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冬の日に

 ここのところ、忙しい日々でしたが、今日はゆっくりと過ごせました。
【主な経路】
(南太田駅)-藤棚-横浜イングリッシュガーデン-横浜駅-みなとみらい-野毛山-(日ノ出町駅)


【参考】
 キダチロカイ(アロエ) Aloe arborescens
 エリカ・クリスマスパレード Erica x hiemalis cv. ‘chrismas parade’
 横浜イングリッシュガーデン
 イチゴノキ Arbutus unedo
 イロハモミジ Acer palmatum
 アブチロン ‘チロリアンランプ’ Abutilon megapotamicum
 少女 1981 佐藤忠良
 アンパンマンミュージアム

寺尾道を辿って

 東海道は江戸時代に幹線道として確立されたルートが今でも活用されていますが、庶民が日常利用していたと思われる側道は、現在ではルートが大きく変更されていて、昔の面影を辿ることさえ難しくなっているルートが少なくありません。そのようなかつての生活道であった古道の一つ、寺尾道を今日は辿ってみました。
 寺尾道は現在の鶴見で東海道から分岐して菊間へ通じていたとされますが、本日歩いたルートは鶴見区史(1982)の記述と庚申塔、道祖神などの石塔の分布から推定しました。実際には、途中から南進して寺尾城址を通って、生麦へ向かいました。
寺尾道(推定)周辺マップ
【主な経路】
(京急鶴見駅)-鯉ヶ淵公園-鶴見神社-諏訪坂稲荷神社-昭和坂-熊野神社-不動坂-霞橋-鶴見配水池-馬場二丁目公園-馬場稲荷-馬場城址-赤坂-駒方天満宮-岸谷庚申-反町-(横浜駅)
 先月から旭区辺りを水源とする帷子川の周辺を歩いていたのですが、我が家の書棚では、旭区郷土史の隣に鶴見区史が並んでいて、つい隣を手に取った結果、鶴見区に興味が移ってしまいました。

【参考】
 寺尾稲荷道道標(複製)
 鶴見川橋
 旅立ち:二口(Futakuchi) 金一(Kin’ichi)(Yolokama Biennale ’93)
 身禄道(みろくみち)
 鶴見神社
 寺尾稲荷道道標
 国旗制定百年記念碑
 ぼてふり(棒手振)地蔵尊
 (現在の)諏訪坂
 諏訪馬之助館跡
 諏訪坂稲荷神社
 宇迦之御魂神:諏訪坂稲荷神社
 諏訪馬之助の鎮めの石:諏訪坂公園
 道標:諏訪坂公園
 古坂
 昭和坂
 弁天池
 (寺谷)熊野神社:名木古木イチョウ No.202012(左)No.202013(右)
 鶴園(かくえん)句碑:熊野神社
 天神坂
 不動坂
 響橋
 庚申塔:東寺尾6丁目36
 心願地蔵:東寺尾6丁目33
 馬場谷戸庚申地蔵供養塔:馬場4丁目20-5
 道標:馬場5丁目13-35
 鶴見配水池配水塔:馬場3丁目29
 馬のメド坂:馬場2丁目8
 馬場稲荷:馬場3丁目17
 庚申塔:馬場3丁目3
 寺尾城址碑
 殿山公園
 庚申塔:馬場3丁目5
 宮の下:東寺尾2丁目13
 庚申塔:東寺尾1丁目24
 入江川せせらぎ緑道
 馬頭観音:馬場1丁目3-13
 子の神様:東寺尾1丁目17
 東寺尾配水池:東寺尾1丁目16-28
 赤坂
 庚申塔:西寺尾2丁目29-5
 駒形天満宮
 頌菅相遺徳(しょうかんしょういとく)碑:駒形天満宮
 上の庚申:東寺尾4丁11
 トックリラン Beaucarnea recurvata
 上の庚申:岸谷1丁目28-14
 岸谷庚申塔:岸谷4丁目3
 デロスペルマ属(耐寒松葉菊)の一種 Delosperma lebomboense、Syn. Delosperma tradescantioides var. lebomboenseか?(アプテニア属 Aptenia sp. の可能性も…)
 東子安一里塚案内版


 寺谷熊野神社は横浜市指定名木古木を尋ねたことがある神社ですが、生麦事件碑を建てたことでも知られる黒川荘三の句碑のあることに気づきました。この歌は、鶴見区史や黒川荘三の記録『千草』にも触れられていないようです。旧仮名を十分に読み取れなかったのですが、概ね下記のように書かれているのかも知れません。

具摩乃山 (熊野山)
 飛羅久留左登能 (開くる郷の)
    阿太良之久 (新しく)
 登之奈止爾麻春 (トシナとに坐す)
  可由止奈留羅舞 (カユとなるらむ)
         鶴園 (鶴園)

トシナ:年縄 = 注連縄 (?)
カユ:粥 = 粥杖 (?)
鶴園(かくえん):黒川荘三、1846(弘化3年)~1936(昭和11)、鶴見神社宮司(明治27年~昭和5年)、熊野神社宮司(大正2年~昭和5年)


変体仮名フォントを利用した、より石碑の刻印に近い表示

𛀰()()𛂙()()
 𛂮()𛃭()𛀬()𛃺()𛀿()𛁺()𛂜()
    𛀄()()𛃮()𛁅()𛀬()
 𛁺()𛁅()𛂂()()𛂌()𛃈()𛁏()
  𛀙()𛃥()()𛂂()𛃺()𛃭()𛃓()
            鶴園

【文献】
齋藤美枝(2013)郷土史の恩人黒川荘三翁、タウンニュース鶴見区版、Accessed:2022-12-17.
黒川荘三(1994)千草、千草刊行会編、316p、横浜.
金子元重(1994)田祭り復活の軌跡(黒川荘三著『千草』「発刊に際して」から転載)、Accessed:2022-12-20.


寺尾稲荷道道標(複製)
 江戸時代、ここは寺尾稲荷社(現・馬場稲荷社)へ向かう道との分岐点で、このように「寺尾稲荷道」と記された大きな道標がたてられていました。寺尾稲荷は、馬術上達や馬上安全の祈願で知られ、江戸からの参拝者も多かったといいます。また、この道は菊名へ向かう寺尾道や川崎へ向かう小杉道にもつながる、この地域の大切な道でした。なお、当時の道標は、現在、鶴見神社の境内にあり、ここにあるのはその複製です。
 This is replica of the milestone indicating the location of Terao Inari, a shrine where men used to visit hoping to improve their horsemanship skills. The original milestone,which today id stored at Tsurumi Shrine, was here since Terao-Inarimichi was one of the important streets in Turumi.


身禄道(みろくみち)
 ここから杉山明神(現・鶴見神社)へ向かう参道は身禄道と呼ばれていました。境内に富士塚があり、富士信仰を広めた食行身禄(しょくぎょうみろくみち)の像がまつられているからです。富士山に登ることはなかなかできないので、富士山に模した塚を築き、これに登り、参拝したのです。各地に多くの富士塚が築かれました。
 This street, once xalled Mirokumichi, leads to Turumi Shrine where there is a statue of Jikigyou Miroku. In the Edo period, Miroku was a famous religious leader who spread the belied in gods who reside at Mt. Fuji.


横浜市地域有形民俗文化財
寺尾稲荷道道標
       平成十八年十一月一日登録
     所有者 宗教法人 鶴見神社
     時代  文政十一年(一八二八)
 寺尾稲荷道道標は、旧東海道の鶴見橋(現鶴見川橋)付近から寺尾・小杉方面への分岐点にあたった三家稲荷に建てられていたもので、一村一社の神社合祀令によって、大正年間に三家稲荷が鶴見神社に移されたときに、移されたと思われます。昭和三〇年代前半頃に、鶴見神社境内に移されていた三家稲荷の鳥居前の土留め作業を行った際、道標が埋没しているのが発見されました。
  正面には 「馬上安全 寺尾稲荷道」
  左側面には「是より廿五丁」
  右側面には「宝永二乙酉二月初午
        寛延三庚午十月再建
        文政十一戊子四月再健之」
 とあり、二度建替えられ、この道標が三代目であり、当時の寺尾稲荷に対する信仰の篤さをうかがい知ることができます。
 寺尾稲荷は、寺尾城址の西山麓に祀られ、現在は地名が馬場となったことから馬場稲荷と呼ばれていますが、古くは寺尾稲荷と呼ばれていました。江戸時代には馬術上達がかなえられる稲荷として知られていました。
 平成十九年三月
          横浜市教育委員会


諏訪馬之助(すわうまのすけ)館跡(諏訪坂1-13)
 諏訪坂の町名の由来となっているこの坂の途中に、「諏訪馬之助館跡」が在ります。古くは、諏訪山と称して、永享年間(1429-1440)に、小田原北条氏の家人であった諏訪三河守が、殿山(とのやま)(現馬場町)に城を構えたとき、そこから東北に延びる丘陵の突端にこの館を築いています。
 「武蔵風土記稿」に「諏訪家屋敷」として「海道ヨリ右方ヘ五・六丁ユキテ丘上ニアリ一株ノ大松アリ是諏訪午之丞(うまのじょう)(馬之助)居住アリシ所ニテ其頃前ノ松ナリ 故ニ土人今モ諏訪ノ松トイエリ」とあります。この諏訪の松は、俗に「諏訪の物見の松」と呼ばれていましたが、文政年間(1818~1829)に枯れてしまったので、切り倒されてしまいました。
 その後、文久元年(1861)4月、老松のあった根元の塚を掘ったところ、古い石棺が出て、中から数々の遺物が発見され、後にこの塚は諏訪山古墳として奈良時代のものと推定されました。


新編武蔵風土記稿より
諏訪家屋敷
海道ヨリ右方ヘ五六丁ユキテ丘上ニアリ一株ノ大松アリ是古ヘ諏訪之丞居住アリシ所ニテ其頃前ノ松ナリ故ニ土人今モ諏訪ノ松トイリ諏訪三河守某ト云人北條家ノ家人ニテ此邊寺尾ヲ領セシコトハカノ家ノ所領役帳ナト云モノニモ出セリ牛之丞ハ其子ナトニヤ
【注】説明版表示での新編武蔵風土記稿の引用が若干異なっていますので再録します。恐らくは元資料の校訂ミスだと思われますが、馬之丞の子孫に牛之丞がいた可能性を否定できません。


   諏訪馬之助の鎮めの石
 現在の諏訪坂と旧諏訪坂にはさまれた所には、北条氏家臣の諏訪氏の館があり、永禄12(1589)年に武田信玄により滅ぼされたといわれています。
 この諏訪館に隣接した場所には、奈良時代の物と思われる古墳があり、そこから文久年間に発掘された石棺蓋の一枚が現在まで保存され、地元の人々が、「諏訪馬之助の鎮めの石」と呼んでいるものがこの石です。
 また、道標(子育地蔵)は、この地区の古道である寺尾道・末吉道の分岐を示すものとして諏訪坂に設置されていたものてす。


  馬場谷戸庚申地蔵供養塔
 この石仏は「庚申さま」といって、江戸時代の享保十九寅年に建立されたもので、お地蔵さまの碑面には、馬場谷戸の、田口・金井・石井・等七名の名前が彫られてあり、台座には「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿が彫刻されている庚申さまである。
 昔、谷戸の辻・辻に建てられていたもので疫病・盗賊など災いが村内に入ってこないようにとの願いから、この馬場谷戸にも建立されていたものである。
 路仏のままであったものを、何時の時代か、堂宇を建立して祀られていたが昭和三十八年三月に、田口熊吉氏によって再建され、三十八年経過して老朽により、平成十三年三月に、田口昭次氏が平成十三年三月に堂宇を再建された。


   道標(馬場5丁目13-35)
大正一五年十一月旭村青年団馬場支部の建設であるる地域の交通路を詳しく示している。
(正面) 西北寺尾(旭役場旭小学校)大網村
(右側面)菊名駅(大豆戸、太尾町)方面 南東寺尾ヲ経て西寺尾子安方面
(左側面)北寺尾別所及び末吉ヲ経て日吉、中原方面
(背面) 東鶴見(花月園総持寺)生麦方面
    大正一五年十一月青年団馬場支部(旭)
     ふるさと発見 寺尾奉行


   馬のメド坂
 この道は、室町時代から近世に至る古道として利用されてきた。この坂のあたりは馬の背中に似た地形になっています。その坂の入り口はまさしく馬のお尻のように感じられたのでこう呼ばれたようです。寺尾城主諏訪の殿様が馬術の上達に励んだと言われています。
     ふるさと発見 寺尾奉行


馬場稲荷
 もとは寺尾稲荷といい、正一位相模国稲荷大明神ともいう寺尾城主五代目馬之丞が夢に馬術の信託をうけ祈願成就した稲荷社でそれ以来馬術上達、馬上安全祈願の寺尾稲荷社として有名になった。
 宝永二年(一七〇五年)旧東海道鶴見村三家(さんや)に「鶴見神社付近」「馬上安全寺尾稲荷道」の道しるべが建てられた。諏訪坂に道しるべとして「従是(これより)寺尾道」と建てられている。
 馬場稲荷社近く現在の「東高校」の場に「馬頭観音」があった。奉納絵馬や献灯に祈願成就の武人の名が残されている。また馬場稲荷社上には寺尾城跡地の石碑が建てられている。
2000年初午  嶋田□□


   庚申塔(馬場3丁目3)
 江戸時代、享保十四年十一月(一七二九年)旧東海道の裏街道である馬のメドに原家が建立した。戦後の混乱で庚申塔を守るため一時近くに移動したがその後現在の場所に戻した。当時は道しるべや道祖神(道路の悪霊を防いで行人を守護する神)の役もしており、行き倒れの面倒もみてきた。建立から原家が代々馬場大師(馬奉行として管理し現在も尚原家子孫により祀り続けられている。)
     ふるさと発見 寺尾奉行


寺尾城址
 寺尾城は領主諏訪三河守五代(約一四〇年間)にわたりこの地にあった。後北条氏に属し、貫高は二百貫文(およそ二千石)で、北条早雲が小田原城主になる以前からすでに居城していた。
 永禄十二年(一五六九)、武田信玄が小田原城を攻めた際に、廃城になったと思われる。数百年を経た今日、その遺構(空堀・土塁跡)の一部が殿山公園などに現存している。


  寺尾城址の発掘
 殿山公園から西方にかけての丘陵一帯は、寺尾城址として古くから知られていました。平成5年12月に、殿山公園の整備事業に伴う発掘調査が財団法人横浜ふるさと歴史財団埋蔵文化センターによって実施されました。
 調査は、東西に延びる「空堀」の一部を含めた丘陵頂部の170mの範囲を対象として行われました。発掘調査の結果、空堀は西面が底の狭いV字形を示し、壁の角度(勾配)が50°~70°と急傾斜で、地表面から掘の底までの深さが約3m、底の幅は約1mでした。堀の中には土塁の崩落によると推測されるローム土が多量に堆積し、上位からは江戸時代の宝永年間に噴火した富士山の火山灰が発見されました。このことからこの堀は18世紀初頭には大部分が埋まっていたことが明らかとなりました。
 この調査によって、『新編武蔵風土記稿』ら記され「寺尾城址」として伝承されている中世城郭址の存在を初めて考古学的に裏付けることができました。
  平成6年3月  横浜市教育委員会


  寺尾城の遺構
 寺尾城は戦国時代に、小田原北条氏に仕えた諏訪三河守五代にわたる城址である。永禄十二年(一五六九)十月、武田信玄の小田原侵攻のさいに寺尾城は没落したといわれている。城跡には、当時の空堀・土塁・曲輪など中世の城郭が残り貴重な遺跡となっている。
 町名の馬場・諏訪城などに城のようすがいまに伝えられている。
         鶴見歴史の会


  庚申塔(馬場3丁目5)
 江戸時代に入って泰平の時代となり庶民の生活は比較的安定し、民間信仰が浸透して石仏などが多く作られるようになった。祠堂内には三基の石塔があり向かって右側は廻国塔(笠付)角塔で満願成就のしるしとして建てられた。その正面には二匹の猿が手をつないでいる姿は珍しい。(元文元年一七三六年)
真中は舟形地蔵の庚申塔で東寺尾の名主達が安全祈願や健康を祈って建てた。(享保十年一七二五年)
左側は全く不明である。
     ふるさと発見 寺尾奉行


  デイダラボッチ
 デイダラボッチ日本各地で伝承される巨人である。馬場学校(今の東高校)に行く道におよそ千平方メートル(一反歩)のくぼ地の畑があった。この丸い形をしたくぼ地は大男の足跡と言われておりデイダラボッチと呼ばれていた。この巨人伝説は山や湖沼を作っていたと云う伝承が多く、主に関東に広く伝えられている。     ふるさと発見 寺尾奉行


  宮の下
 江戸時代(一六七〇年頃)から続く澤野家は東寺尾地区の鎮守として祀られている白幡神社(一四三五年頃建立)の麓にあることから「宮の下」の屋号で呼ばれていた。また明治初期に先祖が白幡神社の宮司を努め、神社で寺子屋を開き地域の住民や子供たちに「読み書きソロバン」を教えていたと言い伝えられ、白幡神社とのかかわりが深い。
     ふるさと発見 寺尾奉行


◇東寺尾1丁目の庚申塚紹介
§鎮座する庚申塚
1建立時期 寛保2戌12月吉祥(1742年)
2庚申塚自体 千手観音菩薩
 七難をまぬかれ衆生を救って下さる仏像で、生きとし生きるもの全てを漏らさず救う大いなる慈悲を表現している。
 ①村落守護 ②疫病退散 ③五穀豊穣 ④災難排除 ⑤長寿祈願
3菩薩像千手(四本手)
 ①上側2本手 「ツボ」と「作物」
 ②下側2本手 「弓」と「矢」
 ③頭上    「太陽」と「月」
 ④像足下   「邪気」
   人に害を与えようとする悪意の心を持った架空の生き物
 ⑤像足元   「3猿」
   数々の悪行を反省し悪い行いを(見ない)(聞かない)(言わない)を表現し眼上の菩薩様を崇拝する。
4像の銘刻文 右側 寛保二年戌十二月吉祥
       左側 寄造建庚申尊形 石橋笛子
§庚申塚建立の時代背景
~寛保2年(1742年)の江戸大災害~
 この年の夏季に日本列島中央部の関東甲信越地方は大型台風の直撃を受け未曾有の大災害に見舞われた。特に旧暦7~8月にかけて襲った数度の「暴風雨」と「高潮」によって江戸は大洪水となり上流域の「多摩川」「荒川」「利根川」が氾濫、下町の本所・浅草・下谷一帯が水没し、墨田川に架かっていた「両国橋」「新大橋」「永代橋」等多くの橋が流され、多くの住民が溺死したと記録されている。
 この時の大洪水に加え数々の災害が寛保年間(1710~1750年)に大流行した。
 ①疫病(コレラ・セキリ・ウィルス)などにより「小石川養生所」が設立される。
 ②宝永の大火災で江戸市中の60%が焼失し「火消組」が組織された。
 寛保の大水害で河川の治水政策が立案推進され数々の「善政」が幅広く実施されたことを受け、地方村落における「お地蔵様」建立の機運が高まりここ生麦-向谷においても「寺尾城」を中心とした各所で「庚申塚」が建立された。
§庚申塚の位置
~北向き祠~
 東寺尾1丁目に鎮座するこの庚申塚は他のお地蔵様と異なり「北向き」に設置されている。
 鎮座については以下のように解釈されている。
 ここ寺尾地域から見て「江戸市中」の方角が陰陽道の方位易から「鬼門」とされる〝北東方向〟に当たる。寛保2年の大災害を目の当りに経験し、地域を守るにはこの方位易に従ってお地蔵様を設置することが住民の願いであったと思われる。
 また、この石像に刻まれている「千手の4本手」の下側2本手に持たれている「弓」と「矢」から想像すると、地域の鬼門を守る守護神としての毘沙門天を模した像と考えられる。
§庚申(かのえさる)の由来
 中国古来の教えである「道教」では人間の体内には「3つ」の霊が宿っていると解釈されている。
 ①魂(コン)
 ②魄(ハク)
 ③三尸(サンシ)
『人が死』を迎えると「(こん)」は天界に昇り「(はく)」は地界に沈む。問題は『三尸(さんし)』と言う「虫」が悪さをする。「三尸(さんし)」は宿主(人間)が死を迎えて「(こん)」と「(はく)」が肉体から去った後でも残り続け、自由に遊び廻れる存在となり楽しいお祭りなどへも出掛けられるので宿主の死を望んでいる。
 また「三尸(さんし)」は1年360日で、「60日」毎に巡って来る庚申の日に宿主の体内を抜け出して夜中に天界に昇り「天帝」に宿主の日頃の行状を報告しに行く。「三尸(さんし)」は翌朝には宿主が目を覚ます前に体内に戻ってくる。そこで「60日」毎の庚申(かのえさる)の日になる前から集団で徹夜をすれば「三尸(さんし)」は体内から出ることができない。
 昔人はこの集会を年6回、3年間続けて、「三尸(さんし)」の行動を抑えたことを記念して建立したのが、『庚申塚』(正式路五:庚申待ち供養塚)である。
【注】1742年(寛保2年)は江戸4大飢饉には数えられていないが、同年8月に中部から関東甲信越にかけた地域で水害があった(町田、2014)ことが知られている。鶴見川流域等での被害状況を記した文献は見つけることはできなかったが、庚申塚の建立は12月なので関係している可能性はある。


  入江川せせらぎ緑道
 かつて山からの湧き水を水源としたこの川は建功寺川と呼ばれている。戦国時代の武士が武具や身体を洗い流したことから血の川と呼ばれていたと云う謂れもあるが上流の土壌が赤かった爲川に流れ込んで川底が赤く染まったからと云う説もある。今では水と緑のやすらぎの散歩道として親しまれている。
     ふるさと発見 寺尾奉行


  子の神様:東寺尾1丁目17
 子の神様とは十二支の「ネ」ねずみを神の使いとする大国主の命(大黒天様)主屋の鬼門よけに子の方角(北)に祭られた神、もう一つには神代の根の国の神と言われ農村では水の神とも考えられていたと云う諸説がある。これからも地域の守り神として残しておきたい貴重な存在である。
     ふるさと発見 寺尾奉行


  赤坂
 この坂道は江戸時゛五の天明の頃西寺尾にあった慈眼堂観音に病気平癒祈願のために母親が赤子を背負って通ったことから「赤坂」と呼ばれていた。
 他にも地主の名字でもあり、又赤土だったからという三つの由来がある。いずれにしても東寺尾の人達にとっては神奈川区子安、大口方面に出る唯一の街道で便利に使われていた道である。
     ふるさと発見 寺尾奉行


  駒形天満宮
房州(千葉県)の豪族里見義高の随臣だった平田兵庫が、一七二九年(享保一〇年)に氏神として建てた天神社に西寺尾駒形在の住民により一七四一(元文五年)に創立された駒形社を合祀し、駒形天満宮と改め今日に至る
菅原道真を祀り学術と情愛の守護神して崇められている
     昭和四十七年三月
      西寺尾郷土研究会


わが町かながわ50選
  駒形天満宮
 会談となった緑豊かな参道を上がると、境内から市街地を望むことができます。その昔、この村に住む娘と恋に落ちた若者の悲恋物語にちなんで、「駒形」の名前がついたと言われます。
     横浜市神奈川区役所


          頌菅相遺徳

     神官 平田次郎
 翰林出相公庶幾唐虞治
 紀綱漸根興權臣止放恣
 善臾能寄書諷避三台位
 髙踏雖保身其奈宗廟器
 一身固許君乑恨謫邉地
 峻徳至今馨囘膽人隋涙
 明治十六年
 十一月廿五日
     竹渓平田平治謹撰
     得水内藤正順謹書

【注】題字は、菅相(菅原道真)の(遺徳)()える碑の意味で、元々は学者から政治家になったこと、讒言により左遷されたことなどが書かれているようですが、詳細は未調査です。形式は五言排律なのでしょうか。内藤得水は深川扇橋の書家で1881(明治14)年に刊行された「全国書画一覧」の書大家之部に名を連ねています。平田はこの辺りの神職に見かける姓です。


上の庚申 延享元年十一月建立
 庚(かのえ)道路を意味する。
紀元前四世紀の頃中国黄帝老子が無為自然を唱えてその教えによる道教によって庚申塚は旅人の守護神として我が国に伝えられ庚申の日を御縁日と定め伝え民衆に信仰されて参りました。昔の人々は旅に出る時は草履等をお供えし道中の無病息災を御祈願致しました。佛家では帝釈天青面金剛をお祭りし此の行事を庚申待ち猿行と云いました。此の庚申塚は古代から伝わるこの附近の交通安全不老長寿の守護神で有ります。
         合掌
   上の庚申□□□総代
    岸谷㐧三自治会
    岸谷公園通り議会


【注】『庚が道路を意味する』というのは初めて聞きました。道祖信仰と庚申信仰が混ざっているのではないかと推測しますが、要調査です。


東子安一里塚
 旧東海道六里目の一里塚です。神奈川県内に二十ヶ所ある一里塚の内で唯一、この東子安一里塚にはその目印となるみのがありませんでした。文化三年(一八〇六)完成の東海道分間延絵図に基づき、西側の遍照院と東側の村境(現鶴見区・神奈川区境)からの比率かせ推定されるこの地に案内板を設置しました。北側の塚には榎、南側の塚には松が植えられていました。
  平成二十八年四月
 NPO法人東海道ウォークガイドの会


【文献】
 林述斎・間宮士信編(1982)新編武蔵風土記稿横浜・川崎編第二巻、520p.、千秋社.
 鶴見区史編集委員会(1982)鶴見区史、770p+15p.
 町田尚久(2014)寛保2年災害をもたらした台風の進路と天候の復元, 地学雑誌, 123(3), 363-377, URL: https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/123/3/123_123.363/_article/-char/ja/, Accessed: 2022-12-22.


【追補】
 諏訪氏の元は信濃国の領主で、寺尾城址は現在の群馬県(旧上野国)・埼玉県(旧武蔵国)にも残されています。これらの寺尾城と鶴見区にあった寺尾城との関係は未調査です。
 (馬場)寺尾城址:神奈川県横浜市鶴見区馬場3丁目11
 菅寺尾城跡:神奈川県川崎市多摩区菅馬場2丁目30
 寺尾城跡:埼玉県川越市下新河岸55
 寺尾茶臼山城跡:群馬県高崎市寺尾町1072
 寺尾中城跡:群馬県高崎市寺尾町1064
 乗附城跡 (寺尾上城跡):群馬県高崎市乗附町


寺尾台廃堂跡【川崎市】
 寺尾台廃堂跡は、昭和二十六・二十七・四十三年の三ヵ年にわたって発掘調査されました。
 その結果、基礎の上に建てられた堂宇の存在が推測されました。基壇の平面形が約九メートルの八角形であることから、建物も小型の八角円堂で、その建立の時期は、屋根を葺いた瓦の年代から、平安時代初期(九世紀前後)と推定されます。
 この八角堂は、付属の構造物か伴わないところから、寺院というよりは、山林中にひっそりと祀られた供養堂のような性格であったと考えられ、東国における数少ない遺跡として貴重です。
 この八角堂基礎はね発掘調査の成果をもとにして、復元されました。
     川崎市教育委員会


  寺尾台八角堂跡
 この遺跡は、平安時代初期に建てられた、東日本では数少ない八角形の仏堂の跡であることがわかりました。それは、この場所より13.5mも高い山林中にありましたが、団地造成によって建立当時の位置に保存することができにくなりましたので、ここに基壇を復元し、永く保存いたします。
 栄山寺八角堂(奈良県)縮尺50分の1
寺尾台八角堂跡は、これとおなじ規模のものとおもわれます。
  昭和45年3月 川崎市
        日本住宅公団

堅牢地神(地天)


堅牢地神(けんろうじしん)は、平安時代前期に伝来した十二天の一柱『地天(Prthivi)』が原型とされ、元は女神であったらしい。その地天が仏教に取り込まれていく過程で、男神、あるいは男女対の神として描かれるようになり、男神として描かれる時には花器と(げき)を持つことが多いそうである。しかしながら、石碑としての地神塔は角柱に名称が刻まれただけの文字塔であることが多く、その姿が刻まれることはなぜか少ない。
 地天は、大地を顕す神であったことから、我が国では地主神、地母神などと混同されることもあるようだが、少なくとも元は別である。一方、地天は菩薩像として描かれることもあり、地蔵菩薩へと変容したとする考え方もあるそうである。
(堅牢)地神塔マップ (作成中) 緑区、旭区、保土ケ谷区の地神(地天)(2022-12-29)
 堅牢地神塔は、少なくとも三浦半島エリアではあまり一般的ではない。一方、旧相模国の横浜市、藤沢市などでは、それなりに分布しているようだ。これまで、単に石塔群と認識していた中にもあると思われ、この分布は双体道祖神に似ているようにも思われるので、今後整理していく予定です。

【文献】
伊藤真(2018)李通玄における『華厳経』の善知識・安住地神の理解、佛教大学仏教学会紀要、23号、27-61、URL: https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BK/0023/BK00230R027.pdf, Accessed: 2022-11-28.
田中義恭・星山晋也(1987)目で見る仏像・天、136p.、東京美術、東京.
石川博司(1998)地神信仰雑記、URL: http://koktok.web.fc2.com/isikawa/isikawaCD/dijin.htm, Accessed: 2022-11-28.
泉区小史編集委員会(1996)地神塔と地神信仰、in いずみいまむかし、URL: https://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/shokai/rekishi/ayumi/imamukashi/index-pdf.files/0072_20181017.pdf, Accessed: 2022-11-28.
納冨常天(1987)『善財童子華厳縁起』について、駒澤大学仏教学部論集、18、270-298、URL: http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/19034/KJ00005120647.pdf, Accessed: 2022-11-30.

Cafe佐倉閉店!

 追浜銀座の佐倉が、昨日11月26日をもって閉店していました。追浜1丁目から現在地(追浜本町1丁目)に移転して営業を続けていらっしゃったのですが、気づかぬうちの閉店でした。追浜からまたも名店が消えてしまうのは残念です。


閉店のお知らせ
 ながい間のご利用ありがとうございました。事情により11月26日のサンドイッチのみの販売で終了となります。
 ありがとうございました。

帰宅訓練2022-最短距離で

 職場の移転後、初めての実施となる災害時の帰宅訓練、設定された1時間では訓練にならないので、休日を利用して実施しました。2019年の時に作製した野帳留めが今回も役に立ちました。今回は地図を使わずに記憶で予定経路を辿った結果、掘割川の久良岐橋に出るつもりが中村橋に出てしまったのが間違い箇所でした。
【記録】所要時間:6時間14分、総歩数:34,480歩、総距離:(72cm/歩で換算)24.8km、平均時速4.0km/hr


【経路概要】
 本部(テクノウェイブ100)-神奈川公園-みなとみらい大橋-新高島駅-みなと博物館-桜木町駅-日ノ出町駅-坂東橋公園-中村橋-八幡橋-浜マーケット-磯子駅-新杉田駅-鳥見塚-富岡六地蔵-能見台駅-片吹-泥亀公園-瀬戸神社-金沢八景駅-泥牛庵-内川橋-傍示堂-雷神社-追浜駅-(自宅)

 
GoogleMap

区間毎速度の変化


【撮影場所】
 本部(テクノウェイブ100)
 神奈川公園
 みなとみらい大橋
 新高島駅
 すずかけ通り西
 神奈川大学みなとみらいキャンパス
 いちょう通り西
 けやき通り西
 Yokohama Air Cabin
 みなと博物館
 桜木町駅
 日ノ出町駅
 黄金橋
 栄橋
 坂東橋公園
 中村橋
 天神橋
 八幡橋
 浜マーケット
 芦名橋公園
 磯子中央病院
 磯子駅入口
 磯子駅
 磯子郵便局
 新杉田駅
 磯子スポーツセンター
 鳥見塚
 東富岡
 富岡六地蔵
 能見台駅
 堀口
 眼鏡市場横浜金沢文庫店
 片吹
 君ヶ崎稲荷
 泥亀公園
 姫小島水門跡
 瀬戸神社
 金沢八景駅
 泥牛庵
 六浦橋
 内川橋
 傍示堂
 雷神社
 追浜駅
 追浜南町入口
 自宅



安藤橋の由来
 磯子の今日は、八十七年前の海浜埋め立てに始まる。半農半漁の村に新時代の息吹を運ぶ大工事であり、中心となったのが安藤組(現在の安藤建設株式会社)である。総面積十一万坪余り。機械化されていない時代の難事業で、その労苦は言語によ絶するものがあったと聞く。犠牲者も少なくなかった。
 明治三十二年(1899年)に着手し、完成は大正十三年(1924年)実に二十五年の歳月をかけての大工事であった。 埋め立て地の中心に架設された橋は、施工者の名を取り「安藤橋」と名付けられた。
 橋は第二次世界大戦を挟む激動時代を背景として長い間、磯子の人々に親しまれてきた。しかし昭和三十八年(1963年)新しい時代の埋め立て工事で、もう一度磯子が生まれ変わったとき多くの人々に愛された橋は歴史上のものとなった。
 それから二十余年。今「ドルフ安藤橋」の丹治陽とともに橋は再び私どもの心の中に蘇った。
 ここに、安藤組初代社長、安藤庄太郎氏、二代目社長 安藤徳之助氏の偉業をしのび、この地に「安藤橋」の親柱を記念保存することになった。
              本文は、作家 津村秀介氏の寄稿による。
   昭和六十一年九月吉日
          安藤徳二郎(徳之助ニ男)

晩秋の鎌倉へ

 今日は久しぶりに鎌倉を尋ね、長谷寺では抹茶体験に参加できました。


【参考】
 ヒメリンゴ Malus prunifolia
 タイワンツバキ Gordonia axillaris
 サフラン Crocus sativus

帷子川水系を訪ねて ~part.4 菅田川、くぬぎ台川、市沢川(陣ヶ下渓流公園)

 今日は、帷子川中流に合流する支流を尋ねました。陣ヶ下渓流公園でみかけた赤い実は、タンキリマメではなくトキリマメの方でした。水の橋は、水道道が通っていることから名付けられたようです。
帷子川水系を訪ねて part1.西区  part2.帷子川から今井川へ  part3.今井川合流地点から帷子川分水路分流堰
【水系マップ】帷子川  大岡川  入江川・滝野川  宮川・六浦川  侍従川  鷹取川


菅田川

菅田川合流地点
暗渠上
第二第六天橋
橋戸橋
むさご橋
相鉄本線
第六天橋
(八王子街道)
池田橋
(東海道新幹線)
上菅田橋
上菅田人道橋
私用橋x4
ふれあい橋
私用橋x3
富士見橋
名称不明の橋
旭橋
暗渠
寺下橋跡


くぬぎ台川

耕地橋(くぬぎ台川合流地点)
谷戸橋
逆田用水取水入口跡碑
私用橋
(協和工業の)橋
支流流入地点
無名の橋
原下橋
無名の橋
滝(高山橋の下)
高山橋
水道道


市沢川(いちざわがわ)陣ヶ下(じんがした)渓谷)

陣ヶ下渓流公園
無名の橋
水の橋
水道道



 馬頭観音:保土ケ谷区川島町
 ボケ Chaenomeles speciosa
 五輪塔・庚申塔・道祖神:菅田町344
 二十六夜塔・・歳ノ神、堅牢地上塔:上菅田町285-9
 チャノキ Camellia sinensis
 ひまわり整骨院西谷院
 庚申塔・堅牢地神塔:西谷町3丁目21
 マンデビラ Mandevilla sp.
 キク Chrysanthemum x morifolium
 ヨウシュヤマゴボウ Phytolacca americana
 カナムグラ Humulus japonicus
 モウソウチク Phyllostachys heterocycla
 ヒイラギ Osmanthus heterophyllus
 ブロッコリー Brassica oleracea var. italica
 コマユミ Euonymus alatus form. striatus
 道祖神:川島町73-1
 庚申塔(2基):川島町73-1
 オオイヌホウズキ Solanum nigrescens
 トキリマメ Rhynchosia acuminatifolia
 サザンカ Camellia sasanqua
 水道局西谷浄水場
 水道記念館跡
 みなとみらい方面(水道坂より)
 水道坂碑:川島町579
 蔵王高根神社
 センリョウ Sarcandra glabra
 光栄橋
 上星川駅
 コウテイダリア Dahlia imperialis
 ヤマザクラ Cerasus jamasakura


   庚申さまの由来(菅田町344の説明版より)
■庚申
庚申(かのえさる)の日に。仏教では帝釈天と青面金剛を、神道では猿田彦をまつる行事です。平安時代に中国から伝わり、江戸時代に盛んになりました。町では流行病をなくすために祈ったり、村では豊作を願う風習があります。
■道祖神
村里の入り口や分かれ道で、悪霊の侵入を防ぎ、通行人を守る道路の神で、塞の神といいます。旅行安全、縁結び、安産、子供を守る神として、信仰する風習が東日本に広まりました。
■さいと焼き
どんど焼き、左義長などともいいます。この町では【せいと焼き】と呼び、門松やしめ飾りを燃やして、その勢いで書き初めが高くあがるのを喜ぶ光景もありました。餅や団子を焼いて食べ健康を祈り、燃えさしの松を戸口にさしこんで家内安全を願う風習も続いています。
 現在では以上の三つが結びつき、その火祭りが正月十四日におこなわれています。
  平成八年一月吉日 上菅田町下地区庚申講


【文献】
横浜市公共下水道台帳

帷子川水系を訪ねて ~part.3 今井川合流地点から帷子川分水路分流堰

 帷子川水系を訪ねて part1.西区  part.2 帷子川から今井川へ part4.菅田川、くぬぎ台川、市沢川
【水系マップ】帷子川  大岡川  入江川・滝野川  宮川・六浦川  侍従川  鷹取川


今井川流入地点から光栄橋

今井川流入地点
天王橋(てんのうはし)
帷子橋(旧東海道)
古町橋(ふるまちはし)(古東海道)
愛染橋
常盤橋(ときわはし)
水道管(常盤橋)
(河童)
川辺公園
柳橋人道橋(やなぎはしじんどうきょう)(下)
柳橋(やなぎはし)
柳橋人道橋(やなぎはしじんどうきょう)(上)
星川下橋(ほしかわしもばし)
星川駅
星川橋人道橋(ほしかわはしじんどうきょう)
星川橋(ほしかわはし)
宮川橋(みやかわはし)(水道道)
すみれウォーク
川田橋(かわだはし)
星和橋(せいわはし)
保土ケ谷陸橋
平和橋(へいわはし)
和田橋(わだはし)
和田町駅
製缶橋
宮崎跨線橋
水道管(宮崎橋)
宮崎橋
(相鉄本線)
光栄橋(こうえいはし)


相鉄・JR直通線からふれあい橋

(相鉄・JR直通線)
両郡橋
人道橋(両郡橋)
稲荷橋
川島橋
(環状2号線)
かるがも橋
新橋(しんばし)
鷲山橋(わしやまはし)
菅田川流入地点
学校橋(がっこうはし)
くぬぎ台川合流地点(耕地橋)
(無名の橋)
(東海道新幹線)
逆田橋(さかたはし)
上逆田橋(かみさかたはし)
田原橋(たわらばし)
公園
(相鉄本線)
中田橋(なかたはし)
新井川流入地点
下中田橋(したなかだばし)
ふれあい橋
帷子川分水路分流堰
愛宕橋



天王町駅
帷子橋復刻(天王町駅前公園)
古町橋(ふるまちはし)


横浜市地域史蹟
 旧帷子橋(かたびらばし)
         登録年月日 平成十年十一月九日
         所在地   保土ケ谷区岩間町一丁目五番地
         所有者   横浜市
         登録区域  保土ケ谷区岩間町一丁目五番地の一部
 江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれていたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ケ谷宿を代表する風景として知られていました。中でも初代広重の「東海道五十三次之内 保土ケ谷」は特に有名です。
 大橋や新町橋とも呼ばれていた帷子橋について、『新編武蔵風土記稿』の帷子町(保土ケ谷宿のうち)の項には、「帷子橋 帷子川ニ架ス板橋ニテ髙欄ツキナリ、長十五間、幅三間、御普請所ナリ」という記載がみられます。昭和四十九年(一九六四)七月に、帷子川の流れがそれまでの相鉄線天王寺駅南側から北側に付け替えられたのに伴い、帷子橋の位置も変わりました。かつての帷子橋跡地は、現在の天王町駅前公園の一部にあたります。


歴史の道
古町橋(ふるまちばし)
江戸時代初期の東海道
 現在知られている「旧東海道」は、慶長6年(1601年)に保土ケ谷宿が成立した当時のものではなく、慶安元年(1648年)に竣工されてものでねそりまで追分(宮田町1丁目)から上方(かみがた)方面の東海道はここを通っていました。現在、追分から神明社あたりまでの道筋は判明していますが、そこから境木までの道筋には諸説があります。
古町通(ふるまちどおり)
 このあたりには江戸初期まで屋敷や寺が多くありましたが、新道の造成に伴い屋敷は街道沿いに移され、新しい街並みを形成しました。ここから追分へ至る道は「新町」(現:岩間町、帷子町)に対比して「古町通」と呼ばれ、元禄年間の書物には「古町通屋敷跡」の字が見られます。
旧古町橋
 この場所には江戸時代初期の東海道が帷子川をわたる「古町橋」がありました。慶安年間の新道の開通にともなって架けられた旧帷子橋は、これに対応して、「新町橋」と呼ばれていました。また、かねてから暴れ川として氾濫を繰り返していた帷子川の改修が昭和38年(1963年)に決定され、帷子川の流路は北側に変更されました。それにともない、現在の古町橋は昭和41年(1966年)に、ここから葯120メートル北に架設されています。
     平成16年3月 保土ケ谷区役所


市沢川(陣ヶ下渓谷)

(私用橋)
くぬぎ橋
神社下橋
(嬬恋神社より)


帷子川分水路

分流地点の水門
下白根橋(しもしらねばし)
帷子川分水路通水記念碑(帷子川ふれあい広場)
帷子川分水路


平成2年度 都市河川緊急整備工事
 (帷子川分水路 分流堰ゲート)
 純径間   6.5m
 扉高    5.2m
 門数    3門
 開閉速度  開時 0.3m/min
       閉時 1.0m/min
 扉体重量  9.7t (1門分)
 製作年月  平成3年3月
 製作    IHI 石川島播磨重工業株式会社


 その他の写真です。帷子川流域は、杉山神社が多く分布することでも知られており、以前にもこの地域を訪ねたことがありました。

金沢文庫駅で
南太田駅前
霞橋(かすみばし)
初代霞橋
藤方豆腐店跡
クチナシ Gardinia jasminoides
イソギク Chrysanthemum pacificum
キダチチョウセンアサガオ Brugmansia suaveolens
県営藤棚団地8号棟
ばらの幼稚園
願成寺坂(がんじょうじざか)
ヤマハギ Lespedeza bicolor
シネマノヴェチェント:中央2丁目1-8
東京ガス平沼整圧所
カワウ Phalacrocorax carbo
カワラバト Columba livia
アカミミガメ Trachemys scripta
コイ Cyprinus carpio(川田橋)
クロガネモチ Ilex rotunda
(和田)杉山神社:和田1丁目10-4
和田町商店街
和田地蔵尊:和田1丁目17-5
ホトトギス Tricyrtis hirta
ハシボソガラス Corvus corone
(川島)杉山神社:川島町896
嬬恋稲荷:川島町901-1
センダングサ Bidens biternata
ラッコ:西谷町公園
ウサギ:西谷町公園
ブラシノキ Callistemon speciosus


横浜市認定歴史的建造物
 霞橋
  建造年 1928(昭和3)年
  レンガ壁・門柱 1913(大正2)年
  設計者 内務省復興局
 2004 横浜市


かながわの橋100選 霞橋


霞橋 Kasumi Bridge
 初代の霞橋は大正2(1913)年に架けられましたが、関東大震災により損壊しました。現在の霞橋は、レンガ壁や門柱に初代の橋のものを再使用し、昭和3(1928)年に竣工した2代目です。この橋は、「かながわの橋100選」と「横浜市認定歴史的建造物」に指定されています。城壁を思わせる重厚な構造(鉄筋コンクリートアーチ橋)は、地域のランドマークになっています。
 明治末期から大正期にかけて横浜電気鉄道の路線網は拡大し、大正10(1920)年に横浜市営電気鉄道(横浜市電)となりました。東側から橋下の道路へ下りる階段が、休憩所と一体的にレンガで築造されているところに当時の面影を見ることができます。初代霞橋の下の道は、電車が通る専用軌道でしたが、市電久保山線は、モータリゼーションの発展に伴い、マイカーの普及で街中に自動車が氾濫したため、昭和44(1969)年に廃止されました。
 この付近は古くは霞耕地と呼ばれ、大正期に入ってから別荘などが建てられるようになっていましたが、震災を機に、被災がひどかった市中心部からの避難地となり、住宅地となりました。「霞ヶ丘」は、昭和10(1935)年に町会町名整理により字名に因んで町名となりました。霞は雲霞のカスミの他に、カ(処)スミ(住み)、即ちスミ(住)カ(処)のこととも言われています。


霞橋 Kasumi Bridge
The original Kasumi bridge was built in 1913 (Taisho 2), but was destroyed in the Great Kanto Earthquake. The current Kasumi bridge is the Second version of the bridge, and was built in 1928 (Showa 3), reusing the brick walls and pillars of the original bridge. This bridge has been selected as one of “Kanagawa’s Top 100 Bridges” and has been designated as one of “Yokohama’s Recognized Historic Architectures.” The sturdy structure (an arched bridge made of reinforced concrete) which reminds one of a rampart is a landmark of the region.
From the end of the Meiji period to the Taisho period, Yokohama Electric Railway’s network expanded until it become Yokohama Electric Tramway (Yokohama Tramway) in 1920 (Taisho 10). A trench in a hill was made when Yokohama Tramway’s Kuboyama Line was being constructed, and Kasumi Bridge was built to bridge the two crests of the hill. under the east side of the bridge, one can still see the vestiges of the old brick rest stop and stairs leading down to the road. Although the road under the original bridge was initially used exclusively by tramcars, the city become flooded with automobiles as private cars become popular with the development of motorization, and Yokohama Tramway`s Kuboyama Line was forced to discontinued service in 1969 (Showa 44).
This area used to be known as Kasumi fields, and in the Taisho period, vacation homes and the like started to be built in the area. however, with the Great Kanto Earthquake it become an evacuation site for people from the heavily damaged city center, and later become a residential area. Kasumigaoka gained its town name during the organization of town borders and names in 1935 (Showa 10). Other than the character kasumi of the word “cloud and haze” in Japanese, it is also said that kasumi id reordering of the word sumika which means dwelling place.


初代霞橋。橋と橋詰の階段は一体のレンガ造。橋の下の道は電車が通るため。小さなアーチ橋であった。
The original Kasumi Bridge. The bridge and its stairway were made of bricks and build as a single structure. Since only tramvars passed under the bridge, the arch was relatively low.
横浜開港資料館所蔵


【文献】
横浜市、だいちゃんマップ、横浜市行政地図情報提供システム、Accessed:2022-11-12.
ROIS-DS、帷子川分水路 [1400010007] 帷子川水系 地図 | 国土数値情報河川データセット、Accessed:2022-11-12.
神奈川県(2014)帷子川水系河川整備計画, 、Accessed:2022-11-12.

今日は近場で ~ 秋色を尋ねて


【参考】
 ヤクシソウ Youngia denticulata
 ツワブキ Farfugium japonicum
 ラセイタソウ Boehmeria biloba
 スイカズラ Lonicera japonica
 ツタバウンラン Cymbalaria muralis
 ボタンクサギ Clerodendrum bungei
 ノブドウ Ampelopsis glandulosa var. heterophylla
 ヒメツルソバ Persicaria capitata
 トマト Solanum lycopersicum
 チャノキ Camellia sinensis
 イヌタデ Persicaria longiseta
 トネアザミ Cirsium comosum ver. incomptum
 ヒヨドリバナ Eupatorium makinoi
 ヒイラギ Osmanthus heterophyllus
 ビワ Eriobotrya japonica