秀樹」カテゴリーアーカイブ

戸塚区の地神塔など

 戸塚区は横浜市の中でも地神塔の沢山残されている地域です。この地区では双体道祖神も分布しており、名瀬町の経王山妙法寺前には、双体道祖神と賢牢地神供養塔が隣り合って祀られていました。
【主な経路】(下永谷駅)-日限地蔵尊-舞岡八幡宮-街山八幡社-上矢部-経王山妙法寺-(東戸塚)
 三浦半島の道祖神と地神 (堅牢)地神塔マップ (作成中) 地神(地天)
緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09) 逗子市(2023-01-15)


日限地蔵尊:八木山福徳院(港南区日限山1丁目67-30)


道祖神(?):港南区日限山1丁目67-8


道祖神(天保十二丑(1841)年正月吉日)、庚申塔:戸塚区舞岡町3113


堅牢地神(明治十一戊寅(1878)九月吉祥日)、庚申塔:戸塚区舞岡町2613


庚申塔:舞岡町1417


庚申塔:舞岡町1221


双体道祖神:舞岡町970


庚申塔・出羽三山供養塔:舞岡町


堅牢地神(元治第二星宿乙丑(1865)三月造建):舞岡八幡宮(舞岡町946)
蔵王社、山王社、白山社、第六天社(舞岡八幡宮境内)


双体道祖神:天龍山圓福寺(舞岡町336)


しゃもじ神社:戸塚区上矢部町2701


街山八幡社(つじやまはちまんしゃ):矢部町1003
石塔群:街山八幡社
堅牢地祇(嘉永二己酉(1849)年二月):街山八幡社境内
堅牢地祇:街山八幡社境内
本覚院不動尊:街山八幡社境内


道祖神:戸塚区上矢部町2342
石塔群:戸塚区上矢部町2342
篠塚農道寛政記念碑:戸塚区上矢部町2342


松尾神社:戸塚区上矢部町421
 地神社(左)、疫神社(中)、疱瘡神(右):松尾神社内相殿
 蚕霊神碑:松尾神社境内
 横浜市指定名木古木:松尾神社(戸塚区上矢部町421)
  イチョウ Ginkgo biloba No.202018, No.202019, No.202020
  ケヤキ Zelkova serrata No.202021


経王山妙法寺:戸塚区名瀬町772-4
双体道祖神と堅牢地神塔:経王山妙法寺


  道祖神(どうそじん)堅牢地神(けんろうちじん)
 このたび、東戸塚名瀬下土地区画整理事業にともない名瀬町旧一〇八三番地から当時境内へ遷祀いたしました。
 道祖神(左)は、村の境や道の辻に坐して悪霊の入るのを威力をもって防ぎ、病苦や不幸に悩む人びとを守ってくれる神様です。
 堅牢地神(右)は、仏様の教えが弘められるところにおられ、信仰する人、正しい行いをすすめる人を守り、よこしまを戒める大地の神様です。
 これらの神様は、私たちの祖先のときからこの土地に奉祀され尊崇をあつめて、地域の安泰と、掌を合わす浄心の人びとを守護してきたのです。
 願くば、この町と、ここに住む人びとの上に冥加あらせたまえ
南無妙法蓮華経
     昭和五十七年六月吉日
          妙法寺四十六世兼是日諦 識す


「ひまわり」
 港南区の花「ひまわり」をテーマとしました。「ひまわり」は港南区制10周年の昭和54年に区民によって区の花として選ばれました。
 真夏の太陽に向かってたくましく伸びる「ひまわり」のように明るいまちと人と人とのあたたかい交流を表現しています。


日限地蔵尊由来
慶應元年七月二十四日當時鎌倉郡永谷字八木現横濱市南區下永谷町ノ丘陵ニ建立サレン日本三體ノ一日限地蔵ノ御尊像ハ現戸主房太郎ノ祖父飯島勘次郎翁ノ創建ニ係ル由緒深キ地蔵尊デアル
勘次郎翁ハ至極健康ニシテ農ニ生計ヲ樹テシモ晩年ニ至リ持病ノシャクガ起リ病床ニ呻吟スル事数年ニ及ベリ或年伊豆三島長岡寺隠ニ荘誉ニ人代別當棲心庵ノ和尚ガ勘次郎宅ニ杖ヲ引キ伊豆三島ニ祠ラル日限地蔵尊ヲ信
仰セヨ然ラパ病魔立處ニ退散シ難疾モ快癒セシト巖カナル御告ゲガアリタリ日頃信仰深キ翁ハ直チニ清紙ニ日限地蔵尊トシタヽメ三島ノ方向ニ安置シ日夜禊斉ノ信仰ニ心魂ヲ打込ミシガコノ甲斐アルニ不思議ヤ霊現モアラタカニ硫石難澁ヲ極メシ病モ薄紙ヲ剥グカノ様ニ快方ニ向ヒ忽チニシテ全快セリコレコソ御佛ノ篤キ加護ト翁ハ感泣スルトコロヲ知ラズ事後病ニ悩ム人々ヲ救済セント發心シ旅装モモドカシク永谷ノ地ヲ出立戸塚宿ヲ經テ老杉古松ニ假寝ノ夢ヲ結ビケリ東海道ヲ西ニ下リ名所古蹟ニ或ハ天下ノ岒トシテ名髙キ翠巒渓谷ノ難所箱根八里モ一気ニ越ヘ数日ニシテ三島ノ宿ニ到着斉民ノ志ヲ延ベ御地蔵尊分與方ヲ懇願遂ニ御分霊十體ヲ押戴キ翁ハ再ビ陸路デ御尊像ハ伊豆三島船ニ途中恙ガナク相模灘ヲ乗切リ歌ニ名髙キ屏風ヶ浦ノ森町ニ御寄着更ニ馬ニテ日野路ヲ越ヘ八木ノ地ニ御迎ヘ申セシモノナリ當地境ヒハ遠く富嶽ノ悠久ナルヲ眺メ杉松森々トシテ四囲ヲカコミ梅櫻楓樹頗ル多ク風色四時ニ愛デタリ佛護ニ接セントスル老若男女マタクヒスヲ接シテ参詣絶エル事ナク商家軒ヲツラネテ客ヲ呼ビ大イニ殷賑ヲ極メリ
翁ハ村内カラ五人ノ世話人飯島興石衛門飯島鹿造西木嘉平並木鉄五郎秋元文左右衛門ヲ選ビ堂宇ノ建立ヲ図ルト共ニ自ラ堂主トナリテ御守リニ當タレリ
其後一時荒廢ニ期センガ現戸主房太郎翁ガ夢枕ノ御告ゲニテ夫妻共ニ協力再ビ復活ヲ図リ堂宇ヲ修復シ日本三體ノ一トシテ名聲ヲ傳スルエ至レリ房太郎翁ハ齢旣ニ八十ヲ越ヘシモイマナホ健全ニシテ壮者ヲシノギ日夜信仰ニ余リ全霊ヲ捧ゲ苦界ニ難澁スル人々ノ爲或ヒハ護國ノ英霊ノ冥福ヲ祈リツヾケ精進ヲシツヽアリマタ諸国カラ効験アラタカナ護符ヲ受ケントス善男善女数知レズカクテ霊験ノ加護ハイマヤ全國ニ及ベリ


江戸方見付跡
 江戸時代に、戸塚の宿で町並みを形成し、二十町十九間を宿内とし、その両端に道を挟んで見付を築き、これを宿場の入口の標識とした。貴賓の送迎はこれから行はれ、大名行列もこれより隊伍を整えたものである。


旧東海道
 見付とは、宿場の出入り口のことです。ここは戸塚宿の江戸側の出入り口です。旧東海道の宿場に設けられた見付は、宿場を見渡しやすいような施設となっていることが多いようでする参勤交代の大名らを、宿役人がここで出迎えました。


篠塚農道寛政記念碑:戸塚区上矢部町2342
爾来此ノ地面積約三十丁歩ニシテ古ユリ此レニ居ヲ構エシ土
着ノ人者数ウルニ足ル村落ナルニ時・推移今日ニ及ビテ村道ノ紆余
曲折狭隘ナルハ人車ノ交通困難ノミナラズ大都市近郊地域トシテ発
展著シク阻害サル地元有志次代ヲ先見道路現況ヲ憂ウ地元民此処ニ
起チテ農道ノ拡巾整備ヲ決シ未來ヲ画ス此処ニ横浜市ノ指導助成ヲ
得全長千三百米巾員四・五乃至八米ノ道路ハ昭和参拾七年以來五年
ノ才月ヲ要シ昭和四拾弐年完工ス此ノ間関係官民ノ物心両面ニ亘ル
援助功績ニ敬意ヲ表シ此レガ将來利用者及ビ土地発展ニ便セバ計画
者ノ趣意ヲ得ン
              昭和四拾弐年十月
           上矢部町農道事業施工組合建之


日蓮宗宗門史跡
  名瀬妙法寺由来
当山は、「名瀬妙法寺」と通称し。開山は弁阿闍梨日昭上人、開基檀家は。風間信濃守信昭公です。
日昭上人は宋祖日蓮上人の最初の弟子としてつとに知られています。師、日蓮上人が、法華経弘道のため数々の法難に遭う中で、蔭で支え後顧の憂いなくつとめられました。そして、日蓮上人御入滅後四十余年長生きされ、教団を見守り続けた功績は、今日の日蓮宗信仰の礎となっています。元享三年(西暦一三二三)百三歳で亡くなられました。徳治元年(西暦一三〇六)日蓮上人御入滅後二十五年、かねて帰依していた日昭上人を請じ、信昭公屋敷地に一宇を建立したのが妙法寺の始まりです。
 信昭公は、越後国(新潟県)の有力な豪族で鎌倉勤番の折、鎌倉街道『中の道』が通じた名瀬に屋敷を構え幕府に出仕していたのです。信昭公の屋敷跡は『殿畑』とよび伝え、寺より南方五十メートル先の道路沿いに碑が建っております。信昭公は、日昭上人の遺命により領国へも教えを広め、後に日昭門流として大きく発展してゆきました。
右のように由緒により、平成九年十月、日蓮宗宗門史跡に指定されました。
寺宝
一、宗祖日蓮上人像(室町時代造・横浜市指定文化財)
一、板曼荼羅ご本尊(宗祖開山上人授与伝法本尊謹刻)



【参考】
 ひまわり:下永谷駅構内
 ニホンスイセン Narcissus tazetta
 ひまわり薬局:戸塚区吉田町894-1
 江戸方見付跡碑
 新製作家協会々員 髙𣘺 米
 第8回日展出品菊華賞 道
 しゃもじ神社:戸塚区上矢部町2701
 ロウバイ Chimonanthus praecox
 寒咲花菜(かんざきはなな) Brassica sp.
 エリカ・ウィンターファイアー Erica oatesii cv. Winter Fire
 マンリョウ Ardisia crenata
 ウメ Armenica mume
 紙垂(不明の神):戸塚区上矢部町2168
 松尾神社(戸塚区上矢部町421)
 横浜市指定名木古木:松尾神社(戸塚区上矢部町421)
  イチョウ Ginkgo biloba No.202018, No.202019, No.202020
  ケヤキ Zelkova serrata No.202021
 地神社(左)、疫神社(中)、疱瘡神(右):松尾神社内相殿
 蚕霊神碑:松尾神社境内

逗子市の地神、道祖神など

 三浦半島での地神塔の分布は、逗子、葉山、横須賀北部辺りが境界域となっていると思われます。このエリアはこれまで何度も通りかかっているのですが、今日は念のため逗子で確認してきました。
 三浦半島の道祖神と地神 (堅牢)地神塔マップ (作成中) 地神(地天)
緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09) 戸塚区(2023-01-21)


桜山道祖神:逗子市池子2丁目1-5
 社屋内に祀られているようですが、施錠されているので未確認です。隣接して設置されている石塔群のうち一基は、明治42年の建立で『道祖大神』と『猿田彦命』が連名となっているので、道祖神とも庚申塔、あるいは両方を兼ねているとも取れる碑です。


地蔵山石塔群:逗子市桜山5丁目1
 多くは、庚申塔と馬頭観音ですが、一番手前は堅牢地神塔で、安政六未(1859)四月吉日と読めます。また右側には『金光明最勝王経』とありますので、間違いなく地天信仰がこの地にあった証です。この塔は、三浦半島で最大の地神塔ではないかと思われます。


石塔群:亀岡八幡宮(逗子市逗子5丁目2)
境内に集められている石塔群の一番左が堅牢地神塔で、天保三年壬辰(1832)年二月吉日と読めます。


 路傍に青面金剛を祀って、「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿を刻んだ庚申塔がある塚を庚申塚といいます。
 昔は鳥居の外側の路傍にありましたが、昭和二十年代末期に行われた道路拡張工事でここに移されました。
 中国の道教に由来する禁忌で、庚申の夜に眠ると人身中の三尸(さんし)の虫が罪を上帝に告げるとも、命を縮めるともいわれ、仏家では帝釈天青面金剛を、神道では猿田彦を祀って一晩中起きている「庚申待」という風習があり、平安時代に伝わり江戸時代に盛行しました。
 左から二・三番目が庚申塔で、小さい方が天保三年(一八三二)建立の笠型塔で、一面六臂の青面金剛が合掌して立ち、下部中央に前向きの「聞かざる」、両側に横向きの「言わざる」と「見ざる」が彫られています。
 大きい笠型塔は寛文十一年(一六七一)の建立です。寛文年間に建てられた市内の庚申塔七基中で笠型塔はここだけ、他は舟型塔です。
 一面六臂の青面金剛像が逆蓮華座に乗っており、三猿は塔の三面に各一体ずつ彫られ、正面が「聞かざる」、右側が「見ざる」で、左面が「言わざる」です。
 鎌倉で青面金剛像が彫られた最古の庚申塔は、坂の下御霊社にある延宝元年(一六七三)なので、寛文十一年(一六七一)建立の逗子の方が、鎌倉より二年早く笠型塔を拵えていたのです。
 左端の堅牢地神塔は大地をつかさどる地天(地の神)をお祀りして天保三年(一八三二)二月の建立です。
 右端の馬頭観音塔は馬の保護神として、江戸時代に広く信仰されました。


【逗子市小坪の道祖神】(2018年撮影)
 2018年に逗子八景の小坪歸帆を確認するために立ち寄った際に、たまたま双体道祖神も確認していました。
  小坪で社を散策 part1 part2

 小坪の道祖神はいずれも双体神像を刻している5基で、そのうち佛乗院の1基は最近のものと思われますが、他の4基は海沿いの漁師町旧4地区それぞれの鎮守社にありました。農村では結界を守るための境界域に設置されることが普通である道祖神ですが、各地区が接近して配置されているため、それぞれの地区の鎮守社に設置されているのだと思われます。
 これらの地区は、1232年に和賀江港が開かれて以降、伊勢から移り住んだ漁民によって鎌倉の魚座を賑わした(石井,1993)と言われています。伊勢は、道祖神と同一視されるこのとある猿田彦命を主神として祀っている猿田彦神社の地ですから、移住の際に道祖神信仰が齎された思われます。


 その他の本日撮影の写真です。まだ、オニシバリの蕾は固いようでした。

【参考】
 ニホンスイセン Narcissus tazetta
 ウチワタケ Microporus affinis
 マルバウツギ Deutzia scabra
 オニシバリ Daphne pseudomezereum
 サルトリイバラ Smilax china
 マサキ Euonymus japonicus
 鷹取山山頂
 アオキ Aucuba japonica
 ヤブツバキ Camellia japonica
 マダケ Phyllostachys bambusoides
 馬頭観音、地蔵尊、五輪塔:池子4丁目
 地蔵尊:池子神明社(逗子市池子2丁目10)
 疱瘡神、馬頭観音、庚申塔:池子神明社(逗子市池子2丁目10)
 庚申塔:池子神明社(逗子市池子2丁目10)
 石塔群:青龍山東昌寺(池子2丁目8-33)
 河津桜(かわづざくら)Ceasus x kanzakura ‘Kawazu-zakura’
 『肉の杉山』閉店
 亀井地蔵尊:逗子5丁目4-33
 横浜市指定名木古木 No.48137 瀬戸神社のカヤ Torreya nucifera
 タチツボスミレ Viola grypoceras


          令和4年8月
         (有)杉山牛肉店
 8月末で閉店のお知らせ!!!
永らくお引き立てを賜りありがとうございました。
 日頃、当店に格別のご高配を賜り有難うございます
お陰様で75年間逗子で営業させて頂きましたが、8月一杯で閉店させていただくことになりました。突然のお知らせでご迷惑をお掛けしますこと、重々承知していますがお許しいただけますお願い申し上げます!
長い間お引き立てを頂きましてありがとうございます!
心より感謝申し上げます。


 亀井地蔵尊の由来
田越川原は大昔には死骸の埋葬地でした。中世は処刑場となり、六代御前や三浦胤義の子供達も、此所で首を斬られました。吾妻鏡の嘉禄元年九月八日の条には、北條泰時三浦義村が弁僧正の弟子達を供養のため、八万四千基の石塔を建てた旨が記されています。
 今、立っている此の場所は大墓(おおはか)といって長い間の共同墓地でした。かつて、写経石や土師器の破片等が出土しています。
 此所に在った墓石は延命寺や妙光寺ほか近くの寺に移されました。閻魔堂がありましたが、中にあった閻魔は延命寺に移され今も祀られています。亀井地蔵尊は此所に尊く葬られています。
 多くの霊を供養するために建立されました。謹んで合掌し奉ります。
  昭和五十九年四月八日奉修開眼供養
         文       内田武雄
         謹書延命寺住職 神田宣圓


【文献】
石井清司(1993)小坪の漁労集落としての歴史、p3-9、in 逗子市文化財調査報告第15集小坪の漁労具、逗子市教育委員会.
逗子教育委員会(1978)文化財散歩-ふるさと・逗子、73p.

三浦半島の道祖神と地神

(本日、雨天につき、文献整理でした)
 地神塔と(双体)道祖神の分布の関係を調べるために文献調査していたところ、神奈川県での道祖神のまとまった調査(神奈川県の道祖神調査報告書,1981)が昭和末期に行われていたことに気づきました。しかも、鈴木(2011)によれば、神奈川県は、長野県、群馬県に次いで多くの道祖神塔が残されている県であるだけでなく、道祖神石塔の半数が双体神の像容なのだそうです。これらの文献の考察などを参考に以下に備忘を記録しておきます。


(堅牢)地神塔マップ (作成中)  地神(地天)  三浦半島での分布(まとめ)
緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09)

【全国分布】
 石碑としての道祖神は、北は青森県から南は島根県まで分布するが、分布密度が高いのは、長野県、群馬県、神奈川県、静岡県、山梨県、新潟県など本州中部と鳥取県を中心とした山陰地方の東西二ヶ所である。
 地神塔の分布は道祖神より限定されるが、東日本では神奈川県に、西日本では岡山県と香川県に多く分布する。入植者によって導入された北海道でもみられる。

【形態】
 道祖神碑は、文字碑と双体神像碑に大別され、文字碑の場合は道標を兼ねていることが屡々ある。双体神像の場合には、性別不詳の二神の場合と、夫婦とみられる男女神の場合があり、男女神の場合は安曇野地域で数多くみられているため、安曇野型と呼ぶこともある。また、陰陽二石などの性器を模した道祖神石碑も知られる。近年設置された道祖神は、信仰とは関係なく、美術品あるいは観光や宣伝目的であることが多く、その場合はほぼ例外なく安曇野型となっている。鈴木(2011)によれば、神奈川県の道祖神はほぼ半数が双体神像碑となっている。
 石碑を建てることはないが、境界を示す注連縄『道切り』(小口,1985)、東北地方などでみられる稲わらや木で作られた『人形神』(伊能,1919)も結界内を守護するという性格は、石碑道祖神と同質と考えられる。また、三浦半島の西海岸では、球状コンクルージョンを子産石(こうみいし)と称して安産祈願する風習が残されており(瀬川,2022)、道祖神碑と置き換わっている可能性がある。村松(1981)によれば、三浦半島最南端に位置する三浦市でもゴロ石と呼ばれるおんべ焼に用いる丸石が多数確認されている。
 地神塔は、文字碑であることが圧倒的に多くなっており、『地神塔』『堅牢地神塔』と刻まれていることが多い。神像塔の場合は、女神の場合男神の場合があるが、男女二神の例はないようで、神像塔では文字が刻まれないことが多いため、双体道祖神とは区別できていない可能性もある。徳島県を中心とする地域では、五角柱の石碑に農耕に関係する五柱の神名を刻んだ形態があり、徳島県を中心に分布することから徳島型、また儀式に用いたという意味で醮儀型と呼ぶ。

【祭祀神】
 道祖神の神は、日本古来の『みちの神』とされる。神名は明らかにされていないが、伊弉諾が黄泉から戻った際の禊で生じた道俣神(ちまたのかみ)、国譲りの際の道案内で知られる猿田彦神を始め他の神との習合も知られているようである。朝鮮半島のチャンスン(長生)の影響があるとも言われる(諏訪,1994)。
 堅牢地神の原型は十二天の一柱である地天であるとされ、元々は女神であるが、仏教に取り込まれる過程で、男神あるいは男女二神とされるようになったと言われる。田中(2021)によれば、堅牢地神は、文殊菩薩が化して現れた仙人の教化により菩提心を得て、弁財天と堅牢地神のふたつの名を与えられた野干(狐)だという説話が残されている。徳島型の地神塔で刻まれる神名は下記の通り。
 天照大神(あまてらすおおみかみ)
 大己貴命(おおあなむちのみこと) (= 大国主)
 少彦名命(すくなひこなのみこと)
 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) (= 稲荷)
 埴安媛命(はにやすひめのみこと)
 北海道では、倉稲魂命の代わりに稲荷神と習合することのある豊受比売命(とようけびめのみこと)を当てている塔もある(石川,1990)。なお、藤沢市亀井野の地神社の祭神は埴安媛命である。

【呼称】
道祖神の他、ドウロクジン(道禄神、道陸神、道六神)、サイノカミ(賽の神、幸の神、性の神)などと多くの呼び名があり、『おくの細道』では『そゞろ神(漫ろ神)』となっている。
 堅牢地神の原型は地天(Pṛthvī)であり、地神と呼ばれることもある。ただし、出雲神話系の神である埴安媛命などとの習合も見られるようで『地の神』と理解するほうが良いのかもしれない。地神を祀る石塔としての名称は、堅牢地神塔、地神塔、地祇塔、社日塔、天社神塔などが知られている。地神のよみかたは全国的には『じしん』あるいは『ちじん』であるが、横浜市泉区周辺では『じじん』(泉区総務部,2019)と訛っていた様である。

【講】
 宗教行事集団である『講』の規模について伊東(1982)が興味深い指摘をしている。『一般に戸塚区では地神講の方が庚申講より一つの組の単位が大きかったようである。(原文通り)』地神講が五穀豊穣を祈るという結界内の村落単位であったのに対して、庚申講はより小さい単位で主宰されており、しかもこの二つは重なりがあったという指摘が戸塚区での調査結果に基づき示されている。

【行事儀式】
 関東甲信越地方では、小正月(1月15日)の火祭りを『ドウソジン』と呼ぶ地域が多く『どんど焼き』また三浦半島では『おんべ(御幣)焼き』などの名称も知られていて、いずれも道祖神と関連があると考えられている。また、桜井(1966)によれば、農作物につく害虫を駆除する行事『虫送り』も道祖神信仰に関わる。堅牢地神を奉斎する講は社日講と呼ばれることも多く、春秋の彼岸日に一番近い(つちのえ)の日に社日祭を開催する。この祭りは社日に田の神と山の神が交代するという信仰と関係するとされている。


【三浦半島域での分布】(まとめ)
 三浦半島域では、多くの庚申塔を今でも確認できるが、道祖神は少なく、地神塔は殆どみかけない。数少ない道祖神も、ごく最近(平成以降)建てられたものを除けば、すべて文字塔である。
《道祖神》
 川口(1981)は道祖神信仰の分布は諏訪信仰圏を意味するとしている。これは諏訪信仰とミシャグジ(石神)信仰との関連において全国的にみると正しいのかも知れないが、三浦半島には諏訪系の神社が少なくとも20社程度は現存しており、必ずしも当てはまらない。道祖神の本質の際たるものは『塞ノ神』すなわち境界(結界)を防御する神である。これと同等な機能をもつ『道切り』と呼ばれる習俗が横須賀市長井町荒井地区に残されている。『道切り』に類似する風習は東京湾の対岸でも知られており、昭和中期の自動車の普及に伴って交通の妨げになるという理由で急速に衰退したと考えられている。また、三浦半島西海岸では道祖神信仰とみなすこともできる子産石信仰のあったことが、道祖神碑の分布に関係した可能性がある。道祖神が三浦半島域で少ないのは、かつて盛んだった『道切り』が廃れてしまったことや道祖神の代わりとなりうる『子産石信仰』があったことに関係しているかも知れない。

 なお、三浦市南下浦町金田には3基の夫婦地蔵があり、これを外見から双体道祖神でないと断ずることは難しい。もし、これが道祖神であるならば、三浦半島最南端の双体道祖神ということになる。
  双体神像道祖神の分布に関する検証(3件)

《地神塔》
 地神塔の分布については、五角柱を特徴とする徳島型は領主による造塔推奨があったことが認められている(梅原,1987)ため別にして考察する必要がある。道祖神講、また庚申講の様な日待講は、教団化した宗教者の関与が少ないことが特徴であり、このため民間宗教と総称される。ところが、相模の地神信仰は、特定の宗教指導者の関与が大きいとされている(梅原,1987)。このことが、地神塔の分布に寄与した可能性がある。その象徴的な例が、神像を刻した塔については、かつて高座郡西俣野(現藤沢市)にあった御嶽山神禮寺で発行された表具(掛軸)の影響があった(伊東,1982;梅原,1987)と考えられており、神像地神塔が藤沢市周辺に多いことと関係する。


 文字塔も含めて三浦半島域で地神塔が少ない理由は、これまで確認できた文献にも言及はなく、未だ明らかにされていない様である。地神講は祭祀集団の規模から考えると道祖神講とは競合しても庚申講との競合があるとは思えず、もしあるとすれば『道切り』の祭祀集団と競合していた可能性があるものの、これらは今のところ憶測にすぎない。
 上述のこと等を基に、信仰集団(講)のサイズと領主や宗教指導者(神職や僧侶)の関与の度合いに注目して概念としてまとめれば、下図(市橋,未発表)のようになる。

領主等の関与度と集団サイズによる民間信仰の配置


 地神塔の分布を考える時、考慮すべき他の祭祀集団=講はいろいろありそうだが、葉山地区を中心にして石塔を確認でき、浅間神社とも関係のある富士講、半島全域で石塔ではなく石祠や社を持つことが多い稲荷講などに注目する必要があると考えられる。

 さらに、地神信仰の典型は農業神としての地の神に五穀豊穣を願う事に照らすと、漁労の割合が多くなる沿岸地域では平野部に比べて、地神信仰は伝播し難かったた可能性もある。


 これまでのところ、三浦半島エリアで確認できた地神塔は、逗子市の亀岡八幡境内地蔵山石塔群山の根石塔群、および横須賀市根岸の牛宮神社境内にある4基である。
 双体神像の道祖神は、伊勢からの移住にともなって導入されたと推測される小坪地区を除くと3基(追浜本町1丁目上山口林3丁目)を確認しているが、これら3基は過去の文献には見当たらず、摩滅状態から見ていずれも最近建てられたと思われる。
 以上のことはあくまでも石碑の分布についての考察であるが、石碑がなかったからと言って信仰が存在しなかったことにはならない。特に地神信仰の場合では、石碑を立てずに表具(掛軸)の掲示により祭祀したことも多いらしい。私の知る限りでは、現在三浦半島最南端の地神塔は横須賀市根岸2丁目の地神様であるが、この碑はかつてこの地域に地神講があったことを後世に伝えるために、昭和45(1970)年になって建てられたものである。恐らく、三浦半島で最新の地神塔でもあると思われる。
 さらに、三浦半島地域で石塔群、庚申塔群と認識していた中に馬頭観音、五輪塔などが多数あったことは記憶しており、その中に地神塔や双体道祖神 が紛れている可能性もある。いずれ機会があれば、文献調査、現地調査も含めて検討してみたい。


【文献】
鈴木英恵(2011)東西に見る道祖神の現状、年報非文字資料研究、(7)、457-478, URL:https://researchmap.jp/suzukihanae/published_papers/35840919Accessed:2023-01-04.
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神奈川区、西区、保土ケ谷区の地神塔、など

 文献を整理していて、普段よく通りかかる地域にも未確認の地神塔のあることに気づき、確認してきました。4か所5基、いずれも文字塔で、既に写真撮影していたものもありました。岩井町の御所台地蔵尊にも石塔群があったので、帰りがけに確認しましたが、ここには地神塔はありませんでした。
  (堅牢)地神塔マップ (作成中)  地神(地天)
  緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29)  瀬谷区、大和市(2023-01-02)
【主な経路】(神奈川新町駅)-白幡仲町-白楽-六角橋-栗田谷-沢渡-南軽井沢-浅間町-天王町-西久保-岩井町-永田東-(井土ヶ谷駅)


地神塔、庚申塔、地蔵尊:大喜山正覚院別院考信堂(神奈川区白幡東町1-1)


地神塔:神奈川区六角橋2丁目24


庚申塔、堅牢地神塔:西区南軽井沢62-11

この塔は道路擴張にも拘わらず西区唯一の建立当時の現地にあり保存のため建之
  昭和四十六年一月二十六日
     稲葉辰藏
     稲葉八五郎
     藤巻宗太郎
       号 宗華
      施工 飛鳥建設


 南軽井沢の石塔群については、武井富夫氏による藤橋(1982)の序文に詳しい解説がありましたので、以下に転記します。


はじめに  武井富夫
 横浜市西区浅間下の交差点から三ツ沢方面に坂をのぼりはじめて少し行くとも右手に上る階段状の小径があり、傍らに石塔が三基並んでたっています。ここをさらにのぼると、もと軽井沢一号墳のあった丘の上に出ます。ちなみに古墳のあった場所は現在の記念碑の建てられているところではなく、もっと上の現在自動車学校となっている敷地内にありました。この古墳は南関東では珍しい前方後円墳で、昭和四十年に武蔵地方史研究会によって調査されています。さらにその南方の浅間神社の中腹には、これと関連があると思われる横穴古墳群があり、この方は昭和五十六年、浅間下横穴群調査団(佐藤安平氏)によって発掘調査れました。
 さて、前記の坂の途中にあった石塔群ですが、これはもっと下にあった上り口の傍らにたっていました。一つは堅牢地神塔で、「文政七甲申年二月建之 軽井澤」、花立石に「大野善治良」と刻まれています。(本体は86cm、台石高33cm、巾62cm、奥行54cm。花立高18cm、巾18cm、奥行25cm)次は庚申塔で、青面金剛、邪鬼、三猿が刻まれ、本体には「安永八己亥二月吉日」、台石には「講中 平野左エ門、大野小兵衛、高橋五平衛、堀江久二良、大野甚右エ門、柳下太兵衛」と読まれます、(本体高89cm、巾35.5cm、台石高24cm、巾48.5cm、奥行40.5cm)他の一つは道標で上部が欠損しており、下部には「道」右方に「吉日」としか読むことができません。(総高46cm、最大巾29cm、奥行11.5cm)この場所は旧東海道から三ツ沢壇林豊顕寺に向かっている。いわゆる壇林道への分岐点の近くにあたっています。この道については豊顕寺の隠居寺である南軽井勧行寺の題目石に「是より三沢壇林江凡十餘町」と記されているので、前期の上部欠損塔に記されている「道」は「壇林道」というのが正しいのでしょう。
 この三基の立っている場所には、さらに小型の宝篋印塔の空、風輪が残されていて、これらはその型から室町時代後期のものと思われますので、この土地が袖ヶ浦に面して古くからひらけていたことがわかります。
 これらの石塔群は、近時の度重なる開発の波に呑まれて隠滅寸前となっていたのを、土地の人、稲葉氏等の尽力によってこの場所に保存されるに至ったものです。
 この石塔からはまだいろいろのことを読みとることができます。
 この地神塔にも庚申塔にも、大石という立塔者の名前が見られます。庚申塔には講を組んだ人々の名前が列挙してあります。概してこの土地の有力者でしょう。近隣の石塔を見ても同じ姓がよく見かけられます。またここだけでなく、多くの金石文の紀年を調べて見ますと、近世末期、それも享保年間以後が絶対的にといってもいいほど多くなっています。これは江戸幕府の政治体制が漸く安定し、今迄貴族、豪族にしか建てられなかった石塔が庶民にも無縁なものではなくなってきたことを示しています。こうして近世の石塔は概してその土地の人々の建立によるものが大部分ですので、時には江戸の石工などに依頼してつくったようなものもありますが、それだけにその頃その土地での人々の姿が鮮やかに見えてくるわけです。【以下、略】
  注:文政7年 = 1824年、安永8年 = 1779年


石塔群:杉山社(保土ケ谷区西久保町118)

 2基あるうち向かって左側の堅牢地神塔には、天保十三□壬寅(1842)年の刻印


 以下、その他本日撮影の写真です。


 六角橋 祐天地蔵尊 御由来
祐天地蔵尊は江戸時代中期に名僧祐天上人の名を冠して私達の先祖が厄病除けにお奉りし昔から厄除けと子育てに御利益があると信仰されています。
この六角橋の地は東海道神奈川宿へ向かう街道の拠点として位置し此の場所は村内や宝秀寺ほの入り口でした。御本尊の台座には南無阿弥陀佛名顕山祐天寺(祐求)後ろに文政二年卯年三月廿四日建立 右に目黒祐天寺百萬遍講中そして近隣の数十の村々の地名や六角橋の主だった人の氏名等が刻まれ往時の信仰の大きさを誇っています。平成六年四月不審火により御堂は焼失し多くの人々のご協力をもとに再建されました。
  平成十九年六月吉日 翠江 謹書


横浜市地域史跡
  軽井沢古墳跡
     登録年月日 平成12年11月1日
     所有者   株式会社 関東綜合学園
     区域    横浜市西区南軽井沢62蕃の1の一部
 軽井沢古墳は、帷子川北側の台地上に所存しています。昭和40年(1965)に発掘調査が行われ、全長26.5m、前方部は幅16m、高さ2.3m、後円部は径19.5m・高さ2.9mをはかる前方後円墳で、3段の墳丘を持つことが明らかになりました。
 墳丘からは、2ヶ所の埋葬施設が発見されており、後円部の中央に軟砂岩の切石積みの横穴石室と前方部の主軸に直交するかたちで硬砂岩切石を用いた竪穴式石室がありました。前者からは、耳環・水晶切子玉、後者からは、鉄刀・刀子(とうす)・ガラス小玉・須恵器提瓶(ていへい)などが発見されました。
 出土遺跡から、この古墳は7世紀前半に造られたものであると考えられ、横浜市域では最末期の前方後円墳です。さらに、それまで不明であった南関東の7世紀の前方後円墳の実態を知る上で貴重な資料を提供しました。
     平成13年3月   横浜市教育委員会


【参考】
 ヒメツルソバ Persicaria capitata
 祐天地蔵尊:神奈川区六角橋2丁目17
 軽井沢古墳跡
 横浜教会:西区南軽井沢61
 Yamanashi工房 ひまわり:西区浅間町4丁目349‐3 【ひまわりを尋ねる
 石塔群:御所台地蔵尊(保土ケ谷区岩井町)
 北向地蔵尊:保土ケ谷区岩井町406-2


【文献】
梅原達治(1987)地神信仰の地域的変異について、札幌大学教養部紀要、30、69-87、URL: https://core.ac.uk/download/pdf/230296308.pdf、Accessed: 2022-12-30.
藤橋幹之助(1982)道標とともに-金石誌-(横浜歴史双書第二巻)、135p、横浜歴史研究普及会、横浜.

堅牢地神と双体道祖神の分布(横浜市周辺)

地神(地天) 三浦半島の道祖神と地神(2023-01-14)
 緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09)
 三浦半島エリアでは、庚申塔、五輪塔、地蔵尊像などはよく見かけるが、双体道祖神(安曇野型道祖神)や地神(地天)信仰に関わる堅牢地神塔をみかけることは稀である。これは、金沢区、磯子区などの旧武蔵国の横浜市でも同様であるが、ほぼ上大岡駅の西側に当たる旧相模国地域では、堅牢地神塔、双体道祖神ともに見かけることが多くなる。これまで、その様な視点で石造群を見てこなかったこともあり、堅牢地神塔と双体道祖神の分布に類似性があるのではないかと思いあたり、改めて位置をプロットしてみた。
 (堅牢)地神塔・道祖神マップ (作成中)
 まだ作成中のマップではあるが、この二種類の石塔の分布は必ずしも一致していないことが見えてきている。道祖神は元々塞神であることから村境の路傍にあることが普通である。堅牢地神塔は、土地の五穀豊穣を願う神として、18世紀末から19世紀の建塔が殆どとされ、道標を兼ねることも少なくない。区画整理等の影響で石塔が元位置にないことはよくあることだが、元々同じ集落内にあったため、現在同じ場所にまとめられていると考えてよい。このため、堅牢地神塔と双体道祖神が一か所に残っていることがあるものと推定したが、実際には、近くにまとめられている例は見当たらなかった。これは、堅牢地神塔と庚申塔、あるいは双体道祖神と庚申塔が一か所にまとめられている例が屡々あるのと異なる点である。
 例外として旭区鶴ケ峰の堅牢地神塔の向かいに双体道祖神が見られるのだが、この道祖神は平成になってから建立されたものであった。
 これまでのところ、堅牢地神塔、双体道祖神の三浦半島エリアでの確認例は、逗子市亀岡八幡神社での堅牢地神塔、逗子市小坪に散在する双体道祖神がある。両者は同じ逗子市内とはいえ、2km以上離れた全く別の集落に位置していて、直接関連しているとは思えない。小坪は逗子市内に残る漁村のひとつであるが、この集落内に少なくとも5基の双体道祖神が確認できる。うち1基は摩滅の状態からみて新しいもので夫婦神と思われるいわゆる安曇野型であるが、その他の4基では大きさ、服装、性別など左右で判別できない2体が並んでいることが特徴である。このタイプの道祖神は、瀬谷区本郷の瀬谷山徳善寺で六地蔵の手前に三基確認できるほか、港南区、戸塚区でもみられる。なお、葉山町上山口には安曇野型の双体道祖神があるのだが、これは最近になって設置されたものである。


亀岡八幡の石塔群(一番左が堅牢地神塔):逗子市逗子5丁目2-13

子之神社の双体道祖神:逗子市小坪5丁目6

瀬谷区、大和市の地神(地天)

 この度の主たる目的は、瀬谷区と大和市の地神塔を尋ねることでした。特に、全通院勢至堂にある地神塔は、天明3年(1783)造立で横浜市最古の地天像とのことでしたので、ここを最終地にして6か所を巡るコース設定し、GoogleMapでは未掲載の2ヶ所も併せて8か所を確認できました。
 勢至堂に至る階段脇に設置された石塔群では、中央に地神の角柱文字塔を置き、向かって左に神像が配置されています。地天像は摩耗が激しくて細部は定かではありませんでしたが、梅原(1985)によれば女神像だそうで、よく見かける庚申塔の青面金剛像より、柔らかな象容でした。上和田の佐波神社にも地神の像容塔(寛政三年:1791)が1基あったのですが、なんとなく似ている印象ですので、勢至堂の像から影響を受けているのかも知れません。佐波神社の像も新しいものではなさそうですから、あるいは同じ石工による作である可能性もありそうです。
 ちなみに、メディア展開ではメジャーな地神テラリア(外部サイトへリンク)は地神の原型とは異なっているようです。
(堅牢)地神塔マップ (作成中) 逗子市 緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09) 戸塚区(2023-01-21)


地神塔(天保6未(1835)年):瀬谷区相沢3丁目16-2


地神塔:日枝社(瀬谷区本郷1丁目18-9)


地神塔:中屋敷地蔵尊(瀬谷区中屋敷1丁目33-46)


地神塔(明治15(1882)年9月吉日):大和市深見台3丁目5


地神塔三叉路:瀬谷区瀬谷6丁目10-1


地神塔(明治45(1912)年4月吉日):瀬谷区橋戸3丁目


地神塔:(上和田)佐馬神社(上和田1167-1):寛政三(1791)

 武相国境に当たるこの地域は、源良朝を祭神とするサバ神社が分布することで知られる地域で、境内に地神塔が祀られているサバ神社もあります。
 武相国境を歩く-石塔群
 武相国境を歩く-サバ神社巡り part1
 武相国境を歩く-サバ神社巡り part2


地神塔:全通院勢至堂(下瀬谷1丁目29-10):天明三(1783)


【文献】
梅原達治(1985)埼玉県児玉町内の社日塔、札幌大学教養部紀要、27、101-120、URL: https://sapporo-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=5199&file_id=18&file_no=1、Accessed: 2022-12-30.
高橋晋一(2004)地神塔と三神塔、徳島地域文化研究 (2), 1-11, Accessed: 2023-01-01.
【参考】地神≪テラリア≫、『ソードアート・オンライン』より

 以下、本日撮影のその他の写真です。


  瀬谷村役場跡(長天寺)
 長天寺は臨済宗建長寺派に属し、室町時代の応永元年(1394年)2月15日宝林薫大和尚禅師によって開山、開基は平本六郎兵衛であると伝えられています。
 明治22年(1989年)5月27日の市町村制の公布に基づいて、瀬谷村、二ツ橋村、宮沢村が合併、瀬谷村となり、初めての村役場をこの長天寺の客殿に置きました。この客殿は、大正5年(1916年)に新しい役場が建設されるまで使用され、3村が合併された際の初代村長は守屋平輔でした。
  横穴古墳跡
 明治39年(1906年)3月、長天寺の北側に隣接したところで当地の平本彌太郎が農作業中に人骨が3体・直刀及び鍔3点・金環2点・琥珀の棗玉3個・鉄轡1個を発掘しました。出土品から飛鳥時代。白鳳時代(604年~708年)頃の相当高貴な人の墳墓と推定されていましたが、のち、東京国立博物館に収蔵されました。
  平成10年3月(平成30年3月貼替)  瀬谷区役所


  川口製絲株式會社跡
 瀬谷区(旧鎌倉郡瀬谷村)は、相模原台地上にあって桑の栽培に適した土地で、かつて養蚕業が栄えていました。明治中期から昭和初期にかけて付近に、9つの製紙工場が立ち並び、製糸業が盛んでした。中でも、明治35年(1902年)に創業した「本郷館製絲場」は、周辺の製糸工場で最も長く稼働し、大正10年に川口製絲株式會社と名前を改めた後、昭和34年(1959年)頃まで製造を続け、製糸の品質は国内のトップクラスで、製品の全てをアメリカへ輸出していました。昭和6年頃の最盛期には従業員がマナーや教養を勉強する学校もありました。このように製糸工場は、地域の人たちが働き、地域の原料を使って糸を作り、企業が繁盛し、地域の活性化にも寄与していました。
 現在も、ここ川口邸には、当時の製糸工場の正門が残されています。
※敷地・建物への立ち入りは固くお断りします。
   平成28年1月     瀬谷区役所


  瀬谷銀行跡
 瀬谷村の農家では養蚕が盛んに行われており、明治20年代後半から製糸場が続々と設立されました。
 それを背景に、明治40年(1907)6月、瀬谷村の村役を務めていた小島政五郎が中心となり、瀬谷銀行が開業しました。本店を小島政五郎の自宅に置き、その後30年にわたり地域金融事業の中心となり、地域の発展に寄与しました。
 小島家は代々政五郎を名乗り、江戸中期から瀬谷村の村役を務め、明治から昭和の初期まで村行政に功績を残しました。
   平成10年3月(令和2年3月改訂)     瀬谷区役所


(慈光山善昌寺縁起)
 慈光山善昌寺は大本山鎌倉光明寺の末寺にて、遥か室町時代天文二年開山覚蓮建社本誉単冏上人の起立にかかる。
 一旦退破をへ継いで弘治年間甲斐武田氏の支族岩崎丹後が当地に土着し開基したと伝えられる。江戸時代中葉、檀那拾八軒境内及寺有地壱町七反余歩という記録が残されている。明治七年十月火災に罹り、本堂、庫裡は烏有に帰するが幸い本尊阿弥陀如来及光明寺より下賜された雨乞本尊は焼失を免れ臨機応変に支配下の上瀬谷村薬師堂を移築して仮本堂とした。下りて昭和八年に改修の槌音を聞くが、積年の雨露風雪による荒廃し如何ともしがたく、今般の造営を迎えるに至った。
 まず檀信徒総会の席上、本堂、客殿、庫裡、山門等の建築及境内の改造を行うことが議決され資金は寺有地の処分金及檀信徒の浄財を以って当てることとした。昭和五十五年四月起工。翌五十六年十一月竣工、時を移さず落慶大法要が挙行された。挙行された。その間住職、役員、檀信徒一同こぞって一意専心寺院の復興に協力し本事業の完成をみるに至った。茲に落慶を記念しその次第を碑に勒して永世に伝える。
     昭和六十年仏歓喜日
       浄土宗慈光山善昌寺


  鎌倉古道の河津桜・ミカイドウ・カルミヤ
 鎌倉幕府が1192年に開かれて以来、鎌倉に通じる多くの道路がつくられました。この鎌倉古道も相模と武蔵、さらには関東北西部とを結ぶ主要な道路でした。瀬谷区の歴史さんぽコースになっているこの古道は、徳善寺-大門第六天-日枝社-瀬谷神明社-横浜市名木古木「ケヤキ」-中屋敷地蔵尊-瀬谷銀行跡-善昌寺-北向地蔵尊-明光寺-牢場坂-若宮八幡宮が散策コースとして多くの市民に親しまれています。
 瀬谷区のまちづくり区民の会の有志は、境川とこの由緒ある古道沿いに花木を植えて、住んでいる人にも訪れる人にも、心の休まる環境をつくることをめざして「ヨコハマ市民まち普請事業」コンテストに応募しました。その入選によって、交付された助成金を基にして、この古道沿いに、河津桜・ミカイドウ・カルミヤを植樹しました。
     平成21年3月
     竹村町内会/愛護会
     中屋敷町内会/愛護会
     本郷地区自治会/愛護会
     瀬谷区まち普請事業プロジェクト


市指定重要文化財(有第四号)
深見神社社号標)
     指定年月日 昭和四十七年二月二十五日
      形状 尖頭角柱型
      高さ 一四六cm 幅三一cm 奥行二五cm
 この社号標は、寛政三(一七九一)年に建立された石碑です。深見村の領主であった旗本坂本重治が造立したと伝えられています。正面には「相模国十三座之内深見神社」と刻まれ、深見神社が延喜式内社であることがわかります。
 延喜式内社とは、延長五(九二七)年に完成した延喜式の神名帳に列記された神社のことで、相模国にし寒川神社など全部で十三座ありました。このことから深見神社は平安時代にはすでに存在していたことがわかります。
         大和市教育委員会


   深見神社:大和市深見3367


  深見神社
 「深見」という地名は「倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)」(931~937)に相模国高座郡深見郷と記されており、市内の地名が初めて文献に登場したものです。しかし、この時の深見の範囲は現在地を含めてかにり広い範囲を総称していたもののようです。
 深見神社は鹿島社の別称がありますが、言い伝えによれば、領主であった坂本氏が茨城県鹿島神宮の祭神を勧請したためといいます。市内に所在している神社の中では唯一の「延喜式」神名帳(927)に掲載された延喜式内社となっています。延喜式内社は全国で3132社あるが、この制度の目的は天皇家の安泰と国の隆盛・五穀豊穣を祈願するというものであり、当時の国の中枢である天皇家と直接結びつくものでありました。村の鎮守という一面と地方を代表するものという一面り両者を持っていたといえます。なお、境内には大和市指定重要文化財である寛政三年に建立された「深見神社社号標」と天然記念物であるハルニレがあります。
         大和市教育委員会


   御由緒
 深見神社(旧社格郷社)
   御祭神   闇龗神(くらおかみのかみ)
         武甕槌神(たけみかづちのかみ)
         建御名方神(たけみなかたのかみ)
   例祭日   九月十五日
 我国の神社総覧とでもいう記録で最も古いのは延喜五年(九二七)に奏進された「延喜式」神名帳である。これに記載されている神社を延喜式内社と呼びならわし古社であることを意味し当神社も延喜式内社で相模国に十三座ある内の一座である。
 創建年代と御祭神は「総国風土記」によれば「相模国深見社雄略天皇二十二年三月(約一千五百年前)に祭るところ闇龗神なり」と記されている。
 神社縁起によれば「武甕槌神東国鎮撫のため常陸鹿島に在られしとき船師を率いてここに進軍され伊弉諾神(いざなぎのかみ)の御子の倉稲魂神(うかのみたまのかみ)と闇龗神の二神をして深海を治めさせられた。闇龗神(雨神)は美田を拓き土人を撫して郷を開かれた」とある。即ち深見の名の起こった所以である。
 後世徳川時代になると深見は旗本坂本家の知行地となり坂本家の崇敬する鹿島神宮(武甕槌神)から分霊を受けて従来から祀られていた闇龗神は境内にある御倉稲荷神社(おくらいなりじんじゃ)に合祀された。
 以来深見神社の祭神は武甕槌神(武運長久)となった。
 平成二十四年三月に現社殿再建七十年を節目として、創建時の御祭神の闇龗神を本殿に合祀した。
明治九年 火災により社殿工作物など悉く焼失
明治四十二年 末社の諏訪神社(建御名方神)合祀
昭和十七年三月 現在の社殿再建


瀬谷山寳藏寺:瀬谷区瀬谷5丁目36-14
  (宗派)高野山真言宗 (本尊)大聖不動明王
治歴2年(1066)秀恵比丘尼が不動庵を開基されたのがはじまりであり、これより後、応永3年(1396)空元法印により古義真言宗感応院の末寺として開山されたと伝聞されているが、空元法印以前の歴代に付いては不詳である。
 慶安2年(1649)徳川幕府(3代将軍家光公)より、領地1丁2反9畝、境内6反、寺領8石3斗、の御朱印を賜る。(御朱印籠等は現存す)爾来、菊の御紋章を許される。当山本堂は当初、墓地に隣接していたが三度び開催焼失した後、現在地に移り、今日の本堂は天保15年(1844)の建造である。
 境内には天満宮(菅原道真公奉安)があり、学問の神として知られ、殊に進学時期には学生の参拝か多く見られる。
 弁財天を奉安したお堂(昭和58年創建による横浜瀬谷八福神の内)が新たに建造された。弁財天は八福神の中では唯一の女神であり、知恵財福の御利益があり、芸道技術の神として崇敬されている。
 水子地蔵尊(石仏)のご守護をうけて、亡き子を思う親の願いを託された可愛いわらべ地蔵が安置されて居り、毎年3月24日(地蔵の日)にし水子地蔵供養会が修行され宗旨等にこだわることなく多数の参詣者がある。
 就業大師像(唐金)も建立されている。弘法大師(空海)は真言宗の開祖であり、仏教の(顕教)に対して、秘密に説かれた深遠な教えを(密教)又は(秘密仏教)といい、これが真言宗であり、仏の真実の言葉、即ち(真言)を口に唱え、手に印を結び、心を寂静の境地に住まわせることによって、この生き身のままで仏になり得る、と説かれた教義を(宗名)としたものである。


猿王山西福寺:瀬谷区橋戸3丁目21-2
  真言宗 豊山派西福寺
 西福寺は天文3年(1534年)の創建と伝えられ、天和元年(1681年)に放流開山したといわれる。ご本尊は不動明王。極楽浄土があるとされる西を正面として、境内の地形が扇状に広がっていることから、西福寺と名付けられた。境内には通称「千年シイ」(樹齢800年以上)の横浜市の名木古木に指定された大霊木が現存。
  横浜市指定瀬谷八福神の布袋尊
 布袋様(ほていさま)は福耳、ほてい腹、破顔大笑の福福しい姿で、愛情と知恵のたくさんはいった布袋を持つ。生活の知恵袋、愛のつまった宝袋を誰もが皆おのおのに具えている、笑っておおらかに生きよと説く。
ご利益 開運・安産
ご真言 オン マイタレイヤ ソワカ


【注】『oṃ(オン) maitreya(マイタレイヤ) svāhā(ソワカ)』は、弥勒菩薩の真言、当山の本尊は不動明王なので、何故この真言が書かれているのかは不明です。


   左馬社(さばしゃ)と梵鐘
 その昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民俗信仰が盛んでした。(七サバ参り)
 当左馬社は、「七サバ神社」と呼ばれるうちの一つであり、祭神は佐馬頭(さまのかみ)源義知朝です。
 隣接の真言宗西福寺(さいふくじ)が、この佐馬社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願したとのことです。
 梵鐘は江戸時代の文久元年(1861年)に鋳造されましたが、太平洋戦争の際供出されたため、昭和32年(1957年)氏子の協力によって新たに現在の鐘がつくられました。
  平成10年3月  瀬谷区役所


  横浜市名木古木指定 宗川寺(そうせんじ)の夫婦銀杏(北新26番地13)
 宗川寺は、寛永2年(1625年)北山本門寺第12世日賢上人が開山し、開基は瀬谷の住人で篤い信仰の心のあった石川宗川であり、その名から宗川寺と名づけられました。
 山門脇の2本の銀杏は、横浜市名木古木の指定を受けた夫婦銀杏で、昔から多くの方が安産・育児を祈願するために参詣に訪れてています。
  中原往還と瀬谷問屋場(といやば)
 中原往還(中原街道)は、小田原北条氏が支配していた頃の道を、徳川家康が平塚(中原)に御殿を建て、そこへ通う道として整備した江戸柴口から瀬谷を経て平塚御殿に至る振動です。
 瀬谷問屋場は、江戸と平塚(中原)間5駅の中宿で、徳川家康の江戸開府により、駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を託され、江戸時代270年間にわたり、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継送の役割を果たしたところです。(これより東方80m付近がその跡だと言われています。)
   昭和54年3月(平成30年11月改訂)     瀬谷区役所


   左馬神社
一、御祭神 左馬頭義朝
一、鎮座地 大和市上和田一一六八番地
一、例祭日 九月二十四日
   由緒
宝暦十四年三月桃園天皇徳川九代将軍家重の代、名主渡辺平左衛門、小川清右衛門この地に宮を建立、左馬頭源義朝の霊を勧請し村民の精神道場となるや漸次庶民崇敬の的となり、文化三年四月三日上和田信法寺十四世住職憧与上人、氏子の賛同を得て五穀豊饒の祈願をなしたるや、其の御神徳の偉大さ武家・一般庶民に深き感銘を与う。
以来五穀豊饒はもとより家内安全の守護神として広く世に伝わり崇敬者多し。
尚境内社として天照皇大神、神武天皇、須佐之男命、三神を奉斎し国土安穏氏子崇拝者安泰(疫病・痘癒・厄除)守護を念ずる参詣者今尚多し。
    境内三社殿
  御祭神 天照皇大神(中央)
      神武天皇(向かって右側)
      須佐之男命(向かって左側)


下瀬谷文教場跡(勢至堂)と大藤
 明治22年(1889年)の市町村制の実施により瀬谷村、二ツ橋村、宮沢村が合併、一村となりました。この合併により瀬谷小学校の通学区が広くなったため、低学年児童の通学の便を考慮して、明治23年(1890年)11月に分教場をこの全通院勢至堂境内に設けました。この分教場は昭和18年(1943年)の学区改正によって廃校になるまで、50年にわたり数多くの児童が通学しました。
 また、この境内には「横浜市の名木古木」に指定されている藤の大樹があり、その花の咲く頃は誠にみごとなものです。
 全通院勢至堂は曹洞宗瀬谷山徳善寺別院として、勢至菩薩を本尊として祀っています。
 相模国深見村の中丸佐源太が、一夜霊夢に導かれ鹿島神社の旧跡から勢至菩薩の像を発掘し、全国を巡礼し喜捨を受け、徳善寺に納めました。その後、この全通院阿弥陀堂に遷座したと伝えられます。屋根の改修時に発見された棟札には江戸時代の寛政9年(1797年)に現在のお堂が建立されたと書かれていました。
 地元では、「お勢至様(おせっさま)」「勢至堂(せしどう)」とも呼ばれ親しまれています。12年に1回、午年の8月23日に開帳されます。
   平成10年3月          瀬谷区役所


【参考】
 瀬谷村役場跡(長天寺):相沢4丁目4-1
 道祖神:瀬谷区相沢3丁目9
 稲荷社:瀬谷区本郷2丁目19-1
 川口製絲株式會社跡:瀬谷区本郷1丁目9-5
 ネリネ・ウンドゥラータ(ヒメヒガンバナ) Nerine undulata
 コサギ Egretta garzetta
 中屋敷地蔵尊:瀬谷区中屋敷1丁目33-46
 瀬谷銀行跡:瀬谷区中屋敷1丁目20-14
 北向地蔵尊:瀬谷区竹村町
 慈光山善昌寺:瀬谷区竹村町1-14
 六地蔵と双体道祖神:瀬谷山徳善寺(本郷3丁目36-6)
 双体道祖神(左):瀬谷山徳善寺
 双体道祖神(中央):瀬谷山徳善寺
 双体道祖神(右):瀬谷山徳善寺
 深見神社:大和市深見3367
 深見神社神号標
 馬頭観音:瀬谷山寳藏寺
 畜霊供養塚:瀬谷山寳藏寺
 楽寿観音第五番:瀬谷山寳藏寺
 天満宮:瀬谷山寳藏寺境内
 布袋尊:猿王山西福寺(瀬谷区橋戸3丁目21-2)
 佐馬社梵鐘:瀬谷区橋戸3丁目20-1
 稲荷社:大和市上和田578
 ヒヨドリジョウゴ Solanum lyratum
 左馬神社:大和市上和田1168
 大和教会:大和市上和田1081-3
 瀬谷山徳善寺別院 全通院勢至堂:下瀬谷1丁目29-10
 地蔵堂:全通院勢至堂境内

瀬谷区、大和市の巨樹など

 横浜市の北西部は武蔵野の面影が残る地域です。今日は瀬谷区と隣接の大和市で巨樹巨木を尋ねました。深見神社のハルニレは、以前ズーラシアの帰りに立ち寄ったことがありました。
 横浜市指定名木古木マップ  かながわの名木100選


瀬谷日枝神社:瀬谷区本郷1丁目18-9

【かながわの名木100選】 昭和59年12月選定
日枝神社のケヤキ
 和名:ケヤキ(ニレ科)
 枝ぶりは「逆さほうき状」で、いかにもケヤキらしい樹形のすばらしい巨木である。横浜市の名木古木に指定されている。
 樹高 35メートル 胸高周囲 5.4メートル
 樹齢 約300年(推定)
 ケヤキは、本州から九州に分布する落葉高木で、枝を広げた姿は雄大であり、日陰木として公園、街路などに植えられる。樹高50メートル、胸高周囲15メートル、樹齢約1900年に達するのもあると言われている。


  ケヤキ(ニレ科)
 樹齢約三〇〇年 目通り周五・二〇m
 樹高四〇・〇m
 天正十九年(一五九一年)の検地帳見聞録や昔からの言い伝えによれば、今から約四百年前、小田原北条氏の陣屋が神社の東方一丁(注)のところにありました。御馬廻り役だった久米玄蕃之助は上瀬谷の城山外堀に馬屋敷を設置しましたがその小姓役松浪内蔵が、日枝神社に牛頭天皇(スサノオノミコト)を祀っていました。ところが、渡御のたびに夏の流行病や大げんかがあるので、元亀元年(一五七〇年)頃氏子が相談した末、今の拝殿と大ケヤキの間に埋めてしまったといわれています。現在でも正月の〆縄を納めたり、参拝したりする旧留が残っているとか。
  昭和五四年三月  横浜市緑政局
【注】1丁 = 1町 ≈ 109.09m
横浜市文化財天然記念物


慈光山善昌寺:瀬谷区竹村町1-14
【横浜市指定名木古木】
 イチョウ No.49585
 シダレザクラ No.201509
 タブノキ No.201001


【横浜市指定名木古木】
ケヤキ No.49583 (個人所有)


瀬谷山徳善寺:本郷3丁目36-6
【横浜市指定名木古木】
 タラヨウ No.48236

葉桜としづまる法界に多羅葉の
咲き散るひそけさと思ひみるべく 正一

 
葉桜としづまる法界に多羅葉の
咲き散るひそけさと思ひみるべく 正一

【注】能澤正一は、19990年に第39回横浜文化賞を芸術部門で受賞しているようです。


【歌碑裏面】
能澤正一 宮沢町九五六番
 相武アララギ主宰
 横浜文化賞 平成二年受賞
 平成九年三月吉日
 徳善廿五卋 正悳 建之
 協賛 仙田治男 宮沢町


深見神社:大和市深見3367

【かながわの名木100選】 昭和59年12月選定
深見神社のハルニレ
 和名:ハルニレ(ニレ科)
 幹はまっすぐに高く伸び、県内でも屈指のキルニレの巨木である。当神社の御神木で、樹種が分からなかったので「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれて親しまれてきた。大和市の天然記念物に指定されいる。
 樹高 30メートル  胸高周囲 4.0メートル
 樹齢 約400年(推定)
 ハルニレは、北海道から九州の夏緑林帯に分布する落葉高木である。樹高45メートル、胸高周囲8メートル、樹齢約600年に達するものもあると言われている。


(大和)市して天然記念物(第二号)
   ハルニレ
     指定年月日 昭和四十七年二月二十五日
     樹種    落葉高木(ニレ科)
     形状    樹高 三〇m
     胸高周囲  四m
     樹齢    約五〇〇年
 ハルニレは夏緑樹林帯(ブナ帯)の木で、北国の山地に多くみられます。県内では丹沢山地の一〇〇〇m以上の地にみられますが、深みのような低地では珍しいことです。このように珍しい木で、何というの名の木かわからなかったので、「なんじゃもんじゃ」と呼ばれるようになったと伝えられています。
 四~五月、葉に先だって褐紫色の小さな花を葉の脇に束状に七~十五個程つけます。六月には扁平な翼を持った果実が熟して落ちまする葉の縁には鋸歯(のこぎりば)状で表面は脈がへこみザラついています。
     平成九年三月 大和市教育委員会


親縁山一応院佛導寺:大和市深見3361
 ヒマラヤスギ:無冠の孤立木ですが、景観木として今後注目されそうな予感です。


猿王山西福寺:橋戸3丁目21-2
【横浜市指定名木古木】
 スダジイ No.60021


白東山宗川寺:瀬谷区北新26-13
 宗川寺の夫婦銀杏 No.48233(向かって左)、No.48234(向かって右)

  横浜市名木古木指定 宗川寺(そうせんじ)の夫婦銀杏(北新26番地13)
 宗川寺は、寛永2年(1625年)北山本門寺第12世日賢上人が開山し、開基は瀬谷の住人で篤い信仰の心のあった石川宗川であり、その名から宗川寺と名づけられました。
 山門脇の2本の銀杏は、横浜市名木古木の指定を受けた夫婦銀杏で、昔から多くの方が安産・育児を祈願するために参詣に訪れてています。
   昭和54年3月(平成30年11月改訂)     瀬谷区役所


【参考】
 ケヤキ Zelkova serrata
 シダレザクラ Cerasus spachiana
 タブノキ Machilus thunbergii
 タラヨウ Ilex latifolia
 ハルニレ Ulmus davidiana
 ヒマラヤスギ Cedrus deodara
 スダジイ Castanopsis sieboldii
 イチョウ Ginkgo biloba

瀬谷八福神を巡って

 瀬谷八福神は、7福神のメジャーメンバーに達磨大師を加えた8尊を選定して、1984年に始められた正月巡りだそうです。本日、地神塔を尋ねる序に巡ってみました。


【瀬谷八福神】七福神+達磨
 菩提達磨円覺大師:相澤山長天寺(相沢4丁目4-1)
 大黒天:蓮昌山妙光寺(上瀬谷町8-3)
 恵比寿神:慈光山善昌寺(竹村町1-14)
 毘沙門天:瀬谷山徳善寺(本郷3丁目36-6)
 弁財天:瀬谷山不動院宝蔵寺(瀬谷5の36の14)
 布袋尊:猿王山西福寺(橋戸3丁目21-2)
 福禄寿:白東山宗川寺(北新26-13)
 寿老人:瀬谷山徳善寺別院 全通院勢至堂(下瀬谷1丁目29-10)


【文献】
瀬谷区総務部地域振興課(2020)瀬谷八福神, ページID:667-568-961, URL: https://www.city.yokohama.lg.jp/seya/shokai/bunkazai/seyahatihukujin.html, Accessed:2022-12-31.

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