天女水の碑、など - 浦賀から長沢へ

 三浦半島エリアでの地誌を記した書の先駆けとして知られる三浦古尋録の著者加藤山寿の題による碑があると知り、早速浦賀を尋ね、折角ですので花の国に寄りながら長沢まで散策してみました。
【主な経路】
(浦賀駅)-吉井-西浦賀-久里浜-花の国-野比-長沢-(長沢駅)


天女水の碑:西浦賀3丁目16

高坂弁天堂
 天女水之銘
相陽之東吉井嶺麓髙坂在焉此處
之田閒水湧焉謂之天女水矣其流清
而委虵委虵焉假令雖炎夏無水之絶矣
蓋側田耕地水溢之以餘歳々年々其田
美也其田美則多實多實則少秕少秕
則食足而有餘有餘則屋富屋富則福
祉矣故謂之天女水歟
   歌曰
 水哉水哉可以濯吾耳而去
  于皈     加藤山寿
   文化九壬申秋九月

(注)『于皈(于帰)』は『ここ()に おく()る』の意か? 三浦古尋録には記載がなく、誤読の可能性あり。
 碑文は校訂三浦古尋録(1967)とは微妙に異なっているのですが、『耕地:群地』は、校訂三浦古尋録のほうの誤植かも知れません。校訂三浦古尋録の校注によれば、『而去(にこ)』が入っているのは、現在残されている写本のうち乙本(内閣府文庫所蔵本の二)のみだそうで、一方、乙本にはある『高坂弁天堂』の文字はこの碑にはありませんでした。あるいは、碑の上部が欠けているので失われている『天女水』の脇に記載されていたのかも知れません。『題』はコンクリートにほぼ埋まっていました。


校訂三浦古尋録(1967)より転記
○高坂辨天堂此処ノ田間ヨリ清水湧クヒデリニテモ其ノ水絶ルト云事ナシ故ニ
里俗是ヲ天女水ト云
 天女水之銘
相陽之東吉井嶺麓高坂在焉此処之田間水湧焉謂天女水矣其流清而委虵委虵焉
仮令雖炎夏嘗無水之絶矣蓋側田群地水溢之以余歳之年々其田美也其田美則多
実則少秕少秕則食足而有余有余則屋冨屋冨則福祉矣故謂之天女水歟歌曰水哉
水哉可以濯吾耳
文化九壬申秋九月 加藤山寿題


  天女水の碑
 この碑は「三浦古尋禄」の著者で浦賀の文人加藤山寿が文化九年(一八一二)建てたものです。
 碑には「高坂の弁天堂の近くの田の間から清水がこんこんと湧いており、日照りが続こうとも涸れず、そのお陰でこの辺り一帯の田はいつも豊作となり、豊作になれば家が富み、家が富めば幸福が訪れる。この水は天女が我々に授けてくれたようなもの」ということが漢文で彫られています。
 かつて天女水から湧き出た水は浦賀港に注いでおり、掘割は舟の運送路としても利用されていました。天女が浦賀の人々に与えてくれた恵みの水でした。
 浦賀行政センター市民協議事業 浦賀探訪くらぶ


ヤシ科  ヤシ科植物の写真整理

 ブラジルヤシ Butia capitata:浦賀駅前
 シンノウヤシ Phoenix roebelenii:個人宅
 ワシントンヤシ Washingtonia filifera:西浦賀4丁目
 カナリーヤシ Phoenix canariensis:野比中学校
 ワシントンヤシモドキ Washingtonia robusta:南向山本行寺


ツバキ Camelia spp.

 絵日傘(えひがさ)
 中部白鶴(ちゅうぶはくつる)
 ジャイガンティア
 紅乙女(こうおとめ)
 草紙荒(そうしあらい)
 八重侘助(ええわびすけ)
 春日野(かすがの)
 鶏の子(とりのこ)
 初瀬山(はつせやま)
 黒椿(くろつばき)
 フラワーガール
 峰の雪(みねのゆき)
 義司(よしつかさ)
 白雪(しらゆき)
 加茂本阿弥(かもほんなみ)
 福娘(ふくむすめ)
 (あけぼの)



 ウメ Armenica mume
 ニホンスイセン Narcissus tazetta
 不動尊:西浦賀3丁目22-33
 花水稲荷:西浦賀2丁目3−20
 石祠:西浦賀2丁目9-7
 廻船問屋跡 & 鏝絵(こてえ)
 グロッチフィルム Glottiphyllum sp.
 為朝神社:西浦賀4丁目3-7
 花稲荷:西浦賀4丁目5
 仲稲荷:西浦賀4丁目5 浦賀奉行所跡:西浦賀5丁目17-2
 伏見金守稲荷大明神:南浦賀11
 浦賀港拓道碑:久比里1丁目26
 美容室ひまわり
 太刀花稲荷:久比里1丁目2-7
 内川新田開発記念碑:夫婦橋南詰(久里浜4丁目13)
 福井県花・越前水仙
 久里浜天神社:久里浜5丁目19-3
 手づくり郷土賞碑(花の国)
 アオキ Aucuba japonica
 ゴジラ:花の国冒険ランド
 オオイヌノフグリ Veronica persica
 尻こすり坂開鑿記念碑:野比4丁目1
 ヒイロタケ Pycnoporus coccineus
 カワラタケ Trametes versicolor
 コフキサルノコシカケ Elfvingia applanata
 チリメンタケ Lenzites elegans
 海軍用地碑
 フユノハナワラビ Botrychium ternatum
 ブロッコリー Brassica oleracea var. italica
 東京湾を望む
 富山(とみさん)(房総)遠望
 野比海岸
 地蔵尊:野比5丁目1-1
 稲荷社:野比3丁目28-18
 武山不動道標:野比1丁目39-17
 庚申塔・馬頭観音:長沢1丁目45


  廻船問屋跡
 浦賀で廻船問屋とは、船を持たずに御番所に詰めては、奉行所の役人達の指示で、荷改めをしていた下田と東西浦賀の一〇五軒の問屋のことをいいます。また、米穀・酒類・塩などの問屋を営みながら、自己の廻船を所有して瀬戸内海より東北地方まで広範囲にわたって、商いをしていた商人達のことも廻船問屋といいます。
そしてその主な者は一番組水揚商人となり、蛇畠町、紺屋町、宮下町等に店舗を構え、多くの蔵が海岸に立ち並び、一大問屋街をなしていました。
 幕末の頃、彼等の所持する廻船は東西浦賀で約六十艘を数え、宮井家もそうした問屋の最も古い一軒でありました。
浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ


-伝統の技- 鏝絵(こてえ)
 左官職人が壁などの仕上げに鏝と漆喰で造った彫刻風の絵を鏝絵といいます。江戸時代の浦賀は豪商の屋敷や土蔵が立ち並び漆喰を塗る職人も多くいたことから鏝絵作りが盛んに行われていました。


福井県花・越前水仙
 内川新田ははじめ各地で新田を開拓した砂村新左衛門の生地福井県から贈られた越前水仙を植え郷土の偉人に感謝します。
 日本三大水仙群生地のひとつ越前海岸の清楚雄大な景観は新左衛門の「世に尽くし人に尽くす」精神を育みました。
  三百五十回忌紀年
     久里浜古文書の会
     野比 水仙の会


 手づくり郷土賞
 この賞は地域の個性や魅力を生かしてつくられた優れた公共の施設を広く紹介することを目的としています。併せて地域の人々の創意や努力を顕彰して、魅力ある地域づくりに役立てられるよう昭和61年に建設省により創立されました。
 市民を初め多くの人々に親しまれてる「くりはま花の国コスモス・ポピー園」が平成8年にこの「手づくり郷土賞」を受賞しました、
 この施設が末永く親しまれて広く利用され、魅力ある地域づくりが図られるよう、皆様と共に大切にしていきたいと思います。
 この名誉ある受賞を記念してここにモニュメントを建立するものです。
                    横須賀市


(武山不動道標)
     この道標について
1.正面
 道標の上部には【不動明王】が設置されていて、正面には【武山不動明王】と彫られている。
2.左側面
 【此方】(このかた)と書いてあり、【指さしの絵】で向かう方向を指している。また、【いけやまみち】と書いてあり、万人にわかりやすく、ひらがなで案内を記したのかもしれない。
3.右側面
 【武山十三世 達誉 建之】、このことより、武山不動院の十三世住職”達誉”が設置者とわかる。【安政二年 歳次乙卯五月】、これから1855年5月の設置とわかる。【歳次】とは、歳星(木星)が宿ること。また、その年度に宿る場所。木星が葯12年で天を一周するところから、中国の天文学で天を十二次(宿)に分け、その一次を移行する期間を一年とした。そこでその年に木星の所在する宿を歳次という。【乙卯】とは、(きのとう)と読み、干支の一つ。干支の組み合わせの52番目で、前は甲寅、次は丙辰である。
 ちなみに1855年は日米和親条約が結ばれた翌年のことで、アメリカと日本との間で結ばれた悪名高い不平等条約のことである。別名神奈川条約ともいわれている。
あとがき:武山不動に至る参詣道は、南部、一騎塚、須軽谷、北下浦と四方あり、登山口には、必ず前不動と呼ばれる不動明王像が立っていて、参詣人の案内役を務めるとあるこの道標が北下浦のそれであるのか私は知っていない。TSM


道祖神:南向山本行寺(長沢1丁目56-9)
 地神、道祖神マップ (作成中)  三浦半島の道祖神と地神

 道祖神:南向山本行寺(長沢1丁目56-9)
 南向山本行寺本堂
 八大龍王社(南向山本行寺境内)
【文献】
加藤山寿(1967)校訂三浦古尋録、菊池武, 小林弘明, 高橋恭一 校訂、238p、横須賀市図書館、横須賀.
藤井慶治(1981)横須賀市の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.73-84.

堰神社の道祖神とパシフィコの女神像

 三浦半島の道祖神と地神
 南太田駅からほど近い堰神社には、道祖神が合祀されています。神奈川県での道祖神碑は文字碑と双体神碑が半々くらいとの調査結果(鈴木,2011)があるのですが、ここの道祖神は陰陽石型で、これまで撮影していなかったので、今朝通勤途中に立ち寄りました。この道祖神は昭和48年度に実施された神奈川県の道祖神悉皆調査の報告書(岸上,1981)には記載がありません。道祖神とは見做されなかったのでしょうか?


 その後、伊勢佐木町を抜けて女神橋を渡りましたので、ハンマーヘッドあたりから女神像も撮影しました。

【文献】
鈴木英恵(2011)東西に見る道祖神の現状、年報非文字資料研究、(7)、457-478, URL:https://researchmap.jp/suzukihanae/published_papers/35840919, Accessed:2023-01-04.
岸上興一郎(1981)横浜市の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.8-54
女神像「みちびき」、URL: https://www.pacifico.co.jp/pacifico/about_us/artwork/tabid/328/Default.aspx, Accessed:2023-02-08.

逗子山の根の地神塔、など

 山の根の石塔群の中に地神塔があるのにはだいぶ前から気づいていたのですが、地神塔だけ撮影した写真がなかったので、マップ用に撮影してきました。
地神、道祖神マップ (作成中) 地神(地天)  三浦半島の道祖神と地神
緑区、旭区、保土ケ谷区 瀬谷区、大和市 神奈川区、西区、保土ケ谷区 相模原市、町田市、青葉区、旭区 逗子市 横須賀市浦郷周辺


山の根石塔群:山の根3丁目5-20

 一番左が地神塔で、隣は馬頭観音、中央の2基は恐らく地蔵尊、右の二つは庚申塔でした。地神塔の刻印は安政七申(1860年)二月と読めました。


(沼間)五霊神社:沼間3丁目10-34

稲荷社(五霊神社境内社)
イチョウ Ginkgo biloba
イヌマキ Podocarpus macrophyllus


沼間石塔群:沼間1丁目19-25
 道沿いは庚申塔が多いのですが、裏側は馬頭観音が多いようです。


馬頭観音・庚申塔:桜山4丁目15
 左は馬頭観音です。


桜山道祖神:池子2丁目1-5
 石祠の祭神は不明です。

HDD(14TB)を追加

 AmazomでHGSTのリファービッシュ品が出ているのをみつけて、思わず購入。容量対価格比(2,047円/1TB)だけでなく、CMR(Conventional Magnetic Recording)で、しかもHelioSeal(ヘリウム充填)開発元のHGSTです。HDケースの空ベイに搭載し、G:ドライブとして設定しました。
G: 14TB: WD Ultrastar DC HC530 14TB, CMR, 7200rpm (税込み¥28,653-、2023-01-31)


【参考】
 パソコンを更新(XPS8950) 2022-08-19

相模原市、町田市、青葉区、旭区の地神塔など

 今日はあまり出かけたことのなかった横浜市北部を歩いてみました。このあたりは、地神塔、道祖神、庚申塔が混在していますが、同所に集められているときには、地神塔が中央に置かれていることが多いような印象です。
地神、道祖神マップ (作成中) 地神(地天)  三浦半島の道祖神と地神
緑区、旭区、保土ケ谷区 瀬谷区、大和市 神奈川区、西区、保土ケ谷区 相模原市、町田市、青葉区、旭区 逗子市 横須賀市浦郷周辺
【主な経路】
(相模大野駅)-上鶴間本町-高ヶ坂-成瀬-奈良町-恩田町-田奈-長津田みなみ台-霧が丘-若葉台-上川井町-(十日市場駅)


地神塔:谷口中村公園(相模原市南区上鶴間本町4丁目6)

     地神墖移転之記
此の地神塔は文政五年八月青柳寺十二世日冲上人相刕上鶴
間村字中村三六一九番地東南の地高さ六十糎の塚上に建立
それ講中数十軒の崇敬の的であったが太平洋戰争終戦以后
急激な社会狀勢の変化に伴ひ專業農家減少し現在では二十
五軒となった
偶々相模大野駅周辺区画整理事業の爲公園の一角である
当所に移転の止むなきに至ったのである
 維時昭和五十三年戊午三月吉日   中村講中
             方運山廿六㔺師心院日翁

【注】文政五年:1822年、日翁(八幡城太郎1912-1985)は、方運山青柳寺の住職だった方で、俳人としても活躍したそうです。
青柳寺に眠る文人たち、URL:http://www.seiryuji.or.jp/publics/index/24/, Accessed: 2023-01-29.


道祖神:相模原市南区上鶴間本町4丁目26
中央の文字碑には、弘化五戊申(1848)歳正月十四日の刻印があります。右側は双体神像ですが、左の二基が道祖神であるかどうかは不明です。


道祖神と庚申塔:町田市成瀬8丁目1
左側の道祖神は、文久二戌(1862)年正月と読めました。


地神塔(石塔群):町田市成瀬7丁目1-33
地神塔を中央に、左側は馬頭観音、右の三基は地蔵の様です。地神塔の銘には、維時龍舎文政戊子(1828年)霜月とありました。


地神塔:青葉区奈良町833
 いかにも新しそうなこの碑の銘には、昭和五十五(1980)年九月吉日再建とありました。昭和末期にもこの地区で地神講が存在していた証と言えます。


井戸久保の地神塔:青葉区恩田町2172-3


中恩田の地神塔:青葉区恩田町44
 摩滅が進んでいるのですが、天■六乙未(1835)八月吉日と読めました。GoogleMapによれば、すぐ近くにある筈の道祖神は見落としていて未確認です。可能性としては、地神塔の右側の石碑がそうなのかもしれません。


石塔坂の道祖神(?)兼道標:青葉区田奈町6-2

 正面に供養塔とありますが、これは道祖神というより観音像に見えます。取り違えている可能性もありますので、青葉区関係の文献も含めて要調査です。文化五戊辰歳(1808)四月二十三日は、19世紀初頭は思えないほどはっきりと読めました。


五神明地神塔:旭区上川井町2248

 地神塔は、文字碑が多く神像を刻した塔はあまり多くありません。さらに、徳島県を中心に農業に関わる五柱の神名を刻んだ五角形の地神塔も知られており、徳島型、五角柱型、また儀式に用いたという意味で醮儀型と呼ばれます。上川井の地神塔は神奈川県では数の少ない五角柱型でした。
正面:天照大神(あまてらすおおみかみ)
左前:大己貴神(おおあなむちのかみ)
左後:少彦名神(すくなひこなのかみ)
右後:埴安姫神(はにやすひめのかみ)
右前:倉稲魂神(うかのみたまのかみ)


  大貫谷戸水路橋
橋構造 ●延長414m(鉄鋼水路306m)
    ●高さ23m
水路構造●深さ2.7m 巾2.2m
 この水路橋は相模湖にためた水を西谷浄水場に運ぶための導水路の一部です。このような構造の、長い水路橋は全国的にも珍しく貴重なものとなっています。
 導水路には約3.7kmの距離を約13時間かけて水が流れています。このうち川井接合井から鶴ヶ峰接合井までの間の長さ約7kmの区間は、100m進むと6cm下がる傾きで造られているため、水は自然に流れていきます。
※接合井(せつごうい):導水路の分岐点や合流点で、一時的に水をためる施設
          横浜市水道局川井浄水場



【参考】
 相模原市中央図書館
 ブラジルヤシ Butia capitata
 マンホール(汚水)の蓋
 稲荷社:相模原市南区上鶴間本町5丁目16-19
 恩田川
 成瀬杉山神社:町田市成瀬4-13-16
 稲荷堂(2于):町田市成瀬4丁目6-15
 住吉神社:青葉区奈良町833- ムクロジ Sapindus mukorossi 横浜市指定名木古木 No.59018:薬師堂(青葉区恩田町2169)
 石塔群::薬師堂(青葉区恩田町2169)
 オナガ Cyanopica cyanus
 大貫谷戸水路橋

浦郷の道祖神

 神奈川県の道祖神悉皆調査結果によれば、1973年に横須賀市で確認された道祖神は僅か9基でした(藤井,1981)が、そのうち3基は旧浦郷村エリアでの確認でした。今日はその3基を含む4基について確認してきました。旧浦郷村、および旧田浦町エリアの道祖神はこの4基のみと思われます。なお、このエリアでの地神塔は現在確認できませんし、私の知る限り文献にも残されていない様です。
(自宅)-浦谷山法福寺-金剛山正禅寺-太田坂の道六神-吾妻社-(自宅)
 三浦半島の道祖神と地神  地神、道祖神マップ


浦谷山法福寺:追浜本町1丁目19
 神奈川県の調査以降に設置されたと思われる双体神像です。


金剛山正禅寺:浦郷町4丁目5
 庚申塔の傍らに鎮座しています。


大田坂(おったざか)の道六神:田浦町2丁目
 かつての浦賀道沿いに祭祀されています。一時期他所に移転されて寂しがっていたので、元位置に戻したという逸話が伝えられています。


吾妻社:長浦町5丁目15-1
 吾妻社は浦郷八景の吾妻晴嵐で知られる社で、かつては箱崎半島に鎮座していたのですか、米軍による接収により移転を余儀なくされたという歴史があります。道祖神がどのような経緯で現位置にあるかは定かではありません。



【参考】
 浦谷山法福寺:追浜本町1丁目19
 金剛山正禅寺:浦郷町4丁目5
 大田坂(おったざか)の道六神:田浦町2丁目
 吾妻社:長浦町5丁目15-1
 馬頭観音:田浦町3丁目96
 庚申塔:田浦町3丁目92
 田浦一丁目公園(のの字坂)
 馬頭観音堂:田浦町3丁目96
 庚申堂:田浦町3丁目92
 庚申堂:長浦町5丁目10
 寒咲花菜(かんざきはなな) Brassica sp.
 ナンテン Nandina domestica
 田浦第一公園:のの字坂
 キルタンサス Cyrtanthus mackenii
 ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus
 ニホンスイセン Narcissus tazetta var. chinensis
【文献】
藤井慶治(1981)横須賀市の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.73-84.

初春のフラワーセンター

 一番寒い時期とは言え、正月も半ばを過ぎ、だんだんと春めいてきましたので、今日は大船フラワーセンターを尋ねました。ヒマラヤザクラの開花はこの冬も見逃してしまいました。


【ウサギ関連の植物】

 葉ボタンのウサギ
 月兎耳(つきとじ) Kalanchoe tomentosa “タルマ月兎耳”
 ウサギゴケ Utricularia sandersonii
 バニーカクタス Opuntia microdasys v. albispina
 ピンクラビットビオラ Viola x Wittrockiana ‘Flemishlapin’


【ビオラの品種】

 ビオラ Viola x Wittrockiana
  バニーイヤーズ ‘Bunny ears’
  ももかシリーズおかめ ‘Okame’
  ファンシーブルーラビット ‘Fancy Blue Rabit’
  プティ・シャトン モダンタイムズ ‘Modern Times’
  プティ・シャトン ローズブラン ‘Rose Blanche’
  恋みやび
  ファンシーレッドラビット ‘Fancy Red Rabit’
  わらくシリーズ ストロベリー ‘Waraku Strawberry’
  虹色すみれシリーズ スイートラブ ‘Sweet Love’
  プティ・シャトン アクアリップル ‘Aqua Ripple’
  ミミ・ラパン ‘Mimilapin’


【冬の赤い実】

 一両:アリドオシ Damnacanthus indicus (アカネ科)
 十両:ヤブコウジ Ardisia japonica (サクラソウ科)
 百両:カラタチバナ Ardisia crispa (サクラソウ科)
 千両:センリョウ Sarcandra glabra (センリョウ科)
 万両:マンリョウ Ardisia crenata (サクラソウ科)


【その他】

 ヒマラヤザクラ Cerasus cerasoides
 アオノリュウゼツラン Agave americana
 ドンベア・ワリッキー Dombeya wallichii
 ドンベア・ティリアケア Dombeya tiliacea
 ウナヅキヒメフヨウ Malvaviscus arboreus var. mexicanus
 カエンカズラ Pyrostegia venusta
 フリワケサンゴバナ Diflugossa colorata
 春の七草
 大船観音

戸塚区の地神塔など

 戸塚区は横浜市の中でも地神塔の沢山残されている地域です。この地区では双体道祖神も分布しており、名瀬町の経王山妙法寺前には、双体道祖神と賢牢地神供養塔が隣り合って祀られていました。
【主な経路】(下永谷駅)-日限地蔵尊-舞岡八幡宮-街山八幡社-上矢部-経王山妙法寺-(東戸塚)
 三浦半島の道祖神と地神 (堅牢)地神塔マップ (作成中) 地神(地天)
緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09) 逗子市(2023-01-15)


日限地蔵尊:八木山福徳院(港南区日限山1丁目67-30)


道祖神(?):港南区日限山1丁目67-8


道祖神(天保十二丑(1841)年正月吉日)、庚申塔:戸塚区舞岡町3113


堅牢地神(明治十一戊寅(1878)九月吉祥日)、庚申塔:戸塚区舞岡町2613


庚申塔:舞岡町1417


庚申塔:舞岡町1221


双体道祖神:舞岡町970


庚申塔・出羽三山供養塔:舞岡町


堅牢地神(元治第二星宿乙丑(1865)三月造建):舞岡八幡宮(舞岡町946)
蔵王社、山王社、白山社、第六天社(舞岡八幡宮境内)


双体道祖神:天龍山圓福寺(舞岡町336)


しゃもじ神社:戸塚区上矢部町2701


街山八幡社(つじやまはちまんしゃ):矢部町1003
石塔群:街山八幡社
堅牢地祇(嘉永二己酉(1849)年二月):街山八幡社境内
堅牢地祇:街山八幡社境内
本覚院不動尊:街山八幡社境内


道祖神:戸塚区上矢部町2342
石塔群:戸塚区上矢部町2342
篠塚農道寛政記念碑:戸塚区上矢部町2342


松尾神社:戸塚区上矢部町421
 地神社(左)、疫神社(中)、疱瘡神(右):松尾神社内相殿
 蚕霊神碑:松尾神社境内
 横浜市指定名木古木:松尾神社(戸塚区上矢部町421)
  イチョウ Ginkgo biloba No.202018, No.202019, No.202020
  ケヤキ Zelkova serrata No.202021


経王山妙法寺:戸塚区名瀬町772-4
双体道祖神と堅牢地神塔:経王山妙法寺


  道祖神(どうそじん)堅牢地神(けんろうちじん)
 このたび、東戸塚名瀬下土地区画整理事業にともない名瀬町旧一〇八三番地から当時境内へ遷祀いたしました。
 道祖神(左)は、村の境や道の辻に坐して悪霊の入るのを威力をもって防ぎ、病苦や不幸に悩む人びとを守ってくれる神様です。
 堅牢地神(右)は、仏様の教えが弘められるところにおられ、信仰する人、正しい行いをすすめる人を守り、よこしまを戒める大地の神様です。
 これらの神様は、私たちの祖先のときからこの土地に奉祀され尊崇をあつめて、地域の安泰と、掌を合わす浄心の人びとを守護してきたのです。
 願くば、この町と、ここに住む人びとの上に冥加あらせたまえ
南無妙法蓮華経
     昭和五十七年六月吉日
          妙法寺四十六世兼是日諦 識す


「ひまわり」
 港南区の花「ひまわり」をテーマとしました。「ひまわり」は港南区制10周年の昭和54年に区民によって区の花として選ばれました。
 真夏の太陽に向かってたくましく伸びる「ひまわり」のように明るいまちと人と人とのあたたかい交流を表現しています。


日限地蔵尊由来
慶應元年七月二十四日當時鎌倉郡永谷字八木現横濱市南區下永谷町ノ丘陵ニ建立サレン日本三體ノ一日限地蔵ノ御尊像ハ現戸主房太郎ノ祖父飯島勘次郎翁ノ創建ニ係ル由緒深キ地蔵尊デアル
勘次郎翁ハ至極健康ニシテ農ニ生計ヲ樹テシモ晩年ニ至リ持病ノシャクガ起リ病床ニ呻吟スル事数年ニ及ベリ或年伊豆三島長岡寺隠ニ荘誉ニ人代別當棲心庵ノ和尚ガ勘次郎宅ニ杖ヲ引キ伊豆三島ニ祠ラル日限地蔵尊ヲ信
仰セヨ然ラパ病魔立處ニ退散シ難疾モ快癒セシト巖カナル御告ゲガアリタリ日頃信仰深キ翁ハ直チニ清紙ニ日限地蔵尊トシタヽメ三島ノ方向ニ安置シ日夜禊斉ノ信仰ニ心魂ヲ打込ミシガコノ甲斐アルニ不思議ヤ霊現モアラタカニ硫石難澁ヲ極メシ病モ薄紙ヲ剥グカノ様ニ快方ニ向ヒ忽チニシテ全快セリコレコソ御佛ノ篤キ加護ト翁ハ感泣スルトコロヲ知ラズ事後病ニ悩ム人々ヲ救済セント發心シ旅装モモドカシク永谷ノ地ヲ出立戸塚宿ヲ經テ老杉古松ニ假寝ノ夢ヲ結ビケリ東海道ヲ西ニ下リ名所古蹟ニ或ハ天下ノ岒トシテ名髙キ翠巒渓谷ノ難所箱根八里モ一気ニ越ヘ数日ニシテ三島ノ宿ニ到着斉民ノ志ヲ延ベ御地蔵尊分與方ヲ懇願遂ニ御分霊十體ヲ押戴キ翁ハ再ビ陸路デ御尊像ハ伊豆三島船ニ途中恙ガナク相模灘ヲ乗切リ歌ニ名髙キ屏風ヶ浦ノ森町ニ御寄着更ニ馬ニテ日野路ヲ越ヘ八木ノ地ニ御迎ヘ申セシモノナリ當地境ヒハ遠く富嶽ノ悠久ナルヲ眺メ杉松森々トシテ四囲ヲカコミ梅櫻楓樹頗ル多ク風色四時ニ愛デタリ佛護ニ接セントスル老若男女マタクヒスヲ接シテ参詣絶エル事ナク商家軒ヲツラネテ客ヲ呼ビ大イニ殷賑ヲ極メリ
翁ハ村内カラ五人ノ世話人飯島興石衛門飯島鹿造西木嘉平並木鉄五郎秋元文左右衛門ヲ選ビ堂宇ノ建立ヲ図ルト共ニ自ラ堂主トナリテ御守リニ當タレリ
其後一時荒廢ニ期センガ現戸主房太郎翁ガ夢枕ノ御告ゲニテ夫妻共ニ協力再ビ復活ヲ図リ堂宇ヲ修復シ日本三體ノ一トシテ名聲ヲ傳スルエ至レリ房太郎翁ハ齢旣ニ八十ヲ越ヘシモイマナホ健全ニシテ壮者ヲシノギ日夜信仰ニ余リ全霊ヲ捧ゲ苦界ニ難澁スル人々ノ爲或ヒハ護國ノ英霊ノ冥福ヲ祈リツヾケ精進ヲシツヽアリマタ諸国カラ効験アラタカナ護符ヲ受ケントス善男善女数知レズカクテ霊験ノ加護ハイマヤ全國ニ及ベリ


江戸方見付跡
 江戸時代に、戸塚の宿で町並みを形成し、二十町十九間を宿内とし、その両端に道を挟んで見付を築き、これを宿場の入口の標識とした。貴賓の送迎はこれから行はれ、大名行列もこれより隊伍を整えたものである。


旧東海道
 見付とは、宿場の出入り口のことです。ここは戸塚宿の江戸側の出入り口です。旧東海道の宿場に設けられた見付は、宿場を見渡しやすいような施設となっていることが多いようでする参勤交代の大名らを、宿役人がここで出迎えました。


篠塚農道寛政記念碑:戸塚区上矢部町2342
爾来此ノ地面積約三十丁歩ニシテ古ユリ此レニ居ヲ構エシ土
着ノ人者数ウルニ足ル村落ナルニ時・推移今日ニ及ビテ村道ノ紆余
曲折狭隘ナルハ人車ノ交通困難ノミナラズ大都市近郊地域トシテ発
展著シク阻害サル地元有志次代ヲ先見道路現況ヲ憂ウ地元民此処ニ
起チテ農道ノ拡巾整備ヲ決シ未來ヲ画ス此処ニ横浜市ノ指導助成ヲ
得全長千三百米巾員四・五乃至八米ノ道路ハ昭和参拾七年以來五年
ノ才月ヲ要シ昭和四拾弐年完工ス此ノ間関係官民ノ物心両面ニ亘ル
援助功績ニ敬意ヲ表シ此レガ将來利用者及ビ土地発展ニ便セバ計画
者ノ趣意ヲ得ン
              昭和四拾弐年十月
           上矢部町農道事業施工組合建之


日蓮宗宗門史跡
  名瀬妙法寺由来
当山は、「名瀬妙法寺」と通称し。開山は弁阿闍梨日昭上人、開基檀家は。風間信濃守信昭公です。
日昭上人は宋祖日蓮上人の最初の弟子としてつとに知られています。師、日蓮上人が、法華経弘道のため数々の法難に遭う中で、蔭で支え後顧の憂いなくつとめられました。そして、日蓮上人御入滅後四十余年長生きされ、教団を見守り続けた功績は、今日の日蓮宗信仰の礎となっています。元享三年(西暦一三二三)百三歳で亡くなられました。徳治元年(西暦一三〇六)日蓮上人御入滅後二十五年、かねて帰依していた日昭上人を請じ、信昭公屋敷地に一宇を建立したのが妙法寺の始まりです。
 信昭公は、越後国(新潟県)の有力な豪族で鎌倉勤番の折、鎌倉街道『中の道』が通じた名瀬に屋敷を構え幕府に出仕していたのです。信昭公の屋敷跡は『殿畑』とよび伝え、寺より南方五十メートル先の道路沿いに碑が建っております。信昭公は、日昭上人の遺命により領国へも教えを広め、後に日昭門流として大きく発展してゆきました。
右のように由緒により、平成九年十月、日蓮宗宗門史跡に指定されました。
寺宝
一、宗祖日蓮上人像(室町時代造・横浜市指定文化財)
一、板曼荼羅ご本尊(宗祖開山上人授与伝法本尊謹刻)



【参考】
 ひまわり:下永谷駅構内
 ニホンスイセン Narcissus tazetta
 ひまわり薬局:戸塚区吉田町894-1
 江戸方見付跡碑
 新製作家協会々員 髙𣘺 米
 第8回日展出品菊華賞 道
 しゃもじ神社:戸塚区上矢部町2701
 ロウバイ Chimonanthus praecox
 寒咲花菜(かんざきはなな) Brassica sp.
 エリカ・ウィンターファイアー Erica oatesii cv. Winter Fire
 マンリョウ Ardisia crenata
 ウメ Armenica mume
 紙垂(不明の神):戸塚区上矢部町2168
 松尾神社(戸塚区上矢部町421)
 横浜市指定名木古木:松尾神社(戸塚区上矢部町421)
  イチョウ Ginkgo biloba No.202018, No.202019, No.202020
  ケヤキ Zelkova serrata No.202021
 地神社(左)、疫神社(中)、疱瘡神(右):松尾神社内相殿
 蚕霊神碑:松尾神社境内

逗子市の地神、道祖神など

 三浦半島での地神塔の分布は、逗子、葉山、横須賀北部辺りが境界域となっていると思われます。このエリアはこれまで何度も通りかかっているのですが、今日は念のため逗子で確認してきました。
 三浦半島の道祖神と地神 (堅牢)地神塔マップ (作成中) 地神(地天)
緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09) 戸塚区(2023-01-21)


桜山道祖神:逗子市池子2丁目1-5
 社屋内に祀られているようですが、施錠されているので未確認です。隣接して設置されている石塔群のうち一基は、明治42年の建立で『道祖大神』と『猿田彦命』が連名となっているので、道祖神とも庚申塔、あるいは両方を兼ねているとも取れる碑です。


地蔵山石塔群:逗子市桜山5丁目1
 多くは、庚申塔と馬頭観音ですが、一番手前は堅牢地神塔で、安政六未(1859)四月吉日と読めます。また右側には『金光明最勝王経』とありますので、間違いなく地天信仰がこの地にあった証です。この塔は、三浦半島で最大の地神塔ではないかと思われます。


石塔群:亀岡八幡宮(逗子市逗子5丁目2)
境内に集められている石塔群の一番左が堅牢地神塔で、天保三年壬辰(1832)年二月吉日と読めます。


 路傍に青面金剛を祀って、「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿を刻んだ庚申塔がある塚を庚申塚といいます。
 昔は鳥居の外側の路傍にありましたが、昭和二十年代末期に行われた道路拡張工事でここに移されました。
 中国の道教に由来する禁忌で、庚申の夜に眠ると人身中の三尸(さんし)の虫が罪を上帝に告げるとも、命を縮めるともいわれ、仏家では帝釈天青面金剛を、神道では猿田彦を祀って一晩中起きている「庚申待」という風習があり、平安時代に伝わり江戸時代に盛行しました。
 左から二・三番目が庚申塔で、小さい方が天保三年(一八三二)建立の笠型塔で、一面六臂の青面金剛が合掌して立ち、下部中央に前向きの「聞かざる」、両側に横向きの「言わざる」と「見ざる」が彫られています。
 大きい笠型塔は寛文十一年(一六七一)の建立です。寛文年間に建てられた市内の庚申塔七基中で笠型塔はここだけ、他は舟型塔です。
 一面六臂の青面金剛像が逆蓮華座に乗っており、三猿は塔の三面に各一体ずつ彫られ、正面が「聞かざる」、右側が「見ざる」で、左面が「言わざる」です。
 鎌倉で青面金剛像が彫られた最古の庚申塔は、坂の下御霊社にある延宝元年(一六七三)なので、寛文十一年(一六七一)建立の逗子の方が、鎌倉より二年早く笠型塔を拵えていたのです。
 左端の堅牢地神塔は大地をつかさどる地天(地の神)をお祀りして天保三年(一八三二)二月の建立です。
 右端の馬頭観音塔は馬の保護神として、江戸時代に広く信仰されました。


【逗子市小坪の道祖神】(2018年撮影)
 2018年に逗子八景の小坪歸帆を確認するために立ち寄った際に、たまたま双体道祖神も確認していました。
  小坪で社を散策 part1 part2

 小坪の道祖神はいずれも双体神像を刻している5基で、そのうち佛乗院の1基は最近のものと思われますが、他の4基は海沿いの漁師町旧4地区それぞれの鎮守社にありました。農村では結界を守るための境界域に設置されることが普通である道祖神ですが、各地区が接近して配置されているため、それぞれの地区の鎮守社に設置されているのだと思われます。
 これらの地区は、1232年に和賀江港が開かれて以降、伊勢から移り住んだ漁民によって鎌倉の魚座を賑わした(石井,1993)と言われています。伊勢は、道祖神と同一視されるこのとある猿田彦命を主神として祀っている猿田彦神社の地ですから、移住の際に道祖神信仰が齎された思われます。


 その他の本日撮影の写真です。まだ、オニシバリの蕾は固いようでした。

【参考】
 ニホンスイセン Narcissus tazetta
 ウチワタケ Microporus affinis
 マルバウツギ Deutzia scabra
 オニシバリ Daphne pseudomezereum
 サルトリイバラ Smilax china
 マサキ Euonymus japonicus
 鷹取山山頂
 アオキ Aucuba japonica
 ヤブツバキ Camellia japonica
 マダケ Phyllostachys bambusoides
 馬頭観音、地蔵尊、五輪塔:池子4丁目
 地蔵尊:池子神明社(逗子市池子2丁目10)
 疱瘡神、馬頭観音、庚申塔:池子神明社(逗子市池子2丁目10)
 庚申塔:池子神明社(逗子市池子2丁目10)
 石塔群:青龍山東昌寺(池子2丁目8-33)
 河津桜(かわづざくら)Ceasus x kanzakura ‘Kawazu-zakura’
 『肉の杉山』閉店
 亀井地蔵尊:逗子5丁目4-33
 横浜市指定名木古木 No.48137 瀬戸神社のカヤ Torreya nucifera
 タチツボスミレ Viola grypoceras


          令和4年8月
         (有)杉山牛肉店
 8月末で閉店のお知らせ!!!
永らくお引き立てを賜りありがとうございました。
 日頃、当店に格別のご高配を賜り有難うございます
お陰様で75年間逗子で営業させて頂きましたが、8月一杯で閉店させていただくことになりました。突然のお知らせでご迷惑をお掛けしますこと、重々承知していますがお許しいただけますお願い申し上げます!
長い間お引き立てを頂きましてありがとうございます!
心より感謝申し上げます。


 亀井地蔵尊の由来
田越川原は大昔には死骸の埋葬地でした。中世は処刑場となり、六代御前や三浦胤義の子供達も、此所で首を斬られました。吾妻鏡の嘉禄元年九月八日の条には、北條泰時三浦義村が弁僧正の弟子達を供養のため、八万四千基の石塔を建てた旨が記されています。
 今、立っている此の場所は大墓(おおはか)といって長い間の共同墓地でした。かつて、写経石や土師器の破片等が出土しています。
 此所に在った墓石は延命寺や妙光寺ほか近くの寺に移されました。閻魔堂がありましたが、中にあった閻魔は延命寺に移され今も祀られています。亀井地蔵尊は此所に尊く葬られています。
 多くの霊を供養するために建立されました。謹んで合掌し奉ります。
  昭和五十九年四月八日奉修開眼供養
         文       内田武雄
         謹書延命寺住職 神田宣圓


【文献】
石井清司(1993)小坪の漁労集落としての歴史、p3-9、in 逗子市文化財調査報告第15集小坪の漁労具、逗子市教育委員会.
逗子教育委員会(1978)文化財散歩-ふるさと・逗子、73p.

三浦半島の道祖神と地神

(本日、雨天につき、文献整理でした)
 地神塔と(双体)道祖神の分布の関係を調べるために文献調査していたところ、神奈川県での道祖神のまとまった調査(神奈川県の道祖神調査報告書,1981)が昭和末期に行われていたことに気づきました。しかも、鈴木(2011)によれば、神奈川県は、長野県、群馬県に次いで多くの道祖神塔が残されている県であるだけでなく、道祖神石塔の半数が双体神の像容なのだそうです。これらの文献の考察などを参考に以下に備忘を記録しておきます。


(堅牢)地神塔マップ (作成中)  地神(地天)  三浦半島での分布(まとめ)
緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09)

【全国分布】
 石碑としての道祖神は、北は青森県から南は島根県まで分布するが、分布密度が高いのは、長野県、群馬県、神奈川県、静岡県、山梨県、新潟県など本州中部と鳥取県を中心とした山陰地方の東西二ヶ所である。
 地神塔の分布は道祖神より限定されるが、東日本では神奈川県に、西日本では岡山県と香川県に多く分布する。入植者によって導入された北海道でもみられる。

【形態】
 道祖神碑は、文字碑と双体神像碑に大別され、文字碑の場合は道標を兼ねていることが屡々ある。双体神像の場合には、性別不詳の二神の場合と、夫婦とみられる男女神の場合があり、男女神の場合は安曇野地域で数多くみられているため、安曇野型と呼ぶこともある。また、陰陽二石などの性器を模した道祖神石碑も知られる。近年設置された道祖神は、信仰とは関係なく、美術品あるいは観光や宣伝目的であることが多く、その場合はほぼ例外なく安曇野型となっている。鈴木(2011)によれば、神奈川県の道祖神はほぼ半数が双体神像碑となっている。
 石碑を建てることはないが、境界を示す注連縄『道切り』(小口,1985)、東北地方などでみられる稲わらや木で作られた『人形神』(伊能,1919)も結界内を守護するという性格は、石碑道祖神と同質と考えられる。また、三浦半島の西海岸では、球状コンクルージョンを子産石(こうみいし)と称して安産祈願する風習が残されており(瀬川,2022)、道祖神碑と置き換わっている可能性がある。村松(1981)によれば、三浦半島最南端に位置する三浦市でもゴロ石と呼ばれるおんべ焼に用いる丸石が多数確認されている。
 地神塔は、文字碑であることが圧倒的に多くなっており、『地神塔』『堅牢地神塔』と刻まれていることが多い。神像塔の場合は、女神の場合男神の場合があるが、男女二神の例はないようで、神像塔では文字が刻まれないことが多いため、双体道祖神とは区別できていない可能性もある。徳島県を中心とする地域では、五角柱の石碑に農耕に関係する五柱の神名を刻んだ形態があり、徳島県を中心に分布することから徳島型、また儀式に用いたという意味で醮儀型と呼ぶ。

【祭祀神】
 道祖神の神は、日本古来の『みちの神』とされる。神名は明らかにされていないが、伊弉諾が黄泉から戻った際の禊で生じた道俣神(ちまたのかみ)、国譲りの際の道案内で知られる猿田彦神を始め他の神との習合も知られているようである。朝鮮半島のチャンスン(長生)の影響があるとも言われる(諏訪,1994)。
 堅牢地神の原型は十二天の一柱である地天であるとされ、元々は女神であるが、仏教に取り込まれる過程で、男神あるいは男女二神とされるようになったと言われる。田中(2021)によれば、堅牢地神は、文殊菩薩が化して現れた仙人の教化により菩提心を得て、弁財天と堅牢地神のふたつの名を与えられた野干(狐)だという説話が残されている。徳島型の地神塔で刻まれる神名は下記の通り。
 天照大神(あまてらすおおみかみ)
 大己貴命(おおあなむちのみこと) (= 大国主)
 少彦名命(すくなひこなのみこと)
 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) (= 稲荷)
 埴安媛命(はにやすひめのみこと)
 北海道では、倉稲魂命の代わりに稲荷神と習合することのある豊受比売命(とようけびめのみこと)を当てている塔もある(石川,1990)。なお、藤沢市亀井野の地神社の祭神は埴安媛命である。

【呼称】
道祖神の他、ドウロクジン(道禄神、道陸神、道六神)、サイノカミ(賽の神、幸の神、性の神)などと多くの呼び名があり、『おくの細道』では『そゞろ神(漫ろ神)』となっている。
 堅牢地神の原型は地天(Pṛthvī)であり、地神と呼ばれることもある。ただし、出雲神話系の神である埴安媛命などとの習合も見られるようで『地の神』と理解するほうが良いのかもしれない。地神を祀る石塔としての名称は、堅牢地神塔、地神塔、地祇塔、社日塔、天社神塔などが知られている。地神のよみかたは全国的には『じしん』あるいは『ちじん』であるが、横浜市泉区周辺では『じじん』(泉区総務部,2019)と訛っていた様である。

【講】
 宗教行事集団である『講』の規模について伊東(1982)が興味深い指摘をしている。『一般に戸塚区では地神講の方が庚申講より一つの組の単位が大きかったようである。(原文通り)』地神講が五穀豊穣を祈るという結界内の村落単位であったのに対して、庚申講はより小さい単位で主宰されており、しかもこの二つは重なりがあったという指摘が戸塚区での調査結果に基づき示されている。

【行事儀式】
 関東甲信越地方では、小正月(1月15日)の火祭りを『ドウソジン』と呼ぶ地域が多く『どんど焼き』また三浦半島では『おんべ(御幣)焼き』などの名称も知られていて、いずれも道祖神と関連があると考えられている。また、桜井(1966)によれば、農作物につく害虫を駆除する行事『虫送り』も道祖神信仰に関わる。堅牢地神を奉斎する講は社日講と呼ばれることも多く、春秋の彼岸日に一番近い(つちのえ)の日に社日祭を開催する。この祭りは社日に田の神と山の神が交代するという信仰と関係するとされている。


【三浦半島域での分布】(まとめ)
 三浦半島域では、多くの庚申塔を今でも確認できるが、道祖神は少なく、地神塔は殆どみかけない。数少ない道祖神も、ごく最近(平成以降)建てられたものを除けば、すべて文字塔である。
《道祖神》
 川口(1981)は道祖神信仰の分布は諏訪信仰圏を意味するとしている。これは諏訪信仰とミシャグジ(石神)信仰との関連において全国的にみると正しいのかも知れないが、三浦半島には諏訪系の神社が少なくとも20社程度は現存しており、必ずしも当てはまらない。道祖神の本質の際たるものは『塞ノ神』すなわち境界(結界)を防御する神である。これと同等な機能をもつ『道切り』と呼ばれる習俗が横須賀市長井町荒井地区に残されている。『道切り』に類似する風習は東京湾の対岸でも知られており、昭和中期の自動車の普及に伴って交通の妨げになるという理由で急速に衰退したと考えられている。また、三浦半島西海岸では道祖神信仰とみなすこともできる子産石信仰のあったことが、道祖神碑の分布に関係した可能性がある。道祖神が三浦半島域で少ないのは、かつて盛んだった『道切り』が廃れてしまったことや道祖神の代わりとなりうる『子産石信仰』があったことに関係しているかも知れない。

 なお、三浦市南下浦町金田には3基の夫婦地蔵があり、これを外見から双体道祖神でないと断ずることは難しい。もし、これが道祖神であるならば、三浦半島最南端の双体道祖神ということになる。
  双体神像道祖神の分布に関する検証(3件)

《地神塔》
 地神塔の分布については、五角柱を特徴とする徳島型は領主による造塔推奨があったことが認められている(梅原,1987)ため別にして考察する必要がある。道祖神講、また庚申講の様な日待講は、教団化した宗教者の関与が少ないことが特徴であり、このため民間宗教と総称される。ところが、相模の地神信仰は、特定の宗教指導者の関与が大きいとされている(梅原,1987)。このことが、地神塔の分布に寄与した可能性がある。その象徴的な例が、神像を刻した塔については、かつて高座郡西俣野(現藤沢市)にあった御嶽山神禮寺で発行された表具(掛軸)の影響があった(伊東,1982;梅原,1987)と考えられており、神像地神塔が藤沢市周辺に多いことと関係する。


 文字塔も含めて三浦半島域で地神塔が少ない理由は、これまで確認できた文献にも言及はなく、未だ明らかにされていない様である。地神講は祭祀集団の規模から考えると道祖神講とは競合しても庚申講との競合があるとは思えず、もしあるとすれば『道切り』の祭祀集団と競合していた可能性があるものの、これらは今のところ憶測にすぎない。
 上述のこと等を基に、信仰集団(講)のサイズと領主や宗教指導者(神職や僧侶)の関与の度合いに注目して概念としてまとめれば、下図(市橋,未発表)のようになる。

領主等の関与度と集団サイズによる民間信仰の配置


 地神塔の分布を考える時、考慮すべき他の祭祀集団=講はいろいろありそうだが、葉山地区を中心にして石塔を確認でき、浅間神社とも関係のある富士講、半島全域で石塔ではなく石祠や社を持つことが多い稲荷講などに注目する必要があると考えられる。

 さらに、地神信仰の典型は農業神としての地の神に五穀豊穣を願う事に照らすと、漁労の割合が多くなる沿岸地域では平野部に比べて、地神信仰は伝播し難かったた可能性もある。


 これまでのところ、三浦半島エリアで確認できた地神塔は、逗子市の亀岡八幡境内地蔵山石塔群山の根石塔群、および横須賀市根岸の牛宮神社境内にある4基である。
 双体神像の道祖神は、伊勢からの移住にともなって導入されたと推測される小坪地区を除くと3基(追浜本町1丁目上山口林3丁目)を確認しているが、これら3基は過去の文献には見当たらず、摩滅状態から見ていずれも最近建てられたと思われる。
 以上のことはあくまでも石碑の分布についての考察であるが、石碑がなかったからと言って信仰が存在しなかったことにはならない。特に地神信仰の場合では、石碑を立てずに表具(掛軸)の掲示により祭祀したことも多いらしい。私の知る限りでは、現在三浦半島最南端の地神塔は横須賀市根岸2丁目の地神様であるが、この碑はかつてこの地域に地神講があったことを後世に伝えるために、昭和45(1970)年になって建てられたものである。恐らく、三浦半島で最新の地神塔でもあると思われる。
 さらに、三浦半島地域で石塔群、庚申塔群と認識していた中に馬頭観音、五輪塔などが多数あったことは記憶しており、その中に地神塔や双体道祖神 が紛れている可能性もある。いずれ機会があれば、文献調査、現地調査も含めて検討してみたい。


【文献】
鈴木英恵(2011)東西に見る道祖神の現状、年報非文字資料研究、(7)、457-478, URL:https://researchmap.jp/suzukihanae/published_papers/35840919Accessed:2023-01-04.
梅原達治(1987)地神信仰の地域的変異について、札幌大学教養部紀要、30、69-87, URL: https://core.ac.uk/download/pdf/230296308.pdf、Accessed: 2022-12-30.
高橋晋一(2004)地神塔と三神塔、徳島地域文化研究 (2), 1-11, Accessed: 2023-01-01.
伊東重信(1982)戸塚区の地神塔,とみづか,8,37-42,郷土戸塚歴史の会,横浜.
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藤井慶治(1981)横須賀市の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.73-84.
村松豊(1981)三浦市の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.187-191.
川口謙ニ(1981)総論、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p1-7.
桜井徳太郎(1966)民間信仰、334+10p、塙書房、東京.
小口千明(1985)農村集落における精神的ムラ境の諸相-茨城県桜村における虫送りと道切りを事例として-,城西人文研究,12,37-51, URL:https://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00000110736.pdf
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近藤喜博(1978)稲荷信仰, 247p, 塙新書52, 塙書房, 東京.
正富博行(2011)石刻の農耕神, 244p, 吉備人出版, 岡山.
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瀬川渉(2022)須軽谷上の里の丸石道祖神、横須賀市博物館研究報告(人文科学)、66、57-66、URL:https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/wp/wp-content/uploads/2022/04/j66-4_Segawa_2022.pdf. Accessed:2023-01-27.
田中亜美(2021)狐と堅牢地神(Fox and Pṛthivī)-日本における<狐仮虎威>説話の受容と『摂寿経』-、早稲田大学大学院文学研究科紀要, 66, 1224-1209, URL: http://hdl.handle.net/2065/00076228, Accessed: 2023-04-30.