いつもとはルートを変えて、今日は日ノ出町から横浜イングリッシュガーデンを尋ねました。追浜駅では、ホームドアの設置工事か始まっていました。
【マップ】うらが道、かなざわ道、など
【主な経路】(日ノ出町駅)ー野毛三丁目公園-尻こすり坂-藤棚-水道橋-横浜イングリッシュガーデン-金沢横丁-いわな坂-清水ヶ丘公園-(南太田駅)
ホームドア設置工事の始まった追浜駅
日本近代水道最古の水道管 (野毛三丁目公園)
野毛山公園碑
知恵の箱 1993 望月菊磨
佐久間象山の碑(野毛山公園)
野毛のつり橋
近代水道発祥の地(野毛山貯水場跡)
野毛山貯水場跡
ロウバイ Chimonanthus praecox
セダムの一種 Sedum sp.
神中神髙希望ヶ丘髙 発祥の地碑
ノジスミレ Viola yedoensis
西戸部町塩田横枕西部公私道路修理記念之碑(西区浜松町9)
藤棚交差点
水道橋
横浜イングリッシュガーデン
ワシントンヤシ Washingtonia filifera
オオヤエクチナシ Gardinia jasminoides f. ovalifolia
冬桜、Cerasus x parvifolia ‘Fuyu-zakura’
エレガンスみゆき Cerasus x Armenica mume ‘Elegance Miyuki’
パンジー Viola × wittrockiana
パンジー Viola × wittrockiana
パンジー Viola × wittrockiana
ミツマタ Edgeworthia chrysantha
(西久保)杉山神社
(伏見)稲荷社:保土ケ谷区帷子町2丁目69
石難坂(石名坂)
庚申塔(御所台地蔵前)
御所台地蔵尊
エノキ Celtis sinensis (ゆずの木)
ソテツ Cycas revoluta
日本近代水道最古の水道管 (野毛三丁目公園)
明治20年(1882)、日本最初の近代水道がイギリス人パーマーの指導により、ここ横浜の地に誕生しました。相模川と道志川の合流点(現津久井町)に水源を求め、44km離れた野毛山貯水池に運ばれた水は、浄水され、市内に給水されました。
当時の水道管を利用して造られたこの記念碑は、パーマーを始め、多くの先人たちの偉業を偲んで建立したものです。
The oldest water pipes are used underground herem in Nogezaka. There pipes were set up bt Henry Spencer Palmer in 1887. We make this monument with a part of these pipes and we praise in this place that many pineers including Mr. Palmer who achieved this feat.
横濱開港の先覺者 佐久間象山の碑 (老松町63)
安政元年一八五四年米国の使節ペリーが来朝のおり、松代藩軍議役として横浜村にいた佐久間象山先生は、当時の新思想家でありまた熱心な開国論者であった。先生は日本か世界の先進国からとり残されることを憂え幕府の要路に対してしばしば欧米諸国
との通商交易の必要なことを献策した。またその開港場として横浜が最適地であることを強く主張し幕府の決意を促して、国際港都横浜の今日の発展の緒を作った。不幸にも先生はその後京都に遊説中攘夷派刺客の兇刃のために木屋町三條で客死した。時に元治元年一八六四年七月十一日のことであった。本年はたまたま開国百年の記念すべき年に当るのでわれわれ有志相はかりその功績たたえるためにここに顕彰の碑を建て、永く後世に伝えることとした。
昭和二九年十月一日
佐久間象山顕彰会
横浜市長 平沼亮三書
野毛のつり橋
1970年(昭和45年)6月28日、「一万人市民集会」が開催された。その時、野毛山動物園分会場で、一老人が「交通量が増えている折り動物園と遊園地は遊び場が二分されている状況で子供達には危険だ。地下道か歩道橋を設置してほしい」と訴えた。
これを本会場の横浜文化体育館で聞いた当時の飛鳥田市長は、清水、塩田両助役と相談、「さっそく実行いたしましょう」と確約、即刻工事に取りかかり、翌年3月に完成したのがこの橋である。
橋の名称は、市内の小中学生から募集し「野毛の橋」と「つり橋」を合成し「野毛のつり橋」と決定した。
(出展:横浜市野毛山動物園(1982)『野毛山動物園のあゆみ』一部改変)
橋の概要
種類:斜張橋
橋長:59m
塔柱高さ:18.2m
幅員:4m
竣工:1971年(昭和46年)
設計者:柳宗理
総工費:52000万円(当時)
斜張橋と柳宗理
橋のデザインは、プロダクトデザイナーである柳宗理やなぎそうり氏に依頼した。当時、日本の歩道橋は美観を無視したものがほとんどで、最低限の機能があり構造的に問題がなければよいとされていた。しかし、土木構造物を魅力的にデザインすることで、都市空間の質を上げようとする柳氏の考えから、斜張橋という当時では最新の構造で設計された。そして、その特徴的な造形から野毛のシンボルとして設置から現在にいたるので広く市民に愛されている。
水道みち「トロッコ」の歴史
この水道みちは、津久井郡三井村(現:相模原市緑区三井)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44kmを、1887年(明治20年)わが国最初の近代水道として創設されました。
運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。横浜市民への給水の一歩と近代消防の一歩を共に歩んだ道です。
近代水道発祥の地(野毛山貯水場跡)
明治20年(1887年)10月、日本最初の近代水道は横浜に誕生した。当時の横浜は、埋立地が多く良い水が得られないため、長い間飲み水や伝染病に苦しみ、また大火事にも悩まされていた。いつでもどこでも安全で良い水が欲しいという人々の夢は、この近代水道の完成によって実現された。
横浜の水道は、英国人H・S・パーマーの設計・監督によるものであるが、沖守固県知事をはじめ三橋信方(後に市長となる)、三田善太郎など多くの日本人の努力を忘れることはできない。
パーマーは、横浜のほかにも大阪・神戸・函館・東京などの水道計画に貢献した。さらに、横浜開港工事や横浜ドックの設計など港湾整備の面でも業績を残したほか、天文台の建言やロンドンタイムスへの寄稿など広い分野で活躍し、明治23年(1883年)54才で没し東京青山墓地に眠る。
横浜水道創設100周年を迎えるにあたり、パーマー像をこの地に建て、先人の業績を讃え、明日への発展を願いたいと思う。
昭和62年4月 横浜市長 細郷道一
藤棚の由来
横浜へ向う保土ヶ谷街道の要衝であった此の地に、明治の初め頃より道行く人の憩の酒饅頭店があった。その店先の藤棚に来る春毎に見事な純白の花房を垂れ町の飾り門の観を呈し行き交う人は勿論市電の窓越しにも観賞され、当時誰言うともなく此の辺りを藤棚というようになった。
昭和三年町名改正の際此のあたり一帯を藤棚町と命名した。惜しいことに戦災で焼失し名のみを残し今日に至った。そこでゆかりの藤を偲んで藤の棚復興実行委員会を作り、有志のご協賛を仰ぎ茲に名実伴った藤の棚が復元されたのである。
昭和五十二年四月吉日
藤の棚復興実行委員会
西区歴史街道 保土ケ谷道
○西区歴史街道 ~西区は道の交差点、すべての道は開港へ~
西区は、昭和19年4月1日に、中区から独立して誕生しました。今から250年ほど前までは、現在の西区の区域は、芝生村(しぼうむら)と戸部村(とべむら)が、東海道の景勝地である「袖ケ浦」という三角形の内海をはさんで成り立っていました。神奈川宿台町から見た風景は、たいへん美しく、「武蔵国第一の景」と言われるほどでした。
宝永4(1707)年の富士山大噴火による降灰の影響等で海が浅くなり湿地帯になっていくと、18世紀以降、埋め立てによる新田開発が進められ、「宝暦新田」「平沼新田」「岡野新田」などが造成されました。その結果、150年ほど前の「袖ケ浦」は、畑と塩田の風景に変わりました。なお、「横浜道」ができるまでは、神奈川から開港場へは須崎神社前から渡し船によっていました。
西区には「東海道(とうかいどう)」「横浜道(よこはまみち)」「保土ケ谷道(ほどがやみち)」という三つの古道が通っていました。
江戸時代の大動脈であった「東海道」は、江戸方からは袖ケ浦の海岸に沿って、神奈川宿台(元、神奈川区台町)の坂を下り、大通り(環状1号)に出て観行寺の前を通り、浅間下交差点を横切って浅間下公園の中を抜け、浅間神社へと続いていました。そして、追分、現在の松原商店街を通り、天王町、帷子町を経て保土ケ谷宿へつながっていました。
わが国は、安政6(1859)年に開港し、横浜村(現在の関内地区)に開港場が築かれました。そのとき、東海道と開港場を結ぶために作られたのが「横浜道」で、初めは「しんみち」と呼ばれていました。浅間下交差点近くの薬局横が起点で、岡野・平沼新田の埋立地と海面の境に盛土して通とし、帷子川、石崎川の河口に「新田間橋」「平沼橋」「石崎橋(現敷島橋)」を経て開港場に至っていました。
また、「保土ケ谷道」は、保土ケ谷宿と戸部村を結ぶ古道で、現在の保土ケ谷区岩間町大門通り交差点で東海道と別れ、鉄道線路をこえて安楽寺(保土ケ谷区西久保町)から左折、藤棚商店街を通り、願成寺の下の通り「暗闇(くらやみ)坂」を抜け、伊勢町商店街から「横浜道」に合流していました。
開港場をめざして全国から集まる人々や物資は、この西区内の三つの古道をひんぱんに行き交いました。それにともない、わが国に入ってきたさまざまな文化も、これらの道を通って全国に伝えられていきました。重要な役割を果たしてきた三つの古道の周辺には、さまざまな歴史資源が残っています。
2004年12月設置
西区観光協会、西区土木事務所、西区役所
袖ヶ浦から工場・鉄道・水道道へ
戸部村と保土ケ谷宿の間の奥深い入り江であった袖ヶ浦は帷子川から排出される土砂により年々浅くなり、江戸時代後期には新田として開発されやすい場所となっていました。現在の西横浜駅がある場所は、自然にできた中州を宝暦13(1763)年に埋め立て、尾張屋新田となり、この辺り一帯は昭和3(1926)年に市に編入さるまで尾張屋町と呼ばれていました。
明治5(1872)年に初代横浜駅(現、桜木町駅)まで鉄道が敷設されるとともに、塩田から陸地化し、新田間川、石崎川などが整備され、舟運や駅の開設により木材、捺染、ガス、電線などの工場が立地するようになりました。
鉄道業は、関東大震災以降、法施行に伴い大幅に発展します。当初、神中鉄道は、二俣川~厚木間を開通させ、相模川で採取された砂利などを横浜方面へ供給していました。昭和4(1929)年に路線は西横浜まで延伸し、昭和8(1933)年には横浜駅に乗り入れました。
横浜の発明家家山与七は、電力需要が盛んになるに伴い、輸入に頼らずに国産の電線を供給するという信念から、明治29(1896)年に自身の電線製造所を横浜電線製造株式会社へ改め、明治35(1902)年に現在の西平沼に製造工場を新設しました。その後、同社と古河合名会社(現在の古河機械金属(株))とま事業提携により古河電気工業(株)が発足し、尾張屋新田一帯はインフラ構築を支える工業地域となり現在(住宅展示場として活用中)に至ります。
また、本サインが設置されている跨線橋の下は、西区の水道道の入口にあたります。
【参考】
ホームドア設置工事の始まった追浜駅
日本近代水道最古の水道管 (野毛三丁目公園)
野毛山公園碑
知恵の箱 1993 望月Mochizuki菊磨Kikuma
佐久間象山の碑(野毛山公園)
野毛のつり橋
近代水道発祥の地碑
近代水道発祥の地(野毛山貯水場跡)
野毛山貯水場跡
ロウバイ Chimonanthus praecox
尻こすり坂(水道道)
セダムの一種 Sedum sp.
神中神髙希望ヶ丘髙 発祥の地碑
藤棚交差点
西戸部町塩田横枕西部公私道路修理記念之碑(西区浜松町9)
ノジスミレ Viola yedoensis
水道橋
横浜イングリッシュガーデン
ワシントンヤシ Washingtonia filifera
エレガンスみゆき Cerasus x Armenica mume ‘Elegance Miyuki’
パンジー Viola × wittrockiana
オオヤエクチナシ Gardinia jasminoides f. ovalifolia
冬桜ふゆざくら、Cerasus x parvifolia ‘Fuyu-zakura’
ミツマタ Edgeworthia chrysantha
(西久保)杉山神社
(伏見)稲荷社:保土ケ谷区帷子町2丁目69
金沢横丁道標四基
石難坂(石名坂)
庚申塔(御所台地蔵前)
御所台地蔵尊
御所台の井戸
北向地蔵尊
エノキ Celtis sinensis (ゆずの木)
ソテツ Cycas revoluta