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逗子市の地神、道祖神など

 三浦半島での地神塔の分布は、逗子、葉山、横須賀北部辺りが境界域となっていると思われます。このエリアはこれまで何度も通りかかっているのですが、今日は念のため逗子で確認してきました。
 三浦半島の道祖神と地神 (堅牢)地神塔マップ (作成中) 地神(地天)
緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09) 戸塚区(2023-01-21)


桜山道祖神:逗子市池子2丁目1-5
 社屋内に祀られているようですが、施錠されているので未確認です。隣接して設置されている石塔群のうち一基は、明治42年の建立で『道祖大神』と『猿田彦命』が連名となっているので、道祖神とも庚申塔、あるいは両方を兼ねているとも取れる碑です。


地蔵山石塔群:逗子市桜山5丁目1
 多くは、庚申塔と馬頭観音ですが、一番手前は堅牢地神塔で、安政六未(1859)四月吉日と読めます。また右側には『金光明最勝王経』とありますので、間違いなく地天信仰がこの地にあった証です。この塔は、三浦半島で最大の地神塔ではないかと思われます。


石塔群:亀岡八幡宮(逗子市逗子5丁目2)
境内に集められている石塔群の一番左が堅牢地神塔で、天保三年壬辰(1832)年二月吉日と読めます。


 路傍に青面金剛を祀って、「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿を刻んだ庚申塔がある塚を庚申塚といいます。
 昔は鳥居の外側の路傍にありましたが、昭和二十年代末期に行われた道路拡張工事でここに移されました。
 中国の道教に由来する禁忌で、庚申の夜に眠ると人身中の三尸(さんし)の虫が罪を上帝に告げるとも、命を縮めるともいわれ、仏家では帝釈天青面金剛を、神道では猿田彦を祀って一晩中起きている「庚申待」という風習があり、平安時代に伝わり江戸時代に盛行しました。
 左から二・三番目が庚申塔で、小さい方が天保三年(一八三二)建立の笠型塔で、一面六臂の青面金剛が合掌して立ち、下部中央に前向きの「聞かざる」、両側に横向きの「言わざる」と「見ざる」が彫られています。
 大きい笠型塔は寛文十一年(一六七一)の建立です。寛文年間に建てられた市内の庚申塔七基中で笠型塔はここだけ、他は舟型塔です。
 一面六臂の青面金剛像が逆蓮華座に乗っており、三猿は塔の三面に各一体ずつ彫られ、正面が「聞かざる」、右側が「見ざる」で、左面が「言わざる」です。
 鎌倉で青面金剛像が彫られた最古の庚申塔は、坂の下御霊社にある延宝元年(一六七三)なので、寛文十一年(一六七一)建立の逗子の方が、鎌倉より二年早く笠型塔を拵えていたのです。
 左端の堅牢地神塔は大地をつかさどる地天(地の神)をお祀りして天保三年(一八三二)二月の建立です。
 右端の馬頭観音塔は馬の保護神として、江戸時代に広く信仰されました。


【逗子市小坪の道祖神】(2018年撮影)
 2018年に逗子八景の小坪歸帆を確認するために立ち寄った際に、たまたま双体道祖神も確認していました。
  小坪で社を散策 part1 part2

 小坪の道祖神はいずれも双体神像を刻している5基で、そのうち佛乗院の1基は最近のものと思われますが、他の4基は海沿いの漁師町旧4地区それぞれの鎮守社にありました。農村では結界を守るための境界域に設置されることが普通である道祖神ですが、各地区が接近して配置されているため、それぞれの地区の鎮守社に設置されているのだと思われます。
 これらの地区は、1232年に和賀江港が開かれて以降、伊勢から移り住んだ漁民によって鎌倉の魚座を賑わした(石井,1993)と言われています。伊勢は、道祖神と同一視されるこのとある猿田彦命を主神として祀っている猿田彦神社の地ですから、移住の際に道祖神信仰が齎された思われます。


 その他の本日撮影の写真です。まだ、オニシバリの蕾は固いようでした。

【参考】
 ニホンスイセン Narcissus tazetta
 ウチワタケ Microporus affinis
 マルバウツギ Deutzia scabra
 オニシバリ Daphne pseudomezereum
 サルトリイバラ Smilax china
 マサキ Euonymus japonicus
 鷹取山山頂
 アオキ Aucuba japonica
 ヤブツバキ Camellia japonica
 マダケ Phyllostachys bambusoides
 馬頭観音、地蔵尊、五輪塔:池子4丁目
 地蔵尊:池子神明社(逗子市池子2丁目10)
 疱瘡神、馬頭観音、庚申塔:池子神明社(逗子市池子2丁目10)
 庚申塔:池子神明社(逗子市池子2丁目10)
 石塔群:青龍山東昌寺(池子2丁目8-33)
 河津桜(かわづざくら)Ceasus x kanzakura ‘Kawazu-zakura’
 『肉の杉山』閉店
 亀井地蔵尊:逗子5丁目4-33
 横浜市指定名木古木 No.48137 瀬戸神社のカヤ Torreya nucifera
 タチツボスミレ Viola grypoceras


          令和4年8月
         (有)杉山牛肉店
 8月末で閉店のお知らせ!!!
永らくお引き立てを賜りありがとうございました。
 日頃、当店に格別のご高配を賜り有難うございます
お陰様で75年間逗子で営業させて頂きましたが、8月一杯で閉店させていただくことになりました。突然のお知らせでご迷惑をお掛けしますこと、重々承知していますがお許しいただけますお願い申し上げます!
長い間お引き立てを頂きましてありがとうございます!
心より感謝申し上げます。


 亀井地蔵尊の由来
田越川原は大昔には死骸の埋葬地でした。中世は処刑場となり、六代御前や三浦胤義の子供達も、此所で首を斬られました。吾妻鏡の嘉禄元年九月八日の条には、北條泰時三浦義村が弁僧正の弟子達を供養のため、八万四千基の石塔を建てた旨が記されています。
 今、立っている此の場所は大墓(おおはか)といって長い間の共同墓地でした。かつて、写経石や土師器の破片等が出土しています。
 此所に在った墓石は延命寺や妙光寺ほか近くの寺に移されました。閻魔堂がありましたが、中にあった閻魔は延命寺に移され今も祀られています。亀井地蔵尊は此所に尊く葬られています。
 多くの霊を供養するために建立されました。謹んで合掌し奉ります。
  昭和五十九年四月八日奉修開眼供養
         文       内田武雄
         謹書延命寺住職 神田宣圓


【文献】
石井清司(1993)小坪の漁労集落としての歴史、p3-9、in 逗子市文化財調査報告第15集小坪の漁労具、逗子市教育委員会.
逗子教育委員会(1978)文化財散歩-ふるさと・逗子、73p.

瀬谷区、大和市の地神(地天)

 この度の主たる目的は、瀬谷区と大和市の地神塔を尋ねることでした。特に、全通院勢至堂にある地神塔は、天明3年(1783)造立で横浜市最古の地天像とのことでしたので、ここを最終地にして6か所を巡るコース設定し、GoogleMapでは未掲載の2ヶ所も併せて8か所を確認できました。
 勢至堂に至る階段脇に設置された石塔群では、中央に地神の角柱文字塔を置き、向かって左に神像が配置されています。地天像は摩耗が激しくて細部は定かではありませんでしたが、梅原(1985)によれば女神像だそうで、よく見かける庚申塔の青面金剛像より、柔らかな象容でした。上和田の佐波神社にも地神の像容塔(寛政三年:1791)が1基あったのですが、なんとなく似ている印象ですので、勢至堂の像から影響を受けているのかも知れません。佐波神社の像も新しいものではなさそうですから、あるいは同じ石工による作である可能性もありそうです。
 ちなみに、メディア展開ではメジャーな地神テラリア(外部サイトへリンク)は地神の原型とは異なっているようです。
(堅牢)地神塔マップ (作成中) 逗子市 緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09) 戸塚区(2023-01-21)


地神塔(天保6未(1835)年):瀬谷区相沢3丁目16-2


地神塔:日枝社(瀬谷区本郷1丁目18-9)


地神塔:中屋敷地蔵尊(瀬谷区中屋敷1丁目33-46)


地神塔(明治15(1882)年9月吉日):大和市深見台3丁目5


地神塔三叉路:瀬谷区瀬谷6丁目10-1


地神塔(明治45(1912)年4月吉日):瀬谷区橋戸3丁目


地神塔:(上和田)佐馬神社(上和田1167-1):寛政三(1791)

 武相国境に当たるこの地域は、源良朝を祭神とするサバ神社が分布することで知られる地域で、境内に地神塔が祀られているサバ神社もあります。
 武相国境を歩く-石塔群
 武相国境を歩く-サバ神社巡り part1
 武相国境を歩く-サバ神社巡り part2


地神塔:全通院勢至堂(下瀬谷1丁目29-10):天明三(1783)


【文献】
梅原達治(1985)埼玉県児玉町内の社日塔、札幌大学教養部紀要、27、101-120、URL: https://sapporo-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=5199&file_id=18&file_no=1、Accessed: 2022-12-30.
高橋晋一(2004)地神塔と三神塔、徳島地域文化研究 (2), 1-11, Accessed: 2023-01-01.
【参考】地神≪テラリア≫、『ソードアート・オンライン』より

 以下、本日撮影のその他の写真です。


  瀬谷村役場跡(長天寺)
 長天寺は臨済宗建長寺派に属し、室町時代の応永元年(1394年)2月15日宝林薫大和尚禅師によって開山、開基は平本六郎兵衛であると伝えられています。
 明治22年(1989年)5月27日の市町村制の公布に基づいて、瀬谷村、二ツ橋村、宮沢村が合併、瀬谷村となり、初めての村役場をこの長天寺の客殿に置きました。この客殿は、大正5年(1916年)に新しい役場が建設されるまで使用され、3村が合併された際の初代村長は守屋平輔でした。
  横穴古墳跡
 明治39年(1906年)3月、長天寺の北側に隣接したところで当地の平本彌太郎が農作業中に人骨が3体・直刀及び鍔3点・金環2点・琥珀の棗玉3個・鉄轡1個を発掘しました。出土品から飛鳥時代。白鳳時代(604年~708年)頃の相当高貴な人の墳墓と推定されていましたが、のち、東京国立博物館に収蔵されました。
  平成10年3月(平成30年3月貼替)  瀬谷区役所


  川口製絲株式會社跡
 瀬谷区(旧鎌倉郡瀬谷村)は、相模原台地上にあって桑の栽培に適した土地で、かつて養蚕業が栄えていました。明治中期から昭和初期にかけて付近に、9つの製紙工場が立ち並び、製糸業が盛んでした。中でも、明治35年(1902年)に創業した「本郷館製絲場」は、周辺の製糸工場で最も長く稼働し、大正10年に川口製絲株式會社と名前を改めた後、昭和34年(1959年)頃まで製造を続け、製糸の品質は国内のトップクラスで、製品の全てをアメリカへ輸出していました。昭和6年頃の最盛期には従業員がマナーや教養を勉強する学校もありました。このように製糸工場は、地域の人たちが働き、地域の原料を使って糸を作り、企業が繁盛し、地域の活性化にも寄与していました。
 現在も、ここ川口邸には、当時の製糸工場の正門が残されています。
※敷地・建物への立ち入りは固くお断りします。
   平成28年1月     瀬谷区役所


  瀬谷銀行跡
 瀬谷村の農家では養蚕が盛んに行われており、明治20年代後半から製糸場が続々と設立されました。
 それを背景に、明治40年(1907)6月、瀬谷村の村役を務めていた小島政五郎が中心となり、瀬谷銀行が開業しました。本店を小島政五郎の自宅に置き、その後30年にわたり地域金融事業の中心となり、地域の発展に寄与しました。
 小島家は代々政五郎を名乗り、江戸中期から瀬谷村の村役を務め、明治から昭和の初期まで村行政に功績を残しました。
   平成10年3月(令和2年3月改訂)     瀬谷区役所


(慈光山善昌寺縁起)
 慈光山善昌寺は大本山鎌倉光明寺の末寺にて、遥か室町時代天文二年開山覚蓮建社本誉単冏上人の起立にかかる。
 一旦退破をへ継いで弘治年間甲斐武田氏の支族岩崎丹後が当地に土着し開基したと伝えられる。江戸時代中葉、檀那拾八軒境内及寺有地壱町七反余歩という記録が残されている。明治七年十月火災に罹り、本堂、庫裡は烏有に帰するが幸い本尊阿弥陀如来及光明寺より下賜された雨乞本尊は焼失を免れ臨機応変に支配下の上瀬谷村薬師堂を移築して仮本堂とした。下りて昭和八年に改修の槌音を聞くが、積年の雨露風雪による荒廃し如何ともしがたく、今般の造営を迎えるに至った。
 まず檀信徒総会の席上、本堂、客殿、庫裡、山門等の建築及境内の改造を行うことが議決され資金は寺有地の処分金及檀信徒の浄財を以って当てることとした。昭和五十五年四月起工。翌五十六年十一月竣工、時を移さず落慶大法要が挙行された。挙行された。その間住職、役員、檀信徒一同こぞって一意専心寺院の復興に協力し本事業の完成をみるに至った。茲に落慶を記念しその次第を碑に勒して永世に伝える。
     昭和六十年仏歓喜日
       浄土宗慈光山善昌寺


  鎌倉古道の河津桜・ミカイドウ・カルミヤ
 鎌倉幕府が1192年に開かれて以来、鎌倉に通じる多くの道路がつくられました。この鎌倉古道も相模と武蔵、さらには関東北西部とを結ぶ主要な道路でした。瀬谷区の歴史さんぽコースになっているこの古道は、徳善寺-大門第六天-日枝社-瀬谷神明社-横浜市名木古木「ケヤキ」-中屋敷地蔵尊-瀬谷銀行跡-善昌寺-北向地蔵尊-明光寺-牢場坂-若宮八幡宮が散策コースとして多くの市民に親しまれています。
 瀬谷区のまちづくり区民の会の有志は、境川とこの由緒ある古道沿いに花木を植えて、住んでいる人にも訪れる人にも、心の休まる環境をつくることをめざして「ヨコハマ市民まち普請事業」コンテストに応募しました。その入選によって、交付された助成金を基にして、この古道沿いに、河津桜・ミカイドウ・カルミヤを植樹しました。
     平成21年3月
     竹村町内会/愛護会
     中屋敷町内会/愛護会
     本郷地区自治会/愛護会
     瀬谷区まち普請事業プロジェクト


市指定重要文化財(有第四号)
深見神社社号標)
     指定年月日 昭和四十七年二月二十五日
      形状 尖頭角柱型
      高さ 一四六cm 幅三一cm 奥行二五cm
 この社号標は、寛政三(一七九一)年に建立された石碑です。深見村の領主であった旗本坂本重治が造立したと伝えられています。正面には「相模国十三座之内深見神社」と刻まれ、深見神社が延喜式内社であることがわかります。
 延喜式内社とは、延長五(九二七)年に完成した延喜式の神名帳に列記された神社のことで、相模国にし寒川神社など全部で十三座ありました。このことから深見神社は平安時代にはすでに存在していたことがわかります。
         大和市教育委員会


   深見神社:大和市深見3367


  深見神社
 「深見」という地名は「倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)」(931~937)に相模国高座郡深見郷と記されており、市内の地名が初めて文献に登場したものです。しかし、この時の深見の範囲は現在地を含めてかにり広い範囲を総称していたもののようです。
 深見神社は鹿島社の別称がありますが、言い伝えによれば、領主であった坂本氏が茨城県鹿島神宮の祭神を勧請したためといいます。市内に所在している神社の中では唯一の「延喜式」神名帳(927)に掲載された延喜式内社となっています。延喜式内社は全国で3132社あるが、この制度の目的は天皇家の安泰と国の隆盛・五穀豊穣を祈願するというものであり、当時の国の中枢である天皇家と直接結びつくものでありました。村の鎮守という一面と地方を代表するものという一面り両者を持っていたといえます。なお、境内には大和市指定重要文化財である寛政三年に建立された「深見神社社号標」と天然記念物であるハルニレがあります。
         大和市教育委員会


   御由緒
 深見神社(旧社格郷社)
   御祭神   闇龗神(くらおかみのかみ)
         武甕槌神(たけみかづちのかみ)
         建御名方神(たけみなかたのかみ)
   例祭日   九月十五日
 我国の神社総覧とでもいう記録で最も古いのは延喜五年(九二七)に奏進された「延喜式」神名帳である。これに記載されている神社を延喜式内社と呼びならわし古社であることを意味し当神社も延喜式内社で相模国に十三座ある内の一座である。
 創建年代と御祭神は「総国風土記」によれば「相模国深見社雄略天皇二十二年三月(約一千五百年前)に祭るところ闇龗神なり」と記されている。
 神社縁起によれば「武甕槌神東国鎮撫のため常陸鹿島に在られしとき船師を率いてここに進軍され伊弉諾神(いざなぎのかみ)の御子の倉稲魂神(うかのみたまのかみ)と闇龗神の二神をして深海を治めさせられた。闇龗神(雨神)は美田を拓き土人を撫して郷を開かれた」とある。即ち深見の名の起こった所以である。
 後世徳川時代になると深見は旗本坂本家の知行地となり坂本家の崇敬する鹿島神宮(武甕槌神)から分霊を受けて従来から祀られていた闇龗神は境内にある御倉稲荷神社(おくらいなりじんじゃ)に合祀された。
 以来深見神社の祭神は武甕槌神(武運長久)となった。
 平成二十四年三月に現社殿再建七十年を節目として、創建時の御祭神の闇龗神を本殿に合祀した。
明治九年 火災により社殿工作物など悉く焼失
明治四十二年 末社の諏訪神社(建御名方神)合祀
昭和十七年三月 現在の社殿再建


瀬谷山寳藏寺:瀬谷区瀬谷5丁目36-14
  (宗派)高野山真言宗 (本尊)大聖不動明王
治歴2年(1066)秀恵比丘尼が不動庵を開基されたのがはじまりであり、これより後、応永3年(1396)空元法印により古義真言宗感応院の末寺として開山されたと伝聞されているが、空元法印以前の歴代に付いては不詳である。
 慶安2年(1649)徳川幕府(3代将軍家光公)より、領地1丁2反9畝、境内6反、寺領8石3斗、の御朱印を賜る。(御朱印籠等は現存す)爾来、菊の御紋章を許される。当山本堂は当初、墓地に隣接していたが三度び開催焼失した後、現在地に移り、今日の本堂は天保15年(1844)の建造である。
 境内には天満宮(菅原道真公奉安)があり、学問の神として知られ、殊に進学時期には学生の参拝か多く見られる。
 弁財天を奉安したお堂(昭和58年創建による横浜瀬谷八福神の内)が新たに建造された。弁財天は八福神の中では唯一の女神であり、知恵財福の御利益があり、芸道技術の神として崇敬されている。
 水子地蔵尊(石仏)のご守護をうけて、亡き子を思う親の願いを託された可愛いわらべ地蔵が安置されて居り、毎年3月24日(地蔵の日)にし水子地蔵供養会が修行され宗旨等にこだわることなく多数の参詣者がある。
 就業大師像(唐金)も建立されている。弘法大師(空海)は真言宗の開祖であり、仏教の(顕教)に対して、秘密に説かれた深遠な教えを(密教)又は(秘密仏教)といい、これが真言宗であり、仏の真実の言葉、即ち(真言)を口に唱え、手に印を結び、心を寂静の境地に住まわせることによって、この生き身のままで仏になり得る、と説かれた教義を(宗名)としたものである。


猿王山西福寺:瀬谷区橋戸3丁目21-2
  真言宗 豊山派西福寺
 西福寺は天文3年(1534年)の創建と伝えられ、天和元年(1681年)に放流開山したといわれる。ご本尊は不動明王。極楽浄土があるとされる西を正面として、境内の地形が扇状に広がっていることから、西福寺と名付けられた。境内には通称「千年シイ」(樹齢800年以上)の横浜市の名木古木に指定された大霊木が現存。
  横浜市指定瀬谷八福神の布袋尊
 布袋様(ほていさま)は福耳、ほてい腹、破顔大笑の福福しい姿で、愛情と知恵のたくさんはいった布袋を持つ。生活の知恵袋、愛のつまった宝袋を誰もが皆おのおのに具えている、笑っておおらかに生きよと説く。
ご利益 開運・安産
ご真言 オン マイタレイヤ ソワカ


【注】『oṃ(オン) maitreya(マイタレイヤ) svāhā(ソワカ)』は、弥勒菩薩の真言、当山の本尊は不動明王なので、何故この真言が書かれているのかは不明です。


   左馬社(さばしゃ)と梵鐘
 その昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民俗信仰が盛んでした。(七サバ参り)
 当左馬社は、「七サバ神社」と呼ばれるうちの一つであり、祭神は佐馬頭(さまのかみ)源義知朝です。
 隣接の真言宗西福寺(さいふくじ)が、この佐馬社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願したとのことです。
 梵鐘は江戸時代の文久元年(1861年)に鋳造されましたが、太平洋戦争の際供出されたため、昭和32年(1957年)氏子の協力によって新たに現在の鐘がつくられました。
  平成10年3月  瀬谷区役所


  横浜市名木古木指定 宗川寺(そうせんじ)の夫婦銀杏(北新26番地13)
 宗川寺は、寛永2年(1625年)北山本門寺第12世日賢上人が開山し、開基は瀬谷の住人で篤い信仰の心のあった石川宗川であり、その名から宗川寺と名づけられました。
 山門脇の2本の銀杏は、横浜市名木古木の指定を受けた夫婦銀杏で、昔から多くの方が安産・育児を祈願するために参詣に訪れてています。
  中原往還と瀬谷問屋場(といやば)
 中原往還(中原街道)は、小田原北条氏が支配していた頃の道を、徳川家康が平塚(中原)に御殿を建て、そこへ通う道として整備した江戸柴口から瀬谷を経て平塚御殿に至る振動です。
 瀬谷問屋場は、江戸と平塚(中原)間5駅の中宿で、徳川家康の江戸開府により、駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を託され、江戸時代270年間にわたり、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継送の役割を果たしたところです。(これより東方80m付近がその跡だと言われています。)
   昭和54年3月(平成30年11月改訂)     瀬谷区役所


   左馬神社
一、御祭神 左馬頭義朝
一、鎮座地 大和市上和田一一六八番地
一、例祭日 九月二十四日
   由緒
宝暦十四年三月桃園天皇徳川九代将軍家重の代、名主渡辺平左衛門、小川清右衛門この地に宮を建立、左馬頭源義朝の霊を勧請し村民の精神道場となるや漸次庶民崇敬の的となり、文化三年四月三日上和田信法寺十四世住職憧与上人、氏子の賛同を得て五穀豊饒の祈願をなしたるや、其の御神徳の偉大さ武家・一般庶民に深き感銘を与う。
以来五穀豊饒はもとより家内安全の守護神として広く世に伝わり崇敬者多し。
尚境内社として天照皇大神、神武天皇、須佐之男命、三神を奉斎し国土安穏氏子崇拝者安泰(疫病・痘癒・厄除)守護を念ずる参詣者今尚多し。
    境内三社殿
  御祭神 天照皇大神(中央)
      神武天皇(向かって右側)
      須佐之男命(向かって左側)


下瀬谷文教場跡(勢至堂)と大藤
 明治22年(1889年)の市町村制の実施により瀬谷村、二ツ橋村、宮沢村が合併、一村となりました。この合併により瀬谷小学校の通学区が広くなったため、低学年児童の通学の便を考慮して、明治23年(1890年)11月に分教場をこの全通院勢至堂境内に設けました。この分教場は昭和18年(1943年)の学区改正によって廃校になるまで、50年にわたり数多くの児童が通学しました。
 また、この境内には「横浜市の名木古木」に指定されている藤の大樹があり、その花の咲く頃は誠にみごとなものです。
 全通院勢至堂は曹洞宗瀬谷山徳善寺別院として、勢至菩薩を本尊として祀っています。
 相模国深見村の中丸佐源太が、一夜霊夢に導かれ鹿島神社の旧跡から勢至菩薩の像を発掘し、全国を巡礼し喜捨を受け、徳善寺に納めました。その後、この全通院阿弥陀堂に遷座したと伝えられます。屋根の改修時に発見された棟札には江戸時代の寛政9年(1797年)に現在のお堂が建立されたと書かれていました。
 地元では、「お勢至様(おせっさま)」「勢至堂(せしどう)」とも呼ばれ親しまれています。12年に1回、午年の8月23日に開帳されます。
   平成10年3月          瀬谷区役所


【参考】
 瀬谷村役場跡(長天寺):相沢4丁目4-1
 道祖神:瀬谷区相沢3丁目9
 稲荷社:瀬谷区本郷2丁目19-1
 川口製絲株式會社跡:瀬谷区本郷1丁目9-5
 ネリネ・ウンドゥラータ(ヒメヒガンバナ) Nerine undulata
 コサギ Egretta garzetta
 中屋敷地蔵尊:瀬谷区中屋敷1丁目33-46
 瀬谷銀行跡:瀬谷区中屋敷1丁目20-14
 北向地蔵尊:瀬谷区竹村町
 慈光山善昌寺:瀬谷区竹村町1-14
 六地蔵と双体道祖神:瀬谷山徳善寺(本郷3丁目36-6)
 双体道祖神(左):瀬谷山徳善寺
 双体道祖神(中央):瀬谷山徳善寺
 双体道祖神(右):瀬谷山徳善寺
 深見神社:大和市深見3367
 深見神社神号標
 馬頭観音:瀬谷山寳藏寺
 畜霊供養塚:瀬谷山寳藏寺
 楽寿観音第五番:瀬谷山寳藏寺
 天満宮:瀬谷山寳藏寺境内
 布袋尊:猿王山西福寺(瀬谷区橋戸3丁目21-2)
 佐馬社梵鐘:瀬谷区橋戸3丁目20-1
 稲荷社:大和市上和田578
 ヒヨドリジョウゴ Solanum lyratum
 左馬神社:大和市上和田1168
 大和教会:大和市上和田1081-3
 瀬谷山徳善寺別院 全通院勢至堂:下瀬谷1丁目29-10
 地蔵堂:全通院勢至堂境内

瀬谷区、大和市の巨樹など

 横浜市の北西部は武蔵野の面影が残る地域です。今日は瀬谷区と隣接の大和市で巨樹巨木を尋ねました。深見神社のハルニレは、以前ズーラシアの帰りに立ち寄ったことがありました。
 横浜市指定名木古木マップ  かながわの名木100選


瀬谷日枝神社:瀬谷区本郷1丁目18-9

【かながわの名木100選】 昭和59年12月選定
日枝神社のケヤキ
 和名:ケヤキ(ニレ科)
 枝ぶりは「逆さほうき状」で、いかにもケヤキらしい樹形のすばらしい巨木である。横浜市の名木古木に指定されている。
 樹高 35メートル 胸高周囲 5.4メートル
 樹齢 約300年(推定)
 ケヤキは、本州から九州に分布する落葉高木で、枝を広げた姿は雄大であり、日陰木として公園、街路などに植えられる。樹高50メートル、胸高周囲15メートル、樹齢約1900年に達するのもあると言われている。


  ケヤキ(ニレ科)
 樹齢約三〇〇年 目通り周五・二〇m
 樹高四〇・〇m
 天正十九年(一五九一年)の検地帳見聞録や昔からの言い伝えによれば、今から約四百年前、小田原北条氏の陣屋が神社の東方一丁(注)のところにありました。御馬廻り役だった久米玄蕃之助は上瀬谷の城山外堀に馬屋敷を設置しましたがその小姓役松浪内蔵が、日枝神社に牛頭天皇(スサノオノミコト)を祀っていました。ところが、渡御のたびに夏の流行病や大げんかがあるので、元亀元年(一五七〇年)頃氏子が相談した末、今の拝殿と大ケヤキの間に埋めてしまったといわれています。現在でも正月の〆縄を納めたり、参拝したりする旧留が残っているとか。
  昭和五四年三月  横浜市緑政局
【注】1丁 = 1町 ≈ 109.09m
横浜市文化財天然記念物


慈光山善昌寺:瀬谷区竹村町1-14
【横浜市指定名木古木】
 イチョウ No.49585
 シダレザクラ No.201509
 タブノキ No.201001


【横浜市指定名木古木】
ケヤキ No.49583 (個人所有)


瀬谷山徳善寺:本郷3丁目36-6
【横浜市指定名木古木】
 タラヨウ No.48236

葉桜としづまる法界に多羅葉の
咲き散るひそけさと思ひみるべく 正一

 
葉桜としづまる法界に多羅葉の
咲き散るひそけさと思ひみるべく 正一

【注】能澤正一は、19990年に第39回横浜文化賞を芸術部門で受賞しているようです。


【歌碑裏面】
能澤正一 宮沢町九五六番
 相武アララギ主宰
 横浜文化賞 平成二年受賞
 平成九年三月吉日
 徳善廿五卋 正悳 建之
 協賛 仙田治男 宮沢町


深見神社:大和市深見3367

【かながわの名木100選】 昭和59年12月選定
深見神社のハルニレ
 和名:ハルニレ(ニレ科)
 幹はまっすぐに高く伸び、県内でも屈指のキルニレの巨木である。当神社の御神木で、樹種が分からなかったので「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれて親しまれてきた。大和市の天然記念物に指定されいる。
 樹高 30メートル  胸高周囲 4.0メートル
 樹齢 約400年(推定)
 ハルニレは、北海道から九州の夏緑林帯に分布する落葉高木である。樹高45メートル、胸高周囲8メートル、樹齢約600年に達するものもあると言われている。


(大和)市して天然記念物(第二号)
   ハルニレ
     指定年月日 昭和四十七年二月二十五日
     樹種    落葉高木(ニレ科)
     形状    樹高 三〇m
     胸高周囲  四m
     樹齢    約五〇〇年
 ハルニレは夏緑樹林帯(ブナ帯)の木で、北国の山地に多くみられます。県内では丹沢山地の一〇〇〇m以上の地にみられますが、深みのような低地では珍しいことです。このように珍しい木で、何というの名の木かわからなかったので、「なんじゃもんじゃ」と呼ばれるようになったと伝えられています。
 四~五月、葉に先だって褐紫色の小さな花を葉の脇に束状に七~十五個程つけます。六月には扁平な翼を持った果実が熟して落ちまする葉の縁には鋸歯(のこぎりば)状で表面は脈がへこみザラついています。
     平成九年三月 大和市教育委員会


親縁山一応院佛導寺:大和市深見3361
 ヒマラヤスギ:無冠の孤立木ですが、景観木として今後注目されそうな予感です。


猿王山西福寺:橋戸3丁目21-2
【横浜市指定名木古木】
 スダジイ No.60021


白東山宗川寺:瀬谷区北新26-13
 宗川寺の夫婦銀杏 No.48233(向かって左)、No.48234(向かって右)

  横浜市名木古木指定 宗川寺(そうせんじ)の夫婦銀杏(北新26番地13)
 宗川寺は、寛永2年(1625年)北山本門寺第12世日賢上人が開山し、開基は瀬谷の住人で篤い信仰の心のあった石川宗川であり、その名から宗川寺と名づけられました。
 山門脇の2本の銀杏は、横浜市名木古木の指定を受けた夫婦銀杏で、昔から多くの方が安産・育児を祈願するために参詣に訪れてています。
   昭和54年3月(平成30年11月改訂)     瀬谷区役所


【参考】
 ケヤキ Zelkova serrata
 シダレザクラ Cerasus spachiana
 タブノキ Machilus thunbergii
 タラヨウ Ilex latifolia
 ハルニレ Ulmus davidiana
 ヒマラヤスギ Cedrus deodara
 スダジイ Castanopsis sieboldii
 イチョウ Ginkgo biloba

緑区、旭区、保土ケ谷区の地神(地天)

 姿を刻印した石塔(具像塔)が珍しい地天(堅牢地神)ですが、緑区には女神の姿を刻した地神塔があると聴き、確認しに行ってきました。この地区には地神塔がいくつかありますので、JR中山駅から京急井土ヶ谷駅にかけて訪ね歩きました。
【主な経路】
(中山駅)-神山-鴨居-上菅田-西谷-鶴ヶ峰-仏向町-権太坂-永田-(井土ヶ谷駅)
 (堅牢)地神塔マップ (作成中)  三浦半島の道祖神と地神 緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09) 戸塚区(2023-01-21) 逗子市(2023-01-15)




横浜市指定有形文化財(石造建造物)
 女神像地神塔(じじんとう)
          指定年月日 平成八年十一月五日
     所在地 緑区鴨居六丁目二一番
     員数  一基
     法量  碑高 五九・〇cm 像高四八・〇cm
     時代  江戸時代 享和三年(一八〇三)
 地神は、仏教の地天(じてん)が神格化して農作の神となった民間信仰で、講結衆(こうけつしゅう)による地神塔の造立が行われました、地震信仰は、一八世紀末頃におこって一九世紀に普及し、明治年代末年にまで及んでいます。
 横浜には多数の地神塔が遺っていて、地神信仰の盛んであったことが知られています。
 地神塔には、「堅牢(けんろう)地神」「地神塔」などの文字を刻んだだけのものが大部分で、地神の像容を彫刻したものは多くありません。また、神像でも武神の姿の男神像はありますが、女神像は稀で、この女神像地神塔は、稀少な例のひとつです。
  (刻印) 正面 「地神(右書)」
      右面 「享和三年亥八月吉日」
      左面 「大下石工」
          横浜市教育委員会


 ごはん塚碑
鎌倉初期の武将畠山重忠は元久二年六月北条義時勢の攻めに会い武藏国二俣川に於て討死逃れ來りし残党も此の地で惨殺された
村人達はその霊を慰めるべく五ヶ所に塚を建て懇ろに弔いごはん塚と呼んで花を手向けた第二次世界大戦中耕地不足の爲畑と化しその後団地造成等の変遷をたどり塚四基は姿を消したゞ一基この地に祭祀するのみ
      蓮性寺


 歴史の道
元町橋(もとまちばし)
 保土ケ谷区郷土史(昭和一三年刊)によれば、明治時代の東海道線鉄道工事以前の今井川はここで街道を横切っていました。
 橋は江戸時代の「東海道分間延絵図」にも描かれています。また、かつての字名は、ここから東側を「元保土ケ谷」、西側を「元保土ケ谷橋(むこう)」となっていました。


【参考】
地神塔(文化十三丙子(1816)年):緑区上山2丁目2-6
地蔵堂:緑区白山2丁目53-19
鴨居稲荷神社:緑区鴨居6丁目30-1
女神像地神塔:緑区鴨居6丁目21
ごはん塚:緑区鴨居7丁目32
庚申塚:保土ケ谷区上菅田町1587
稲荷社:保土ケ谷区上菅田町1585
竹山高区配水槽
キク Chrysanthemum × morifolium
笹山商店街
上菅田八幡神社:保土ケ谷区上菅田町727
狸像:保土ケ谷区上菅田町279
二十六夜塔(左)、歳ノ神(中央)、地神塔(右):保土ケ谷区上菅田町285-9
庚申塔(左)・堅牢地神塔(右):西谷町3丁目21
不動尊:保土ケ谷区西谷町4丁目7
庚申塔:保土ケ谷区西谷町4丁目10
道祖神:川島町73-1
庚申塔(2基):川島町73-1
西川島町 堅牢地神:旭区鶴ケ峰2丁目77
双体道祖神:旭区鶴ケ峰2丁目57-20
仏向杉山社:保土ケ谷区仏向町553-1
カラスウリ Trichosanthes cucumeroides
桜樹千本植栽の碑:保土ケ谷公園
保土ケ谷球場
アオノリュウゼツラン Agave americana
神奈川坂
庚申塔(左)、堅牢地神塔(右):保土ケ谷権太坂1丁目2-2
旧元町橋跡:元町自治会館
帝釈天堂(保土ケ谷町3丁目)
堅牢地神表具(掛軸):帝釈天堂(保土ケ谷町3丁目)
横浜市指定名木古木 No.48075 ケヤキZelkova serrata:外川神社


【文献】
石川博司(1998)地神信仰雑記、URL:http://koktok.web.fc2.com/isikawa/isikawaCD/dijin.htm#%E5%9C%B0%E7%A5%9E%E5%A1%94%E3%81%AE%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%B8%83、Accessed: 2022-12-30.
梅原達治(1985)埼玉県児玉町内の社日塔、札幌大学教養部紀要、27、101-120、URL: https://sapporo-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=5199&file_id=18&file_no=1、Accessed: 2022-12-30.
梅原達治(1987)地神信仰の地域的変異について、札幌大学教養部紀要、30、69-87、URL: https://core.ac.uk/download/pdf/230296308.pdf、Accessed: 2022-12-30.
泉区小史編集委員会(1996)地神塔と地神信仰、いずみいまむかし、URL: https://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/shokai/rekishi/ayumi/imamukashi/2-shoshi/denen/10-jisijisi.html、Accessed: 2022-12-30.

冬の鷹取-六浦-朝比奈

 年の瀬の近所を歩いてみました。


【参考】
 イソギク Chrysanthemum pacificum
 シチヘンゲ Lantana camara
 コゴメウツギ Stephanandra incisa
 マルバウツギ Deutzia scabra
 オニドコロ Dioscorea tokoro
 カマツカ Pourthiaea villosa
 ガマズミ Viburnum dilatatum
 マユミ Euonymus hamiltonianus
 ヤマブキ Kerria japonica
 ヤマコウバシ Lindera glauca
 鷹取山頂上付近
 キヅタ Hedera rhombea
 ビワ Eriobotrya japonica
 東京湾方面
 みなとみらい方面
 富津方面
 アセビ Pieris japonica
 ネズミモチ Ligustrum japonicum
 マンリョウ Ardisia crenata
 ヒメオドリコソウ Lamium purpureum
 ヤツデ Fatsia japonica
 シャリンバイ Rhaphiolepis indica var. umbellata
 ドウダンツツジ Enkianthus perulatus
 イヌビワ Ficus erecta
 ネリネ・ウンドゥラータ(ヒメヒガンバナ) Nerine undulata
 寒椿 Camellia x hiemalis
 センリョウ Sarcandra glabra
 ヒマラヤユキノシタ Bergenia stracheyi
 クロガネモチ Ilex rotunda
 アオツヅラフジ Cocculus trilobus
 フイリマサキ Euonymus japonicus f. aureovariegatus

今年最後のイングリッシュガーデン

 明日のクリスマスを以て今年の営業が終了する横浜イングリッシュガーデンを尋ねました。比較的寂しい季節ではありますが、冬咲きの桜が見頃です。





【参考】
 横浜イングリッシュガーデン
 桜 Cerasus sp.
  アーコレード Cerasus sargentii x C. subhirtella ‘Accolade’(高嶺桜(千島桜)x大山桜)
  冬桜(ふゆざくら) Cerasus x parvifolia ‘Fuyu-zakura’(豆桜x大島桜)
  子福桜(こぶくざくら) Cerasus x ‘kobuku-zakura’(志那実桜x江戸彼岸)
 エレガンスみゆき Cerasus x Armenica mume ‘Elegance Miyuki’
 薔薇 Rosa sp.
  はつね
  セピア・アート
  フラグレント・ディライト
  一葉
  薔薇の海
  ゴールド・メダル
  ミス・ハープ
  ロータリー・サンライズ
  つくばの(ゆき)
  ラ・カンパネラ
  ロマンティック・アンティーク
  ディ・ブレーカー
  春の海
  アドミラル・ロドニー
  ピンク・キャット
  ベリー・ベリー・ベッキー♪♯・ローズ
  スイート・シャトー
  スパニッシュ・ビューティー
  ストロベリー・アイス
  センセーション
  スマイル優雅
 イロハモミジ ‘猩々野村’ Acer palmatum ‘Shojo-nomura’
 ギョリュウバイ Leptospermum scoparium
 ムーシュウチュウ(木綉球) ‘ステリーレ’ Viburnun macrocephalum ‘Sterile’
 アジサイ ‘メイアンジュ’ Hydrangea macrophylla ‘Mayange’
 バショウ Musa basjoo
 老爺柿ロウヤガキ(衝羽根柿) Diospyros rhombifolia

クリスマスのイングリッシュガーデン

 ハロウィーンが終わるとクリスマス飾りになっていました。冬薔薇はまだまだ楽しめますし、冬咲きの桜がシーズンを迎えています。




【参考】
 桜 Cerasus
  子福桜(こぶくざくら) Cerasus x ‘kobuku-zakura’(志那実桜x江戸彼岸)
  冬桜(ふゆざくら) Cerasus x parvifolia ‘Fuyu-zakura’(豆桜x大島桜)
 須磨浦普賢象 Cerasus serrulata ‘Sumaura-fugenzo’
 エレガンスみゆき Cerasus x Armenica mume ‘Elegance Miyuki’
 薔薇 Rosa spp.
  フレンチ・レース
  ホワイト・ウィングス
  パンデモウニアム
  アドミラル・ロドニー
  ドリス・リカー
  カーディナル
  ラブリー・ブルー
  ジュリアン・ポタン
  ゴールデン・オールディー
  トム・ブラウン
  はつね
  ソワレ
  スイート・チョコ
 イロハモミジ ‘猩々野村’ Acer palmatum ‘Shojo-nomura’
 オオバギボウシ Hosta sieboldiana
 ムーシュウチュウ(木綉球) ‘ステリーレ’ Viburnun macrocephalum ‘Sterile’
 ハナズオウ ‘麗香’ Cercis chinensis ‘Reiko’
 ニシキギ Euonymus alatus
 ベニバナスモモ ’システナ’ Prunus x cistena
 ギョリュウバイ Leptospermum scoparium
 スノードロップ Galanthus nivalis
 ツタ Parthenocissus tricuspidata
 ペラルゴニウム Pelargonium cv.
 エリカ・クリスマスパレード Erica x hiemalis cv.’chrismas parade’

冬の日に

 ここのところ、忙しい日々でしたが、今日はゆっくりと過ごせました。
【主な経路】
(南太田駅)-藤棚-横浜イングリッシュガーデン-横浜駅-みなとみらい-野毛山-(日ノ出町駅)


【参考】
 キダチロカイ(アロエ) Aloe arborescens
 エリカ・クリスマスパレード Erica x hiemalis cv. ‘chrismas parade’
 横浜イングリッシュガーデン
 イチゴノキ Arbutus unedo
 イロハモミジ Acer palmatum
 アブチロン ‘チロリアンランプ’ Abutilon megapotamicum
 少女 1981 佐藤忠良
 アンパンマンミュージアム

寺尾道を辿って

 東海道は江戸時代に幹線道として確立されたルートが今でも活用されていますが、庶民が日常利用していたと思われる側道は、現在ではルートが大きく変更されていて、昔の面影を辿ることさえ難しくなっているルートが少なくありません。そのようなかつての生活道であった古道の一つ、寺尾道を今日は辿ってみました。
 寺尾道は現在の鶴見で東海道から分岐して菊間へ通じていたとされますが、本日歩いたルートは鶴見区史(1982)の記述と庚申塔、道祖神などの石塔の分布から推定しました。実際には、途中から南進して寺尾城址を通って、生麦へ向かいました。
寺尾道(推定)周辺マップ
【主な経路】
(京急鶴見駅)-鯉ヶ淵公園-鶴見神社-諏訪坂稲荷神社-昭和坂-熊野神社-不動坂-霞橋-鶴見配水池-馬場二丁目公園-馬場稲荷-馬場城址-赤坂-駒方天満宮-岸谷庚申-反町-(横浜駅)
 先月から旭区辺りを水源とする帷子川の周辺を歩いていたのですが、我が家の書棚では、旭区郷土史の隣に鶴見区史が並んでいて、つい隣を手に取った結果、鶴見区に興味が移ってしまいました。

【参考】
 寺尾稲荷道道標(複製)
 鶴見川橋
 旅立ち:二口(Futakuchi) 金一(Kin’ichi)(Yolokama Biennale ’93)
 身禄道(みろくみち)
 鶴見神社
 寺尾稲荷道道標
 国旗制定百年記念碑
 ぼてふり(棒手振)地蔵尊
 (現在の)諏訪坂
 諏訪馬之助館跡
 諏訪坂稲荷神社
 宇迦之御魂神:諏訪坂稲荷神社
 諏訪馬之助の鎮めの石:諏訪坂公園
 道標:諏訪坂公園
 古坂
 昭和坂
 弁天池
 (寺谷)熊野神社:名木古木イチョウ No.202012(左)No.202013(右)
 鶴園(かくえん)句碑:熊野神社
 天神坂
 不動坂
 響橋
 庚申塔:東寺尾6丁目36
 心願地蔵:東寺尾6丁目33
 馬場谷戸庚申地蔵供養塔:馬場4丁目20-5
 道標:馬場5丁目13-35
 鶴見配水池配水塔:馬場3丁目29
 馬のメド坂:馬場2丁目8
 馬場稲荷:馬場3丁目17
 庚申塔:馬場3丁目3
 寺尾城址碑
 殿山公園
 庚申塔:馬場3丁目5
 宮の下:東寺尾2丁目13
 庚申塔:東寺尾1丁目24
 入江川せせらぎ緑道
 馬頭観音:馬場1丁目3-13
 子の神様:東寺尾1丁目17
 東寺尾配水池:東寺尾1丁目16-28
 赤坂
 庚申塔:西寺尾2丁目29-5
 駒形天満宮
 頌菅相遺徳(しょうかんしょういとく)碑:駒形天満宮
 上の庚申:東寺尾4丁11
 トックリラン Beaucarnea recurvata
 上の庚申:岸谷1丁目28-14
 岸谷庚申塔:岸谷4丁目3
 デロスペルマ属(耐寒松葉菊)の一種 Delosperma lebomboense、Syn. Delosperma tradescantioides var. lebomboenseか?(アプテニア属 Aptenia sp. の可能性も…)
 東子安一里塚案内版


 寺谷熊野神社は横浜市指定名木古木を尋ねたことがある神社ですが、生麦事件碑を建てたことでも知られる黒川荘三の句碑のあることに気づきました。この歌は、鶴見区史や黒川荘三の記録『千草』にも触れられていないようです。旧仮名を十分に読み取れなかったのですが、概ね下記のように書かれているのかも知れません。

具摩乃山 (熊野山)
 飛羅久留左登能 (開くる郷の)
    阿太良之久 (新しく)
 登之奈止爾麻春 (トシナとに坐す)
  可由止奈留羅舞 (カユとなるらむ)
         鶴園 (鶴園)

トシナ:年縄 = 注連縄 (?)
カユ:粥 = 粥杖 (?)
鶴園(かくえん):黒川荘三、1846(弘化3年)~1936(昭和11)、鶴見神社宮司(明治27年~昭和5年)、熊野神社宮司(大正2年~昭和5年)


変体仮名フォントを利用した、より石碑の刻印に近い表示

𛀰()()𛂙()()
 𛂮()𛃭()𛀬()𛃺()𛀿()𛁺()𛂜()
    𛀄()()𛃮()𛁅()𛀬()
 𛁺()𛁅()𛂂()()𛂌()𛃈()𛁏()
  𛀙()𛃥()()𛂂()𛃺()𛃭()𛃓()
            鶴園

【文献】
齋藤美枝(2013)郷土史の恩人黒川荘三翁、タウンニュース鶴見区版、Accessed:2022-12-17.
黒川荘三(1994)千草、千草刊行会編、316p、横浜.
金子元重(1994)田祭り復活の軌跡(黒川荘三著『千草』「発刊に際して」から転載)、Accessed:2022-12-20.


寺尾稲荷道道標(複製)
 江戸時代、ここは寺尾稲荷社(現・馬場稲荷社)へ向かう道との分岐点で、このように「寺尾稲荷道」と記された大きな道標がたてられていました。寺尾稲荷は、馬術上達や馬上安全の祈願で知られ、江戸からの参拝者も多かったといいます。また、この道は菊名へ向かう寺尾道や川崎へ向かう小杉道にもつながる、この地域の大切な道でした。なお、当時の道標は、現在、鶴見神社の境内にあり、ここにあるのはその複製です。
 This is replica of the milestone indicating the location of Terao Inari, a shrine where men used to visit hoping to improve their horsemanship skills. The original milestone,which today id stored at Tsurumi Shrine, was here since Terao-Inarimichi was one of the important streets in Turumi.


身禄道(みろくみち)
 ここから杉山明神(現・鶴見神社)へ向かう参道は身禄道と呼ばれていました。境内に富士塚があり、富士信仰を広めた食行身禄(しょくぎょうみろくみち)の像がまつられているからです。富士山に登ることはなかなかできないので、富士山に模した塚を築き、これに登り、参拝したのです。各地に多くの富士塚が築かれました。
 This street, once xalled Mirokumichi, leads to Turumi Shrine where there is a statue of Jikigyou Miroku. In the Edo period, Miroku was a famous religious leader who spread the belied in gods who reside at Mt. Fuji.


横浜市地域有形民俗文化財
寺尾稲荷道道標
       平成十八年十一月一日登録
     所有者 宗教法人 鶴見神社
     時代  文政十一年(一八二八)
 寺尾稲荷道道標は、旧東海道の鶴見橋(現鶴見川橋)付近から寺尾・小杉方面への分岐点にあたった三家稲荷に建てられていたもので、一村一社の神社合祀令によって、大正年間に三家稲荷が鶴見神社に移されたときに、移されたと思われます。昭和三〇年代前半頃に、鶴見神社境内に移されていた三家稲荷の鳥居前の土留め作業を行った際、道標が埋没しているのが発見されました。
  正面には 「馬上安全 寺尾稲荷道」
  左側面には「是より廿五丁」
  右側面には「宝永二乙酉二月初午
        寛延三庚午十月再建
        文政十一戊子四月再健之」
 とあり、二度建替えられ、この道標が三代目であり、当時の寺尾稲荷に対する信仰の篤さをうかがい知ることができます。
 寺尾稲荷は、寺尾城址の西山麓に祀られ、現在は地名が馬場となったことから馬場稲荷と呼ばれていますが、古くは寺尾稲荷と呼ばれていました。江戸時代には馬術上達がかなえられる稲荷として知られていました。
 平成十九年三月
          横浜市教育委員会


諏訪馬之助(すわうまのすけ)館跡(諏訪坂1-13)
 諏訪坂の町名の由来となっているこの坂の途中に、「諏訪馬之助館跡」が在ります。古くは、諏訪山と称して、永享年間(1429-1440)に、小田原北条氏の家人であった諏訪三河守が、殿山(とのやま)(現馬場町)に城を構えたとき、そこから東北に延びる丘陵の突端にこの館を築いています。
 「武蔵風土記稿」に「諏訪家屋敷」として「海道ヨリ右方ヘ五・六丁ユキテ丘上ニアリ一株ノ大松アリ是諏訪午之丞(うまのじょう)(馬之助)居住アリシ所ニテ其頃前ノ松ナリ 故ニ土人今モ諏訪ノ松トイエリ」とあります。この諏訪の松は、俗に「諏訪の物見の松」と呼ばれていましたが、文政年間(1818~1829)に枯れてしまったので、切り倒されてしまいました。
 その後、文久元年(1861)4月、老松のあった根元の塚を掘ったところ、古い石棺が出て、中から数々の遺物が発見され、後にこの塚は諏訪山古墳として奈良時代のものと推定されました。


新編武蔵風土記稿より
諏訪家屋敷
海道ヨリ右方ヘ五六丁ユキテ丘上ニアリ一株ノ大松アリ是古ヘ諏訪之丞居住アリシ所ニテ其頃前ノ松ナリ故ニ土人今モ諏訪ノ松トイリ諏訪三河守某ト云人北條家ノ家人ニテ此邊寺尾ヲ領セシコトハカノ家ノ所領役帳ナト云モノニモ出セリ牛之丞ハ其子ナトニヤ
【注】説明版表示での新編武蔵風土記稿の引用が若干異なっていますので再録します。恐らくは元資料の校訂ミスだと思われますが、馬之丞の子孫に牛之丞がいた可能性を否定できません。


   諏訪馬之助の鎮めの石
 現在の諏訪坂と旧諏訪坂にはさまれた所には、北条氏家臣の諏訪氏の館があり、永禄12(1589)年に武田信玄により滅ぼされたといわれています。
 この諏訪館に隣接した場所には、奈良時代の物と思われる古墳があり、そこから文久年間に発掘された石棺蓋の一枚が現在まで保存され、地元の人々が、「諏訪馬之助の鎮めの石」と呼んでいるものがこの石です。
 また、道標(子育地蔵)は、この地区の古道である寺尾道・末吉道の分岐を示すものとして諏訪坂に設置されていたものてす。


  馬場谷戸庚申地蔵供養塔
 この石仏は「庚申さま」といって、江戸時代の享保十九寅年に建立されたもので、お地蔵さまの碑面には、馬場谷戸の、田口・金井・石井・等七名の名前が彫られてあり、台座には「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿が彫刻されている庚申さまである。
 昔、谷戸の辻・辻に建てられていたもので疫病・盗賊など災いが村内に入ってこないようにとの願いから、この馬場谷戸にも建立されていたものである。
 路仏のままであったものを、何時の時代か、堂宇を建立して祀られていたが昭和三十八年三月に、田口熊吉氏によって再建され、三十八年経過して老朽により、平成十三年三月に、田口昭次氏が平成十三年三月に堂宇を再建された。


   道標(馬場5丁目13-35)
大正一五年十一月旭村青年団馬場支部の建設であるる地域の交通路を詳しく示している。
(正面) 西北寺尾(旭役場旭小学校)大網村
(右側面)菊名駅(大豆戸、太尾町)方面 南東寺尾ヲ経て西寺尾子安方面
(左側面)北寺尾別所及び末吉ヲ経て日吉、中原方面
(背面) 東鶴見(花月園総持寺)生麦方面
    大正一五年十一月青年団馬場支部(旭)
     ふるさと発見 寺尾奉行


   馬のメド坂
 この道は、室町時代から近世に至る古道として利用されてきた。この坂のあたりは馬の背中に似た地形になっています。その坂の入り口はまさしく馬のお尻のように感じられたのでこう呼ばれたようです。寺尾城主諏訪の殿様が馬術の上達に励んだと言われています。
     ふるさと発見 寺尾奉行


馬場稲荷
 もとは寺尾稲荷といい、正一位相模国稲荷大明神ともいう寺尾城主五代目馬之丞が夢に馬術の信託をうけ祈願成就した稲荷社でそれ以来馬術上達、馬上安全祈願の寺尾稲荷社として有名になった。
 宝永二年(一七〇五年)旧東海道鶴見村三家(さんや)に「鶴見神社付近」「馬上安全寺尾稲荷道」の道しるべが建てられた。諏訪坂に道しるべとして「従是(これより)寺尾道」と建てられている。
 馬場稲荷社近く現在の「東高校」の場に「馬頭観音」があった。奉納絵馬や献灯に祈願成就の武人の名が残されている。また馬場稲荷社上には寺尾城跡地の石碑が建てられている。
2000年初午  嶋田□□


   庚申塔(馬場3丁目3)
 江戸時代、享保十四年十一月(一七二九年)旧東海道の裏街道である馬のメドに原家が建立した。戦後の混乱で庚申塔を守るため一時近くに移動したがその後現在の場所に戻した。当時は道しるべや道祖神(道路の悪霊を防いで行人を守護する神)の役もしており、行き倒れの面倒もみてきた。建立から原家が代々馬場大師(馬奉行として管理し現在も尚原家子孫により祀り続けられている。)
     ふるさと発見 寺尾奉行


寺尾城址
 寺尾城は領主諏訪三河守五代(約一四〇年間)にわたりこの地にあった。後北条氏に属し、貫高は二百貫文(およそ二千石)で、北条早雲が小田原城主になる以前からすでに居城していた。
 永禄十二年(一五六九)、武田信玄が小田原城を攻めた際に、廃城になったと思われる。数百年を経た今日、その遺構(空堀・土塁跡)の一部が殿山公園などに現存している。


  寺尾城址の発掘
 殿山公園から西方にかけての丘陵一帯は、寺尾城址として古くから知られていました。平成5年12月に、殿山公園の整備事業に伴う発掘調査が財団法人横浜ふるさと歴史財団埋蔵文化センターによって実施されました。
 調査は、東西に延びる「空堀」の一部を含めた丘陵頂部の170mの範囲を対象として行われました。発掘調査の結果、空堀は西面が底の狭いV字形を示し、壁の角度(勾配)が50°~70°と急傾斜で、地表面から掘の底までの深さが約3m、底の幅は約1mでした。堀の中には土塁の崩落によると推測されるローム土が多量に堆積し、上位からは江戸時代の宝永年間に噴火した富士山の火山灰が発見されました。このことからこの堀は18世紀初頭には大部分が埋まっていたことが明らかとなりました。
 この調査によって、『新編武蔵風土記稿』ら記され「寺尾城址」として伝承されている中世城郭址の存在を初めて考古学的に裏付けることができました。
  平成6年3月  横浜市教育委員会


  寺尾城の遺構
 寺尾城は戦国時代に、小田原北条氏に仕えた諏訪三河守五代にわたる城址である。永禄十二年(一五六九)十月、武田信玄の小田原侵攻のさいに寺尾城は没落したといわれている。城跡には、当時の空堀・土塁・曲輪など中世の城郭が残り貴重な遺跡となっている。
 町名の馬場・諏訪城などに城のようすがいまに伝えられている。
         鶴見歴史の会


  庚申塔(馬場3丁目5)
 江戸時代に入って泰平の時代となり庶民の生活は比較的安定し、民間信仰が浸透して石仏などが多く作られるようになった。祠堂内には三基の石塔があり向かって右側は廻国塔(笠付)角塔で満願成就のしるしとして建てられた。その正面には二匹の猿が手をつないでいる姿は珍しい。(元文元年一七三六年)
真中は舟形地蔵の庚申塔で東寺尾の名主達が安全祈願や健康を祈って建てた。(享保十年一七二五年)
左側は全く不明である。
     ふるさと発見 寺尾奉行


  デイダラボッチ
 デイダラボッチ日本各地で伝承される巨人である。馬場学校(今の東高校)に行く道におよそ千平方メートル(一反歩)のくぼ地の畑があった。この丸い形をしたくぼ地は大男の足跡と言われておりデイダラボッチと呼ばれていた。この巨人伝説は山や湖沼を作っていたと云う伝承が多く、主に関東に広く伝えられている。     ふるさと発見 寺尾奉行


  宮の下
 江戸時代(一六七〇年頃)から続く澤野家は東寺尾地区の鎮守として祀られている白幡神社(一四三五年頃建立)の麓にあることから「宮の下」の屋号で呼ばれていた。また明治初期に先祖が白幡神社の宮司を努め、神社で寺子屋を開き地域の住民や子供たちに「読み書きソロバン」を教えていたと言い伝えられ、白幡神社とのかかわりが深い。
     ふるさと発見 寺尾奉行


◇東寺尾1丁目の庚申塚紹介
§鎮座する庚申塚
1建立時期 寛保2戌12月吉祥(1742年)
2庚申塚自体 千手観音菩薩
 七難をまぬかれ衆生を救って下さる仏像で、生きとし生きるもの全てを漏らさず救う大いなる慈悲を表現している。
 ①村落守護 ②疫病退散 ③五穀豊穣 ④災難排除 ⑤長寿祈願
3菩薩像千手(四本手)
 ①上側2本手 「ツボ」と「作物」
 ②下側2本手 「弓」と「矢」
 ③頭上    「太陽」と「月」
 ④像足下   「邪気」
   人に害を与えようとする悪意の心を持った架空の生き物
 ⑤像足元   「3猿」
   数々の悪行を反省し悪い行いを(見ない)(聞かない)(言わない)を表現し眼上の菩薩様を崇拝する。
4像の銘刻文 右側 寛保二年戌十二月吉祥
       左側 寄造建庚申尊形 石橋笛子
§庚申塚建立の時代背景
~寛保2年(1742年)の江戸大災害~
 この年の夏季に日本列島中央部の関東甲信越地方は大型台風の直撃を受け未曾有の大災害に見舞われた。特に旧暦7~8月にかけて襲った数度の「暴風雨」と「高潮」によって江戸は大洪水となり上流域の「多摩川」「荒川」「利根川」が氾濫、下町の本所・浅草・下谷一帯が水没し、墨田川に架かっていた「両国橋」「新大橋」「永代橋」等多くの橋が流され、多くの住民が溺死したと記録されている。
 この時の大洪水に加え数々の災害が寛保年間(1710~1750年)に大流行した。
 ①疫病(コレラ・セキリ・ウィルス)などにより「小石川養生所」が設立される。
 ②宝永の大火災で江戸市中の60%が焼失し「火消組」が組織された。
 寛保の大水害で河川の治水政策が立案推進され数々の「善政」が幅広く実施されたことを受け、地方村落における「お地蔵様」建立の機運が高まりここ生麦-向谷においても「寺尾城」を中心とした各所で「庚申塚」が建立された。
§庚申塚の位置
~北向き祠~
 東寺尾1丁目に鎮座するこの庚申塚は他のお地蔵様と異なり「北向き」に設置されている。
 鎮座については以下のように解釈されている。
 ここ寺尾地域から見て「江戸市中」の方角が陰陽道の方位易から「鬼門」とされる〝北東方向〟に当たる。寛保2年の大災害を目の当りに経験し、地域を守るにはこの方位易に従ってお地蔵様を設置することが住民の願いであったと思われる。
 また、この石像に刻まれている「千手の4本手」の下側2本手に持たれている「弓」と「矢」から想像すると、地域の鬼門を守る守護神としての毘沙門天を模した像と考えられる。
§庚申(かのえさる)の由来
 中国古来の教えである「道教」では人間の体内には「3つ」の霊が宿っていると解釈されている。
 ①魂(コン)
 ②魄(ハク)
 ③三尸(サンシ)
『人が死』を迎えると「(こん)」は天界に昇り「(はく)」は地界に沈む。問題は『三尸(さんし)』と言う「虫」が悪さをする。「三尸(さんし)」は宿主(人間)が死を迎えて「(こん)」と「(はく)」が肉体から去った後でも残り続け、自由に遊び廻れる存在となり楽しいお祭りなどへも出掛けられるので宿主の死を望んでいる。
 また「三尸(さんし)」は1年360日で、「60日」毎に巡って来る庚申の日に宿主の体内を抜け出して夜中に天界に昇り「天帝」に宿主の日頃の行状を報告しに行く。「三尸(さんし)」は翌朝には宿主が目を覚ます前に体内に戻ってくる。そこで「60日」毎の庚申(かのえさる)の日になる前から集団で徹夜をすれば「三尸(さんし)」は体内から出ることができない。
 昔人はこの集会を年6回、3年間続けて、「三尸(さんし)」の行動を抑えたことを記念して建立したのが、『庚申塚』(正式路五:庚申待ち供養塚)である。
【注】1742年(寛保2年)は江戸4大飢饉には数えられていないが、同年8月に中部から関東甲信越にかけた地域で水害があった(町田、2014)ことが知られている。鶴見川流域等での被害状況を記した文献は見つけることはできなかったが、庚申塚の建立は12月なので関係している可能性はある。


  入江川せせらぎ緑道
 かつて山からの湧き水を水源としたこの川は建功寺川と呼ばれている。戦国時代の武士が武具や身体を洗い流したことから血の川と呼ばれていたと云う謂れもあるが上流の土壌が赤かった爲川に流れ込んで川底が赤く染まったからと云う説もある。今では水と緑のやすらぎの散歩道として親しまれている。
     ふるさと発見 寺尾奉行


  子の神様:東寺尾1丁目17
 子の神様とは十二支の「ネ」ねずみを神の使いとする大国主の命(大黒天様)主屋の鬼門よけに子の方角(北)に祭られた神、もう一つには神代の根の国の神と言われ農村では水の神とも考えられていたと云う諸説がある。これからも地域の守り神として残しておきたい貴重な存在である。
     ふるさと発見 寺尾奉行


  赤坂
 この坂道は江戸時゛五の天明の頃西寺尾にあった慈眼堂観音に病気平癒祈願のために母親が赤子を背負って通ったことから「赤坂」と呼ばれていた。
 他にも地主の名字でもあり、又赤土だったからという三つの由来がある。いずれにしても東寺尾の人達にとっては神奈川区子安、大口方面に出る唯一の街道で便利に使われていた道である。
     ふるさと発見 寺尾奉行


  駒形天満宮
房州(千葉県)の豪族里見義高の随臣だった平田兵庫が、一七二九年(享保一〇年)に氏神として建てた天神社に西寺尾駒形在の住民により一七四一(元文五年)に創立された駒形社を合祀し、駒形天満宮と改め今日に至る
菅原道真を祀り学術と情愛の守護神して崇められている
     昭和四十七年三月
      西寺尾郷土研究会


わが町かながわ50選
  駒形天満宮
 会談となった緑豊かな参道を上がると、境内から市街地を望むことができます。その昔、この村に住む娘と恋に落ちた若者の悲恋物語にちなんで、「駒形」の名前がついたと言われます。
     横浜市神奈川区役所


          頌菅相遺徳

     神官 平田次郎
 翰林出相公庶幾唐虞治
 紀綱漸根興權臣止放恣
 善臾能寄書諷避三台位
 髙踏雖保身其奈宗廟器
 一身固許君乑恨謫邉地
 峻徳至今馨囘膽人隋涙
 明治十六年
 十一月廿五日
     竹渓平田平治謹撰
     得水内藤正順謹書

【注】題字は、菅相(菅原道真)の(遺徳)()える碑の意味で、元々は学者から政治家になったこと、讒言により左遷されたことなどが書かれているようですが、詳細は未調査です。形式は五言排律なのでしょうか。内藤得水は深川扇橋の書家で1881(明治14)年に刊行された「全国書画一覧」の書大家之部に名を連ねています。平田はこの辺りの神職に見かける姓です。


上の庚申 延享元年十一月建立
 庚(かのえ)道路を意味する。
紀元前四世紀の頃中国黄帝老子が無為自然を唱えてその教えによる道教によって庚申塚は旅人の守護神として我が国に伝えられ庚申の日を御縁日と定め伝え民衆に信仰されて参りました。昔の人々は旅に出る時は草履等をお供えし道中の無病息災を御祈願致しました。佛家では帝釈天青面金剛をお祭りし此の行事を庚申待ち猿行と云いました。此の庚申塚は古代から伝わるこの附近の交通安全不老長寿の守護神で有ります。
         合掌
   上の庚申□□□総代
    岸谷㐧三自治会
    岸谷公園通り議会


【注】『庚が道路を意味する』というのは初めて聞きました。道祖信仰と庚申信仰が混ざっているのではないかと推測しますが、要調査です。


東子安一里塚
 旧東海道六里目の一里塚です。神奈川県内に二十ヶ所ある一里塚の内で唯一、この東子安一里塚にはその目印となるみのがありませんでした。文化三年(一八〇六)完成の東海道分間延絵図に基づき、西側の遍照院と東側の村境(現鶴見区・神奈川区境)からの比率かせ推定されるこの地に案内板を設置しました。北側の塚には榎、南側の塚には松が植えられていました。
  平成二十八年四月
 NPO法人東海道ウォークガイドの会


【文献】
 林述斎・間宮士信編(1982)新編武蔵風土記稿横浜・川崎編第二巻、520p.、千秋社.
 鶴見区史編集委員会(1982)鶴見区史、770p+15p.
 町田尚久(2014)寛保2年災害をもたらした台風の進路と天候の復元, 地学雑誌, 123(3), 363-377, URL: https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/123/3/123_123.363/_article/-char/ja/, Accessed: 2022-12-22.


【追補】
 諏訪氏の元は信濃国の領主で、寺尾城址は現在の群馬県(旧上野国)・埼玉県(旧武蔵国)にも残されています。これらの寺尾城と鶴見区にあった寺尾城との関係は未調査です。
 (馬場)寺尾城址:神奈川県横浜市鶴見区馬場3丁目11
 菅寺尾城跡:神奈川県川崎市多摩区菅馬場2丁目30
 寺尾城跡:埼玉県川越市下新河岸55
 寺尾茶臼山城跡:群馬県高崎市寺尾町1072
 寺尾中城跡:群馬県高崎市寺尾町1064
 乗附城跡 (寺尾上城跡):群馬県高崎市乗附町


寺尾台廃堂跡【川崎市】
 寺尾台廃堂跡は、昭和二十六・二十七・四十三年の三ヵ年にわたって発掘調査されました。
 その結果、基礎の上に建てられた堂宇の存在が推測されました。基壇の平面形が約九メートルの八角形であることから、建物も小型の八角円堂で、その建立の時期は、屋根を葺いた瓦の年代から、平安時代初期(九世紀前後)と推定されます。
 この八角堂は、付属の構造物か伴わないところから、寺院というよりは、山林中にひっそりと祀られた供養堂のような性格であったと考えられ、東国における数少ない遺跡として貴重です。
 この八角堂基礎はね発掘調査の成果をもとにして、復元されました。
     川崎市教育委員会


  寺尾台八角堂跡
 この遺跡は、平安時代初期に建てられた、東日本では数少ない八角形の仏堂の跡であることがわかりました。それは、この場所より13.5mも高い山林中にありましたが、団地造成によって建立当時の位置に保存することができにくなりましたので、ここに基壇を復元し、永く保存いたします。
 栄山寺八角堂(奈良県)縮尺50分の1
寺尾台八角堂跡は、これとおなじ規模のものとおもわれます。
  昭和45年3月 川崎市
        日本住宅公団

晩秋の鎌倉へ

 今日は久しぶりに鎌倉を尋ね、長谷寺では抹茶体験に参加できました。


【参考】
 ヒメリンゴ Malus prunifolia
 タイワンツバキ Gordonia axillaris
 サフラン Crocus sativus