 境内に安置される、庚申堂。地神塔、辨財天などは部落内に散財していたものを区画整理の結果移設したのである。参道の階段は昭和四十九年区画整理事業完了記念として篤志家より寄進されたものである。
 神殿の改築は昭和五十年部落民の共有地たちばな台一丁目十一番地七外二筆り土地を賈却した代金を以て改築した。
 總工費 壱千四百六十九万七千円
 起工  昭和五十一年四月十五日
 竣工  昭和五十二年四月十七日
 施工者 川崎市多广区襌寺 斎藤義治
昭和五十二年四月吉日 健之
   宮司 志村文雄 謹書


【八雲神社】横浜市青葉区市ケ尾町1725


  諏訪神社建設記念碑
   神社由緒沿革
 祭神  建御名方命
     言代主命
 例祭日 十月十日
 創建は棟札によると宝暦六年十月(一七五六年)当時の領主筧内膳及び忽氏子により大場村鎮地涌産土神諏訪大明神として建立された、とあり。新編武蔵風土記稿にも記されている。
 又、他の棟札によると安政六年三月(一八五九年)、領主筧三郎左ヱ門及び惣氏子らより覆殿、拝殿を建築したとの記録があり、明治元年(一九六七年)諏訪大明神より諏訪神社と改称する。その後、昭和三六年六月社殿拡充、境内地の整備更に昭和四十九年四月社殿修理、石段の改修を行った。
 当神社は丘陵地にあったが平成の時代になり大場町一帯の都市化が進み、神社を含む地域を大場第三土地区画整備組合と称し土地区画整理事業を施行、これを機に惣氏子相計り境内地の整備、社殿社務所の建築、諸設備の拡充を成せるもの也。
  平成五年三月吉日         宮司 志村幸男


【大場諏訪神社】横浜市青葉区大場町921


 その他、本日撮影の写真です。


【参考】
 長津田(ながつた)
 イチョウ Ginkgo biloba
 つくし野駅前
 サザンカ Camellia sasanqua
 サンショウ Zanthoxylum piperitum
 カラスウリ Trichosanthes cucumeroides
 コブシ Magnolia Kobus
 ロウヤガキ Diospyros rhombifolia
 イソギク Chrysanthemum pacificum
 キク Chrysanthemum × morifolium
 ツマグロヒョウモン Argynnis hyperbius
 恩田川
 ヤマナラシ Populus tremula
 タブノキ Machilus thunbergii
 スギ Cryptomeria japonica
 クスノキ Cinnamomum camphora
 ケヤキ Zelkova serrata
 ツタ Parthenocissus tricuspidata
 ローズヒップ (Rosa spp.)
 トウカエデ Acer buergerianum
 皇帝ダリア Dahlia imperialis
 トキワサンザシ Pyracantha coccinea


【主な経路】
横浜線長津田駅-つくし野駅-(43)(小川)杉山神社-秋葉神社-町谷八坂神社-鶴間熊野神社-公所浅間神社-定方寺公園-(45)西田杉山神社-天満宮-(46)金森杉山神社-高ヶ坂子育地蔵尊-成瀬弁天社-(44)成瀬杉山神社-(12)上恩田杉山神社-住吉神社-子ノ神社-(07)(上谷本)杉山神社-八雲神社-大場諏訪神社-ブルーラインあざみ野駅

【文献】
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.

秋色を訪ねて-20171119

 今日は、朝から年賀状用のデータ整理。昼をだいぶ過ぎてからやっとひと段落ついたので、辺りで晩秋の彩を探してみました。
【主な経路】
追浜中学-夕照橋-海の公園-ニッパツ-小柴崎緑道-柴シーサイドファーム-片吹-谷津の庚申塔群-アピタ金沢文庫店-イオン金沢八景店-内川橋-追浜


【参考】
アカザ Chenopodium album var. centrorubrum
センダン Melia azedarach
シャリンバイ(実) Rhaphiolepis indica
カクレミノ Dendropanax trifidus
アオキ Aucuba japonica
メリケンカルカヤ Andropogon virginicus
ニシキギ Euonymus alatus
イロハモミジ Acer palmatum
ケヤキ Zelkova serrata
ホルトノキ Elaeocarpus sylvestris
ユズリハ Daphniphyllum macropodum
オオシマザクラ Cerasus speciosa
コナラ Quercus serrata
ドウダンツツジ Enkianthus perulatus
ウコン(サトザクラ) Cerasus Sato-zakura group‘Grandiflora
ナンキンハゼ Triadica sebifera
サルスベリ Lagerstroemia indica
シャリンバイ(花) Rhaphiolepis indica
クロガネモチ Ilex rotunda
モクシュンギク(黄花) Argyranthemum frutescens
サザンカ Camellia sasanqua
トベラ Pittosporum tobira
ナワシログミ Elaeagnus pungens
ネズミモチ Ligustrum japonicum
トキワサンザシ Pyracantha coccinea
ススキ Miscanthus sinensis
クルメツツジ Rhododendron x obtusum
ネリネ Nerine spp.
シナミザクラ Cerasus psedoseraus
クスノキ Cinnamomum camphora
ヤマグワ Morus australis
ハナツクバネウツギ Abelia x grandiflora
ベニバナボロギク Crassocephalum crepidioides
ツワブキ Farfugium japonicum
フキ Petasites japonicus
センダングサ Bidens spp.
TPHO
庚申塔
横浜・八景島シーパラダイス

紅葉の長瀞で

 やっと取れた振替休日、お天気もよかったので、紅葉が見頃との報道のあった長瀞を訪ねました。


長瀞駅のホームには、蛙神社があります。御神体は木彫りのヒキガエル(?)


長瀞駅 蛙神社 ブーメラン(無事に蛙)
ようこそ、天下の勝地 長瀞へ
「いちどとはいわずに、またきてくんな」をテーマに、ブーメラン(無事に蛙)と交通安全を願い、お客様が無事にご帰宅できますよう命名いたしました。
お社は、秩父市宮地天満天神社、お社は、秩父市近戸町 原氏より寄贈されたものです。
                  長瀞駅長


昼食は、岩畳通りの大黒屋で、くるみ蕎麦と切込み饂飩を戴きました。


 月の石公園では、モミジ類の赤がひときわ綺麗でした。


句碑
 ここに 我
 句を留むべき
   月の石
    高浜虚子


 埼玉県自然の博物館では、短い時間でしたが第三紀に生息した古代鮫カルカロドン メガロドン(Carcharodon megalodon)の復元標本、デスモスチルス(Desmostylus spp.)と同時代に生息したとされる束柱目哺乳類パレオパラドキシア(Paleoparadoxia tabatai)の骨格標本などを目にすることができました。


巨大ザメの復元 - 深谷市菅沼(すがぬま)産 カルカロドン メガロドン(Carcharodon megalodon) -
■アゴの復元模型
 深谷市菅沼で発見されたサメの歯化石をもとに、近縁のホホジロザメを参考に復元したものです。大きなアゴには獲物を食いちぎる三角形のするどい歯が並び、内側は、抜けると外側に向かってくりだす予備の歯があります。
■生体の復元模型
 頭上の模型は、体長12mの巨大なサメで。この大きさは、化石の前歯から求めました。また、軟骨魚であるサメには、硬い骨やウロコはなく、エラの穴が五対あります。


日本地質学発祥の地碑


   由来の記
 荒川が刻んだ景勝の地長瀞は、広い岩畳や色とりどりの変成岩がみられ、早くも大正十三年には国の名勝・天然記念物に指定された。
 ここに分布する変成岩は、三波川結晶片岩と呼ばれ、西日本地域にかけて帯状に分布しており、日本列島の根幹をなすものである。
 明治十年東京大学に地質学科が創設され近代地質学が初めて日本に導入されると、翌年には、初代教授ナウマン博士が長瀞を調査している。以来、長瀞一帯は、我が国地質学上の重要な研究拠点となり、多くの地質学者を育てて、日本地質学発祥の地と言われるようになった。
 彩の国元年である本年は、日本地質学会が発足して百周年を、さらに、長瀞町が町村合併五十周年を迎えた。折しも、由緒あるこの長瀞の地に、天皇・皇后両陛下が行幸啓された。
 これらを記念して「日本地質学発祥の地」の碑をここに建立する。
 平成五年十二月
          埼玉県
          長瀞町


ジオパーク秩父
“日本地質学発祥の地”といわれる秩父地域が平成23年9月、日本ジオパークに認定されました。ジオパークは”地球と人間のかかわり”をテーマとする自然公園です。地形・地質とそれを基盤とする動植物などの自然遺産や、それらに関わる文化遺産の保全・活用をおこないます。また、地域の振興に役立つ活動としても期待されています。
                        埼玉県自然の博物館


記念碑の岩石について
 これは、「赤鉄石英片岩」と呼ばれ、この地域一帯の変成岩中に薄く広く分布する。
 白い石英を主体とし、縦の縞模様に沿って暗紫色の赤鉄鉱をはさみ、その他微量の黒い石墨・緑色の緑泥石・光沢のある絹雲母などを含む。
 碑は、岩石の自然の割れ目をうまく利用しており、前後は『節理』と呼ばれる平らな割れ目、左右は『片理』という薄く割れる面からなっている。
 右側面には、かつて荒川の河床で形成された小さなポットポール群が観察できる。
                        埼玉県自然の博物館


宮沢賢治句碑


 つくづくと
「粋なもやうの
 博多帯」
荒川ぎし

 片岩の色
  宮沢賢治
「雨ニモマケズ風ニモマケズ…」で有名な宮沢賢治は明治二十九年八月二十七日岩手県花巻町(現花巻市)に生まれる。盛岡高等農林学校二年、二十歳の時、地質調査研究のため、先生、学友と共に秩父地方を訪れ大正五年(一九二六)九月三日虎石を見学、その美しさを歌の詠む。
 碑の歌は、はがきに九首の歌を書き無二の親友保坂嘉内に宛てて小鹿野より送った中野一首である。
 その後賢治は農学校教師に農民指導等に情熱を傾け、童話や詩など多くの作品を遺した。
 長瀞町と賢治の貴重な出会いの証を賢治の故郷の岩手山に似た石に刻み永く後世に伝え、町の教育文化の向上と観光発展に資するため、町内外有志の浄財を町の協力によりこの歌碑を建立する。
  平成十五年九月
   宮沢賢治歌碑建立委員会
       書 千島榮一
       刻 (有)小林石材店



蟲慰霊之碑

【主な経路】
 長瀞駅-大黒屋-岩畳-月の石もみじ公園-埼玉県立自然の博物館-上長瀞駅

杉山神社を巡る-Part5 登戸からあざみ野へ

 今日は、川崎周辺の杉山神社に縁のあるお社を中心に廻ってみました。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 五反田神社:川崎市多摩区三田1-2-10
 (金程)杉山社:(42)川崎市多摩区西生田3-3-2
 細山神明社:川崎市麻生区細山2-6
 (平尾)杉山社:(48)稲城市平尾1189
 椙山神社:(47)町田市三輪町1618
 鐵神社:(8)横浜市青葉区鉄町1553


【五反田神社】川崎市多摩区三田1-2-10
 大作杉山神社の合祀先である五反田神社です。杉山神社考(1956)には、五反田の社として記載されています。

   氏子募集のお願い
拝啓
 皆様方におかれましては、時下ますますご健勝にこととお慶び申し上げます。日頃より地元の氏神である五反田神社に対して崇敬の念を賜り、誠にありがとうございます。
 口伝によりますと、当神社は鎌倉時代の創建とされ、旧時は山王社と称し、明治になり八雲神社と改称されました。
主神 素戔嗚尊(八雲神社御祭神)
従神 日本武尊(大作杉山神社より遷宮)
 昭和三十四年十月。大作杉山神社より日本武尊を遷宮し、主神である素戔嗚尊と合祀して、ここに目出度く宗教法人五反田神社の創立となりました。
 先人たちの努力により、現在、四五〇余名の氏子(鎮守の神に守られる地本の人)を有しておりますが、地本地域のさらなる発展を願って氏子の増員を計りたく、左記のとおりご案内申し上げます。
 今後共、先人達の思いを忘れることなく、後々の世に受け渡して行く所存でございますので、何卒皆様のご理解を賜りますようお願い申し上げます。
                          敬具
  氏子募集要領
■年会費   一、〇〇〇円
 ご希望の方
  のぼり旗 三、七〇〇円(氏名を記入し、行事の時に立てます)
■申込み方法 神社の行事の時に神社社務所にて受付けます
    五反田神社 総代    関口昌男
          総代    中山富男
          奉賛会会長 磯野 清


新編武蔵風土記稿-巻之六十橘樹郡巻之三 稲毛領五段田村杉山社-より
 村ノ西山丘ノ上ニアリ。村ノ鎮守ニテ觀音寺ノ持ナリ。勸請ノ年代ヲ傳ヘス。本地不動ノ木像ヲ神體トス。立身ニシテ二尺五寸餘。本社ハ一間四方ニテ宮作ナリ。覆屋三間四方東ニ向フ。ソレヨリ十歩ハカリヲヘタテゝ鳥居ヲタツ。ソレヨリ北ノ方一町ハカリニシテ西ニヲレテ石階七十餘級アリ。祭禮ハ年々九月二十日。當社勸請ノ年代ヲ詳ニセス。古棟札ニ慶長十八年卯月一日領主本田佐渡守再造ノヨシヲシルシタレハソレヨリサキニ勸請セシコトシルヘシ。其後慶安二年ノ棟札ニハ領主市岡太左衛門本田四郎兵衛トアリ。又寛文九年ノ棟札ニ市岡五左衛門本田善之助トアリ。天和四年ノニハ市岡五左衛門一人ヲシルセリ。


【(金程)杉山社】(42)川崎市多摩区西生田3-3-2
 武蔵国金程村の杉山社です。由緒書きには多少疑問があるようですので、要確認です。

     杉山神社 由緒
沿革 鶴見川沿いとその周辺のみに多く分布する杉山神社は遠く天太玉命(アメノフトダマノミコト)を祖とする古代の名族忌部(インベ)氏の阿波の一族が房総に移住して安房神社を祀り。さらに白鳳三年(六七四年)都筑の丘に創始した杉山神社が祖とされる。其の後都筑郡唯一の式内社とされ、その霊験をもって当時の主に都筑郡と橘樹郡に多数勧請された。
 当杉山社はそのうちの一社とされ、創建の時期は不明であるが、江戸時代に編纂された新編武蔵風土記稿によれば、「当社勧請の年代を詳らかにせず。古棟札に慶長十八年(一六一三年)卯月一日領主本田佐渡守再造のよしをしるしたれば、これより先に勧請せしことしるべし」とあるので、江戸時代より以前に勧請されたことがわかる。
 郷土の伝承では、八幡太郎義家(一〇三九~一一〇六)が奥州征伐のため、この土地を通過する際、神託より当社を建てたという。その後、鎌倉時代枡形山城主稲毛三郎重成(?~一二〇五)が篤く崇敬したとのことである。
鎮座地 川崎市多摩区西生田三丁目三番二号
御祭神 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
例祭日 元旦祭 一月一日・祈年祭 一月二十日
    例大祭 九月二十日前後の祝祭日
社殿  久本殿は昭和四十二年二月九日早暁失火により灰燼に帰したが、同四十三年に再建された。(建物面積五十二平方メートル)
境内  四三〇〇平方メートル
境内社 鹿島社 宝暦十二年
奉斎地区 多摩区西生田及び南生田の一部
                 宗教法人 杉山社


新編武蔵風土記稿-巻之五十九橘樹郡巻之二 稲毛領金程村杉山社-より
 東ノ方ニヨリテアリ。村ノ鎮守ナリ。棟札ニ寛政六年造立ノヨシヲ記ス。コレ鎮座の年ナルニヤ。本社ハ丘ノ上ニアリ。三尺四方ノ宮造ニシテ覆屋アリ。二間ニ二間半。本地不動ハ木造ニシテ長一尺ハカリノ立像ナリ。相殿トス社前ニ木ノ鳥居ヲタツ。例祭ハ年々九月二十一日。平村ノ神職小泉信濃司レリ。平常ニハ村持ナリ。


【細山神明社】川崎市麻生区細山2-6

  細山神明社
鎮座 川崎市麻生区細山二丁目六番一号
祭神 主神 天照大神
   相殿 倉稲魂命
      児屋根命
      五十猛命
      猿田彦命
合併神社 稲荷社(北谷)  杉山社(南田)
     秋葉社(大久保) 春日社(向原)
     杉山社(金程)
例祭日 元旦祭 一月一日、  お庭草 七月十五日
    風祭  九月一日、  夜宮 九月二十三日
    例大祭 九月二十四日、七五三 十一月十五日
  細山神明社の縁起(逆大門の由来)
 わが郷土の鎮守様、神明社のひらかれたのは、言伝によれば源頼朝が鎌倉幕府(一、一九二年)をひらいたころといわれている。
 はじめ、社を東の方に向けて建てたところが、一夜にして社殿が西向になって居り村人が驚いて東向に直すと、又、一夜にして西向になっている。こんな事が三度もあって村人が不思議に思っていたある夜、名主の夢枕に神様がおたちになり『この神明社は細山村の東の端にある。東を向いて社を建ててしまっては大事なわが細山村に背を向けてしまいお前たちを守ることが出来ない。これを西向にして村全体がみえるようにすればいつも氏子を守っていられる。又、西の方はるか伊勢の皇大神宮の方を向いている事ができる。このため大門が逆になるのは一向にかまわぬ。』とお告があった。名主は夢からさめると、早速、村人を集め。お告のように西向のまま神明社を鎮守として祭ったという。一般の神社は坂を登って社殿を拝するのが常であるが当社は坂を降って参拝するので、人呼んで逆大門というのである。
 かつて、境内には参拝すると乳が出るという瘤のついた大榊があった。又拝殿には多数の絵馬があり、とくに眼病平癒の向いめ絵馬、下の病や腫物のため願をかけた蛤の絵馬などが霊験のありがたさを物語っている。


新編武蔵風土記稿-巻之五十九橘樹郡巻之二 稲毛領細山村杉山社-より
字坂東ノ内丘ノ上ニアリ。コレモ村ノ鎮守ナリ。相傳フ堀河院ノ御宇永長元年ノ勧請ナリト。本社は宮作ナリ。覆屋四間ニ三間半。東向ナリ。本地不動ハ木ノ立像ニテ長一尺五寸社中ニ安ス。コレモ村持。


【(平尾)杉山社】(48)稲城市平尾1189

杉山神社の歴史
 当神社は、鶴見川水系に多く存在する「杉山神社」のうちの一社で、創建の詳細年代は不詳ですが、延徳年間(1489~92年)に社殿を再建したとされ、「武州児玉郡金屋村住人中村五郎衛門家吉敬白 延徳二年(1490年)五月五日」の銘がある神鏡が、保存されています。
 現在の御神体は、日本武尊(やまとたけるのみこと)弟橘姫(おとたちばなひめ)の木像が安置されており、本殿の建築は棟札の記述により延宝四年(1676年)造営と考えられ、江戸時代前期の貴重な建築物です。
 安政二年(1855年)社殿を造営し、大正八年(1919年)に各宇に鎮座せる八坂神社、日吉神社(山王神社とも言う)の二社を合祀し、昭和五十八年(1983年)に御社殿修復、大鳥居の建立・手水舎新築等を行い現在に至っています。


【椙山神社】(47)町田市三輪町1618

   椙山神社
神社名 椙山(すぎやま)神社
鎮座地 町田市三輪町十九号一六一八番地(旧武州三輪村)
御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) 大物主命(おおものぬしのみこと) 意富斗能地神(おおとのじのかみ)
 当社は「古事記」「日本書紀」にも記されている有名な大和の國の三輪の里(現奈良県桜井市三輪町)に鎮座する大神(三輪)神社の御神体である秀麗な三輪山にこの附近の山容がよく似ているところから、元慶元年(八七七年)当地に勧請されたとの傳承がある。
 御神体は不動明王が鋳出されている御鏡であって裏面に下三輪総鎮守、寛文四年(一六六四)大吉と刻まれている。
 特に社号の「椙山」はめずらしく、武相地区に七十二の「杉山社」があるが、当社の椙(國字)は唯一のものである。
 総氏子中により奉納された文政二年九月吉祥日(一八一九)の銘がある。鰐口と、嘉永四年(一八五一)建立の江戸時代で遺存しているものとしては、近隣にあまり例のない石造大鳥居の奉額に「椙山大明神」と記されている等、まことに古い貴重な歴史を物語っている。
 昭和二十四年頃までには広い境内に樹令五、六百年を経た杉や桧の巨木がうっ蒼として椙山の社・鎮守の森そのもののたたずまいであった。
 昭和四十七年荘厳華麗で精緻を極めた神殿の覆屋を改装して幣殿と拝殿を改築、参道を改修し、境内を整備した。
 明治末年下三輪大戸にあった大戸大明神が合祀された。
祭事
  八月二十八日 風水害、天災等の厄除祈願
  九月二十八日 例大祭
氏子数 百二十戸(旧末は約六十戸) その他崇敬者が多い
             昭和五十六年十一月吉日 氏子中


【鐵神社】(8)横浜市青葉区鉄町1553
杉山明神、青木神社、天満宮を合祀した鐵村の総鎮守鐵神社です。例によって、辿りつく頃には日がとっぷりと暮れていましたので、またいつか訪ねたいと思います。

   鐵神社の由緒
ご祭神ご神徳
伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)
 国家安泰 延命長寿 五穀豊穣 家内安全 土木建築 商売繁盛 厄除 病気平癒 受験 結婚 子授け
五十猛命(いそたけるのみこと)
 植林 木材 木具 住宅の木材製品の守護神
菅原大神(すがわらのおおかみ)(道真)
 文学 和歌 学問 書道 塾 免罪消除
例祭日 十月吉日
人事芸能 上籤獅子舞
社殿 本殿(三坪) 幣殿(六坪) 拝殿(十八坪) 社務所(二十八坪)
由緒・沿革
新編武蔵風土記稿に拠ると天文年間(一五三五~一五五五)勧請し創建されたと伝えられる。
以前は青木明神、杉山明神と称していたが、明治初年に上・中・下鐵村の三ヶ村が合併して鐵村となり神社名も「鐵神社」に改称した。
旧本殿が二殿あったが、昭和四年(一九二九)改築した時本殿を一つにまとめた。
この年、神饌幣帛供進社に指定され、以来鐵上中下の総鎮守として篤く崇敬されている。
昭和三十八年(一九六三)神社境内地東北農地に私立桐蔭学園建設に伴い参道を拡張する。現在の社殿は昭和四十二年(一九六七)改築建立されたものである。その後昭和四十五年(一九七〇)四月に学業の神天満宮を本殿に合祀した。
なお、鳥居は昭和四十九年(一九七四)に建立されたものである。
            金子菊次郎
            村田八右衛門
            坂田愛治
            志村文雄
    平成十九年七月吉日
            鐵神社総代


●その地の神社、等

【北野天神社】川崎市多摩区枡形6丁目16

【根岸稲荷神社】川崎市多摩区枡形4丁目12

【須賀神社】川崎市多摩区栗谷3丁目18

【細山の石塔群】川崎市麻生区千代ケ丘5丁目1


二親供養
為二親菩提
奉巡礼一百番供養
三界万霊等
  享保九年(一、七二四)甲辰天
          三月吉祥日
 右はこの近くの山田家の二親供養塔である。一百番とは西国三十三、坂東三十三、秩父三十四観音札所のことという。
道祖神(どうそじん)
 向って左に「道祖神」と刻まれた石がある。この石は、この辻に建てられた道祖神-賽神(さいのかみ)(セエノカミ)の中におかれた石で以前は、この石を火中に投じたが傷んで新調されたという。
 正月早々、子供たちが中心になり作る。
さいのかみ(この辺りではセエノカミ)は、ドンド・サイトウ・佐義長(さぎちょう)などとよばれ、一月十四日の朝、もやされる。さいかみ(賽神)は村の入口に建ち、村を(ふさ)ぎ病気や災厄除けをしてくれるという。
 細山郷土資料館の村模型には十箇所近いさいのかみの分布が示されている。
                 細山郷土資料館

【平尾入定塚と十三塚】稲城市平尾2丁目84


入定塚 Nyujozuka Tumulus
 直径20mの円墳状の塚で、昭和34年に発掘調査が行われている。塚の中心部には、2m四方の遺構があり、四隅に径25cm程の丸石が置かれていた。発見された板碑から「天文5年(1536年)丙申八月十五日長信法印入定上人」という刻印が確認され、室町時代の末期に、長信という僧侶が鎌倉から平尾に来て、生きながら塚の中に入って、経文をとなえながら入定したということが明らかになった。出土した遺物は、9基の板碑と開元通宝などの45枚の古銭、鉄釘などである。


十三塚 Jusanzuka Tumulus
 十三塚は全国から発見されているが、東京都では、この塚が唯一のものである。平尾遺跡の調査時に、塚の一部を発掘したが、遺物は発見されず、何の目的で、いつ頃築かれたかが明らかでないが、一般には中世における民間信仰の遺跡と考えられている。馬場保雄氏が所有する貞享3年(1686年)の「裁許絵図」という古文書によると、当時この付近は馬の飼料をとる秣場という共有地であったが、平尾村と片平、古沢町(現川崎市)との間で、村の境界についての争いがおこり、互いに譲ろうとしないために、幕府の裁定が下ったのである。それは入場塚の十三塚の上を境界とするもので、境界を定めるために十三塚が利用されたのである。


【(三輪)熊野神社】町田市三輪町1925
 三輪の熊野神社、扁額には「熊?神社」とあります。神木のアカガシは、巨樹・巨木データベースによれば、主幹の周囲が530cmで、東京都では一番太いアカガシです。


  熊野神社
鎮座地 町田市三輪町一九二五番地
御祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)
由緒 元慶元年(八七七)大和の国城上郡三輪の里(現奈良県桜井市三輪)よりの勧請との伝承がある。明和四年(一七六七)十一月別当高蔵寺法印亮怡により社殿造営され鎮守の神として氏子の崇敬の的となり、嘉永七年(一八五〇)八月石像の三尊仏を造立して再建を図る。その後昭和四年大きく増改築が施され現社殿は昭和四十八年九月氏子の創意により造営される。昭和五十八ねん九月社殿造営十周年記念事業として社号碑並びに幟枠ポールを建立致し続いて境内地の整備を行い格式を整えるに至った。尚本殿は平成二年二月町田市の有形文化財に指定され、この建築は江戸中期のものと聞き及ぶ。御神木のアカガシは樹齢300年を経て市の銘木として指定を受くる。更に平成五年九月主殿造榮二十周年にあたり御神木アカガシの生育を願って御影石にてかこい保護対策を完備した。
社殿 神幣(明和四年銘)石三尊像(嘉永七年銘)
境内面積 二、四一〇平方米
社殿・本殿・神明造・拝殿入母屋造
祝祭事
 一、元旦祭    一月一日
 一、例大祭    九月二十一日
 一、七・五・三祝 十一月十五日
         昭和五十九年九月吉日 氏子中

【沢谷戸自然公園】町田市三輪緑山4-1-18
 熊野神社の近くの沢谷戸自然公園には石のモニュメント(風の足音、風の舞台、風のとおり道)がありました。

【西谷戸稲荷社】東京都町田市三輪町1618
 椙山神社の境内社の稲荷社です。左手すぐに、由緒不明の二座もあります。

【寺家熊野神社】横浜市青葉区鴨志田町
 寺家ふるさと村の近くで道を探していてたまたまみつけた熊野社です。


熊野神社建設記念碑
祭神 伊弉諾命(いざなぎのみこと)
   伊弉冉命(いざなみのみこと)
   大日霊貴命(おおひるめのむちのみこと)
鎮座地 横浜市青葉区寺家町八百八拾番地
氏子数 五十九戸
由来記
熊野神社の創建は記録には不明であるが、武蔵風土記には九尺二間の社(熊野社)が寺家村熊野谷なあると記録されている。当地では昔から御熊野様と言われ、口伝により何時の時代からか火災によりここに移転されたと伝えられている。この度罹災した社は、慶應三年に当地大工野路文之丞により建立されたと棟札より判明する。その後大正十四年に当地大工萩原七之助により拝殿、浜縁を増築し、社殿が完成、昭和四十五年に屋根を茅葺より銅板葺きに改築する。今回の再建には旧社殿の復元をする趣旨で建設をする。
建設記
平成十三年四月十三日突然の不審火により全焼する。氏子集い同年五月に熊野神社建設委員会を結成し、同年八月に静岡県富士宮市の協和産業株式会社を施工業者とし、寄付金を氏子より協賛を得て同年十月に発注する。平成十四年二月地鎮祭、同年十月十三日に入魂式、十四日に遷宮祭を施行し、再建が完了する。
    平成十六年四月吉日
      熊野神社宮司 池田貞近

 その他、本日撮影の写真です。

【主な経路】
南武線登戸駅-北野天神社-根岸稲荷神社-五反田神社-須賀神社-(西生田)杉山社-細山神明社-(平尾)杉山社-平尾入定塚-(三輪)熊野社-沢谷戸自然公園-西谷戸稲荷社-椙山神社-寺家ふるさと村-寺家熊野神社-鐵神社-ブルーラインあざみ野駅

【文献】
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.

【参考】
 トキワサンザシ Pyracantha coccinea
 ケヤキ Zelkova serrata
 ヤクシソウ Youngia denticulata
 スイセン Narcissus spp.
 アカガシ Quercus acuta
 ジョウビタキ Phoenicurus auroreus
 ウィンターコスモス Bidens laevis
 あざみ野カーデンズのイルミネーション

健康ウォーキング2017

 明け方の荒天から一転して、好天に恵まれた今日は、金沢区の健康ウォーキングの日でした。
 富岡八幡公園記念碑前を起点に、所々でショッピングや昼食で足を停めながら、海の公園のゴール地点まで、3時間ほどかけて辿りつきました。最後に立ち寄った小柴漁協の秋のさかなフェスティバルでは、昨年同様シャコが沢山入った小柴汁を美味しく戴きました。
健康ウォーキング2016 健康ウォーキング2015


【主な経路】
 京急富岡駅-富岡八幡公園-シーサイド・ショッピングセンター-富岡船溜まり-長浜公園-横浜金沢ハイテクセンター-文明堂横浜工場-八景島マリンゲート-海の公園-小柴漁協-(追浜)

【参考】
 カワウ Phalacrocorax carbo
 サザンカ Camellia sasanqua
 イチョウ Ginkgo biloba
 クルマエビ Marsupenaeus japonicus
 コモンフグ Takifugu poecilonotus
 カゴカキダイ Microcanthus strigatus
 マゴチ Platycephalus indicus
 マアジ Trachurus japonicus
 イシダイ Oplegnathus fasciatus
 シャコ Oratosquilla oratoria
 クロダイ Acanthopagrus schlegelii


富岡八幡公園
  由来
 この地には奈良時代の昔から先人の營みがあった。私達富岡漁業共同組合員は波除け八幡の守護のもとに、父祖が心をあわせて拓いた幸多い海と富める土地、そして勇壮華麗な由緒ある祇園船の行事など數々の文化を連綿と受け継ぎ守り育てゝきた。
 昭和四十六年一月二十九日大英断をもって本邦随一の薫り高い海苔を育てた私達の海が金澤地先埋立事業のため新しい大地に生まれかわることに合意した。
 こゝは遠く房總の山辺を望み緑豊かな松竝木と富岡漁港があり清らかな水が湧き海に注ぐところであった。かつてこの地先の海を竝木の漁場と呼んでいた。
 今こゝにゆかりの町名として竝木、幸浦がある。さらに往年を偲ぶよすがとして、また後代子孫の彌榮を祈念してこの碑を建てる。
 昭和五十三年四月吉日
   富岡漁業協同組合健之
      元横浜市埋立事業局長 草川正書