中区の名木古木

 今日は、まだ見ていなかった中区の名木古木を、勤め帰りに確認してきました。


横浜市名木古木:中区
 タイサンボク No,201067;山手町258-4
 タブノキ No.200939:山手町159-1
 スダジイ No.201728, 201729, 201730:山手町66-2
 ヒマラヤスギ No.201731:山手町66-2
 カキノキ No.201059:山手町42-2
 ヒマラヤスギ No.200039:山手町36
 コルクガシ No.90017:山手町36
 イロハモミジ No.201606:山手町60-12
 ヒマラヤスギ No.201080:山手町49-2
 アメリカデイゴ No.201081:山手町48-7
 ソメイヨシノ No.201040:元町211-36
 イチョウ No.201041:元町211-36
 タブノキ No.201732:豆口台111 (20190620撮影)


コルク樫の大木
 明治十二年にはじめて苗木を日本でためしに植えた木だといわれています。
このコルクの木は、日本初上陸のものかもしれません。
  横浜市立元街小学校


捜真学院発祥の碑
 捜真学院は1886(明治22)年、バプテスト派のアメリカ人宣教師シャーロット・ブラウン1により、山手67番(当時の地番)の聖書印刷所2で誕生したキリスト教学校である。
 学校の発展に伴い1891(明治24)年、山手34番に、1910(明治43)年、横浜市神奈川区中丸8番地に移転した。
1:新約聖書和訳者ネーサン・ブラウン牧師の妻
2:ヨコハマ・ミッション・プレス
 横浜ユニオン教会のご好意で山手66番-2(現在の地番)のこの場所に記念碑を建立させていただいた。
2016年10月 創立130周年記念
学校法人 捜真学院 捜真小学校
捜真女学校中学部・高等学部


 Soshin Gakuin was founded in 1886 by Charlotte Brown, American Baptist Missionary, at 67 Yamate (historical address), the Bible printing office of her husband, Rev. Nathan Brown, This Christian school expanded to 34 Yamate in 1891. It was relocated in 1910 to 8 Nakamaru, Kanagawa-ku, Yokohama.
 Dedicated on the 130th Anniversary of Soshin Gakuin. Ground for this plaque at 66-2 Yamate is provided courtesy of Yokohama Union Church.


【文献】
横浜市市民局市民情報室広報センター(2001)横浜市「名木古木」リスト、市民グラフヨコハマ、No.115、p.36-41.
横浜市(2019)名木古木指定樹木一覧(平成31年3月13日時点)、Accessed 2019-06-25.

西海岸の初夏は…

 今日は、久し振りに三浦半島の西海岸を歩いてみました。生憎のお天気で、傘を持っていなかったため何度か雨宿りを余儀なくされましたが、何とか北久里浜迄辿りつけました。
【主な経路】
自宅-(六浦駅-新逗子駅)-長柄-風早-一色-葉山神明社(雨宿り)-長者ヶ崎-子産石-立石-秋谷-佐島-天神島-林-一騎塚-衣笠-(北久里浜園駅-追浜駅)-自宅


【稲荷社】追浜町3丁目16


【雷神社】追浜本町1丁目9、奥の院:追浜町3丁目12


【稲荷社】秋谷3丁目4-12


【三峰神社】芦名1丁目6


【稲荷社】芦名1丁目2-11



昭和五十二年市制施行七十周年記念
 横須賀風物百選
   立石
 波打ち際に空へ向って突き出ている巨岩を「立石」と言い、同時に、この附近の地名も立石と呼んでいます。
 この巨岩は、約二千五百万年前、海底に積み重なってできた地層が固まって、長い間、波に削られてできあがったものです。地層は凝灰岩で、高さ約十二メートル、周囲約三十メートルです。
 「立石」は、奇岩としての価値よりも、「立石」の先に張り出ている「ぼんてん」と呼ばれる岩場と、そこに自生する松、さらには海をはさんで、丹沢・箱根・伊豆の連山や、その上に浮き出た富士山の借景により絵画的な構図に真価を見いだせます。伊勢の二見が浦の夫婦岩も同じことで、二つの岩を結ぶしめ縄と、その間から昇る真紅の朝日があって、初めて夫婦岩が生きてきます。
 江戸時代の風景画家、初代安藤広重は、ここり立石の絶景をかっこ「相州三浦秋屋の里」と題して描いています。
 この「立石」ま風景は、空気の澄んだ晩秋から冬にかけてが最高です。その季節になると、アマチュアカメラマンが「立石」に落日のかかるのを辛抱強く待ち構えている姿を多く見かけます。


     泉鏡花の文学碑
 「草迷宮くさめいきゅう」は、泉鏡花が仮住まいのつもりであった逗子で執筆し、明治四十一年に出版された。
 主人公・葉越明はごしあきらが、幼い時に母から聞いた手毬唄をもう一度聞いてみたいと、それだけを念頭に豊前・小倉の故郷を出て諸国を訪ね歩いた末、ついに三浦郡秋谷の里、鶴谷の別荘で探り当てるという主題を軸にこの作品は描かれている。鶴谷邸のモデルは長屋門のある若命家と言われているが、フィクションも多い。
 鏡花は、明治六年石川県金沢市に生まれ、本名は「鏡太郎」。明治二十二年、尾崎紅葉の「二人比丘尼色懺悔ににんびくにいろざんげ」を読み感激。翌二十三年、小説家となるために上京、一年の放浪生活の末。紅葉の玄関番として寄宿し門下生となる。
 明治二十八年、「夜行巡査」や「外科室」を発表。ともに世評高く、観念小説の一角を占めた。その文壇に与えた衝撃は大きく、鏡花の名は、新進作家として知られるように至った。
 明治三十三年に「高野聖こうやひじり」、三十五年には「女仙前記」を発表。小説界の第一人者となる。
 九歳で母を亡くしたが、亡き母への憧憬は「照葉狂言てりはきょうげん」などに描かれている。また、処女作「かむり弥左衛門」をはじめとして世の貧しい不遇の人達を人たちを描いた作品を数多く発表した。
 生涯三百の作品を世に送り、晩年には帝国芸術院会員。昭和十四年没。
 代表作に「高野聖」、「春昼後刻しゅんちゅうごこく」、「歌行灯うたあんどん」、戯曲「天守物語」などがある。
          横須賀市


  草迷宮
大崩壊おおくずれいわおはだは、
春は紫に、夏は緑、
くれないに、冬は黄に、
藤を編み、つたまとい、
鼓子花ひるがおも咲き、
竜胆りんどうも咲き、
尾花おばななびけば月もす。
     泉鏡花


【專福寺観音堂】佐島1丁目26


横須賀市指定重要文化財
木造 十一面観音菩薩坐像 一躯
         平成十二年三月十日指定
 十一面観音菩薩坐像は、現在「観音ばな」と呼ばれる出崎に建つ專福寺境外の観音堂に安置されています。寺伝や江戸時代に編纂された「新編相模風土記稿」によれば、もとは付近に存在した觀妙かんみょう(明)寺の本尊だったものです。
 本像は像高四十.一センチで、構造は玉眼を嵌入したヒノキ材の寄木造です。その形姿は頭頂に仏面と十面をいただき、右手は仰向けて膝上に置き、左腕を曲げて蓮華を持っています。頭には宝冠をつけ、放射光の頭光を負い、蓮華座に安座しています。尊顔は力強さを残し、左足を右脛の上に組んだ膝前の衣文表現は室町後期風で。木彫像として相対的にまとまりの良さを見せています。
 建立事情が記された古文書から北条氏康の家臣で、佐島に知行地を持っていた粕屋清承かすやきよつぐが。天文十九年(一五五〇)に、鎌倉仏師長盛ちょうせいに造らせたことがわかります。作者・年代などが明確な室町時代後期の基準作品として、彫刻史上価値の高い作品です。
  平成十三年三月
                  横須賀市教育委員会



【参考】
 稲荷社(追浜町3丁目16)
 雷神社奥の院
 茅の輪(雷神社)
 タイワンリス Callosciurus erythraeus thaiwanensis (雷神社)
 ノイバラ Rosa multiflora
 コマツナギ Indigofera pseudotinctoria
 庚申塔群(逗子市長柄)
 ギンバイカ Myrtus communis
 メカルドニアの一種 Mecardonia spp.
 アガパンサス Agapanthus africanus
 シチヘンゲ Lantana camara
 ヒメフウロソウ Erodium x variabile
 マツバボタン Portulaca grandiflora
 庚申塔群(葉山神明社)
 タブノキ Machilus thunbergii
 ノブドウ Ampelopsis glandulosa var. heterophylla
 マサキ Euonymus japonicus
 ビャクシン Juniperus chinensis (オーシャンズクラブ)
 ノウゼンカズラ Campsis grandiflora
 稲荷社(秋谷3丁目4-12)
 ノアサガオ Ipomoea indica
 三峰神社(芦名1丁目6)
 アメリカデイゴ Erythrina crista-galli
 專福寺観音堂(佐島1丁目26)
 アジサイ Hydrangea spp.(專福寺観音堂)
 スカシユリ Lilium maculatum (天神島)
 ミヤコグサ Lotus japonicus (天神島)
 ハマボッス Lysimachia mauritiana (天神島)
 ハマオモト Crinum asiaticum (天神島)
 スイカズラ Lonicera japonica
 稲荷社(芦名1丁目2-11:大楠中学校入口)
 ツルナ Tetragonia tetragonioides
 テリハノイバラ Rosa luciae
 キケマン Corydalis heterocarpa var. japonica
 ブーゲンビレア Bougainvillea spp.
 フウセントウワタ Gomphocarpus physocarpus
 キジ Phasianus versicolor
 アフリカハマユウ Crinum bulbispermum (Syn.Crinum latifolium)
 ヒマワリ Helianthus annuus
 ウチワサボテン Opuntia vulgaris
 セネシオ属の一種 Senecio sp. (?)
 ヒメヒオウギズイセン Crocosmia x crocosmiiflora
 オシロイバナ Mirabilis jalapa
 七夕飾り(追浜駅前)

雨の日のハカランダ

 朝から雨ふりでしたが、神奈川歯科大学のハカランダの開花状況をみてきました。以前に比べて花の着きが良くない様にも思えますが、明日のジャカランダまつりが好天に恵まれますように!
 帰りは、塚山公園、十三峠(浦賀道)を経由しました。


【参考】
 ハカランダ(キリモドキ) Jacaranda mimosifolia
  神奈川歯科大では、ローマ字読みしてジャカランダと呼んでいるようですが、原産地の公用語であるスペイン語ではハカランダと呼ばれています。。
 ホタルブクロ Campanula punctata (西逸見)


ジャカランダ (和名:桐モドキ)
学名 Jacaranda mimosifolia
ノウゼンカズラ科、ジャカランダ属
原産地は南アメリカで熱帯・亜熱帯地方に分布する半耐寒性常緑高木であり、世界に約50種類が分布しています。アルゼンチンの国樹でありシドニー(オーストラリア)の市花にもなっているジャカランダはカエンボク・ホウオウボクとともに世界三大花木の一つです。葉が出る前に花が咲くことと、花の付き方、咲き方から「紫の桜」「熱帯の桜」と呼ばれています。また、ハワイでは日系人達が日本の桜を偲んで「ハワイ桜」と呼び、親しんでいます。


景観重要樹木
神奈川歯科大学 ジャカランダ
指定番号 0028
指定年月 2018年3月
景観法28条に基づき良好な景観の形成に重要な樹木として指定しました
横須賀市

品川寺の地蔵尊、など

 今日は、外勤で昼から東京へ。帰りに立ち寄った先でのスナップを掲載しておきます。


朝日のコスモワールド
地蔵菩薩坐像(品川寺)
鯉塚(鈴ヶ森刑場跡)  魚の碑
江戸六地蔵マップ


東京都指定有形文化財(彫刻)【原文にはルビなし】
 銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)
   所在地 品川区南品川三-五-一七
   指定  大正一〇年三月
 江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本『江戸六地蔵建立之略縁起』により、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(一七〇六)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一軀ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧請者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師大田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊され、五軀が残っています。
 六地蔵のうち、海照山品川寺ほんせんじの地蔵は一番古く、宝永五年(一七〇八)に造立されたものです。像高は、現存するものの中では一番大きく二七五cmあり、かつては鍍金めっきが施されていました。
 江戸時代中期の鋳造物として大作であり、かつ違例の少ないものであることから文化財に指定されました。
 平成二三年三月 建設
            東京都教育委員会


Tangible cultural property (Sculpture)
Dōzō Jizō Bosatsu Zazō (Edo Roku Jizō no Hitotsu)
Designated in 1921
 According to a copy of the “printed book of the brief history of the erection of the statues of Edo Six a Jizoson,” which was dedicated inside the statues the origin of the Edo Six Jizoson is as follows, Jizo Monk Shogen who resided in Fukagawa, Edo, had been struck by incurable disease. After praying with his parents for cure of the disease to JizoKṣitigarbh Bosatsu, Shogen was healed. After the fashion of six Jizo in Kyoto, a petition for the construction of statues of six Jizo was commenced in 1706 to collect public donations. Then a statue of Jizo Bosatsu was erected at each of six locations in Edo. The body and the lotus-shaped pedestal of each statue were incised with the names of solicitors and the year of construction. The statues were vast by Caster Ota Suruganokami Fujiwara Shogi in Kandanabe town. Anti-Buddhist movement at the beginning of Meiji period destroyed the sixth Jizo Bosatsu at Eidaiji Temple in Fukagawa. Currently there are 5 remaining statues.
 The statues of Jizo at kaishozan Honsenji Temple is the oldest among the six statues and was erected in 1708. It is the largest among the remaining statues and its height id 275cm. The statue used to be gold-plated.
 The statue was designated as cultural properties because the statue was rather elaborate for copper statues in the mid-Edo period and there are only a few previous cases as such.
Tokyo Metropolitan Board of Education

東海区水産研究所(現中央水産研究所)の旧地を訪ねる

 本日、外勤で八丁堀へ。帰りに東海区水産研究所の跡地を訪ねました。彼の地(勝どき5丁目5)は現在高層アパートになっていると聞いていましたが、実際にはクレストシティレジデンスと現在工事中の勝どきポンプ所という事の様です。当該地前には船舶が係留されていて、当時を髣髴させる写真が撮れました。
 水産伝習所仮設の地  中央水産研究所沿革  大日本水産会の歴史


【参考】
 東海区水産研究所の前身は農林省水産試験場であり、平成元年1989年中央水産研究所に改組、平成5年1993年に横浜市金沢区の、現在地(金沢区福浦2丁目12-4)に移転しています。

南区の名木古木、など

 最近、横浜市南区を巡っています。今日も午後から歩いてみました。
【主な経路】
 (日ノ出町駅)-子神社-楠森稲荷神社-横浜商業高校-横浜水天宮/太田杉山神社-白幡神社-引越山定光寺-糸縄大明神-弘明寺公園-中里熊野神社-白山社-餅井坂-(上大岡駅)


【楠森稲荷神社】南区三春台17
 大岡川沿いの道慶地蔵から北へ少し上った岡に鎮座する楠森稲荷神社のイチョウとスダジイです。

No.201415 イチョウ Ginkgo biloba
No.201416 スダジイ Castanopsis sieboldii


【定光寺】南区六ツ川1丁目270
 引越山福壽院定光寺は高野山真言宗の寺院です。裏山のアカガシのうち一本はは樹齢500年以上で、ご住職(?)のお話によれば、この樹の洞に地蔵尊が御座すとのことです。市民グラフ(2001)によればケヤキが2本あることになっているのですが銘板があるのは一本だけ、また、同じく市民グラフ(2001)に記載のあるタブノキと思われる樹にも銘板はありませんでした。

No.49201 サルスベリ Lagerstroemia indica
No.49202 サルスベリ Lagerstroemia indica
No.49200 ウメ Prunus mume
No.50021 ケヤキ Zelkova serrata
番号なし No.50022(?) ケヤキ Zelkova serrata
No.49199 アカガシ Quercus acuta
No.50019 スダジイ Castanopsis sieboldii
No.50020 アカガシ Quercus acuta
番号なし(?) タブノキ Machilus thunbergii


【白山社】南区別所2丁目30-29
 合祀神多数の別所白山社です。白山社名木古木は5本ある筈なのですが、ウラジロガシと2本目のタブノキとは特定できませんでした。あるいは鳥居脇のタブノキがそうなのかもしれません。こちらは銘板はあるのですが、2本目のシイも登録番号の記載なしです。


No.49209 タブノキ Machilus thunbergii
No.49210 スダジイ Castanopsis sieboldii
No.49211(?) スダジイ Castanopsis sieboldii
番号なし(?) タブノキ Machilus thunbergii


【住吉神社】井土ケ谷上町33-2
 稲荷神社と秋葉神社が境内社の井土ヶ谷住吉神社です。


井土ヶ谷稲荷神社
   商売繁昌
   家内安全
正面上の龍彫刻は塚原彫匠所木彫師 塚原桂昌の作です。


【白幡神社】南区永田南2丁目9-26
 永田町字長者ヶ谷鎮座の白幡神社です。毎月一日と十五日だけお参りできるのと事です。

     白幡神社由緒
神社名 宗教法人白幡神社
鎮座地 横浜市南区永田町字長者ヶ谷一、七二二番地
    現住所 永田南二丁目九番地二十六号
祭神  栲幡千千姫命たくはたちぢひめのみこと 最も勝れた機織の神様で人々に衣服について広められた。
    天照皇大神あまてらすすめおおかみ 日本の国を始めて作られた神さまで伊勢神宮(内宮)のご祭神
    國底立尊くにそこたちのみこと 国造りの神様
社殿   神明造り・木造銅板葺・弐拾四・八四平方米
境内面積 五百参拾参平方米
例祭日  大祭八月第三又は第四土曜・弐ツ幼日
     元旦祭一月一日
由緒沿革 承元年間(一、二〇七-一、二一〇年)創立と伝える。古より永田村字長者ヶ谷の鎮守で往昔祭典の時は、鎌倉八幡宮の社人坂井淡路が祭儀を執行していたと云う。当時の神道家宝積院第十六代宝積唯七社掌の時(明治四十二年四月三日)法令に村内春日社に合祀されたが、其の後地元の再建の要望に依り昭和二十八年九月十日現在地の山上に社殿を再建し分祀奉斎した。昭和四十三年山林開発団地造成に伴い、更に現境内地に移り同時に四十六年八月一日本殿・拝殿を新築、竣工した。境内地に奉斎されている阿弥陀如来は、山林開発造成工事中、神社の境内の地中より掘り出された石佛で西方浄土に住み一切の人々を救うという誓いを立てている佛である。
          平成八年十一月吉日


遷宮四十周年記念碑
 当神社は創建八百年と伝えられています。昭和四十六年開発に伴い山上より現在地に遷り四十年を迎えるにあたり祈年祭を斎行し記念碑を建立しました。
     平成二十五年十一月吉日
        白幡神社を護る会有志


【糸縄神社】南区六ツ川1丁目57番地

糸縄神社由緒
 糸縄神社は横浜市南区六ッ川一丁目に鎮座し、今から七百六十余年前の承元元年代に、大物主命、稲倉魂命を祭神として建立された。武蔵風土記稿引越村の條には「除地一段一畝歩。小名宮ノ内ニアリ。村ノ鎮守ナリ。本社参尺五寸ニ弐尺五寸、西向。上屋参間ニ二間。長壱尺五六寸ノ観音ノ石像ヲ置ク。例祭九月十三日」とある。明治六年村社に列せられ、同四十一年十一月十日村内無格社の山王社を合祀し明治四十二年五月社殿再建。昭和四十年八月二十九日新社殿完成。祭神は大物主命 大山積命 稲倉魂命。
   後記
 糸縄神社由緒に見る如く明治年間に建立された社殿は既に長年月を経て風雨に耐えず。依って、氏子総代発議により裏面記載の如く宮森秀雄を委員長として町内有志の協賛を得て広く氏子崇敬者より浄財を募り、鉄筋コンクリート造り神殿を造営し、昭和四十年八月奉祝大祭を執行。引続き玉垣、鳥居を建立。この度、駒犬壱対、灯籠壱対、天水壱基を建立して茲に糸縄神社改修建設の事業完成の喜びを見るに至る。仍って糸縄神社由緒の碑を建て、之に後記してその芳志芳名を録す。子孫も亦之にならい、永く日本精神文化の光輝を護持することを祈る。
     昭和四六年八月二十一日  宝積神主書


    さざれ石
 古来より【さざれ石】は、小さな石が集まって永い年月をかけて次第に生長し、大きな厳石(いわいし)となる神秘的な石と云い伝えられ、神聖な力によって育てられ生まれたとものして珍重され、国家にも詠われているとおり、我が国の成り立ちを表す元となつた貴重な石である。
          糸縄神社宮司 記
(国歌)君が代
  君が代は
  千代に八千代に
  さざれ石の巌(いわお)となりて
  苔のむすまで

平成三十年六月 吉日
     寄贈者 株式会社 濱田園 栗飯原 勉
     協力者 大沼 肇
     施工者 (株)濱田園


【熊野神社】南区中里3丁目4


【白山社】南区別所2丁目30-29

 白山社由緒
     平成五年三月吉日
 白山社(通称白山神社)は横浜市南区別所町に鎮座し、往古の由緒は詳でないが、古来より久良岐郡別所村一帯の産土様なのである。新編武蔵風土記稿に「白山社除地二段小名寺谷見通の辺りにあり、村の鎮守なり。社は二間に九尺南向にして古木繁茂せる山上にあり」とある。
 明治六年村社に列せられ、同四十一年十一月八日に村内無格社の日枝神社・伊勢社・八幡社・浅間社・山神社の五柱を合祀し、祭神四柱を増加した。祭神は菊理姫命・天照大神・品田別尊・木花開耶姫命・大山積命の五柱である。明治二十年四月社殿再建、その後草葺屋根を瓦葺なかえ今日に至るも、永き風雨に社殿の痛むところある故、氏子総代発議により、平成四年八月銅板にて御屋根吹替、浜縁改修、手水舎改築その他社殿改修神域整備事業を行い別所町氏子有志を始め広く崇敬者より浄財を募り、ここに完成の喜びを見るに至る。
 境内社は左の二社である。
  秋葉神社、石祠、祭神は鳴神雷神
  稲荷神社、祭神は稲倉魂命
 その他の祠碑は、大津宮祠、浅間神社社祠。陽石祠・庚申塔がある。


 その他、本日撮影の写真です。


【参考】
 ヒマラヤスギ Cedrus deodara 横浜商業高校
 秋葉神社(住吉神社境内社)
 井土ヶ谷稲荷神社(住吉神社境内社)
 阿弥陀如来(白幡神社)
 地神塔(白幡神社)
 さざれ石(糸縄神社)
 糸縄神社
 さざれ石(糸縄神社境内)
 石塔群(南区中里3-20)
【文献】
 南区の歴史発刊実行委員会(1976)南区の歴史、650p.
 横浜市市民局市民情報室広報センター(2001)横浜市「名木古木」リスト、市民グラフヨコハマ、No.115、p.36-41.
 横浜市(2019)名木古木指定樹木一覧(平成31年3月13日時点)、Accessed 2019-06-08.

晴れの日のハカランダ

 昨日とは打って変わって好天に恵まれた今日でしたが、やはりジャカランダの花付きは芳しくありません。来年に期待したいところです。


2016-06-19

アジサイ開花状況、等-イングリッシュガーデン他

 少し早いかなと思いつつ、横浜イングリッシュガーデンなどで開花状況を見てきました。ヤマアジサイ、ガクアジサイは開花が始まっていますが、多くの品種はまだ開花には至っていませんでした。品種名等は自称を参考にしておりますが、多少なりとも疑問ありです。恐らくアジサイ類は殆どすべて『アジサイ』としているのでしょう。
 今日は、夜間は立ち入り禁止となってしまう蒔田の森公園にも立寄ることが出来ました。


アジサイ Hydrangea spp.
 アジアン・ビューティー・紅 ‘Asian Beauty Beni’
 星花火
 天竜千鳥
 青覆輪清澄沢 ‘Ao-fukurin-kiyosumi-sawa’
 ブルービッグボール
 雨に唄えば ‘Ame-ni-utaeba’
 渥見絞り
 ウエディングドレス
 ポージー・ブーケ・グレース
 ホワイトダイヤモンド
 土佐の楽園
 綿帽子
 藍姫
 雪てまり
 肥後錦
 マリーテレーズ
 ユングフラウ ジェミニ
 新朝日
 ポージー・ブーケ・ララ ‘Posy Bouquet Lala’
 初恋
 ポージー・ブーケ・エヴィータ ‘Posy Bouquet Evita’
 フラウ・ノブコ ‘Frau Nobuko’
 ソレイユ
 アラモード ‘A La Mode’
 マジカル・ルビーレッド
 サンセット ‘Sanset’
 マジカル・コーラル ‘Magical Coral’
 カメレオン・ハイドランジア
 千代女 ‘Chiyojyo’
 ミスサオリ
 泉鳥いずみどり
 綾波
 フラウ・マリコ ‘Frau Mariko’
 エンドレスサマー
 ゼブラフラミンゴ
 ピンキーリング・ピンク
 火渡り
 エンジェリカ
 旭の舞姫
 フェアリーアイ
 万結珠まゆだま
 スパイク・ブルー
 フェアリー・キッス
 恋物語
 沙良レッド
 シルキーホワイト
 春よ恋
 ハワイアン・ファーストレディ
 雷電
 ダンス・パーティー
 天使のほっぺ
 マジカル・グリーン・ファイアー

ガクアジサイ Hydrangea macrophylla f. normalis
 ’白斑入りガクアジサイ’ 恋路が浜 ‘Shiro-fuiri Gaku-ajisai’
 ’花火アジサイ’ (墨田の花火) ‘Hanabi-Ajisai’
 ’初霜’ ‘Hatsushimo’
 ’黒軸アジサイ’ (ニグラ) ‘Kurojiku Ajisai’
 ’大和アジサイ’ (古代紫) ‘Yamato Ajisai’

ヤマアジサイ Hydrangea serrata
 (ヤマアジサイ韓国型) ‘海峡’ ‘Kaikyo’
 (ヤマアジサイ西日本型) ‘剣の舞’ ‘Tsurugi-no-mai’
 (ヤマアジサイ西日本型) ‘伊予獅子てまり’ ‘Iyo-shishi-temari’
 (ヤマアジサイ東日本型) ‘静香’ ‘Shizuka’
 (ヤマアジサイ西日本型) ‘土佐童’ ‘Tosa Warabe’
 (ヤマアジサイ西日本型) ‘白雪姫’ ‘Shirayukihime’

カシワバアジサイ Hydrangea quercifolia
 ’リトル・ハニー’ ’Little Honey’
 ’スノー・フレーク’ ‘Snow Flake’

ジョウザンアジサイxヤマアジサイ ‘桂夢衣’ Dichroa febrifuga x Hydrangea serrata ‘Kamui’


以下は、アジサイ類以外の写真です。


バラ
 安曇野 Rosa ‘Azumino’
 ローテ・マックス・グラフ ‘KORmax’ ROTE MAXGRAF
 ピュール・カプリス ‘Pur Caprice’

セイヨウバイカウツギ Philadelphus satsumi
ハナタバコ ‘ライムグリーン’ Nicotiana alata ‘Lime Green’
(八重咲)クレマチス Clematis白万重しろまんえ
ヒメリンゴ(クラブアップル) Malus x cerasifera
イガグリスゲ Carax grai (オニスゲ Carex dickinsiiの品種か?)
(八重咲)ドクダミ Houttuynia cordata
ヒメシャラ Stewartia monadelpha
アベリア ‘エドワード・ゴーチャー’ Abelia ‘Edward Goucher’
ソヨゴ(雌花) Ilex pedunculosa
クリ Castanea crenata


  蒔田の森公園
平成9年、森正勝氏から、庭園、林等、約7,000m2の土地を横浜市に寄付されました。横浜市では、この貴重な緑を保全して次世代に残すため蒔田の森公園として整備しました。
————————– 蒔田の歴史 ————————–
 戦国時代。武蔵世田谷(東京都世田谷区)一体を支配していた足利市の流れを持つ豪族、吉良氏が蒔田に移り住んだことが、蒔田城の始まりです。蒔田の城は「蒔田御所」、「蒔田殿」などと呼ばれていました。
 蒔田城のあった場所は、現在の横浜英和学園校地で、城の形状は、天守閣や石垣のある近世城郭ではなく、土塁や空堀をめくせらした簡単なもので、丘陵城郭と呼ばれるものです。本丸は学園の礼拝堂の辺りで、その南に天守台があったとされています。
 当時この蒔田の森公園一帯は、蒔田城の馬場があったといわれ、「馬場のもり」(ばんばのもり)、「馬場谷」(ばばやつ)と呼ばれていました。
 第二次大戦時には、清水の豊富な敷地南側の山の中腹にある防空壕に、空襲を避けて、家を失った多くの人が生活していました。
 また、戦後には、庭に遊具などを設置して解放され、近所の子供たちに「森自動公園」と呼ばれて親しまれていました。     平成12年3月 横浜市緑政局


【平沼神社(水天宮)】西区平沼2丁目8-20

  平沼新田と平沼神社(水天宮)の由来
 平沼新田は、帷子川下流地帯の新田のうち、江戸時代の最後に、その最先端に開かれた。今の平沼一・二丁目西平山町あたりである。平沼家は、常陸(茨城県)の出身で、明暦年間(一六五五~一六五八年)に保土ヶ谷宿に移って代々造酒業を営んでいたが、天保十年(一八三九年)五代目平沼九兵衛が埋立を始め、七代目九兵衛の時に大成した。七代目九兵衛は二十二才の時文久三年(一八六三年)平沼新田に移住し、新田開発のかたわら製塩業を営み、明治に入ってもなお新田の築造を続けた。平沼神社は天保十年九月五日に五代目九兵衛が新田の守護神として創建した。もとは、水天宮と称したが、明治の初年に平沼神社と改称し村社に列せられた。言い伝えによると、この新田の住民の多くは製塩業に従事していたが、或る日その一人が海水取り入れの水路に水天宮の御札(御魂みたま)が流れ着いているのを拾い挙げこれを地主の九兵衛が神の啓示とその場所(今の元平沼橋のあたり)に祠を作って水天宮を祭ったのが始めである。その後も市街地の発展によって、三度も位置を変え、大正二年(一九一三年)に今の境内に社殿を造営し現在に至っている。
水天宮は、「水徳の神」として安産や水難・火災よけに霊験があるとされることから、大正十二年九月一日の大震災に、四辺は猛火の中に包まれたが、危く奇跡的にも厄を免れたと言われ、また、昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲にも難を免れている。大祭は九月五日に催されるが、正月五日の「湯の花神事」(湯立行事)は特に有名である。神主が大釜の熱闘に浸した笹葉を持って参詣人の頭上に放轍する。この熱湯を浴びた者は、その年は無病息災とされる。
 祭神は天之御中主大神あめのみなかぬしのおおかみと安徳天皇
   昭和五十四年六月     西区観光協会


【岡野神社】西区岡野2丁目4-15
 横浜イングリッシュガーデン近くの岡野神社です。説明板等はないのですが、拝殿内に由緒書きがありました。

     岡野神社 縁起【拝殿内の扁額より】
   一.祭神 大物主神
          稲荷大神
 弘化四年1847年(約百四十年前)末年正月、三河國碧郡川島村太田佐兵衛なる人、武蔵國久良岐郡横浜浦にて新田開発を計画、讃岐國象頭山金毘羅大権現へ祈願し艱難辛苦の末遂に成功したので神助に感謝し、象頭山へ登山その御神体を受けて新田総鎮守として崇敬し、日夜奉仕した。
 かくして年々三月、十月各十日を以て祭日と定めた。
 安政六年末年中当地御開発港中の御地所拝借人総代太田屋新田農夫総代等申し合わせ同年十月十日大祭を執行し、更に太田新田の太田町一丁目より同八丁目迄入舟町と改まり、以上九ヶ町の総鎮守と崇め奉った。
 慶應二年寅年十月廿日末廣町より出火、大火の為御用地となり、その替地として現在の尾上町二丁目に至る場所即ち旧緑町に移轉した。
 明治六年閏年中相生町三丁目より出火、その折当社も類焼にかゝったので伊勢山に鎮座したが、偶々大正十二年九月一日の関東大震災に遭遇し神殿を悉く焼失した為、昭和三年二月、中区新山下町三丁目五十二番地の場所に移転の止むなきに至ったのである。
 元来岡野の里は、往時入海で旧記によれば、天保の初頃より陸地少しく現れていた。時に保土ヶ谷駅字帷子の里に住していた岡野勘四郎氏が埋立てを始め、次々に新田として開拓したもので、明治三十四年四月横浜市に編入せられ現在の様な地形となったが住する者は未だ少なかったのである。然し土地発展の為追々来り住む者が増えて来た事は喜ばしい事であった。
 こうして町の將来の為、又、敬神崇祖の念を髙める為にも一神社を創立する事こそ急務なりと町民は念願していたが、大震災により止むなく遷延していた。
 昭和三年頃より町内役員は勿論、町民全体として、神社を奉安し敬神を枢軸としなければ人心の和合も期し得ずと、町民大会を開き変則乍ら假に昔より、この處に鎮座していた庭内私祠豊川稲荷社を町内の社と定め敬神の誠を捧げて来たのである。
 かく次第に敬神の念が町内全体に篤くなったので、時の宮司磯崎直有氏子総代伊佐栄助氏等協議の結果、昭和十五年十二月七日横浜市長青木周三に願出で、神奈川縣知事松村光麿の許可を得、無格社金毘羅神社移轉の件並に豊川稲荷社を併せて「岡野神社」の設立をみたのである。
 昭和二十年五月二十九日大空襲の為戦災を受け焼失したのであるが氏子崇敬者熱誠により、昭和二十七年八月、現在の御社殿が建立せられ竣工奉告祭が盛大に執行せられた。
 当神社は、右の縁起の如く昔より横浜の主神にてその鎮座した所は皆殷賑いんしんを極め営業の繁昌、家内安全。五穀豊穣、誠に霊験あらたかで、当初の崇敬者太田佐兵衛の様にその念願して叶わざるなき尊神である。
 当神社縁起は、昭和三十三年七月、横浜開港百年記念に岡野神社奉賛会が設立され、委員横山鹿次、伊佐圭輔両氏が起草作成され、文章は、文語体候文であった。
そして全文を欅製の板に宮司が浄書し御社殿の前に掲示したのであるが、久しき年月と共に風雨にうたれ、文字も消え、判読困難の為今般口語体に改め、こゝに掲げたのである。
   昭和五十二年八月 大祭の日
          岡野神社宮司 嶽山寛忠 謹書

南区の神社など

 今日は、南区の神社を中心に歩いてみました。
【主な経路】
(日ノ出町駅)-子神社-横浜橋-金刀比羅大鷲神社-熊鷹大神-坂東橋-楠森稲荷神社-堰神社-お三の宮日枝神社-(中村町稲荷山)稲荷神社-白山神社-子神社-堀ノ内稲荷神社-(蒔田山ノ根)稲荷社-(蒔田)杉山神社-西森稲荷神社-若宮八幡宮-さくら橋-(弘明寺駅)


【子神社】中区日ノ出町2丁目132
 この地域には大黒天を祭った社がいくつかあるのですが、ここは日ノ出町駅から徒歩五分の子神社です。

 旧村社 子神社ねのじんじゃ
     由緒概要
創建は遠く推古天皇の時代(西暦六〇〇年頃)と伝えられる。中世の頃より赤門の東福寺が別当(兼務)として管理して来た。神社の古事や伝記は、たびたびの火災や内戦のたる焼失霧散してしまい、その間の事ははっきりしていない。この地域に伝わっている事には、この神社は昔。里鎮守とか不入人宮ひといれずのみやと稱していた。文禄三1594年の時、松平越前守が神社の霊地保護の為、御本社の四隅に禁制札を掲げ、人の入場を禁じた。享保八1723年には神社境内地を東西四十三間(約七八m)南北九間(訳十七m)と改められた。慶応元年(一八六八年)には、当時の太田村に原村西中村、上大田地区に祀られていた諸々の神社を合わせて祀ることになった。明治六年(一八七三年)七月村社に列せられる。(神祇院)大正四年(一九一五年)九月境内を拡張し諸般の設備を完成した。大正五年(一九一六年)十月十三日神饌幣帛料供進社となった。戦後には神社本庁に属する宗教法人と成る。


大国主命おおくにぬしのみこと子神社ねのじんじゃの由来
神話『因幡の素兎』で有名な島根県の出雲大社に祀られる大国主命は元来日本の国の神様(国つ神くにつかみ)の頂点で、国王でもありました。高天原に居られた天孫系の神々に(天つ神あまつかみ)に国譲りをされ、杵築宮きづきのみやに退かれました。その徳を慕い、全国多くの地に神社が創られ、位も高く祀られています。
大国主命のお遣いが(眷属)鼠・子に当るところから干支の十干・十二支の初めにあたる甲子(きのえね)の日に祭事を行っていた。(甲子大黒きのえねだいこく)(甲子祭こうしさい)六十日にその子の日が巡って来るところから、子の神様と俗に言われ、神社の名稱も子神社ねのじんじゃとなりました。同じ呼稱の神社として、子之大神ねのおおかみ子之権現ねのごんげんなどがあります。
大黒さまは元々仏教の戦闘神で、後に神道の大国主命と習合して七福神の一神として祀られました。


【金刀比羅大鷲神社】南区真金町1丁目3
 横浜橋商店街近くの金刀比羅宮です。拝殿の続き屋に伏見稲荷も祀られています。

横浜市南区真金町鎮座
金刀比羅 大鷲神社 由緒
祭神 大物主命  崇徳天皇
   天之鳥船命 手力雄命
   日本武命
 当社は遠く安政六年(一八五九年)六月二日横浜が開港するにあたり港崎町(現在の横浜公園)に讃岐国象頭山(香川県琴平町)に鎮座する金毘羅大権現として創建された。慶応二年十月二十日の火災に類焼され翌三年吉原町に御遷座し更に明治五年に再び高島町に七丁目の海側に遷座し、金刀比羅神社と社号を改正した。これより先すでに万延元年(一八六〇年)十月六日港崎町名主佐吉代要助はかねて神奈川奉行に差し出していた琴平神社の発令許可に請書を出している。明治六年三月には地方長官の認可を受け無格社として神社明細帳に登録されることになり更に明治十五年四月に今の真金町に移転されこれが現在の神域であります。本来当社は花柳街に勧請せられたのでありますから其の移転と共にしばしばの御遷座が行われたものと思われます。大正十二年九月の関東大震災、更には大東亜戦争の戦災に惜しくも社殿は炎上され昭和二十五年仮社殿再建、平成元年八月鉄筋コンクリート入り母屋造りに建設されたものである。
 酉の市行事は明治初年高島町に金刀比羅神社が遷座された頃、江戸吉原の例に倣ってお酉様を同社境内に末社として勧請されこれが大鷲神社のはじめである。この頃から酉の市祭は盛んで、「海運守護」「商売繁盛」の守り神として崇敬厚く現在は戦後金刀比羅神社と御同座して現在の社号に社名変更された酉の市祭事はもっぱら武士階級の祭りでもあったようだが酉の市祭事が商人や花街の根強い開運守護または福運を熊手をもってかき集める縁起から喜ばれ神徳高く毎年十一月の酉の日盛大に斎行され当日は数百軒の露天
商が立ち並び開運の熊手を受けらける善男善女で殷賑を極め独占的に年中行事として有名である。
 稲荷社 祭神 宇迦之魂命
京都伏見稲荷大社の御分霊を祀り五穀を司り万民に働く食生活を授け導き人民を利し幸福を与え「稼業繁栄」「心願成就」「五穀豊穣」の御神徳ありて万物生成の霊験顕著なるものとして信仰がある。毎年二月の午の日が例祭である。


横浜市地域無形民俗文化財
   酉の市
 金刀比羅神社の境内社である大鷲<おおとり神社で毎年十一月の酉の日に行われている祭事で「お酉さま」と呼ばれ、横浜の年中行事として親しまれています。
 大鷲神社は明治五年に高島町に創建され、明治十五年に現在地に移されました。
 祭神である天之鳥船命<あめのとりふねのみことの御名に由来する酉の市は創建以来、大鷲神社の例大祭として、また年の暮れの訪れを告げる年中行事として、商売繁盛や福運をかき集める縁起物の熊手を買い求める人々でたいへん賑わいます。
 平成二十八年三月
                 横浜市教育委員会


 すし塚について ~商売繁盛・食物感謝~
このすし塚は神奈川県内にて寿司屋を営む人々(神奈川県鮨商生同組合)の希望により当社に建立されました。日々の生計のために他の生き物を犠牲にせざるを得ない鮨業の人々がその供養と感謝を表す為に建立しました。皆様も日々食事する中での生き物に対する供養と感謝をすし塚にお祈り下さい。
                 金刀比羅大鷲神社


【熊鷹大神】南区白妙町1丁目
 小ぢんまりとしたお社です。大鷲神社の分霊でしょうか。


【楠森稲荷神社】南区三春台17
 境内には稲荷社が多数あり、昭和時代に創建とある白龍辨財天の祠もあります。南区の歴史(1976)の金石一覧には楠森稲荷由緒碑と白竜弁財天由緒碑が記載されています。

     白龍辨財天由来

當地久良岐郡西中耕地山頂は霊山の氣色濃厚にして楠森稲荷大明神鎮座ましまし御告げにより白龍様の御霊存するを知れ里。時恰昭和弐拾五年拾弐月拾四日瀧壺より辨財天能御姿現れ給ひ直ちに當山に安置奉り同月弐拾弐日参拝の折「人能造りたるものに御霊は存せん自然にとぞ御霊は存する御霊入れと美影能形の如し」の御告げ登共に御姿黒きものなりしが白龍様の御色になり給ふ。「即ち神業な里」爾来霊験顕著なり。
   昭和弐拾六年拾弐月弐拾弐日
           使者 木村清一
           奉納 石坂英清


【堰神社】南区山王町5丁目32
山王橋近くの神社です。小社ながら合祀多数です。

  お三の宮日枝神社末社
堰神社せきじんじゃ     御祭神 水速女神みずはやめのかみ
水に関する一切の事を守護する神として、もとは吉田新田の最西、大岡川の水の取入れの大堰かの側らに奉祀され、後に此の地に遷座された。爾来、堰と咳が同音であることから、咳の病に霊験あらたかと広く信仰を集めている。
 線香と赤紙の小旗を賽銭と共に供え祈願し、其の平癒にあたっては線香を添えて川に流す風習があった。
庚申社こうしんしゃ道祖社どうそしゃ  御祭神 猿田彦神さるたひこのかみ
天孫瓊々杵尊ににぎのみことが降臨の際に先導された御功神。其の故を以て、旅の安全や足腰の病の平癒無事を祈り、奉賽の印として草鞋や草履を奉納し、社祠の周囲に掲げておく慣しがあった。
長者稲荷社ちょうじゃいなりしゃ   御祭神 宇迦之御魂神うかのみたまのかみ
五穀豊穣をはじめ、諸行繁栄・家内安全の守護神。もとは吉田新田を開発した。
 勘兵衛の邸脇(今の長者町九丁目)に奉祀されたと伝わる。
  平成三十年五月吉日
                堰神社奉賛会


     「咳止め守」について
 「堰神社」は、吉田新田の用水堰の守り神として鎮座されましたが、「堰」が「咳」と同音であることから、いつしか咳の神様としての信仰を広く集めるようになりました。
 爾来、堰神社には堰の病に悩む多くの参拝者が訪れるようになったという事です。
 このお守りは、咳神様のご加護に肖って、咳などの気管支の病の平癒を祈願して奉製したものです。
 お三の宮日枝神社の授与所授与しております。   お三の宮社務所


【お三の宮日枝神社】南区山王町5丁目
 名木古木多数のお社です。

     由緒
一、鎮座地 横浜市南区山王町参拾弐番地
一、社名  日枝神社ひえじんじゃ
一、祭神  大山咋命おおやまくいのみこと
      宇迦之御魂神うかのみたまのかみ
      氏子はその昔苫屋の一寒村の吉田新田なりしも、現在宮元地区・寿地区・伊勢佐木地区、埋地々区の四十余ヶ町となれり
一、例祭日 九月
一、由緒 舊は山王社稲荷社と称し後西天皇の御宇江戸の住吉田勘兵衛良信公が横浜吉田新田百十六町歩の埋立大工事を完成するに方りも新田住民の守護と五穀豊穣とを祈願のため寛文十三年九月十日社殿を建つ。なお吉田新田は万治年間より工を起し十有余年の歳月と私費八千両を投じて出来しゅったいせり。埋立によりおさんの伝説を生みたり。
一、社職 角井職部尉藤原重勝初代神社主となり、尔来三百年現宮司に至り奉仕す
一、社宝 獅子狗 寛文十三年九月十日 吉田勘兵衛良信寄進
     大神輿 昭和九年氏子寄進
     神輿車 同右
一、附記 稲荷神社(旧稲荷社)は昭和五十二年六月二十五日日枝神社に合祀し社殿の一部は神楽殿に改装す


横浜市地域史跡
吉田新田鎮守(日枝神社)境内
          平成二年十一月一日登録
 日枝神社は、吉田新田の開発者である初代吉田勘兵衛良信が、江戸の山王神社を勧請し、新田の鎮守として寛文十三年(一九七三)に創建したもので、お三の宮の愛称で市民の間に親しまれています。吉田新田の地域は、現在の関外地区の大半を占め、中区伊勢佐木町をはじめ、南区にわたって四十ヶ町を数えます。神社境内には、延宝二年(一六七四)の手水鉢があり、社宝として木彫獅子狗が残されています。例大祭は、毎年九月中旬に盛大に行われています。
 平成三年三月
                     横浜市教育委員会


【中村町稲荷山神社】南区中村町4丁目282
 中村町の稲荷社です。稲荷坂を登り詰めないと辿りつけないお社でした。

  再建参拾年記念碑
当稲荷山稲荷神社は正一位伏見大明神乙女大明神秋元大明神三大稲荷大明神を祀り其の歴史は古く横浜開港以前より稲荷山の山頂に祭祀され多くの市民の守護神として信仰厚し
昭和弐拾年五月廿九日横浜大空襲の災害に一切焼失したが故榎本幸太郎氏ほか中村四丁目有志多数の努力により現有地に安置す此乃度茲に中村町四丁目稲荷講結成参拾年にあたり之を記念し町内安全を祈願しつゝ建立する。
昭和五拾六年弐月初午健之 石川堅治 寄進


【白山神社】磯子区上町12
 この地域ではあまりみかけない白山社です。祭神については言及されていませんでしたが、白山信仰と関わるのであれば、縁結びに霊験あらたかな菊理媛命と思われますが、御神体が白蛇であれば、市杵島姫命の可能性もありそうです。

 白山神社の歴史
[起源] 白山神社の起源は、神仏分離令により寶積寺から別れて、明治初年、村民有志十九名の共有地[武蔵国久良岐郡根岸村字上四八五番地]に『白山神社』として、建立されたと伝えられている。昔は、『歯』の神様と崇拝され、ご神体は、『白蛇』と謂れ、毎年十一月十七日に、祭礼が行われて来た。境内の石塔は、文政十三年庚寅(一八三〇年)三月に建造され、『願主上村中』と刻まれているところから推して、二百年近い歴史のある神社である。
[変遷]  ===秘蔵されていた資料より===
一、明治二十三年(一八九〇年)十一月十七日 白米五合、上酒二本などを供え、祭礼が行われた。以来、毎年その日に祭礼が行われて来た。
一、明治二十八年十月五日 氏子講中の一ツとして『伊勢講』が開かれた。
一、明治三十三年二月 『稲荷講』が始まり、『御手洗石』が設置された。
一、明治三十九年十一月十七日 『根岸町字上氏子中』が、鳥居を建立した。当初の一は、百米位下の方で、大正六年二月九日に現在の位置に移築された。
一、大正四年十一月、御大典奉納の據集が行われ、一〇一名より浄財、金四拾五円六拾銭が寄贈された。
一、大正五年五月一日 社伝の大改修工事が完了(総費用 参拾弐円弐六銭)関係者二十二名より、寄付金が寄せられた。
一、昭和二年十一月十七日 参道の石段及び石垣の工事が施された。
一、昭和五十一年十一月十七日 戦時中・戦後の一字、中断していた講中を復活して、地主十九名の登記が完了して『氏子の会』を結成し、祭礼も復活することになった。
一、平成五年十一月十七日 社殿建替え並びに石段等の補修工事が完了して、竣工式が執り行われた。
一、平成十二年十一月十七日 『氏子の会』発足百十周年記念式典を盛大に開催して、記念し『上町・白山さまの歴史』を発行した。
一、平成十六年九月 土地の共有者十五名の総意により、原点に還り、境内の土地を寶積寺に委譲した。今後は、上町々内の有志にて『白山さまの会』を結成して、管理・運営を行うこととなった。
一、平成二十年十一月十七日 明治三十九年十一月に建立された鳥居は関東大震災にも耐えてきたが、老朽化してきたので白御影の美しい鳥居に建て替えられた。
一、平成二十二年十一月十七日 『上講中』発足(明治二十三年(一八九〇年))百二十年を迎えたので「続上町白山さまの歴史」を発刊し例大祭を開催した。
     平成二十二年十一月十七日
                   白山さまの会


【子神社】南区堀ノ内町2丁目134
 南区堀ノ内の子神社、字柿ヶ谷に鎮座した杉山神社が合祀されています。御神木のイチョウで結構大きな樹ですが、名木古木には登録されていないようです。

鎮座地 横浜市堀ノ内町2-134番地
御祭神 大国主命・倉稲魂命
御神徳 産業加護・医薬・縁結びの神
由緒  昭和20年4月15日戦災により全焼して創立何月日不明なるも古老言によれば………、起源は磯子区岡村の三殿台の山続きであること等により古墳時代と推定される。何時の頃から江戸時代までは室生寺別当が兼帯したが明治16年2月村社に列せられる。戦後宗教法人となり昭和28年に氏子中の協力により本殿、社務所、神楽殿が復興して今日に至る。
例祭日 毎年8月25日・26日頃
御神木 いちょう 樹齢約500年余
※地鎮祭・初宮等各種祈祷お受け致します。
     子之神社 社務所


【堀之内稲荷神社】南区堀ノ内2丁目211

 蒔田城跡近くの稲荷社。境内社としての稲荷社も多数です。


  堀ノ内稲荷神社の由緒沿革
この地域は、お稲荷さんの祠の多い処でした。
大正時代には神道系・扶桑教の教会となりました。
同時に紋栄講も設立されました。
昭和三年に京都の伏見稲荷大社より正一位稲荷の御分霊を賜りました。昭和二十八年に宗教法人となるに際し名称を堀ノ内町の町名をとって堀之内稲荷神社となりまして、現在に至っております。
 御祭神 宇迦御霊大神
 御神徳 五穀豊穣・家内安全・商売繁盛
 例祭日 五月十三日(現在 前の日曜日)
 付属の建築物 本殿  昭和四十一年に改築
        参集殿 平成十年に改築
        招魂殿 平成九年に改築
        教化事業 付属 三星幼稚園
        (昭和二十三年創立 平成七年建替)


【稲荷社】南区蒔田山ノ根
 蒔田の森公園に隣接する稲荷社です。


【(蒔田)杉山神社】南区宮元町3町48
 蒔田の杉山神社です。平日の昼間は幼稚園となっていて立ち入り禁止ですので、今日初めて境内に入ることが出来ました。


【西森稲荷大神】南区蒔田町原105
 境内には、田ノ原大黒天の小詞もありました。

     西森稲荷大神 ご由緒
西森稲荷神社は古くは蒔田稲荷、大原稲荷として農耕食物の御神徳与える豊受大神を奉斎して来ました。江戸の時代においては除地として租税免除の区域とされ、明治の時代に神仏混合分離制度また神社合祀令発布により杉山神社(南区宮元町)に合祀される事になりました。
『数百年来の此の地を離れることを惜しみ合祀により廃社すると云えども神霊はなお此の地に静まり給う』
御神託を受け、蒔田町の有志らが合議を重ね旧文部省教会所制度に改めて官許を得、西森稲荷大神を奉斎し、杉山神社神職がこれを兼任する形となりました。
当神社の御神徳の評判は遠く房総方面にも響き。それを証明する供物や日清日露戦争の戦勝祈願の記録を現在に伝えています。
また1923年(大正12年)の関東大震災では大岡川・中村川区域が八割以上の全壊に見舞われたにも関わらず奇跡的にも当社区域は類焼を免れました。
また別の時代には神狐の声に目を覚ました神職が山上の神殿に火災の類が及ぶのを未然に防いだ事もありました。
以下は当時の人々が西森稲荷大神の御神威を崇敬した言葉であります。
〇思うに一に祈願信仰者の真心によって、また稲荷大神の御神徳霊験の顕著なるを知るべきなり
かくの如き広大無辺極まりなき御功徳の大神がいらっしゃるなら此の世の生きとし生けるもの全てが大神のご加護を受け、人々がその御威光を仰ぐだろう
※ 注 現在当社は金刀比羅大鷲神社(南区黄金町)の兼務社です
          昭和11年に当社氏子崇敬者たちにより記す


おもかる石
古来より伝承された占いです
御真言
神威如嶽しんいじょがく
神恩如海しんおんじょかい
右の御真言を三回唱えて願い事を念じ持ち上げて下さい。軽く感じたら願い事が叶います。
     合掌
平成七年十月吉日
  郷社西森稲荷教会


【若宮八幡宮】南区大岡1丁目5-1

   若宮八幡宮御由緒
御祭神 大雀命おほさざきのみこと(仁徳天皇) 誉田別命  武甕槌命
    天照皇大神     道志留邊命 猿田彦命
    伊邪那美命     市杵島姫命 事解男命
御神徳 大雀命(仁徳天皇)は、往古国民に衣食住の道を教えられていたが、或る年高殿に上られ四方を見渡したところ、冷害続きによりどの家からも竈の煙が見えず。多くの国民が食することに困窮していることを知り、天皇ご自身が質素倹約に努められると共に、向こう三年間の税の納付を免せられ、その三年後に国民の生活が多少豊かになったのを喜び、更に三ヵ年間の免税を実施され、国民と共に国家の創建に力を尽くされた方で、生命の充実、発展の御守護を土台として、国の護り、産業、事業のみちをお授け下さった神様であります。
由緒沿革 源頼朝が鎌倉に幕府を開くにあたり、武蔵国久良岐郡(横浜市の南部地
域)の今の地が、鎌倉の鬼門にあたるので、厄除け鎮護等の目的をもった数ヵ所に社寺を創建しましたが、そま一つとして当若宮八幡宮は、建久四年(西暦一一九三年)九月七日鶴岡八幡宮の境内社である若宮八幡宮の別宮として創建されたと伝えられています。当初は若宮八幡大神と号し、神佛習合の社で永く久良岐郡大岡川村下大岡の鎮守として、諸人の崇敬が大変厚く、建立以来今日に至るまで凡そ八百余年の間、平和と豊かな生活即ち天下泰平、五穀豊穰の祈りの庭として、また、氏子の魂の尊厳を自覚する聖域として護持されて来ました。永禄七年、北条氏康の命によって灌大僧正源秀天が当若宮八幡宮の別当となり、寶積寺と稱して以来現在に至っています。明治六年村社に列せられ、明治三十九年には神社統合の趣旨に基づき、近隣八社の氏子信徒が協議の上、明治四十一年十一月二十五日若宮八幡宮に合祀され、十九ヶ町の総鎮守となりました。昭和二十二年(西暦一九四七年)第十七代寶積育三宮司は、第二次世界大戦後の道義の弛緩、思想の低下、世情の混迷頽廃を憂い、十九ヶ町の氏子有志と協議し、若宮八幡宮奉賛会(渡部清治会長)を組織し、神威の加護のもとに恒久の平和を祈願し、併せて祖国再建の成就を念願し、由緒深きこの宮を維持し愈々神威顕揚に奉仕し、念願達成に努める事としました。昭和三十六年、祖先が建立した床しい茅葺きの社殿もいたく古し。風雨に耐え難くなったので、時の寶積一郎宮司のと二代目奉賛会加藤五十春会長及び氏子十九ヶ町奉賛会理事との協議により、氏子各位からの浄財を仰ぎ、社殿等の御造営再建を行うことを決め、現在の本殿(鉄筋コンクリート造)幣殿拝殿(銅板等木像八幡造)及び神楽殿、社務所が昭和三十九年十月に再興され今日に至りました。平成六年は、宮社造営三十周年を迎えるにあたり、記念事業を興すべく三代目奉賛会種田百一会長はじめ氏子が総意を結集し、その記念の一つとしてこの若宮八幡宮由緒碑及び若宮招魂社由緒碑を建立したものであります。
大祭  八月第四土曜日及び日曜日
中裁  一月七日・五月七日
小祭  除夜祭 元旦祭
月例祭 毎月七日
天満宮・伏見稲荷大明神・浅間神社・若宮招魂社


  若宮招魂社由緒
御祭神 第二次世界大戦(昭和十六年十二月から昭和二十年八月まで)において、氏子十九ヶ町の地域から出征し、戦没された軍人、軍属、看護婦さん等四百八十余柱の方々をお祀りしてあります。
由緒  昭和二十七年(西暦一九五三年)時の寶積育三宮司は、若宮八幡宮奉賛会初代会長(渡部清治氏)並びに奉賛会理事等と協議し、かつ、末永くその栄誉を讃えるため建立したものであります。


 その他、本日撮影の写真です。

【子育地蔵尊】中区伊勢佐木町7丁目
安産子育地蔵尊(一六地蔵尊)由来
 富山県出身の僧、奥田眞眠が明治三十七年この地に、横浜善光寺別院を創建し、子宝が授かりすくすくと丈夫に育つようにと現世利益の守り佛として、お地蔵様を安置されました。そのお姿は左手に嬰児を抱き、左手には錫杖を持たれた坐像であり、信仰を広く集めていらっしゃいましたが、大正十二年、九月の関東大震災、昭和二十年五月の横浜大空襲と未曽有の大災害を我々市民と共に二度も受難されました。震災、戦災の供養もこめ霊験あらたかと信仰され、一と六のつく日に縁日が行われることから「一六地蔵」とも呼ばれ、今でも親しまれております。
御利益はどなたにも及んでおります。
   安産子育 恋愛成就 授かり祈願
   家内安全 交通安全 商売繁盛


【参考】
 光のモニュメント(大通公園光の波間広場)
 キンレンカ Tropaeolum majus
 子育地蔵尊(勢佐木町7丁目)
 万治橋、南吉田橋、駿河橋、記念碑(富士見川公園)
 道慶地蔵尊
 ガクアジサイ Hydrangea macrophylla f. normalis
 庚申塔(南区山王町5丁目32)
 マルバストラム Malvastrum lateritium
 月下美人 Epiphyllum oxypetalum
 ブライダルベール Gibasis pellucidia
 さくら橋

【文献】
 南区の歴史発刊実行委員会(1976)南区の歴史、650p.