今年も年末は叔母ちゃんの家で過ごしました。毎年のことながら、豪華な料理。ちなみに、既に大学合格が決まっている茉莉花は、明日広島へ出発し新年を迎える予定です。
白山神社を巡って
今日は、金沢区、磯子区でまだ撮影していなかった社を訪ねました。気づくと白山社が3社ありましたので、当サイト内の白山社へのリンクを整理してみました。
【横浜市指定名木古木】
ケヤキ No.95015(六浦白山神社:金沢区六浦東2丁目13-20)
タブノキ No.49287(磯子区洋光台6丁目16)
【(六浦)白山神社】金沢区六浦東2丁目13-20
新編かなざわの歴史事典によれば、瀬戸神社に合祀されたため今では影宮ですが、綺麗に整備されたお社です。境内では横浜市指定の名木古木のケヤキが元気です。
【白山妙理大権現(白山社)】金沢区釜利谷南2丁目44
白山信仰の主神は通常は
【不明の社】金沢区釜利谷東7丁目20
以前から気づいていた参道の分かりにくいお社です。鳥居が稲荷社を思わせますが、由緒は不明です。
【金比羅宮】金沢区釜利谷東6丁目40
竹嵓山禅林寺に隣接する社です。
【宇賀山王社】金沢区釜利谷東7丁目11-2
福松山自性院慈眼寺の境内社で、名称は山王社ですが、本尊は薬師如来のようです。
【熊野権現社】金沢区釜利谷東4丁目47
隣には稲荷社が鎮座しています。
【峯白山神社】磯子区峰町623
辿りついた時にはすっかり暗くなっていました。本殿の左右に境内社、西側の眺めが良いようです。
峯白山神社略記
御祭神 伊邪那美命
峰という地名は
又長野山(現円海山)については「村内南方にあり、土俗に円海山と呼ぶ郡中第一の高山にて眺望殊に類なし。相州鎌倉山眼前にあたり、四方の村々を足下に見下し、東は海面渺茫として房總の諸山を望み、遠くは、伊豆、箱根、富士、大山、筑波、日光、浅間等を始めとして都て、十ヶ國の山々を一望す、故に土人十國見と偁し、或は八州見とも呼ぶ。関八州一望の内に見るの義なるべし。眺望する所の十ヶ國は、駿河、甲斐、伊豆、相模、安房、上總、常陸、上野、下野、信濃等なり。」とありますように峰町は昔から風光明媚な景勝の地として知られておりました。当、嶺町の鎮守様、峰白山神社は明治以前の神仏習合の時代には、白山権現社というご社名で祀られておりました。
創立の年代ははっきりして居りませんが、天保十五年(一八四四年)の社殿鎮座の棟札によりますと、「当社ハ鎌倉繁栄ノ頃ヨリ宇手四面ト言ウ地ニ鎮座シテ今権現ト呼」とありますので、鎌倉時代から鎮座して現在まで七百余年経て居る古社であることは確かです。
ちなみに宇手四面とは、旧鎌倉道の道場坂の上で小名権現と言う地で現在の地番表示では洋光台六ノ二十七辺りと言う事で宅地造成前はこの辺りは樹木が生い茂った三〇〇坪程の社地があったと言う事です。現在社殿のあるところは、阿弥陀寺二十四世孝譽上人が社参の都合上、寺の近くの寺地の一部をさいて社地として天保十五年に移し祀ったものと言われて居ります。その後明治初めに神仏分離でお寺さんの管理を離れ、村民持ちの鎮守となって名を自由神社と改称し、中原、杉原健雄が神主となりました。
明治二十五年に社殿の造営が行れ本殿、拝殿、二棟の荘厳な神明造りの社殿が完成しましたが、明治四十五年の神社合併によって栗木の日枝神社に合祀され、この時社殿も移されました。終戦の後、宗教法人法が改正され、合祀されていた神様を元の土地にもどすことになり、昭和二十二年に仮社殿を建ててご神体をお迎えして神主杉原敏夫によって還御祭を奉仕して社名を峰白山神社としました。
その後、洋光台団地造成のため、小名権現の旧社地が売却され、これを基金として氏子の寄付を募り、鉄筋コンクリート神明造りの社殿を奉建し、昭和四十四年八月神主杉原敏之により還宮奉祝祭を執り行い現在に至って居ります。
ところで、白山権現という神様ですが、ご本社は石川県石川郡鶴来町に鎮座される、旧、国幣中社白山比咩神社です。この神社は由緒によりますと、「霊峰白山を御神体として白山姫の大神(伊邪那美大神)を奉斎する。崇神天皇のときに白山の
平安末期から室町期にかけて白山には僧房三千が棟を並べ僧兵数万を擁して、熊野、比叡と肩を並べる程の大勢力となり、この山法師たちが全国を回国修行して各地に白山権現社を建てたのであります。
北陸の景勝地白山の山頂に祀られた大神様が関東の十国を見渡す、風光明媚の地、「峰」の山頂に祀られたと言う事はまことにご神慮に叶った事だと存じます。
神道大辞典伊邪那美命の項に「伊邪那岐ノ命ト共ニ国土ヲ修理固成シ大八州国及ビ山川、諸神ヲ生ミ給フ」とありますように、国土創建の神であり諸神を産み給うた親神様であります。
子等の幸福を願わない親はありません。吾々氏子が己の行を正し、心を祓い清めて、大神様の御前に額ずく時、必ずや大神様の御神徳を戴く事ができましょう。
宮司 杉原敏之 記
【注】原文には明らかなミスタイプが多数あるため、類推できる部分は修正しています。なお、
–> 上記の鳥居前に掲示されていた由緒書きの祭神に関する部分は『磯子の史話』からの引用と思われます。
渋谷(2015)によれば、白山神社の総本社である加賀白山比咩神社の創始者である泰澄が白山山頂で出会った本地仏十一面観音は、自らを伊弉冉尊である名乗ったと伝えられているものの、同社の主祭神は菊理媛尊であるとされています。菊理媛と伊弉冉を同一視する解釈は、恐らくは『磯子の史話』からの引用の際に誤った(あるいは分かりやすく改変された)ものと推測されます。(2019/12/27)
以下、その他の写真です。
【参考】
ケヤキ Zelkova serrata
タブノキ Machilus thunbergii
寒念佛供養塔:釜利谷南2丁目41
石塔群(観音、地蔵):釜利谷南2丁目43
白山古道磨崖仏
二ホンスイセン Narcissus tazetta var. chinensis
地蔵尊:福松山自性院慈眼寺境内
地蔵堂:磯子区栗木3丁目35
【三浦半島周辺の白山社】
これまで訪ねたことのある社を中心にして、境内社や合祀社を含む白山神社を整理してみました。かつて全国に3000社あったと言われる白山神社ですが、こうしてみると、三浦半島あるいは旧相模国では寧ろ珍しい神社と言えそうです。
三浦市
白山神社:三浦市南下浦149(旧相模国三浦郡菊名村)
横須賀市
平作神社:横須賀市平作6丁目7(旧相模国三浦郡上平作村)
祖母神社:横須賀市長坂3-12-15(旧相模国三浦郡長坂村)
【白山神社跡:横須賀市浦賀1丁目9-10(旧相模国三浦郡大津村)】
藤沢市
白山神社:藤沢市下土棚1065(旧相模国高座郡下土棚村)
鎌倉市
白山神社:鎌倉市今泉3丁目13-20(旧相模国鎌倉郡今泉村)
甘縄明神宮:鎌倉市長谷1丁目12-1(旧相模国鎌倉郡長谷村)
白山社:鎌倉市稲村ガ崎1丁目6(旧相模国鎌倉郡極楽寺村)
五社稲荷神社:鎌倉市岩瀬1399(旧相模国鎌倉郡岩瀬村)
横浜市
白山社:横浜市泉区岡津町1552(旧相模国鎌倉郡岡津村)
白山神社:横浜市栄区東上郷町44-9(旧相模国鎌倉郡上之村)【白山社跡:横浜市栄区長倉町1-29】
白山社(舞岡八幡宮境内):横浜市戸塚区舞岡町946(旧相模国鎌倉郡舞岡村)
白山神社:金沢区六浦東2丁目13-20(旧武蔵国久良岐郡三分村)【合祀先:瀬戸神社】
白山妙理大権現:横浜市金沢区釜利谷南2丁目44(旧武蔵国久良岐郡宿村)
峰白山神社:横浜市磯子区峰町623(旧武蔵国久良岐郡峰村)
白山神社:横浜市磯子区上町12(旧武蔵国久良岐郡根岸村)
白山社:横浜市南区別所2丁目30-29(旧武蔵国久良岐郡別所村)
春日神社:横浜市港南区日野中央2丁目9-3(旧武蔵国久良岐郡宮下村)
住吉神社:横浜市港北区小机町110(旧武蔵国橘樹郡小机村)
潮田神社:横浜市鶴見区潮田町3-131-1(旧武蔵国橘樹郡潮田村)
(新羽北)杉山神社:港北区新羽町3918(旧武蔵国都築郡新羽村)
若雷神社:横浜市港北区新吉田町3490(旧武蔵国都築郡吉田村)
東京・埼玉
白山神社:東京都文京区白山5丁目31-26(旧武蔵国武蔵国豊島郡小石川村)
大麻止乃豆乃天神社:東京都稲城市大丸847(旧武蔵国都築郡多磨郡大丸村)
白山神社:さいたま市大宮区堀の内町2丁目(旧武蔵国都築郡足立郡大宮村)
【参考文献】
蘆田伊人編(1985)新編相模国風土記稿第三巻、大日本地誌大系㉑、385p.、雄山閣
蘆田伊人編(1985)新編相模国風土記稿第四巻、大日本地誌大系㉒、393p.、雄山閣
蘆田伊人編(1985)新編相模国風土記稿第五巻、大日本地誌大系㉓、443p.、雄山閣
蘆田伊人編(1985)新編相模国風土記稿第六巻、大日本地誌大系㉔、390p.、雄山閣
林述斎・間宮士信編(1982)新編武蔵風土記稿横浜・川崎編第一巻、480p.、千秋社.
林述斎・間宮士信編(1982)新編武蔵風土記稿横浜・川崎編第二巻、520p.、千秋社.
横須賀市社会科研究会編(1978)横須賀皇国地誌残稿、134p.
白井永二・土岐昌訓(1979)神社辞典、360+31p.、東京堂出版.
金沢区生涯学習”わ”の会(2010)新編かねざわ歴史事典、142+31p.
磯子区制50周年記念事業委員会「磯子の史話」出版部会 編(1978)磯子の史話、762p .
南区の歴史発刊実行委員会編(1976)南区の歴史、650p.
港南の歴史発刊実行委員会編(1979)港南の歴史、781p.
「古老を囲んで港北を語る」委員会(1976)港北百話=古老の話から=、319p.
渋谷申博(2015)、諸国神社一宮・二宮・三宮、380p.、山川出版社.
冬の日の『こども植物園』
今日は夕方に上大岡で家内と待ち合わせ。それまでの間に横浜市立子ども植物園を訪れました。
横浜市指定名木古木 クスノキ:No.59001、No.59002
【参考】
クスノキ Cinnamomum camphora
ムサ・ウェルティナ Musa velutina (アケビバナナ?、同定間違いか?)
ネペンテス・ダイエリアナ Nepenthes ‘Dyeriana’
ヤハズカズラ Thunbergia alata
竹園
アオノリュウゼツラン Agave americana
アシズリノジギク Chrysanthemum japonense var. ashizuriense
コハマギク Chrysanthemum yezoense
ハマボウ Hibiscus hamabo
ウグイスカグラ Lonicera gracilipes var. glabra
チャノキ Camellia sinensis
木原均記念碑
ヤバネヒイラギモチ Illex cornuta
シャクナゲ ‘太陽’ Rhododendron ‘Taiyo’
ジャノメエリカ Erica canaliculata
レンギョウ Forsythia suspensa
ノコンギク Aster microcephalus var. ovatus
カマツカ Pourthiaea villosa
馬頭観音堂:南区中里4丁目1-17
ツタバウンラン Cymbalaria muralis
上大岡から舞岡へ
午後から雨の予報でしたので、降り出すまで上大岡から散策してみました。それにしても今年はこの季節になってもよく雨が降ります。
【主な経路】
(上大岡駅)-芹ヶ谷-東永谷-下永谷-平戸-前田-柏尾-舞岡-(舞岡駅)
【横浜市指定名木古木】
No.49534, ケヤキ(平戸白旗神社)
No.49531, ケヤキ(日枝神社)
No.49532, ケヤキ(日枝神社)
No.49533, ケヤキ(日枝神社)
【(代官山)白髭社碑】港南区芹が谷3丁目23
芹ヶ谷南小学校近くにある碑です。名称からすれば、猿田彦神を祀った社がここにあったのでしょうか。本日、この後に尋ねた柏尾の猿田彦神社との関係など、いずれ調べてみたいと思います。
神奈川縣鎌倉郡永野村永谷九百六十二番地
二〇〇〇年 平成十二年十月十七日
【平戸白旗神社】戸塚区平戸町302
平戸白旗神社の沿革
白旗神社 祭神 源頼朝命
例祭日 九月十八日
氏子区域 旧平戸町全域 即ち現平戸町及び平戸一丁目-五丁目
由緒
当神社は、頼朝公薨じて百三年後の乾元元年(紀元一、九二二年西暦一、三〇二年)九月九日鎌倉鶴岡の相承院の元智が勧請したもので明和六年(紀元二、四二九年、西暦一、七六九年)十月十四日には相承院ょ通じ、みたましろとして「右大將家(頼朝公)の御鬒髪三筋」を送られた。(東福寺所藏文書)東福寺の神事奉仕は創祀以来凡そ五百七十年に及んだ。
東福寺の鎮守として発足した当神社は、江戸時代には平戸村の鎮守となり(
平成二年十一月 御大典奉祝記念として玉垣築造
氏子総代会
【下永谷神明社】港南区下永谷2丁目32-1
明治政府により合祀された八幡社を記念する碑がありました。境内には双体道祖神、また六観音ならぬ七観音(?)の石像もみられました。これも要調査です。
【八幡宮?跡】
當所は長町八幡宮の?跡なり。
一祭神 譽田別命 武雍槌命
一境内 二〇四坪 一七二四番 境外七畝歩
一七二五番
一社殿 慶応二年四月建立のもの間口二間二尺
奥行三間
一由來
天正年代領主の謹待奉祀せし處なり。廻に殿屋敷殿藪的場隠居屋敷の地存す。古前乃川?朱欄乃橋懸れり古來郷人斉く参拝す。明治四十一年霜月三日官令により神明社に合祀す。大津氏祖業を尊び宇を興し祀怠らす偶篤仰者飯島氏靈夢呼蒙る即之畏み相議をへ茲ニ建碑永く懐き往時を偲はんとす。
地土大津平治
昭和十四年四月吉日 篤仰飯島房太郎
賛者若林亮平
【御嶽神社】戸塚区上柏尾町249
當神社は建仁二年(西暦一二〇二)村人が日本武尊の御功績を追慕して石造の祠を建てたのが始めであるが、文化年間(西暦一八〇〇年代始め)當地に移築再建された。
【日枝神社】戸塚区前田町216
日枝神社
御祭神
主祭神の神系
大国御魂神
須佐之男神-大年神-御年神
大山咋神-別雷神
御神徳
大山咋神の「咋」は「主」という意味で、大山の主であると共に広く地主神として崇められ、山・水を司り大地を支配し万物成長発展、産業万般の生成化育を守護し給う御徳は広大無限であります。(古事記による)
日枝神社は相模国鎌倉郡前山田村。現在の横浜市戸塚区前田二一六一に八二四年に創建され村の守護神として祀られ、この地に住む人々の健康と家内安全、子孫繁栄をお守りする神様です。日枝神社は、この近くで一番古くから祭られているとの言い伝られております。
例祭は、四月九日、新嘗祭は十二月八日におこなわれております。
【瑞穂神社】戸塚区柏尾町764
鳥居がないことだけでなく、何かと風変わりな神社です。
瑞穂神社
御祭神
「瑞穂神殿」
【主祭神】
【配神】
「斎宮神殿」
「斎宮祈祷殿」
古神道「山蔭神道」とは
「山蔭神道」の教義には、神代の昔、天照大御神より神勅を賜わった
幕末の頃、萩原
これを光格天皇の皇子・中山
「山蔭神道」に伝承される天地創造観を、「
山蔭神道東海斎宮 瑞穂神社
【王子神社】戸塚区柏尾町939
建武中興
六百五拾年記念
要旨
掛介麻久母畏伎王子神社乃大前尓宮司関正臣恐美白左久元德元弘乃頃御兄弟乃御力合波世互難楚嶇嶔能久大御業呼恢米給比伎(建武中興)与里六百五拾年止布由々志伎年尓運合比多留御氏子共賀旦津波御功績呼現志久偲毘奉里旦津波昭和九年乃祖先乃心(六百五拾年記念)呼受継疑都々大君尓忠實仕閉奉良久止誓比奉良久平諾比聞食世止恐美恐美母白須
昭和五十九年七月二十三日
宮司 関正臣
記念事業手水舎奉納
趣意
霊峰富士の雄姿と阿夫利の嶺を西に望み一條として流れる柏尾川の源を成せる相模國柏尾の里は往古より護良親王を祭神と崇ぶ王子神社の御神德に守り培われと風土にして鎮守の森は親王に供奉せる宗祖の伝承の内に幾多の風雪を乗り越え今も変わらざる碑文は黙して導き氏子は境内に花開くりんどうに安き覺ゆ。
惟らに豐芦原の瑞穂の國日本國は大神が國を肇給ひ神武の御代より親政により國を治め給ふ、千余年を経た承久、文政の年間より武家の權勢は傲慢を極め皇道は陵来せんとするに至る後醍醐天皇は皇位を継承し給えど深く宸襟を悩ませ給い武家の変態的政治一掃の宏大なる理想を皇子護良親王と相計られ給ふ親王は父君と心を一つにされ理想実現に向い天性の英邁なる思慮を振はれ全国に今旨を以って忠臣を募られ京の御所にありては参軍の中に立ち利あらずして?野大塔の山中奥深く己の身を馳せ智謀をめぐらし義烈を盡され一命をも顧みず只々偉業の成就に精進せられ、天皇親政の平安の御代に復し萬民晴天を仰ぐが如き政治体制を確立せらる。天皇は年号を建武に改め給い世の人は建武中興と偁して奉祝せり。父君の理想への偉業の基と成られし御偉德と義烈に崇敬の念その極に達するものである。
建武中興より歳を経ること六百五拾年吾が宗祖の子孫即ち氏子として親王御神霊に心よりの感謝を捧げ祭神への敬愛そして次の世代への美德の千古変わらざる風土より時に親王の御手、足にも觸れたと偲ばられる黒木御所跡の流れの岩石を堀り更にその森林の?野桧を合せ用いて手水舎を造営し納め奉るに依り柏尾鎮守護良親王命の御神德への報恩感謝の意と成し併せ宗祖の供養とす。御神霊の加護の下、柏尾の里の永久に安らけきを祈るなり。
昭和六十年六月一日
建武中興六百五拾年記念事業委員會
会長 氏子総代 責任役員 増田壽男 (花押)
右之記念事業之成就を期し委員會を設け会長を總意で選任
昭和六十年七月二十三日
王子神社
宮司 代表委員 関 正臣
氏子總代 責任委員 齋藤一男
氏子總代 齋藤 茂
【猿田彦神社】戸塚区柏尾町894
「古事記」によると、天孫降臨の際、
伊勢の
その他、本日撮影の写真です。
【参考】
ウィンターコスモス Bidens laevis
天理教市浜分教会:港南区東芹が谷12-17
天理教本神分教会:南区芹が谷5丁目50
三浦半島の植物たち
特別展『神奈川県植物誌2018と三浦半島の植物たち』が開催中と聞き、久しぶりに横須賀市自然人文博物館を訪ねました。
サケガシラ Trachipterus ishikawae JDRDAN et SNYDER
1968年8月22日朝、三浦半島南端、浦賀水道に面した毘沙門沖の蝦の三枚網に、巨大な怪魚がかかり、横須賀市三春町の丸十魚市場に出荷されました。翌23日、魚市場のご好意で本館に寄贈されたこの魚は、全長272cm(ただし尾びれは欠損している)体高47cmまサケガシラでした。
本種は、東京湾口以南の日本近海で比較的珍しい魚とされています。この標本はメスでホルマリン保存液の中に入れたとたん卵をだしました。きっと産卵準備のため深海から浅海にわってきたのでしょう。
アカナマダ アカナマダ科アカナマダ属 (上)
三浦市松輪沖合 1976年5月13日 横須賀丸十魚市場寄贈
太平洋・大西洋の西部と南部に分布し、まぐろ漁船がまれに持ち帰ります。生時の体色は淡青色で、ひれは淡紅色をしています。体の中に墨汁袋をもち、体の後端近くにある肛門から墨汁を出すといわれています。
テンガイハタ フリソデウオ科サケガシラ属 (下)
東京湾産(浦賀水道) 1972年3月30日 鈴木昭二氏寄贈
北海道から高知県の太平洋岸と日本海に分布し、海岸にまれに打ち上げられたものが見つかります。生時の体色は銀白色で、背びれは鮮やかな淡紅色です。鱗と臀びれはなく、尾びれも著しく小さいなどの特徴があります。
リュウグウノツカイ リュウグウノツカイ科リュウグウノツカイ属
千葉県館山市波左間産 2003年3月 荒川寛氏寄贈
沖合の中層域に生息していますが、まれに沿岸に漂着したり、定置網で漁獲されることがあります。生時の体色は銀色で、長く伸びる背びれ前部と腹びれはあざやかな赤色をしています。展示標本は尾びれが欠損しています。
ラブカ ラブカ科ラブカ属
相模湾産(横須賀市長井沖) 1968年3月10日 浜田安雄氏寄贈
日本では相模湾や駿河湾の周辺の深海からまれに漁獲されます。数億年前に栄えた古代ザメ類といくつかの共通な特徴ょ備えていることから、現生のサメのなかまでは最も原始的なものとされています。標本は雄(オス)の個体です。
シギウナギ(シギウナギ科) Nemichthys scolopaceus Richardsonm 1848
世界中の温帯~熱帯域の水深300~2000mに生息し、全長1.4mになる。長く反り返った口先は、エサとなるサクラエビなどの甲殻類をつかまえるのに役立つと考えられている。
【参考】
特別展入口
ナウマンゾウ Palaeoloxodon naumanni
サケガシラ Trachipterus ishikawae
アカナマダ Lophotus capellei
テンガイハタ Trachipterus trachypterus
リュウグウノツカイ Regalecus glesne
ラブカ Chlamydoselachus anguineus
シギウナギ Nemichthys scolopaceus
【米が浜神明社】米が浜通1丁目(裏坂)
神明社
祭神
天照大神の別の御名
創建 元禄四年(一六九一)と推定され
例祭日 六月十日(慣例として五月に行なわれる)
由来 市内深田台にある神明社建て替えの際取り壊した社殿の中から出て来た「棟札」及び、その他の文献調査によれば、かの神明社はもとは米が浜のこの処にあったもので、明治十六年に背後の山(現在の中央公園)が陸軍の砲台になるために、深田台へ移設されたものであった。その跡地には御神木であったと思われる大銀杏を残すのみで、長い間に山は崩れ地形もだいぶ変化したようである。
昭和五十四年五月、”米が浜に神社を”と云う米が浜住民の念願が実り、氏子会、町会が主唱し多数の方々の協賛のもとにこゝに米が浜神明社の再建を見ることになった次第である。
なお、前記「棟札」の最も古いものは、元禄四年八月のもので、これはその頃こゝに神明社が現存していたことを物語っている。
昭和五十八年五月二十一日
米が浜神明社氏子会
米が浜町会
昭和五十二年市制施行七十周年記念
横須賀風物百選 中央公園
優れた景観を一望に収めるこの公園は、文化会館建設事業の一環として昭和三十九年から五年半の歳月と、約五千万円の経費を投じて昭和五十四年四月一日に開園したものです。
公園の広さは約三・八ヘクタールで、サクラやウメ、カンツバキ、ジンチョウゲ、ツツジ、サツキ、サザンカなど一万本に近い四季折々の花木を中心に整備してあります。
明治初年以来、横須賀は、海軍港を中心に発展してきました。一方で陸軍は、首都東京を中心とする東京港一体の防衛上から、明治十三年に第一号の砲台を市内の観音崎に築いて以来、その数は、三浦半島に二十八か所にのぼります。
ここもその一つで、明治二十四年から第二次世界大戦終結までの約五十五年間「米が浜演習放題」となっていた所です。
これらの砲台は、終戦とともに取り壊されていきました。そのような状況の中で、この公園は、砲台があった当時の地形をそのまま巧みに利用して、変化に満ちた散歩道や展望広場などを整備したものです。
園内の東端に建つコンクリート製の塔は、戦没者慰霊塔で、船のへさきをかたどってあり、高さ八・七メートル、長さ三十一メートルあります。この塔は、明治二十七年の日清戦争から昭和二十年の第二次世界大戦終結までの市内戦没者約四千七百柱の霊を慰めるために建てられたものです。また塔内には、第二次世界大戦中の戦没者四千柱の写真や戒名札と、戦場となった外地から採集した土砂が納められています。
毎年八月十五日に市主催の「横須賀戦没者追悼式」が行われます。
また、平成四年十月には、核兵器廃絶。平和都市宣言の意思を内外に示すものとして、平成モニュメントを建設しました。このモニュメントは、ステンレス製で高さ約二十メートルあり、核兵器のない平和の宿る天上界(宇宙)と、われわれ人間の住む地上とが対話できるシンボル(発信基地)として制作されました。
昭和五十二年市制施行七十周年記念
横須賀風物百選 横須賀駅
「汽笛一声新橋を」の歌詞で知られる鉄道唱歌に「汽車より逗子をながめつつ/はや横須賀に着きにけり/見よやドックに集りし/わが軍艦の壮大を」という一節があります。
明治二十二年六月十六日、大船-横須賀間に開通した横須賀線の終着駅、横須賀駅開業当時の駅頭風景を上手に表現しています。
そのころの横須賀は、現在右手に見える米海軍基地内に、明治十七年に設けられた横須賀鎮守府などの諸施設がある重要な海軍基地となっていました。一方陸軍も、明治十三年から観音崎をはじめとして市内の沿岸各所に着々と砲台を築いていました。しかし、人員や物資の輸送は、横浜-横須賀間の船便に頼っている実情でした。
明治十九年六月、陸海軍は鉄道布設の必要性を記した請議所を海軍大臣西郷従道、陸軍大臣大山巌の名を連ねて総理大臣伊藤博文に提出しました。この求めに応じて鉄道局は、翌二十年に測量を開始し、二十一年一月に工事を起こしました。工事費は、明治十九年から始まっていた東海道線建設費から四十万円支出しました。当初終着駅は、観音崎附近へとの要望がありましたが、更に五万円から十万円の予算を必要とするうえ、市街地を通さなければならない等の複雑な問題があり、現在地となりました。
現在の駅舎は、昭和十五年に新築されたものですが、大正三年に改築した駅舎の面影をよくとどめている貴重な建物です。
開業当時、汽車はおよそ一時間ごとに発着し、東京-横須賀間に約二時間を要しました。客車は一・ニ・三等とあり、煙突の長い機関車がそれを引きました。三等運賃は三十九銭で、当時の米価が一升十一銭前後でしたのでかなり高かったようです。乗客数は、明治四十年頃で一日平均1、843人と記録されています。
横須賀-久里浜間は、軍の定めにより、昭和十九年四月に開通したものです。
【吾妻社】〒237-0072 横須賀市長浦町5-15-1鎮座
創祀については創立当時の事情年代は不詳であるが、吾妻半島(現在は運河により区切られて吾妻島となり、米軍の用地として立ち入りのできない区域になっている。)の中の吾妻山山上に鎮座し、日本武尊・橘媛命の御威徳を敬仰、鎮斎され、中世には吾妻権現と呼ばれて、海上安全をはじめとするその顕著な御神徳は近郷民衆の崇敬の中枢となっていた。
「新編相模國風土記稿」三浦郡之九長浦村の条には、「吾妻権現社村ノ北方ニアリ。社頭松樹數株アリテ海上通船ノ標トナセリ。祭神ハ橘樹姫命。神躰木像。村持。」の記載がある。
伝承によれば、弟橘媛命の御入水ののち、御屍がこの浦に流れ寄りきたのを葬り奉ったものとも、または、媛の御入水の際に、日本武尊が握り遊ばされていた姫の衣の片袖が、命の御手に残ったのを収め祀った所とも、あるいは、媛の御櫛が流れ漂っていたのを拾い上げて、浄地山上に納めて二尊を奉斎申し上げた所ともいわれている。
中世には、田の浦常光寺が当社の別当織となったが、その
爾来、鎌倉武将を始め、近郷一円に多くの崇敬者を有して修造も常に行われてきたという。
明治六年村社に列格。
明治三十二年、吾妻山一帯が海軍用地として買収されたため、幾百星霜由緒の深かった長浦字長浦一九七九の吾妻山を離れて、現在地に位置を移し、社殿の大改修も加えて遷座奉祀するところとなった。
しかし、大正六年の大暴風雨のため拝殿が倒壊。大正十三年氏子崇敬者により仮社殿を再建するものの、再び台風により倒壊したという。
昭和二十一年六月、宗教法人令により、宗教法人となった。
氏子区域は有せず、田の浦神明社の氏子会と、長浦神明社の氏子会とが合同で奉仕している。
例祭には湯立て神楽が奏される。
〈宮司 佐野和史〉
祭神 日本武尊 橘媛命
祭日 春季例祭 四月後半日曜
例祭(秋季例祭)八月十七日
(移行の日曜)湯立て神楽
参照「新横須賀市史」(
(深田台)神明社:深田台40
地蔵尊(深田台神明社)
横須賀中央公園
トベラ Pittosporum tobira
稲荷社(龍本寺境内社)
お穴さま:米が浜通1丁目12
(米が浜)神明社:米が浜通1丁目(裏坂)
不明の社跡:横須賀市本町2丁目21
護衛艦いずも (DDH-183)
JR横須賀駅
吾妻社:長浦町5丁目15-1
手水鉢(嘉永七年):吾妻社
浦賀を起点に……
今日は、横須賀を歩いてみました。
【主な経路】
(自宅)-浜見台-(京急田浦-浦賀)-光風台-若宮台-佐原-池田町-吉井-大津-三春町-米が浜-ヴェルニー公園-(逸見駅)
【参考】
ヤブツバキ Camellia japonica
シシウド Angelica pubescens
西叶神社
庚申塔群(放光山延壽院常福寺)
コバノセンナ Cassia coluteoides
プラタナス (JR横須賀駅前)
ヒラドツツジ Rhododendron × pulchrum
安房口神社
(三春町)春日神社
メタセコイア Metasequoia glyptostroboides(横須賀中央駅前)
【芝守稲荷神社】浦賀3丁目10
【白井稲荷大明神】
【茅山の庚申塔】佐原5丁目28-10
茅山の庚申塔
この庚申塔は百メートル程久村寄りのT字路の山裾にあった。そこは広場で、馬のかなぐつ(馬蹄)わつけたり、牛をつないだりする小屋があり、子供達の格好の遊び場であった。(現在は住宅が建っている。)
庚申供養塔は災いを防ぎ幸福を招く意味をこめて、村境に建てられることが多い、そこは久村の境であったが住宅建設のためこの場所に移された。六基のうち年代のわかるものでは最古は享保四年(一七一九年)新しいものは天保十三年(一八四二年)である。二基は不明。茅山については「茅山」「賀山」「香山」と三様である。
当時は各村の地境に建てられ、道の目印や隣接の村の境とし、他の地区より悪霊や疫病の侵入を防ぐのに建立したという。
平成十七年三月 久里浜地域文化振興懇話会
【茅山稲荷】佐原5丁目24
【(佐原)稲荷社】佐原5丁目10
【(岩戸)熊野神社】岩戸1丁目4-1
【佐原十郎義連城跡】
佐原城跡
山嶺3方を囲み切り立つ懸崖は、よじ登るのが難しい。 -中略- 面積は、約1萬2千㎡あり、今は畑なり、考えるに、三浦義明がいた衣笠城から地の利を得た場所に館を築き義連(よしつら)を住まわせた。地名から佐原十郎という。
治承4年(1180)8月27日に衣笠城が落城。義連は、兄の義澄らと頼朝に従い房総に行く。敵がこの城を攻め火を放ち去る。数年後、義連は、源義経に従い平氏を討ち帰る。又この地に(館を)築いている。後に左衛門尉となり奥州に移ると旧記に見える。この時よりこの跡が残されている。(現代語訳)
義連の古館 久里浜志録 加茂捨三郎元善 著(大正2年稿)
佐原十郎義連城跡の碑は、明治26年(1893)9月8日佐原の住民が義連公を顕彰するために建立した。
佐原町内会
【(池田)稲荷社】池田町5丁目9
【巡拝供養塔と庚申塔】池田町5丁目9
巡拝供養塔と庚申塔
ここは、昔の大津村池田の入り口にあたる。この巡拝塔は経塚とも呼ばれ、里の文人の竜崎戒珠が建立した笠塔婆型供養塔である。碑面文字のとおり篤い信仰心から霊場を巡り、写経の後、天保九年(一八三八)造塔された。
庚申塔は
庚申信仰から里人が講中を造り庚申の日に集合し、五穀豊穣・家内安全を祈り造塔された。文政十一年(一八二八)から大正十年までのものが十一基現存している。刻像塔一基の他はいずれも文字塔で青面金剛の刻字がある。青面金剛は憤怒の厳めしい姿で悪疫退散の力があり、日月・三猿ともに現世安穏・来世安楽、子孫長栄の意である。
平成二年二月 大津地域文化振興懇話会
【香之谷戸稲荷】吉井3丁目11
【赤門】安浦町1丁目
市制施行七十周年記念
横須賀風物百選
赤門
この門は、かつて朱塗りであったことから「赤門」と呼ばれています。
武家屋敷などでは、主家を防衛するために、屋敷の外郭に家来のための長屋を建てて、その一部を門としました。門の屋根と家屋の屋根を一連にした形の建造物を「長屋門」と呼び、この赤門もその一つです。
初めは上級武家の門で、建て方も複雑堅固なものでしたが、後に武家以外の者でも、特に功労のあった家などには、出窓や出格子のない簡単な長屋門の建築を許されました。
この長屋門の主であった長嶋家は、三浦氏の子孫と伝えられ、戦国時代、小田原北条氏の支配下にあって浜代官を務めました。更に、江戸時代には、三浦郡の総名主を務めたほどの家柄なので、この門の建築を特に許されたものと思われます。
かつて、この門前の道路は、白砂青松を連ねた海に面していて、猿島や千葉の山々が手にとるように見えた景勝の街道で、数多くの旅人の眼を楽しませてきました。門前の右手にある石柱の道標がかすかに当時を物語っています。
横須賀市民文化遺産にも指定され、現在も広く市民に親しまれています。
東海道を歩く-品川宿界隈
本日外勤。帰りに旧東海道を辿ってみました。
【旧細川邸のシイ】
東京都指定天然記念物
旧細川邸のシイ
所在地 港区高輪一丁目十六番二十五号 高輪支所内
指定 昭和三十六年一月三十日
高輪支所の丘陵上に独立する単木で、樹高一〇・八メートル、幹囲り八・一三メートル、枝張りは東に六・七メートル、西に二・七メートル、南に五・六メートル、北に五・八メートルを測る巨樹である。幹の下部に大きな空洞があったため、昭和五十六年には大規模な外科手術を実施した。
スダジイは、別名イタジイともナガジイとも呼ばれ、本州の福島県・新潟県以南、四国、九州、沖縄に分布する常緑高木である。葉は長楕円形では先は尖り大きな鋸歯がある。果実は先の尖った卵円形で二年目に熟し食用になる。古くは材は建築や家具用に使われていた。
旧細川邸とは、肥後熊本藩細川家の下屋敷のことであり、元禄十六年(一七〇三)二月四日、赤穂事件の大石内蔵助良雄・吉田忠左衛門兼亮・小野寺十内秀和・原惣衛門元辰ら十七人が切腹を命ぜられたところとして、屋敷跡は東京都指定旧跡に指定されている。
平成七年三月三十一日 建設
東京都教育委員会
上述の数値は自称ですが、環境庁による2000年の調査によると幹周740cm、樹高17mとなっています。
Natural Monuments
Kyu Hosokaea-tei no Shii
(Castanopsis sieboldii at the Former Residence of Hosokawa Family)
Address: 1-16-25 Takanawa minato City
Designated on January 30, 1961
This beech tree Castanopsis sieboldii, natural monument, stands on the hill behind Takanawa Minato city office. It used to be a giant tree but was largely scale in 1981 because it had a huge hollow in the lower trunk that may cause collapse/ However, it still remains as large about 10.8m height and 8.13m of trunk circumference now.
Castanopsis sieboldii, which belings to the Fagaceae hamily, is one of the major evergreen tall trees in the warm temperate forests in Japan. The leaves have the length of 5-10 centimeters, width of 2-3 centimeters. The tree blooms is early summer and bears egg-shaped fruits that become ripe and edible in the second autumn. Castanopsis has been used for building and furniture for long time.
This tree stands on the remains of residence of Hosokawa family (chusingura revenge, where 17 Ako Roshi including Ohishi Kuranosuke Yoshitaka committed seppuku 10 1703.
Tokyo Metropolitan Board of Education
【二本榎】
二本榎の由来
その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「
誰いうことなくこの榎を「
それがそのまま「日本榎」(にほんえのき)という地名になって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
戦後、地番変更で高輪何丁目などと地名は変わりましたが、「榎」は幾度となく新稙・移植が行われ、町の大切な象徴になっております。
平成十七年(二〇〇五年)十二月 港区
【品川宿の街道松】
「東海道品川宿」
「東海道五十三次」といわれる江戸から京都間の五十三の宿の中で、品川宿は諸街道の最初の宿場町である。
旅人は、品川宿を経由して丁酉を目指し、また家路についたことから「東海道の玄関口」として栄え、宿内の家屋は一六〇〇軒、人口七〇〇〇人規模で賑わっていた。
今でも道幅を保ち、かつての宿場町として活気が息づいている。
この松は品海公園の改修工事竣工を祈念し品川宿で五本目の「街道松」として品川宿の方々から寄付していただいたものです。
平成十二年四月 品川区
【仙台坂のタブノキ】
品川区指定天然記念物
仙台坂のタブノキ
所在 品川区東大井四丁目三番一号
指定 昭和五十三年二月十四日(第八号)
本樹は目通り四・六メートル、樹高二十メートルで、推定樹齢約三百年、樹勢旺盛で美しい樹容を見せている。
タブノキは一名イヌグスともいい、クス科に属する高木で、熱帯から暖帯に生育する。我が国では四国。九州。沖縄に多く、東京でもかつては海岸沿いに随所に見られたが、震災。戦災等でその数も少なくなった。区内では鹿島神社や滝王子稲荷神社等にも古木が見られる。
平成二十三年三月三十一日 品川区教育委員会
【参考】
スダジイ Castanopsis sieboldii
エノキ Celtis sinensis
クロマツ Pinus thunbergii
タブノキ Machilus thunbergii
逗子から大船へ
先週は、港南台から大船へ歩いてみましたが、今日は逗子から大船に向かって散策してみました。
【主な経路】
(新逗子駅)-九木-浄明寺-雪ノ下-扇ヶ谷-山ノ内-(大船駅)
【庚申塚】鎌倉市浄明寺3丁目12-52
市指定有形民俗資料 庚申塚(いなり道)一基
昭和五一年十二月十四日指定
【鎌足稲荷神社】鎌倉市浄明寺3丁目9-3
鎌足稲荷神社 Kamatari Inari Jinja
[ご祭神]稲荷大神 Inari no Ôkami
[ご神徳]商売繁盛、殖産興業、家内安全、心願成就、厄除、開運
[由緒]
大織藤原鎌足公は乳児の時、稲荷大神さまから鎌を授けられ、以来、常にお護りとして身につけ、大神さまのご加護を得られました。大化元年(645)、中大兄皇子(後の天智天皇)らとの協力のもと蘇我入鹿を討って大願を成就された。鎌足公は、翌大化2年(646)東国に向かわれ、相模国油井の里に宿泊されました。その夜、「あなたに鎌を授けて守護してきたが、今や入鹿討伐という宿願をなし遂げたから、授けた鎌を我が地に奉納しなさい。」との神告があり、お告げのままに鎌を埋納し、祠を営んでお祀りしたのが、当神社の始まりです。鎌倉の地名は、鎌足公が鎌を埋納したことによるとされています。
「お稲荷さま」というとキツネをイメージする人もいますが、キツネは稲荷大神のお使いであって、稲荷大神そのものではありません。
As an infanr, Lord Fujiwara-no-Kamatari was given a sickle by the Inari no Ôkami. By keeping the sickle with him at all times as a charm, Lord Kamatari was granted the protection of the deity. In 645 A.D. hr joined Nakano-ôe-no-ôji (later the Emperor Tenchi) to vanquish the noble Saga-no-Iruka and thus succeeded in fulfilling his greatest wish/ Lord Kamatari then headed a message from the Inari no Ôkami, who told him, “I gave the sickle to you and have protected you ever since, but now you have archieved your greatest wish by defeating Iruka, so you must return the sickle to me and to the land.” Doing ad he was bidden, Lord Kamatari buried the sickle, and this action and his prayers offered up to the god were the beginnings of the Kamatari Inari Jinja. The place name Kamakura id said to signify the lacation where Lord Kamatari buried the sickle, or <<kama>>.
【右大師道碑】鎌倉市二階堂935
【法華堂跡】西御門2丁目
国指定史跡
この平場は、鎌倉幕府第2代執権の北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。北条義時は、父の時政や姉の政子らとともに源頼朝による開創を助けました。承久3年(1221)の承久の乱においては後鳥羽上皇方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権としてより強固なものとなりました。
義時は貞応3年(1224)に62歳で没しました。『吾妻鑑』には、源頼朝の法華堂の東の山上を墳墓の地とし、そこに新法華堂(義時の法華堂)を建てたことが記されています。
義時の法華堂は鎌倉時代の終わりには途絶えたようですが、平成17年(2005)に行われた発掘調査により、8.4m四方の平面正方形の建物跡が確認され、『吾妻鑑』の記述が裏付けられました。
平成24年3月 鎌倉市教育委員会
法華堂跡
三浦泰村の墓
毛利季光の墓
島津忠久の墓
碑を支える玄武
大江廣元の墓
【(西御門)白旗神社】鎌倉市西御門2丁目1-24
白旗神社 由緒記
一、祭神 源頼朝公
一、例祭日 一月十三日
一、
この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって髻の中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。
正治元年(1179)一月十三日頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し、仏事を執り行い多くの武将も参列した。
現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和四十五年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。
持仏……守り本尊として、常に身近に置いて信仰する仏像。
源頼朝の墓 The grave of Minamoto Yoritomo
源頼朝は、治承四年(1180)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦二年(1185)に平家を滅ぼしました。また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下三丁目附近)に開いて武家政治の基礎を築きました。
正二元年(1199)に五十三歳で没すると、自身の持仏堂である法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。
現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪が整備したものとそれます。
鎌倉市
In 1180, Minamoto Yoritomo raised an army in order to overthrow the Heike clan, and with Kamakura ad his headqurters, he defeated the Heike clan in 1185.
in addition, the creation of the Kamakura Shogunate in Okura (approximate current lacation – Yuki no Shita 3-chome) established the foundations of the Samurai system of government in Japan.
In 1199, at the age of 53 Yoritomo passes away and was laid to rest at his own place of worship, Hokkedo, which then became a very holy place as his gravesite, Hokkedo was later abolished, however traces of its location remain around the top of this hill.
It is said that the current pagoda in the site was erected by the Shimazu feudal lord, Shimazu Shigehide.
国指定史跡
この平場は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。治承四年務(1180)平家追討のために挙兵した源頼朝は、同年鎌倉へ入りました。元暦2年(1185)に平家を。文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、鎌倉を拠点とする武家による全国的な政権の基礎を築きました。以降、江戸時代が終わるまで、約700年間にわたり、武家による政権が続くことになります。
建久10年(1199)に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、のちの時代の武士たちからもあつい信仰を集めました。
鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存続しましたが、17世紀の初頭までには堂舎がなくなり、石造りの墳墓が建てられました。現在の墓域は、安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪によって整備されたものです。
平成24年3月 鎌倉市教育委員会
【築山稲荷】鎌倉市雪ノ下3丁目1-32
【旗上弁財天社】鎌倉市雪ノ下2丁目1-3
旗上辨戝天社御由緒記
治承四年(一一八〇)八月源頼朝公は伊豆国に源家再興の旗を上げ、石橋山の戦いに敗れて房総に転じ、十月鎌倉に移るや直ちに鶴岡八幡宮を創建し、居館を定めて平家討伐の本拠とした。
夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(一一八二)大庭景義に命じ境内の東西に池を堀らしめ、東の池(源氏池)には三島を配し、三は産なりと祝い、西の池(平家池)には四島を造り四は死なりと平家滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。
そして東の池の中に辨戝天社を祀ったのが当社の始めで、明治初年の神仏分離の際境内にあった池の堂塔と共に除かれた。その後昭和三十一年篤信家の立願によって再興され、さらに昭和五十五年九月鶴岡八幡宮創建八百年を記念して、江戸末期文政年間の古図に基づき現在の社殿が復元されたのである。
因みに辨戝天信仰は、鎌倉時代既に盛んで妙音芸能の女神福徳利戝の霊神として世に広く仰がれている。当社に祀られていた辨戝天像(重文)は鎌倉彫刻の代表傑作で、種々の御神徳が如実に具現された人間味溢れた御神像である。
祭日 例大祭 四月初巳の日 祈願祭 毎月巳の日
旗上奉納
二引の白旗に御神号を記したのが用意してあります。お申込み下さると願意氏名を記し、祈祷して奉納し、毎月神前に掲げます。
旗上祈祷
源頼朝公旗上げして後、遂に大願成就した神徳により開店、事業拡張を始め家内安全、商売繁盛、必勝祈願、病気平癒、縁結び等の申込みを受け付けております。
政子石拝観 古来縁結びの霊能があり、姫石とも称し世に知られている。
【紅葉神社】鎌倉市雪ノ下2丁目1
【白旗神社】鎌倉市雪ノ下2丁目1
【鶴岡八幡宮】鎌倉市雪ノ下2丁目1
鶴岡八幡宮
御祭神 応神天皇
比売神
神功皇后
当宮は源頼朝公が前九年の役平定後、康平六年(一〇六三)報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる。治承四年(一一八〇)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の八幡宮を遥拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉還し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に努めた。建久二年(一一九一)大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝公は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整えた。以来当宮は武家の守護神として北条・足利・後北条・徳川各氏も社領等の寄進、社殿の修造を行い篤く尊崇した。
主な年中行事
▼歳旦祭 一月一日
▼大祓 六月・十二月晦日
古神礼焼能祭 半年間の罪穢を祓清め、また古い神札やお守りを焼能する
▼ぼんぼり祭 八月立秋前日~八月九日
▼例大祭 九月十四日~十五日 旧暦八月十五日の放生会にちなむ
▼流鏑馬神事 九月十六日 頼朝公により始行された勇壮神事
▼御鎮座祈年祭 十二月十六日 建久二年当宮鎮座日(旧暦十一月二十一日)
御神楽を奉奏する
鶴岡八幡宮拝殿
ビャクシン Juniperus chinensis (市指定天然記念物)
大イチョウ Ginkgo biloba
【祖霊社】鎌倉市雪ノ下2丁目1
【丸山稲荷社】鎌倉市雪ノ下2丁目1
【新宮神社】鎌倉市雪ノ下2丁目18
今宮
四條天皇延應元年鎌倉中處々喧譁闘争ノ事アリ特ニ其ノ五月廿二日ニハ大騒動ヲ起セシト云フ茲日後鳥羽院ハ隠岐ニ崩御シ給フ由リテ斯ハ其ノ怨念ノ然ラシメシ所ナラントテ寶治元年四月大臣山ノ西麓ニ今宮ヲ建テ其院ノ尊霊ヲ勧請シ奉リ順徳院及ヒ護持僧長賢ヲ合祀セラル長賢は承久ノ後官軍ニ属シテ奮戦後捕ハレテ陸奥ニ謫セラレシ者ト云フ今宮ハ又新宮ト書ス。
昭和四十年 十二月 鎌倉町青年團
【道元禅師顕彰碑】鎌倉市雪ノ下2丁目8
曹洞宗高祖 永平道元禪師七百五十回大遠忌に値り、我等遠孫茲に心を一にして、禪師鎌倉行化の事跡を些か詳らかにしその恩澤に報いんとする。
高祖越前入山後五年目の寶治元年(一二四七)八月三日、時に禪師四十八歳、永平寺開基大檀那波多野義重公(越前志比庄の地頭、京都六波羅探題評定衆)よりの鎌倉下向の懇請黙し難く、公の先君鎌倉幕府三代将軍源實朝公供養の爲同年十一月十五日奉修せる鶴岡八幡宮放生會の佛縁を期してか、永平寺叢林を始めて離れ、漸くのこととして鎌倉行化の途に着く。
禪師がその師、天童如浄禪師の遺誠を固く守り、権門に近づくことを極力厭い能くよく留意し、「只菅打坐」の法燈を行持されたことを拝するとき、この行化は必ずしも心に添うものではなかったと推察される。然し、翌寶治二年三月十三日、永平寺歸山までの凡そ半年餘、その羽多野公の邸を始め名越白衣舎等鎌倉近在の諸處に在って、執権北条時頼公竝びに妻室など、道俗諸縁の求めに應じ、説法授戒等の化導を爲し正傳の佛法を弘められたと傳えられる。以後一生不離叢林のの志を益々強め、世壽五十四歳を以て遷化されるまで、永平寺に在って門弟等を教化示誨された行實等に觸れるとき、感慨深いものを覚えるのは、我等法孫のみであろうか。
尚 時下って室町時代五山僧の記したものの中に、執政に日々懊悩する時頼公に對して、禪師が大政奉還出家入道を淡々と提言されたと見い出されることは、禪師の佛法中心第一の立場を物語って餘りあろう。
終わりに、禪師鎌倉滞在中に詠じられたと傳わる和歌を刻し報恩の丹心を表す。
大本山永平寺監院 南澤道人 撰
維持 平成十四壬午平年三月吉辰謹拝健之
【青梅聖天社】鎌倉市雪ノ下2丁目7-8
青梅聖天社
当歓喜天様は、『新編鎌倉志』巻之三に「鎌倉ノ将軍一日
歓喜天は退聖歓喜天とも称され、仏教を守護し、邪悪を除去し、諸願を成就させてくれる尊体として信仰されてきました。
御本尊は男神と女神が「相抱き正位」して顔をみつめあう姿に造られた珍しい像で、歓喜天信仰を考える上でも貴重な文化財です。
一般には夫婦和合の利益あり、などとも説かれておりますが、足柄峠の『聖天堂』と同様に、峠を往来する人びとの安全を願ってのことでした。
平成九年十月十三日 市文化財指定
小福呂坂 町内会
青梅聖天社
稲荷社(青梅聖天社境内社)
石仏(小福呂坂)
石塔群(小福呂坂)
【志一稲荷】鎌倉市雪ノ下2丁目3
庚申塔(鶯山)
【岩窟不動尊】鎌倉市雪ノ下2丁目2-21
庚申塔群
【八坂神社】鎌倉市扇ガ谷1丁目15
【稲荷大明神】鎌倉市扇ガ谷4丁目1-9
お稲荷様
世にお稲荷様と申上げている稲荷神社は
この神様は稲がなるイナリの別名が示すように五穀の生育やすべての産業を育成する広大な御神徳のある神ですからあらゆる人々の信仰をうけ全国各地の神社や邸内に祭られています。
鎌倉で由緒ある稲荷は隠里稲荷で鎌倉風土記によると源頼朝が伊豆の蛭が小島にいたとき病の床につき三晩続けて同じ白ひげの老人の夢を見ました。その老人の言うとおりに薬を飲みますと病はなおりこれが縁で幕府ほ開くことが出来たということです。この白ひげ老人が隠里稲荷の化身であったということです。
お稲荷様は大切にお祭りしましょう。
英勝寺
【鎮守稲荷大明神】鎌倉市扇ガ谷2丁目12
【岩船地蔵堂】鎌倉市扇ガ谷3丁目3
岩船地蔵堂
木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相模陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵者當時大将軍頼朝公御皇女之守本尊也』との記述があり、続けて元禄三年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が記されています。『北条九代記』にも許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。
このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに虹をさす木造地蔵尊を前立像として安置し、供養いたしました。
心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通りください。
平成十三年十一月吉日 海蔵寺
【亀ヶ谷切通】
亀ヶ谷切通
地蔵尊:鎌倉市扇ガ谷3丁目11
六地蔵
【第六天】鎌倉市山ノ内1523
「第六天」の由来
建長寺の四方鎮守には、中央五大尊と八幡(東)・熊野(北)・子神(西)・第六天(南)があり、第六天は上町に鎮座する。
延宝二年(一六七四)の徳川光圀『鎌倉日記』に「円覚寺ヲ出テ南行シテ、第六天ノ森ヲ見ル」とあり、また、延宝六年(一六七八)の建長寺境内図(伝徳川光圀寄進)には、「四方鎮守第六天と記されている。
社殿に納められた建長寺第一一八世
社殿の形式は一間社
社殿内には第六天像が中心に祀られ、前列には持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王像が安置されている。いずれも江戸時代の作で、小像ながらも彫技は丁寧で量感に満ちた佳作である。
第六天は仏教では他化自在天と称し、魔王の如き力を持つといわれ、神道では第六天神、すなわち、第六番目の神と認識されている。
神奈川県内にし第六天を祀る社が一八〇社以上あり、厄除けの神や方位神として信仰される。
現在、建長寺の四方鎮守の中で、その位置と沿革が明らかなのは第六天だけで、建長寺研究上の重要な資料であるばかりでなく、地域にとっても貴重な文化遺産として永く後世に伝えたい。
また、第六天は上町の氏神でもあり、例祭は毎年七月十五日から二十二日にかけて行われる。
平成七年六月吉日
鎌倉市教育委員会 文化財保護課
鎌倉市山ノ内上町町内会
加藤利雄 謹書
【稲荷大明神】鎌倉市山ノ内1473
【安倍晴明大神碑】鎌倉市山ノ内
【一福弁財天尊】鎌倉市大船1丁目1
【鹽釜神社】鎌倉市台1丁目5-15
鹽竈神社
御祭神御由緒
鹽竈神社の御祭神は
掲載日七月十日
以下、本日撮影のその他の写真です。
【参考】
ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii subs. thunbergii f. thunbergii (鶴岡八幡宮東鳥居)
ユリカモメ Larus ridibundus
カワラバト Columba livia
ビャクシン Juniperus chinensis 鎌倉市指定天然記念物(昭和三十八年七月十七日指定) (鶴岡八幡宮)
イチョウ Ginkgo biloba (鶴岡八幡宮)
タチツボスミレ Viola grypoceras (青梅聖天社)
イヌホウズキ Solanum nigrum
ケチヂミザサ Oplismenus undulatifoliu
ツワブキ Farfugium japonicum
トネアザミ Cirsium incomptum
ホトトギス Tricyrtis hirta
スミレサイシン Viola vaginata
カタヒバ Selaginella involvens
根岸稲荷大神
今年の紅葉は…
昨日に続き、今日もまぁまぁのお天気。やっと訪れた紅葉の季節ですが、どこも色づきは今一のようです。
【本日の主な経路】
(杉田駅)-中原-森-汐見台-久良岐公園-上大岡-大岡公園-蒔田公園-霞ヶ丘-藤棚-横浜イングリッシュガーデン-平沼-(横浜駅-金沢文庫駅)-稱名寺-洲崎町-六浦-(自宅)
【参考】サクラとモミジの品種は自称を採用しています。
ヒイロタケ Pycnoporus coccineus
ドウダンツツジ Enkianthus perulatus
ヒイラギ Osmanthus heterophyllus
サザンカ Camellia sasanqua
イロハモミジ Acer palmatum
コナラ Quercus serrata
ホトトギス Tricyrtis hirta
トネアザミ Cirsium comosum ver. incomptum
久良岐能舞台
ショウジョウノムラ Acer amoenum ‘Shojo nomura’
ノムラカエデ Acer amoenum ‘nomura’
オオモミジ Acer amoenum
ヤツデ Fatsia japonica
ヤノネボンテンカ Pavonia hastata
シマトネリコ Fraxinus griffithii
クヌギ Quercus acutissima
ケヤキ Zelkova serrata
イチョウ(大井橋) Ginkgo biloba
ジュウガツザクラ Cerasus x subhirtella cv. Autumnalis
イチョウ(蒔田公園) Ginkgo biloba
メタセコイア Metasequoia glyptostroboides
セイヨウツクバネウツギ Abelia spp.
横浜イングリッシュガーデンの冬のバラは、花数こそ少ないものの、春の頃より濃い花色は、錦秋にふさわしい色合いです。
【参考】
横浜イングリッシュガーデン
クリスマスツリー
マウンテンウィッチオルダー Fothergilla major
十月桜 Cerasus x subhirtella cv. Autumnalis
子福桜 Cerasus x ‘kobuku-zakura’
アーコレード Cerasus sargentii × C. subhirtella‘Accolade’
サー・セドリック・モリス Rosa ‘Sir Cedric Morris’
イロハモミジ ‘猩々枝垂'(紅枝垂) Acer Palmatum ‘Shojo-shidare’
ハナミズキ Cornus florida
ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis
バラ Rosa
シティ・オブ・ヨコハマ “CITY OF YOKOHAMA”
フレアー・ライナー ‘Flare Liner’
夢香 ‘KEIfumoka’ YUMEKA
センセーション ‘FRYromeo’ SCENT-SATION
サンセット・セレブレーション(ウォーム・ウィッシズ) ‘FRYexsotic’ SUNSET CELEBRATION (WARM WISHES)
アドミラル・ロドニー ‘Admiral Rodney’
ピンク・キャット ‘Pink Cat’
スイート・マザー ‘Sweet Mother’
さくら ‘ZENposakura’ SAKURA
桜木 ‘Sakuragi’
カレーズ ‘Karez’
カーディナル ‘KORlingo’ KARDINAL
イージー・ダズ・イット ‘HARpagent’ EASY DOES IT
ピュール・カプリス ‘Pur Caprice’
おぼろ月夜 ‘ZENhaoboro’ OBOROZUKIYO
田毎の月 “Tagoto no Tsuki”
ソレロ ‘KORgeleflo’ SOLERO
りくほたる “Rikuhotaru”
紫の園 ‘Murasaki no Sono’
つる エンジェル・フェイス ‘Angel Face, Climbing’
アイズ・フォー・ユー ‘PEJbigeye’ EYES FOR YOU
ブルー・フォー・ユー ‘PEJamblu’ BLUE FOR YOU
フォー・ユア・アイズ・オンリー ‘CHEweyesup’ FOR YOUR EYES ONLY
シスター・エリザベス ‘AUSpalette’ SISTER ELIZABETH
ベル・エポック ‘FRYyaboo’ BELLE EPOQUE
一葉 ‘ZENfuichi’ ICHIYOH
プレイ ‘Pray’
ラヴェンダー・ピノキオ ‘Lavender Pinocchio’
【参考】
金沢山称名寺
カイノキ Pistacia chinensis:金沢山称名寺
ムクノキ Aphananthe aspera:金澤八幡宮
ロウヤガキ Diospyros rhombifolia