春の日に…… 2023-03-21

 今日は近場での散策でした。季節は確実に移っていきます。
【追浜】  【六国峠ハイキングコース】 【金沢自然公園】 【朝比奈など】


【追浜】

 平六トンネル上の桜 Cerasus sp.
 ユキヤナギ Spiraea thunbergii
 キュウリグサ Trigonotis peduncularis
 ヒメオドリコソウ Lamium purpureum
 カラスノエンドウ Vicia sativa
 アメリカフウロ Geranium carolinianum
 トキワナズナ(イベリス) Iberis sempervirens
 (いかづち)神社奥の院


【六国峠ハイキングコース】

 六国峠入口案内板
 ムラサキケマン Corydalis incisa
 マルバウツギ Deutzia scabra
 コウヤポウキ Pertya scandens
 石塔群(馬頭観音、百番供養塔、道造供養塔)
 馬頭観音(天保十一子(1840)年四月吉祥日)
 西國、坂東、秩父百番供養塔
 道造供養塔(文化十二亥(1815)年二月吉日)
 タチツボスミレ Viola grypoceras
 ノキシノブ Lepisorus sp.
 カキドオシ Glechoma hederacea
 スギナ Equisetum arvense 胞子体
 フモトスミレ Viola pumilio
 ヘビイチゴ Potentilla hebiichigo
 染井吉野(そめいよしの)Cerasus x yedoensis ‘Somei-yoshino’(江戸彼岸x大島桜)
 サンシュユ Cornus officinalis
 ヒメウズ Semiaquilegia adoxoides
 アケビ Akebia quinata
 キブシ Stachyurus praecox
 サルトリイバラ Smilax china
 スノーフレーク Leucojum aestivum
 カントウタンポポ Taraxacum platycarpum
 金澤八景根元地碑
 マルバグミ Elaeagnus macrophylla
 ヒサカキ Eurya japonica
 ハナニラ Ipheion uniflorum
 ヤマブキ Kerria japonica
 シャガ Iris japonica
 クサイチゴ Rubus hirsutus
 道祖神:能見台森
 アオキ Aucuba japonica
 ノイバラ Rosa multiflora
 ニワトコ Sambucus sieboldiana
 オニタビラコ Youngia japonica
 タブノキ Machilus thunbergii
 ウグイスカグラ Lonicera gracilipes
 犬柘植芽玉五倍子(イヌツゲメタマフシ)
 ヒイラギ Osmanthus heterophyllus
 シロバナタンポポ Taraxacum albidum
 ウラシマソウ Arisaema urashima
 モミジイチゴ Rubus palmatus var. coptophyllus
 カワラタケ Trametes versicolor
 ナワシログミ Elaeagnus pungens
 ミツバアケビ Akebia trifoliata
 山桜(やまざくら)Cerasus jamasakura
 大島桜(おおしまざくら)Cerasus speciosa
 スギ Cryptomeria japonica
 イヌビワハマダラミバエ Acidiella diversa
 タチツボスミレ Viola grypoceras


【金沢自然公園】

 タブノキ Machilus thunbergii
 ニホンスイセン Narcissus tazetta
 富山(とみさん)
 寒咲花菜(かんざきはなな) Brassica sp.
 ホトケノザ Lamium amplexicaule
 コブシ Magnolia kobus
 ナナフシ Baculum irregulariterdentatum
 小彼岸(こひがん) Cerasus x subhirtella ‘Kohigan'(豆桜x江戸彼岸)
 大山桜(おおやまざくら) Cerasus sargentii
 枝垂桜(しだれざくら)Cerasus spachiana
 シャクナゲ Rhododendron sp.
 ハナモモ Amygdalus persica
 キランソウ Ajuga decumbens
 ハルジオン Erigeron philadelphicus
 オオジジバリ Ixeris japonica
 北之門(金沢動物園夏山口)


【朝比奈、など】

 ベニバナトキワマンサク Loropetalum chinense var. rubra
 金沢文庫キリスト教会:釜利谷西3丁目36-20
 ニワウメ Prunus japonica
 ウンナンオウバイ Jasminum mesnyi
 ハボタン Brassica oleracea var. acephala
 チョウセンレンギョウ Forsythia ovata
 ヤマモモ >Morella rubra
 ヤシャブシ Alnus firma
 カワラタケ Trametes versicolor
 チョウジザクラ Cerasus apetala
 ヤブツバキ Camellia japonica
 タイサンボク Magnolia grandiflora
 ツタバウンラン Cymbalaria muralis
 蕗の薹(フキ) Petasites japonicus
 ヒマラヤユキノシタ Bergenia stracheyi
 カヤ Torreya nucifera 横浜市指定名木古木 No.49290:朝比奈町21
 石塔群:
 イヌガヤ Cephalotaxus harringtonia横浜市指定名木古木 No.48140:浄林寺跡(金沢区朝比奈町267)

横須賀の地神信仰 - 本日、春の社日(2023-03-21)

 春と秋の社日(地神の祭日)は、彼岸日に最も近い(つちのえ)の日とされますが、今年は本日彼岸日が戊で、社日に当たります。
 三浦半島の道祖神と地神 地神・道祖神マップ (作成中)
 横須賀市、三浦市には、殆ど地神塔が現存しません。既存の文献にもその理由に言及したものは見当たらず、そもそも地神講を知る者さえ少なくなっている中で、今後、地神塔分布の背景が明らかとなる可能性はあまりないと思われます。
 しかしながら、三浦半島地域でも地神信仰が存在していたことは、土地の伝承により明らかです。横須賀市が1980年代に編集した『古老が語るふるさとの歴史』には、『地神は石祠に祀られていた』という記載もあり、そうであれば、横須賀市、三浦市にも多数の由緒不明の石祠が残されているので、それらが地神の社であったのかも知れません。
 今となっては検証する術はなさそうですが、三浦半島で地神塔がないのは、塔を建てて地神を祀る風習がなかったためではないかと考えられます。


横須賀市内で唯一確認できた地神(牛宮神社境内社)


【文献引用】
地神講
 旧家の庭や畑の片隅に、小さな石の祠を見かける。これが農事の神を祀ったものである。古老の話では、昔、地に鍬を入れる時、そこに神が居るといけないので、塩を撒いて清めるか、「どいてください」と声をかけたという。子供のころに立ち小便をしようとしたら、年寄りに「どいてください」と言えとしかられた記憶がある。
 地神様の日は農事は休みで、これを犯すと足が腐るといわれたものだ。
          (小原台・飯田磯吉)


地神講
 三月と九月の暦の上の社日には、農家は仕事を休みます。これは収穫のお礼をするということで、田畑の土には一切さわりません。もしこの日、田畑に鋤鍬を入れたりすると神のたたりがあると言い伝えられていました。
          (武・青木宗五郎)


地神講
 秋と春の社日(暦に出ている)には、講中全員が宿に集まり、掛け軸を飾り、鍬を祀ってお詣りをし、飲んだり食べたりして一日を過ごしました。その日は農家は一日仕事を休み、田畑の土は一切掘り起こさないことになっていました。今では講の集まりはなくなってしまいましたが、まだ私の家では秋春の社日には地神様を祀って供養をしております。
          (衣笠・竹本一郎)


地神講
 地神様の掛け軸をかけ、一人分の御馳走を上げて豊作を祈りました。昭和四十四年頃までは当日無尽をし、クジを引いて当たるとそのお金で農具を買うのが立て前でしたが、今は一休みの格好です。
          (平作・鈴木惚太郎)


【文献】
飯田磯吉(1982)地神講、in 古老が語るふるさとの歴史 南部編、p173-174、横須賀市市長室広報課、横須賀.
青木宗五郎(1982)地神講、in 古老が語るふるさとの歴史 西部編、p167、横須賀市市長室広報課、横須賀.
竹本一郎(1983)地神講、in 古老が語るふるさとの歴史 衣笠編、p208、横須賀市市長室広報課、横須賀.
鈴木惚太郎(1983)地神講、in 古老が語るふるさとの歴史 衣笠編、p208、横須賀市市長室広報課、横須賀.

緋桜の丘2023

 今年も本牧山頂公園の緋桜の丘を二人で訪ねる事が出来ました。


【参考】
 観山広場碑
 横浜緋桜(よこはまひざくら)Cerasus jamasakura cv. Kenrokuen-kumagai x C. campanulata
 カントウタンポポ Taraxacum platycarpum
 アカシデ Carpinus laxiflora


  観山広場
 本牧山頂公園、観山広場は、かつて日本画家の下村観山(1873~1930)が住居を構え、多くの名作を生みだした場所です。
 観山は、東京美術学校(東京芸術大学の前身)や日本美術院の設立に関わった岡倉天心の指導のもとで才能を発揮、横山大観とともに日本美術の近代化の時代に中心的な役割を果たしました。
 三渓園を創設した実業家、原三渓(1868~1939)の支援が始まった1912年には、ここ本牧和田山の地を提供され、以降亡くなるまで生活と作品制作の場となりました。三渓園の名木・臥竜梅に着想を得て描いた屏風絵「弱法師」(よろぼし東京国立博物館所蔵・重要文化財)は代表的な作品です。
 この広場の奥には、日本美術院創立100周年の年である1998年に、彫刻家の澄川喜一(当時・東京芸術大学学長)と日本画家の小倉遊亀(元・日本美術院理事長)による下村観山先生顕彰碑も建てられ、観山広場と名付けられました。
                2021年7月吉日 本牧まちづくり会議 建立

双体神像道祖神の分布に関する検証(3件)

 双体神像道祖神の分布に関して、いくつか気になっていたことを、これまでの知見を参照しつつ、検証してみました。
【検証1】双体道祖神の分布は豊かさと関連するか?
【検証2】双体道祖神は旧相模国に多いのか?
【検証3】神を火中に投じてよいのか?
 三浦半島の道祖神と地神 地神・道祖神マップ (作成中)


【検証1】双体道祖神の分布は豊かさと関連するか?
 横浜市は旧武蔵国と旧相模国に跨っており、なぜか相模国エリアには広く分布する双体神像の道祖神が、武蔵国エリアでは殆ど確認できない。その分布の理由は明らかにはされていないものの、仮説はいくつか提出されてきたようである。そのうちのひとつ、双体神像塔は文字塔より高価であるため、経済的に豊かな講中により建てられたであろうという仮説につき検証してみた。
 使用した統計値は、WikiPediaで公開されている江戸時代の旧国別石高の変遷で、1633年(寛永10年)の調査結果を1.0とした時の年代毎の伸び率を示したのが図1である。江戸時代を通じて伸び率が最も高いのは武蔵国であるが、相模国と大きな違いがあるとは言えない。また、神奈川県以上に双体道祖神塔が残されている信濃国より武蔵国のほうが明らかに高い伸び率となっていた。あくまでも平均値での比較ではあるが、武蔵国より相模国のほうが豊かであったとは言えない。

 図1は、あくまでも国別の比較なので、もう少し詳しく地域別の比較もしてみたい。そこで現在の横浜市内にかつて存在していた橘樹、久良岐、鎌倉、都築の4郡に三浦郡を加えて比較したのが図2である。こうしてみると旧国内でも地域差があり、双体道祖神の分布との関係はますます見えなくなる。

 従って、その地の豊かさが双体道祖神の造塔と直接関係していたとは言い難いようである。
【文献】
WikiPedia、旧国別石高の変遷, Accessed:2023-02-17.


【検証2】双体道祖神は旧相模国に多いのか?
 『旧武蔵国には旧相模国に比べて双体道祖神が少ない』というのは私が歩いていて感じた事であり、ウェブにもその様な記述があったので、『やっぱり、そうか』と納得していた。しかしながら、それを数値をもって確かめたことはなかった。
 そこで、1970年代に実施された神奈川県の調査結果(岸上,1981)で横浜市内に確認された85基につき、改めて集計した。まず、郡別、形態別で集計したのが表1であり、道祖神碑は、武蔵国より相模国で多数残されていたと言ってもよさそうである。

 一方、双神像碑と文字碑との割合は、相模国側で著しく高いとまでは言えず、旧武蔵国にも8基の双神像碑が残されていたことが分かる。そこで、さらに詳しく見るために、現在の区別で集計すると表2になる。

 表2によれば、旧相模国エリアでも現栄区での道祖神数が突出しており、ここでは双体神像も多く残っていたが、他の相模国四区は武蔵国の区と比較して跳び抜けて双体神像が多いというほどではなかった。港南区はほぼ中央に旧国境が南北に走っている区であるが、道祖神碑が残されているのは相模国側の鎌倉郡のみであった。
 続いて、表2の各区での道祖神碑総数と双体神像碑割合の関係をプロットすると図3になる。一見ばらついて見えるが、総数が4以下の区を除いてみれば、良い相関関係が見られた。

 以上により、横浜市に限って言えば、旧武蔵国より旧相模国で多くの道祖神碑が残されており、道祖神碑の総数が多いほど、双体道祖神碑の割合が高いと言ってよさそうである。
【文献】
岸上興一郎(1981)横浜市の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.8-54


【検証3】神を火中に投じてよいのか?
 これは、私が考えた仮説だが『神を火の中に投げ込むのは不敬』ではないだろうか。それで、道祖神が火祭りの主神とされる地域では、双体神像が分布しないのではないかと考えた。しかし、この仮説については調べるほどに反証がみつかってきた。
 まず、広川(1982)によれば、横須賀市須軽谷でのおんべ焼につき、


 おんべを燃やすときは、道祖神を中に入れ、大勢の子供達が神棚に上げた三又で地面をたたき、大声で「おんべを焼くよ」と知らせました。


 としている。須軽谷の道祖神は丸石型で、確かにかつて焼かれた跡が残っている。瀬川(2022)によれば、既に行われなくなったおんべ焼の丸石が土中に埋まっていた事例も報告されている。この地区ではおんべ焼の丸石とは別に道祖神の石宮が残されているので、神たる道祖神は石祠内に坐し、丸石道祖神は神の力を発揮するための装置であるとも考えられる。


 ところが、長島(1981)によれば、横須賀市北部の追浜東で「どんど焼き」に用いた「さいと」が絵入りで紹介されていて、その「さいと」の中心には塞の神の石祠が描かれている。このケースでは、神に対する依り代ごと放火ではないだろうか。


 次に、私どもの地域では御神体が道祖神さまですから、中心の太い竹の根元へ道祖神を置きます。その周りに杉の枯葉を置き、その上にワラの内飾りと門松を小さく切って、周りの竹の間から交互に詰め込みます。そして、最後に円すい型の竹を、しめ縄を使って結びます。
 十四日中に、この作業が終了すると、子供たちは宿番(毎年順番で宿をする家が決まっていた)の家へ集まり、その夜は菓子などを食べて午前零時になるのを待ちます。
 いよいよ午前零時に過ぎると、子供たちは「せえと燃すぞ」と、大声で触れ回ります。そして村中の人たちが集まったところで、火を付けます。
     (追浜東・長島 弘)


 さらに、三浦半島地域では唯一、双体神像道祖神が残されている逗子市小坪に関する文献(内田,1981)には下記の記述がある。


 大正のなかば頃までは、一月十四日の朝、六時頃、まだ船が出ないうちに各神社毎に「サイトウ」の火を炊いた。沖へ出る前に火にあたっていったのである。このときお宮から若いしが「ドウロクジン」塔を運んできて、火の中に入れて焼いた。


 小坪地区は全域が漁村であり、集落ごとの神社の境内に双体神像道祖神塔が今でも残されているのだが、この双体神像を小正月の火祭りの際に毎年焼いていたことを、この文献から知る事が出来る。
 この種の記載は具体的な場所までは言及されないまでも、ウェブ、案内誌など、他にも多数見られる。丸石の場合は道祖神そのものでなく道祖神を祀る際の装置であるとも考えられるし、石祠は依り代に過ぎないのかも知れない。しかしながら、神像碑となれば限りなく神そのものに近いと考えられる。災厄や穢れを払う道祖神の力は、火により供給強化されるらしく、火中に晒すことは不敬に当たらないらしい。


 三浦半島の道祖神と地神 地神・道祖神マップ (作成中)
【文献】
広川武雄(1982)須軽谷のおんべ、in 古老が語るふるさとの歴史西部編、横須賀市市長室広報課編、p182-183.
瀬川渉(2022)横須賀市須軽谷上の里の丸石道祖神、横須賀市博物館研究報告(人文科学)、66、57-66、URL: https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/wp/wp-content/uploads/2022/04/j66-4_Segawa_2022.pdf, Accessed: 2023-03-13.
長島弘(1981)正月行事、in 古老が語るふるさとの歴史北部編、横須賀市市長室広報課編、p177-184.
内田武雄(1981)逗子の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.182-186.

大宮で……

 今日は、懐かしい友人たちと再会できました。大宮も春酣です。

【参考】
 阿亀(おかめ)Cerasus campanulata x Cerasus incisa cv. ‘Okame’
 ウメ Armenica mume
 寒咲花菜(かんざきはなな) Brassica sp.
 ハクモクレン Magnolia denudata
 桜の交配種・交雑種

田浦梅林-2023-03-04

 今年の田浦梅林は、昨年より少し遅めでしたのでスイセンの時期は終わっていました。


【参考】
 ウメ Armenica mume
 天ぷらうどん:船食製麺
 ツグミ Turdus eunomus
 トビ Milvus migrans
 スギ Cryptomeria japonica
 オウバイ Jasminum nudiflorum
 ユキヤナギ Spiraea thunbergii
 ボケ Chaenomeles speciosa

追浜、金沢の春-2023-02-26

 今日は近場の金沢区までを散策。ウメやカワズザクラに続いて、八景島のオカメも咲き始めました。



 河津桜(かわづざくら)Cerasus x kanzakura ‘Kawazu-zakura’
 ウメ Armenica mume
 ハナカタバミ Oxalis bowiei
 プラジルヤシ Butia capitata
 ツバキ Camellia japonica
 プラタナス Platanus sp.
 スクート、エアバスA321neo
 スジハゼ(旧スジハゼB) Acentrogobius virgatulus
 マハゼ Acanthogobius flavimanus
 オオバン Fulica atra
【文献】
松井彰子(2014)スジハゼ複合種群における遺伝的集団構造の形成にかかわる生態的特性の解明、URL: https://doi.org/10.14989/doctor.k18329, Accessed:2023-02-26.


伊藤博文別邸跡

 ひな人形
 ボタン Paeonia suffruticosa
 金屏風
 マナヅル Antigone vipio
 花筏文
 投扇興
 ひな人形:西郷喜久子蔵


  お雛様の由来
この雛人形は、私の母(1901年/明治34年生まれ)の嫁入り道具の1つです。当時、ある皇族から依頼を受けた人形師が二種類の雛人形を製作し、これは宮家に渡らなかった残りの一組だと伝え聞いております。
ただ、今となっては、注文された宮家も、人形師の名前もわかりません。
私が子供の頃には毎年桃の節句になると飾られていました。顔だけでなく手足もビスク(陶器)で作られ、西洋人形のように動かせますので、抱っこをしたり、一緒におままごとをしたりして遊んだものでした。
幸いにも激しい戦火や震災もくぐり抜け、お道具共々ほぼ当時のままの姿で残すことができ、そして今このようにこちらで大切に飾っていただけていることを大変嬉しく思っております。
          所有者 西郷 喜久子


  花筏文(はないかだもん)
 花筏とは、散った桜の花びらが水面に浮き、それらが連なって流れていく様子のことで、その花びらの動く様子を筏に見立てた言葉といわれます。文様(模様や柄)の花筏は、筏の上に花や枝が描かれ、着物や帯でよく使われる文様です。


 パンジー Viola × wittrockiana


 プリムラ Primula sp.



 八景島と海苔(ひび)
 シーサイドライン
 ビロウ Livistona chinensis
 ハクセキレイ Motacilla alba lugens
 タンキリマメ Rhynchosia volubilis
 阿亀(おかめ)Cerasus campanulata x Cerasus incisa cv. ‘Okame’
 富士山
 八景大橋
 マンサク Hamamelis japonica
 クルメツツジ Rhododendron x obtusum
 ニホンスイセン Narcissus tazetta
 フチベニベンケイ Crassula portulacea
 ブロンズヒメ Graptopetalum paraguayense ‘Bronze’
 庚申塔
 庚申塔(3基)
 ウメ Armenica mume
 スミレ Viola mandshurica
 コブシ Magnolia kobus
 オオキバナカタバミ Oxalis pes-caprae
 谷津道標
 ハナニラ Ipheion uniflorum
 シレネ Silene caroliana
 谷津浅間神社
 浅間神社石段改修竣工記念碑
 第六天社:谷津浅間神社
 赤井不動尊
 福石:赤井不動尊
 ウメ Armenica mume
 六地蔵尊:赤井山正法院
 ラカンマキ Podocarpus macrophyllus var. maki 横浜市指定名木古木No.201029 :赤井山正法院
 赤井(金沢七井のひとつ)
 コノテガシワ Platycladus orientalis
 浦之郷陣屋跡


  谷津道標

 近世は、街道沿いに道標があり、旅人が目的地の方向を確かめることができるようになっていました。
 この道標は向かって正面に「右 能見堂 保土ヶ谷道」、右側に「此方江戸」、左側に「天保十年亥年 六月 日 願主光明院」と刻まれています。
 これは、右の方へ行くと能見堂を通って保土ヶ谷へ着き、さらに、東海道を北へ行くと江戸へ通じることを表しています。なお、左の方へ行くと白山道を通り、朝夷奈切通しを経て、鎌倉へ通じる道になっていました。
 元々は分かれ道となる別の場所にありましたが、平成29(2017)年この場所へ移設しています。


  赤井不動尊
 この「瀧のお不動さま」は元禄元年(一六八八)、当院の山(現在の富岡中学校付近)に祀っておりましたが、大正の始めごろに軍需工場が出来て交通が規制されたために、当地に移され、赤井のお不動様として祀られました。石段の入口に「瀧不動江之道」(享保十六年)として前不動が祀られています。

  不動の福石(ご自由にお持ち下さい)
 このお不動様に願いをかけるためには、願いをかけた小石をお供えして一つ持ち帰る。願いを叶えたら小石をふやしてお返しする。または身代わりのお守りとして小石を身近において後ほどお返しする。
 昔から幸せをもたらし悪を退散させ、すべての御利益にあずかる事が出来るといわれております。


  浦之郷陣屋跡
 浦之郷村と呼ばれたこの辺りは、戦国大名北条早雲を始祖とする小田原北条氏家臣麻倉能登守の居館があった所と言われています。能登守は長年にわたり浦之郷村の領主としてこの地を支配し、雷神社の再興、良心寺の再建など随所に足跡を残しています。
 やがて、江戸時代に徳川幕府の天領となり、寛文三年(一六六三)厩橋藩(群馬県)酒井雅楽頭忠清の所領となり浦之郷陣屋(浦之郷役所)が設けられ、地域の年貢の取り立てや治安の維持、順法など重要な仕事をしていました。その後、この地域を支配する領主は二百年にわたり次々に変わりました。特に川越藩(埼玉県)は約九十年の長きにわたり二度も駐在し、当地で亡くなった藩士もあり、現在自得寺には三名の藩士のお墓があります。
 当時、入り口には「大門」があり、屋敷は松が植えられた土塁に囲まれていました。
 その後、天保十四年(一八四三)三浦半島の海防強化の目的で大津(京急大津駅付近)へ本陣屋が移されたため浦之郷陣屋はその役割を終えています。
 現在では住宅地となり面影はありませんが周辺には中世以前と思われる古い五輪塔が数基あり、その前で毎年供養祭が行われています。



 浦之郷陣屋の風景:相中留恩記略(天保10年/1839)記載の絵図
○広さ:一町五反(4,500坪=14,850㎡、東京ドームのほぼ1/3)
○駐在:川越藩(文政4年/1821頃136名)など以下アンダーラインの数藩、時には臨時の増減員があった。
○歴代領主:厩橋藩(寛文3年/1663)→ 前橋藩川越藩 → 会津藩 → 川越藩 → 熊本藩 → 佐倉藩 → 韮山代官江川太郎左衛門(慶應3年/1867)
 令和3年11月14日 追浜地域運営協議会・おっぱまはっけん倶楽部

葉山の道祖神など

 今日は、逗子・葉山駅を起点に西海岸を歩いてみました。
【主な経路】
(逗子・葉山駅)-長柄-堀内-一色-下山口-長者ヶ崎-秋谷-芦名-(復路はほぼ逆経路)-(逗子・葉山駅)
 三浦半島の道祖神と地神 地神・道祖神マップ (作成中)


道祖神:長徳寺(三浦郡葉山町堀内805)


 名木・古木50選湘南七福神の恵比寿尊でも知られる守護山玉蔵院の塞之神(道祖神)です。


道祖神:一色1034
 石塔群の右端が道祖神、庚申塔を祀った社内には子産石もありました。


熊野神社:秋谷5309
 藤井(1981)に記載がありませんので、道祖神とは見做されていないようですが、秋谷の熊野神社には、多くの子産石が奉納されています。


秋谷の子産石:横須賀市秋谷5290
 裏手の稲荷社にも、沢山の子産石が奉納されています。

横須賀市指定市民文化資産
 子産石
 子を産み出す石ということから、生殖の神、安産の神が宿る石として崇敬されてきた。ここに据えられた子産石を全体の象徴として指定した。


淡島神社:芦名1丁目18-2
 辻井(1988)によると、社前の男根碑はエビス湾の岩穴に祀られていたものを移したとありますので、この30年ほどのうちにさらに社内に移されたことになります。
 一方、社の世話していらした男性の話では、『安産の神であり、道祖神ではない』とのことで『境内の猿田彦大神のほうが道祖神ではないか』とのご意見でした。ただし、昭和時代の神奈川県による道祖神調査では、猿田彦は対象外としたそうで、藤井(1981)は芦名の猿田彦大神を認識していたことも占めるされていますので、芦名浜の自然石型道祖神は、これだと思われます。


十二所神社:芦名1丁目21-26
 境内の階段下の帯解地蔵は、一見、双体神像型道祖神にも見えるのですが、 新編相模國風土記稿に『地藏堂。安産守護ノ本尊ナリ。故ニ帯解地藏ト號ス。』と見えますので、これは古来、地蔵尊の様です。ここにも子産石が奉納されていました。


道祖神:芦名2丁目22
 藤井(1981)に祠型道祖神として紹介されている社です。隣には庚申塔、子産石も納められていました。


【文献】
石井悦五郎(1981)葉山町の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.191-193.
藤井慶治(1981)横須賀市の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.73-84.
辻井善弥(1988)横須賀こども風土記下巻、横須賀市民文化財団、横須賀、223p.
間宮士信ら(1985)蘆田伊人編、村里部三浦郡巻之四 衣笠庄 in 新編相模國風土記稿巻之百十、雄山閣、東京.


 本日、撮影のその他の写真です。

 長柄の庚申塔群:長柄482
 竹で作ったお雛様
 海岸連絡道路奉仕工事竣工記念碑(昭和七年拾月 木之下里)
 道祖神:長徳寺(三浦郡葉山町堀内805)
 地蔵尊:長徳寺(三浦郡葉山町堀内805)
 三家橋(さんけばし)
 ソテツ Cycas revoluta:ソテツ公園
 ツタバウンラン Cymbalaria muralis
 サンカクバアカシア Acacia cultriformis
 塞之神:守護山玉蔵院(葉山町一色2154)
 道祖神:葉山町一色1034
 ツバキ Camellia japonica
 白石橋:葉山町下山口1396-7
 庚申塔群:葉山町下山口1550-1
 江の島遠望
 ハシボソガラス Corvus corone
 HAYAMA SUNDAY:葉山町下山口1820-18
 トックリヤシ Hyophorbe lagenicaulis
 伊豆大島
 長者ヶ崎
 道標:国道134号線
 カナリーヤシ Phoenix canariensis:葉山ゲストハウス
 ウミウ Phalacrocorax capillatus
 シーサー
 熊野神社:秋谷5309
 秋谷の子産石:横須賀市秋谷5290
 智回(ちかい)尼の石仏
 大乗妙典六十六部供養塔:秋谷4619
 谷戸の庚申塔
 ビャクシン Juniperus chinensis
 秋谷の立石:秋谷3丁目5 カナリーヤシ Phoenix canariensis:立石公園
 ブラジルヤシ Butia capitata
 石塔群:秋谷1丁目16-11
 淡島神社:芦名1丁目18-29
 十二所神社:芦名1丁目21-26
 道祖神:芦名2丁目22
 ナワシログミ Elaeagnus pungens
 江の島:長者ヶ崎より
 子産石:海上山普門寺円乗院
 子産石:個人宅
 県立葉山公園より
 地蔵尊:葉山町下山口1487
 庚申塔群:葉山神明社
 子守地蔵尊:葉山町堀内


 三家橋(さんけばし)の由来
大正時代、ひの辺に逗子から人力車で来るには、海岸通りから現在の図書館前へ大きく迂回し小川に沿って来なくてはならなかった。当時、別荘のあった入江達吉(ベルツの弟子の医学博士)、村井貞之助(タバコ王村井吉兵衛の義弟)、恒藤規隆(つねとうのりたか)(植物・地質学者、当学博士)の三軒が私費を投じて石橋を架けたので「三家橋」と呼ばれた。昭和55年、村井別荘が関東学院セミナーハウスに建て替わる際、再建され、平成21年、道路拡幅に伴い今の形となった。
          「くれ竹通信」Vol.48より


  子守地蔵尊の由来
 地蔵尊は、一時牛ヶ谷戸の地に二〇〇余年草芽の中に放置されたが、里人達が掘り起こし、現在とは異なる場所(国道一三四号線の川沿いで、現在の新たなか辺り)に安置したと言われている。
 古老に聞いた子守地蔵尊の由来については定かではないが、「現在の消防署前から、京浜団地へ通じる細い町道の坂道があり、この坂を昔は子守坂と称していた」との事。
 この辺りに由来の起源があると考えられる。
 昭和九年に起きた学童の交通事故を機に、牛ヶ谷戸の里人達が地蔵尊を修復し現在の場所へ堂守を建設、昭和十一年十二月十八日開眼供養を施し、学童及び里人の交通安全を祈願してきた。
 戦後一時中断したが、昭和五十年、当時の牛ヶ谷戸町内会長加藤氏の発願で供養を復活させ、以降、毎年八月二十四日に、子守地蔵尊祭を行い供養する事になった。
 又、古老伝説として、地蔵堂の砂利を洗い清め「いぼ・ものもらい」の患部の上を擦ると治ると伝えられている。
 完治した時は、浜辺の小石を二倍にして返納しなければならない。
  地蔵尊と浦賀街道道標
 寛政十二年(西暦一八〇〇年)江戸幕府は、「五街道其外分間延図並びに見取図」(東京国立博物館蔵)と称する五街道の測量図を作成し、道中奉行所に置き交通政策の利用に供したとある。
 この中には、脇街道を描いた一つとして「浦賀道見取絵図」がある。
 東海道戸塚宿から左に折れる場所に、「これより鎌倉道」と彫られた道標があった。
 脇往還へ歩みを進めると山内・雪下は、鎌倉の中心部だが、大町村あたりは田畑も多い難所の名越坂を越え、三浦郡久野村谷・小坪村・堀内村(現在の葉山町堀内)と海岸沿いを抜けるのが、一転して森戸神社の手前から奥へ向かい、平松地蔵で知られた一色村を越え、上山口・木古庭・上下平作(衣笠)村経由浦賀へ至る街道で、道中の安全祈願と道標を兼ねた地蔵尊と見られる。
 地蔵堂内には、道標を兼ねた地蔵菩薩塔があり、地蔵菩薩座像は浮彫、その下に道標の文字が刻まれ、「右うら賀・左やま屋」と彫られ、天保二年幸卯七月吉日(一八三一年)塔とある。
 天保二年塔の左には、元文丁巳年九月(一七三七年)建立の塔があり、この塔も同じ様に道案内が表示されこの塔の左側面には、「堀内村施主念仏講中」とあるが、残念な事に中央で折れている。
 この塔は、天保二年塔より九四年も前に建てられ、葉山町の貴重な文化財の一つである。
  平成十四年八月二四日     牛ヶ谷戸町内会

三浦海岸さくら祭、2023-02-22

 暖かかったり寒かったりのこの冬でしたが、ここに至って、河津桜の開花は一気に進んでいるようです。


 河津桜(かわづざくら)Cerasus x kanzakura ‘Kawazu-zakura’
 寒咲花菜(かんざきはなな) Brassica sp.

横須賀南部の道祖神、道切りなど

【主な経路】
 (津久井浜駅)-発声町-須軽谷-長井-発声町-下宮田-下浦町-(三浦海岸駅)
 三浦半島の道祖神と地神 地神・道祖神マップ (作成中)


(子産石型)道祖神:横須賀市須軽谷331
 焼け跡が残っている5体の子産石あるいは奥の石祠が道祖神の様です。焼け跡は、おんべ焼の跡と思われ、中央の一体は割れたのを針金で修復されていました。

(子産石型)道祖神:三王山安楽院不断寺(長井5丁目1-1)
 藤井(1981)によれば、井尻に自然石道祖神があることになっているので、過去の記録から、旧井尻に相当する長井3丁目の第六天社の石塔群にあると予測していたのですが、3丁目に位置する社などにはどこにも見当たらず、この長井5丁目の不断寺にある子産石がこの自然石道祖神だったのでしょうか。この子産石にはおんべ焼に供された形跡はありませんし、昭和時代に確認された道祖神は既に失われているのかも知れません。


 現在、三浦半島で残されている道切り3か所を巡ってみました。


 岩神社:三浦市初声町下宮田1293
 藤井(1981)には記載のない子産石を祀った社ですので、道祖神とはみなされていなかったようです。三浦古尋録には記載がありませんが、新編相模國風土記稿には下記の記述が見えることから、少なくとも安永年間(1772~1780)以前に成立した社と思われます。御神体にはおんべ焼に供された形跡はないようでした。
○石尊社 例祭九月二十七日△神主松原浪江 吉田家配下、祖父源右衛門安永三年神職となる。古文書三通を蔵すれど、もと宗家新右衛門の家に傳へし物なれば、彼條に辨ず。



 庚申塔群:津久井浜駅前(津久井2丁目18-23)
 石塔群(岩船地蔵尊):津久井1丁目25-2
 (津久井)浅間神社
 ノボロギク Senecio vulgaris
 ナズナ Capsella bursa-pastoris
 オランダミミナグサ Cerastium glomeratum
 ウラジロチチコグサ(アメリカチチコグサ) Gamochaeta coarctata
 ホトケノザ Lamium amplexicaule
 ウメ Armenica mume
 ニホンスイセン Narcissus tazetta
 庚申塔群:津久井4丁目16
 キャベツ Brassica oleracea var. capitata
 西洋赤大根(品種不明) Raphanus sativus
 ウサギアオイ Malva parviflora
 ブロッコリー Brassica oleracea var. italica
 庚申塔群:須軽谷68-1
 庚申塔群:須軽谷113
 稲荷社:須軽谷331
 道祖神:須軽谷331
 石塔群:三浦市初声町高円坊1667
 石塔群:須軽谷(下ノ里バス停近く)
 地蔵尊:須軽谷(下ノ里バス停前)
 カラクサナズナ Lepidium didymum
 カワウ Phalacrocorax carbo:轡堰
 ノゲシ Sonchus oleraceus
 前田夕暮の文学碑
 江の島(&佐島)遠望
 (井尻)龍神社:長井3丁目14
 庚申塔群:長井第六天神社(長井3丁目10)
 寒咲花菜(かんざきはなな) Brassica sp.
 ひまわり歯科:長井3丁目26-11
 イチョウ Ginkgo biloba, かまくらと三浦半島の古木・名木50選
 オオキバナカタバミ Oxalis pes-caprae
 おこり石:長井6丁目5-9
 (漆山)龍神社:長井6丁目8-1
 道標
 干若芽と干大根
 道切り:長井6丁目17-13
 地蔵尊:長井6丁目17-12
 道切り:長井6丁目16-31
 河津桜(かわづざくら)Cerasus x kanzakura ‘Kawazu-zakura’
 道切り:長井6丁目23
 観音像の庚申塔:長井6丁目22-12
 セイロンベンケイ Kalanchoe pinnata
 長井庚申塔群:長井2丁目13-11
 サイロ給水塔の丘
 寒緋桜(かんひざくら)Cerasus campanulata
 石祠:三浦市初声町和田3012
 和田城址碑:三浦市初声町3083-10
 三浦市初声町和田の庚申塔:三浦市初声町和田3247
 ワシントンヤシモドキ Washingtonia robusta:発声シーサイドタウン
 『寿』に見えた雲
 猫石
 猫石園碑:三浦市初声町下宮田1321-3
 岩神社:三浦市初声町下宮田1293
 河津桜(かわづざくら)Cerasus x kanzakura ‘Kawazu-zakura’:小松ヶ池
 コサギ Egretta garzetta
 カワウ Phalacrocorax carbo
 キンクロハジロ Aythya fuligula
 水神碑:小松ヶ池
 青首大根 Raphanus sativus var. longipinnatus
 石塔群:三浦海岸駅前
 三浦海岸駅


  前田夕暮の文学碑
 大正十二年二月一日、前田夕暮は、東海道線の車中で偶然北原白秋と出会い、そのまま連れ立って三崎へ行き、城ヶ島に遊んだ。帰途この地長井に立ち寄り、「藤屋」に宿泊している。
 その間二人は即詠競作して、この時の歌を「詩と音楽」三月号に発表するとともに、夕暮は昭和三年刊行の第六歌集「虹」に収録している。碑の歌は、この歌集の「長井村に泊る」から一首を選んだものである。
   宵あさき 長井往還 行につつ
      村湯の明り なつかしみけり
 夕暮は、明治十六年七月二十七日神奈川県大住郡大根村(現秦野市)に父久治、母イセの長男として生まれ、本名は洋造という。
 筆名の「夕暮」は、青年時代を過ごした大磯町の鴫立沢(しぎたつさわ)にちなむ西行の有名な和歌 「こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ」からとったといわれる。
 夕暮は、その作歌生涯において数度にわたる作風の転換をしている。それは「明星」浪漫主義から出発し若山牧水と並び称された自然主義歌風、画壇における後期印象派の影響ともいわれる外光派的世界への転換、更に自由律運動への突入、そして定型への復帰である。
 近代短歌の開拓者としての夕暮は、鮮かな詩性を短歌に盛り上げるとともに、優れた私的散文の創始者としても、革新と実験の文学行路を歩んだ。
 歌集に『収穫』『生くる日に』『原生林』『夕暮遺歌集』、文集に『緑草心理』『烟れる田園』『雪と野菜』等がある。
 昭和二十六年四月二十日、東京・荻窪の自宅「青樫(あおがし)草舎」で逝去、享年六十七歳であった。


  おこり石
風の強い日にし唸りをあげたことからこの名があると伝えられる。往古は、なんらかの神の宿る石であったと思われる。


【文献】
藤井慶治(1981)横須賀市の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.73-84.