街角のアート:横浜駅西口



FANTASIE 井上信道 作 (青少年に愛と希望を)
宇宙と子供たち 井上信道 作 (横浜博覧会記念)
あら「今日は」 工藤 健 1985(横浜高島屋開店25周年記念 1985.9)


 その他の写真です。


【参考】
 アキノノゲシ Lactuca indica
 キバナコスモス Cosmos sulphureus
 チョコレートコスモス ‘チョカモカ’ Cosmos atrosanguineus ‘Chocamocha’
 ニンジン Daucus carota
 ヘクソカズラ Paederia scandens
 ウイキョウ(フェネル) Foeniculum vulgare
 テイカカズラ Trachelospermum asiaticum
 コバノセンナ Cassia coluteoides

保土ケ谷方面の社、など


【日本ホーリネス教団横浜教会】


【帷子稲荷社】保土ケ谷区峰沢町2−2


【稲荷社】保土ケ谷区峰沢町


【関東クリスチャン教会】保土ケ谷区常盤台80-42


【竹生島辨財天社】保土ケ谷区常盤台21-22


【常盤稲荷大明神】


【大照山不動院真福寺)】:保土ケ谷区和田2丁目8-3


  満願地蔵尊
 このお地蔵さまは元和田町駅裏手の台地にあったものです。その台地には昔浅間宝寺という寺がありましたが、平家の残党を隠したというので焼き討ちに合い、焼け跡から沢山の遺骨が出てきました。亡きその霊を慰めるため、真福寺を建てた田口重勝の弟の重信が地蔵堂を建立して祀ったのです。
 明治初年星川小学校の最初の校舎を建てるのに支障を来たし、この山門のそばに移されました。
全身に石で叩いて祈った窪みが残っています。こころからお祈りください。


宗祖弘法大師御入定一一五〇年記念事業 霊場参道建立発願之記
 戦後すでに三十有余年物質文明とみに栄え、世情一見平和の感あるも、物豊かにして心安らかならず。人心その依りどころを宗教に希求するところ切なり。されば寺院の存在極めて重要にして、その社会的責務を痛感す。就中、従来の檀家法儀中心の寺よりなお一層地域社会に開かれたる寺院への脱皮は、真に意義深く且急務と申すべきなり。
 時あたかも昭和五十九年は真言宗の宗祖弘法大師入定一一五〇年御遠忌の勝縁に相当す。よって祖師の「生かせいのち」の御精神に鑑み、記念事業として「霊場参道」と「地蔵堂の建立」を発願す。
 目指すところは、年頭初参りはもとより、四季おりおり心に念じて参詣することあれば、四国等の霊場巡拝の功徳利益普くわたり、以て檀信徒ならびに近隣有縁の心の糧に資せんとす。
 願わくは、当山本尊不動明王の威光ますます輝き、数多の衆生その加護を賜わらんことを、重ねて記念す。

 至心発願  天長地久  即身成仏
 密厳国土  風雨順時  五穀豊穣
 万邦協和  諸人快楽  檀越各家
 地域有縁  家内安全  家業繁栄
 身体健全  交通安全  離苦得楽
 心願成就  乃至法界  平等利益

   唯時 昭和五十六年十二月吉日
    大聖山不動院 真福寺
         住職 安井 覚明
         右記念事業委員 一同


【和田稲荷神社】

  略縁起
抑々 武州橘樹郡和田村稲荷大明神の由来を尋ぬるに昔源頼朝卿治承年中に平家の逆族を追討せんため白根不動明王に参籠ましまし御伴には和田義盛殿を援し奉り當十一面観音を拝参此処に宿有り其夜義盛枕上に大悲の尊體影向ましまし義盛に託していわく汝知らずや此地に稲荷霊社有ることを自後、汝此神を信ぜば心中の志願成就すべし。義盛ゆめさめて後奇異のおもいをなし速かに頼朝に告奉っていわく某今夜不思議の大悲菩薩の霊夢を感拝し奉る。伏して願わくは今當所において些少の社地を喜捨し給え。
 大将、夢中の誓言拝聞有りて歓喜の餘り永劫八段四畝歩の境内及壱段二畝廿四歩の社地を寄附し給う。義盛信心肝に銘じ文治元乙巳年に稲荷の霊社と観音の霊場を御建立其後建久四年の春頼朝卿此邊に御狩りあり當社に御参詣和田稲荷を御拝し給うたり。今狩場といえる在名あり。御殿跡釜堰有り其所を谷臺と申し傳う。然るに霜雪積って四百三十三年になんなんたりしに征夷大将軍御上洛有り。神奈川町新殿建立に當社材木悉く御用に相立てし事誠に政あるなり。尊神なるゆえん也というべし。
    別當 眞福寺


【薬王山東光寺】保土ケ谷区上星川2丁目34-1


川島杉山神社】保土ケ谷区川島町896


和田杉山神社】保土ケ谷区和田1丁目10-4


星川杉山神社】保土ケ谷区仏向町553-1


【橘樹神社】保土ケ谷区天王町1丁目8-12

橘樹神社由緒略記【参拝の栞、内面より、転記】
鎮座地 横浜市保土ケ谷区天王町一丁目八番地十二号
    旧町名 神奈川県橘樹郡帷子町字川岸三八四番地
    (昭和二年横浜市に編入されて現在の町名になる)
祭神  素盞男尊(スサノオノミコト)天照大神の御弟
    御神性勇武に座します故の御名で疫病祓除に霊験あらたかな神である。
由緒概要
 当神社は、文治二年(一、一八六年 約八百三十年前)源頼朝公天下の平和を賀し国中の大小の神祇に奉幣し祭祀の典を行った時の創建と伝えられる。即ち京都の祇園社(現在の八坂神社)の御分霊を勧請奉祀した。故に当社も祇園社 牛頭天王社 天王宮 橘樹社等社名が変わり大正十年正式に現在の社名となった。
境内地 二、六二一㎡(七九三坪)
社殿  木造平屋建総檜権現造(三二坪)
境内末社  神明社 天照大神 国常立大神 稲荷大神 猿田彦大神を祀る
      庚申社 覆殿 平成十七年 建築
      庚申塔 三基 明和元年 二五〇年前
             寛文九年 三五〇年前(市内最古といわれている)
             天和二年 三四〇年前
不動堂   神田不動尊  文化八年の銘有 二一〇年前
主要建物  神楽殿    昭和三十六年 建築
      手水舎    昭和三十六年 建築
      参集殿(旧社務所) 昭和四十四年 建築 五五坪
主要石造物 大鳥居    大正十四年の建立 鉄筋コンクリート造
      小鳥居    平成十年四月の建立 御影石造 氏子岩間町 有限会社川古谷石材店奉納
      玉垣 氏子の有志により右鳥居と同時に造成せらる。
      明治天皇東幸遺跡碑 明治天皇東幸の節 境内を浄地として内侍所を奉安したのでこの記念碑が建立せらる。
      明治天皇御製
        わが国は神のすえなり神まつる
          むかしま手ぶりわするなよゆめ
      復興記念碑 昭和四年関東大震災復興の節建立
      石盥盤(イシダライバン)小松石造 延宝六年の影あり 三四〇年前のもの
      狛犬 一対 小松石造 嘉永五年奉納 一七〇年前
      灯籠 一対 紀元二千六百年記念として建立
祭事歴 一月一日 歳旦祭 初詣 二月三日 節分祭 六月(第二土・日曜) 例大祭
    六月三十日 夏越大祓式 十一月十五日 七五三祝 十一月二十三日新嘗祭
    十二月晦日 年越大祓式 ※毎月一日・十五日 月次祭斎行(但八月一日、九月十五日は除く)
氏子区域 天王町 宮田町 岩間町 帷子町 鎌谷町 峰岡町
     川辺町 和田町 常盤台 峰沢町 岡沢町 鎌台町


   神明社再建に誌す
  祭神 天照大神 國常立神 稲荷大神 猿田彦神
 當神明社は、その縁由詳ならずと雖も、峯間町壱丁目六拾番地(俗称お伊勢山)の地を旧知とす。
 該地より土師瓦出土せるもあり、又、旧幕時代當社除地弐反三畝十歩と録せる文書を存す。新編武蔵風土記稿によれば、當時、牛頭天皇社(現橘樹神社)と並び存して。前に鳥居を立てるを知る。
 昭和二十年四月、未曽有の空襲に遭い附近一帯の民家と共に祝融の災を受けて烏有に帰す。
 然れ共、神穂彌赫灼として、戦災の復興を照覧し給い、遂に御街衢人煙の殷賑旧に倍し、橘樹神社神楽殿亦成るに及びて氏子有志相議り爰に寶殿一宇を再建し、以て恩頼に報い奉らんとす。
 蓋し、人は神に依て生き、神は人依てその威を増すと。後来の人士、冀くは、惇崇奉幣絶ゆる無からしめんことを。
昭和四十一年六月十二日
      氏人 一同敬白

横浜市の名木古木-保土ケ谷

 イングリッシュガーデンの帰りに保土ケ谷方面を歩いてみました。


指定番号不明:カキノキ(稲荷社):保土ケ谷区峰沢町

 稲荷社前のカキノキがそのようです。H31年版公開リストには載っていませんので、既に登録解除されているのかも知れません。今回の台風で被害を受けており、行く末が心配です。


 イチョウは青葉幼稚園の敷地内にありました。

大照山不動院真福寺:保土ケ谷区和田2丁目8-3
 No.49066 イチョウ
 No.49067 ツバキ


 案内板はなく確認はできませんでしたが、イチョウはこの樹だけのようでした。

イチョウ 薬王山東光寺:保土ケ谷区上星川2丁目34-1


 市民グラフヨコハマ115号(2001)に記載のあったエノキは、滅失したものと思われます。

No.49077 イチョウ 川島杉山神社
【参考】
 カキノキ Diospyros kaki
 イチョウ Ginkgo biloba
 ヤブツバキ Camellia japonica

城ヶ島観光

 今週も城ヶ島へ、今日は家族で出かけました。昼食は城ヶ島京急ホテルの磯香瀬で、帰りには、うらり、すかながっそにも立ち寄りました。


【参考】
 京急バス
 楫の三郎山で
 田辺大愚句碑
 城ヶ島灯台
 城ヶ島京急ホテル
 馬の背洞門
 三崎層の互層
 海の贈り物
 昼食は磯香瀬(食堂)で
 ペポカボチャ Cucurbita pepo(大きいほう、ハロウィンカボチャ)
 プリメラレッド Cucurbita maxima “Primera Red”(仮称 試交No:AJ-125)
 ジンジャーリリー Hedychium spp.


走りちる船虫時雨とや言はん
 田辺大愚本名髙七明治二十年大和市に生る大正十年三浦三﨑に居住し三十余年其風土に親しむ俳句は高浜虚子松本たかしに師事ホトトギス派に属す
  昭和四十七年初秋健之 三﨑俳句会

三田山水月院魚籃寺

 本日、外勤で麻布十番へ。帰りはいつもとルートを変えて魚籃寺に寄りました。


亀石(通称子宝石)
 亀に似ているのでいつという事なく亀石と呼ばれ子供の無い人が子宝を願いします。


薬師如来
 医王として、人々の病を癒し苦悩を救う佛
 ご真言(七回又は二十一回くり返す)
  オン(oṃ) コロコロ(huru huru) センダリ(caṇḍāli) マトウギ(mātaṅgi) ソワカ(svāhā)

小倉を巡って(2019.10.10)

 新幹線待ちの二時間ほどの間に小倉城の周辺を廻ってみました。
【八坂神社】


【猿田彦社】
   猿田彦社(庚申堂)
御祭神 猿田彦命
祭礼日 十月十一日
御由緒 詳しくは不明、元は拝殿に向かって右前に鎮座されていたが、平成二十年の境内整備にともないこの所に御遷座された。これを記念として当日を祭礼日としたものである。その時、「庚申堂修復」としたためられた棟札が出て来たが、新たに今回の御遷座の謂われも合わせて納め御遷座をした。


【三本松高倉稲荷神社】
三本松高倉稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神
   豊受大神又は保食神と申上げ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、火難防止並びに鍛冶職、細工師の守護神であります。
由緒
 神社紀によりますと、永録四年の創建(西暦一五六一年)とありますが、もっと古い延暦年間(西暦七八二年頃)旧小倉城三の丸に祀られてありました。興亡一〇〇〇年盛衰はありましたが天正六年大友宗麟のため兵火にあい社殿も残らす焼失してしまいました。
 旧片野村の三本松の枝に稲荷の神霊が顕はれたのでこの神の再現であるとして以来氏神としてこの地(祇園の森)に祀られたのであります。
 細川忠興公が小倉築城後祇園社の分霊(現八幡神社)南殿に勧請された後、祇園の旧跡の故事により浮殿(御旅所)を新設し、修繕経費ほ全て領主の負担としました。以来小倉祇園祭の廻り祇園には東の御旅所として知られ旧藩時代ら明治大正昭和と受継がれ人々からは三本松の御稲荷さんと敬神されて今日に至っております。
          敬白


【水之御祖社】
   水之御祖社(みずのみおやしゃ)
御祭神
御井神(みいのかみ)鳴雷神(なるいかづちのかみ)水速比女神(みずはやひめのかみ)
   祭礼日 十月二十一日
御由緒 神社、社務所の奥の床下に古井戸があり、その底に祀られていた御井神を、また出雲の大原群聳える八雲山より鳴雷神を、また日向の高千穂峡の槵觸(くしふる)神社の近くの天の真名井(あめのまない)より水速比女神の御神霊を奉戴し、合わせて水之御祖社として建立する。これを記念して祭礼日とする。またこれより後、古井戸はしかるべき埋設された。


【菅原神社】

  菅原神社由緒記
一.祭神 正殿 菅原道真公
     相殿 豊日別尊他八柱
一.由緒
 本社、天満宮ト号シ小倉城主小笠原忠眞公特ニ尊崇深ク、慶安元年二月大イニ祠宇ヲ改造シ社領ヲ附シ神宝数品ヲ奉納シテ城下民ノ繁栄ヲ祈ル。寛文元年二月忠眞公実ニ拝殿ヲ建造シ和歌ヲ奉納シ、盛大ナル祭典ヲ行ウ。
貞享四年二代藩主忠雄公社殿ヲ現今ノ地ニ移シ本殿・幣殿・拝殿ヲ新ニ建立シ、社前ニ浮鵞ノ池ヲ造ル。
 明治維新神佛分置ノ制トナリ菅原神社と改稱ス
 明治十三年六月散財神社五社ヲ合祀ス
一.神事 入学祭     三月二十五日
     春祭(御神幸祭) 四月二十四日・二十五日
     夏祭      七月二十四日・二十五日
     納筆祭     七月二十五日
     新嘗祭     十一月二十五日
     月次祭     毎月一日 二十五日


   菅原神社(古船場天神島鎮座)
祭神
 菅原道真(雷神、慈悲の神・正直の神、極楽往生を守護する神、信義を守る神、学問・文学の神)を主神とし、
 豊日別尊(トヨヒワケのミコト)(豊前・豊後の国の国神)
 水分尊(ミクマリのミコト)(水の神)
 大山咋命(オオヤマクヒのミコト)(山の神)
 景清霊(カゲキヨのミタマ)(清水の神・目の神)
 市寸島比賣命(イキシマヒメのミコト)(海の神)
 豊總耳皇命(トヨトミミのスメラミコト)(聖徳太子)
 木花咲耶媛命(コノハナサクヤヒメのミコト)(山の神の娘・草・木・花の神)
 宇迦之魂尊(ウカノミタマのミコト)(五穀の神)お稲荷様
 猿田彦命(サルタヒコのミコト)(産業・交通の神)
を祀る神社で
神社の創建  右大臣・菅原道真公は延喜元年(九〇一)四月廿五日、太宰権帥(だざいごんのそつ)として京都より大宰府へ左遷され、筑紫へ向かわれる途中、神嶽(かんたけ)川のほとり、とある小島に一休みされ、風光明媚な企救(きく)の浦を賞でられた跡と伝え、菅公亡き後、その遺徳を偲び一祠を建立したのが始まりです。今に『天神島』との地名を残している。-以来幾百星霜、この地の変遷とともに、その時々の人々の篤い信仰をうけ、農業・漁業・商業・産業また交通の神々を祀る末社を配し、小倉府内(城下町)の氏神として信仰を集め、明治十三年六月、国策によりこれらの末社(吉野社-古船場・松尾社-紺屋町・生目八幡神社-鍛冶町・高住神社-鍛冶町)を合祀し、今日に至っています。
神社の歴史  ここ小倉の地は、古来交通・軍事上の要衝の地である為、各時代を通じて幾多の抗争の場となり、南北朝期には中・小豪族の構想、戦国期にし島津・大友・毛利氏の抗争の場となり特に大友宗麟はこの小倉の地を焼き払ったと伝う。しかしながら「本社」は庶民の天神信仰に支えられ、その度に再建された。慶長七年(一六〇二)一月細川忠興が小倉城築城の砌り、一小祠となっていた「本社」を瀧本院と共に配祠し、城下民の信仰をすすめ、さらに寛永九年(一六三二)二月小笠原忠実が十五万石の藩主として入城後、婦人永貞院の尊崇特に厚く、若君(二代藩主忠雄(ただかつ))の養育に学問の神・菅公の教訓を以って当ったことにより、忠実は慶安元年(一六四八)二月には拝殿を造築し、「威徳寺」の尊号と扁額を奉納し、この年九月廿五日には特に盛大な祭典を執行した。改めて国守となった二代藩主忠雄は、幼少よりの成育の願解(がんとき)をなし、以来「若君」の養育祈願は累代に及び、城下民もこれに習い、子女のすこやかな成長を願う城下民の「養育守護」の神としても信仰を集めた。
 当時、神社においては春の例祭は「菜の花祭り」と称され、菜の花の生花を捧げる行事が行われ、城下民の子弟は手習師匠に引率され、礼儀正しい参拝がにされた。
 幕末に至り、慶応二年(一八六六)八月一日の戦火-これを小倉では「御変動」と称している。-で小倉の町共々焼失したことに加え、明治初年の「神佛分離の制」の混乱で、神苑(しんえい)の維持も困難となり、御神体は一時、中津軍国分村(現在の京都(みやこ)群国分寺)に遷座されたが、明治二十五年(一八九二)九月、当時の初代小倉市長吉沢直行・初代企救郡長津田維寧外十数名の熱心な請願をきっかけとして、全小倉の氏子。信徒の手に依り入社地に立派に再建され(神社棟札記)さらに現社殿は昭和三十七年に再建された。
 この様に、ここ小倉の天神島に千数十年前当時の村人の手に依り祀られて以来、神社は、現
在まで小倉の地に生きた人々と共にその盛衰を経て来た。


 以下、その他の写真です。


【参考】
 小倉城
 勝山公園
 夏(1984 朝倉響子):小倉北区古船場町1-35
 魚町銀天街

下関を巡って(2019.10.9-10)

 出張の折、宿をとった下関の街を歩いてみました。
下関・小倉マップ


【長門厳島神社】上新地町1丁目1-11

  厳島神社由緒略記
    天照大神の御子神
     市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
     田心姫神 (たごりひめのかみ)
     湍津姫神 (たぎつひめのかみ)
一.由緒
厳島神社の三社の御祭神は畏くも皇祖天照大神の御子神であらせられ[厳島神社記録帳]によると安芸国厳島神社の御分霊を平家の守護神として安徳天皇の御座船におまつりされていたが、壇ノ浦の合戦後この近くの磯辺に放棄されていたのを里人に神託があった「吾は厳島姫の神也、早く祭るべし、かしこの磐之上にあり」と不思議に思いながらそこに行ってみると磯辺に御鏡太刀様の者を見つけ文治元年(西暦一一八五年)里人たちが現在地に社殿を建立し更に安芸国厳島神社より御分霊をあらためて勧請し今に至っております。
一.御神徳
海上安全・交通安全・家内安全・無病息災・開運招福・商売繁盛・安産祈願・病気平癒・方位災除・学業成就など
一.祭日 節分日 二月節分の日
     夏越祭 七月第三土・日曜日
     例祭  十月第三土・日曜日
一.境内末社 貴船神社
本社は京都市左京区貴船に鎮座する貴船社で御祭神は高淤加美神と言います。木神様として親しまれ商売繁盛・開運の神として人々に崇敬されています。
一.高杉晋作の大太鼓
この地は幕末明治維新の大きな原動力となった高杉晋作を始め奇兵隊諸士が活躍した明治維新発祥の地であります。高杉晋作は維新成就を祈願した当神社に、大太鼓を奉納しました。この大太鼓はケヤキ材のくり貫きで直径110cm・重量390kgあり、明治維新の象徴であります。この大太鼓を通して先人を顕彰し、その歴史に学ぶことを目的に毎年九月第一土曜日太鼓祭を執り行っています。
          平成二十三年十月記す


 直径一一〇cm、重量三九〇kgのこの大太鼓は、かつて小倉城内(現北九州市)北側の櫓にあって城下に時を告げていたものである。
 慶応三年(一八六五)四月、徳川幕府は第二次長州征伐令を発し、翌二年(一八六六)六月、大島口(山口県大島郡)・芸州口(広島市)・石州口(島根県)・小倉口(福岡県)の四境で戦いの火ぶたが切られた。この四境戦争での長州軍の勝利は倒幕への重要な契機となったが、中でも高杉晋作が指揮する小倉口の戦闘は最大の激戦となり、長州軍は奇兵隊・報国隊の二隊を先鋒として戦い、遂に慶応二年八月一日、幕軍総帥小笠原壱岐守が小倉城を脱出、小倉藩は自ら城に火を放って敗走した。攻め入った長州軍は余燼の中からこの太鼓を持ち帰り、、高杉晋作が先勝祈願を行った厳島神社に奉納したのである。
 現在、維新顕彰並びに小倉戦争の記念行事として、ここ厳島神社では毎年九月の第一土曜日に「太鼓祭」を催している。


【福徳稲荷神社】伊崎町2丁目3-18


【蛭子神社】伊崎町2丁目6

 境内社は八大龍王社です。


【赤間神宮小門御旅所(安徳天皇殯斂地)】伊崎町2丁目9-16


 第八十一代安徳天皇は寿永四年(一一八五)三月二十四日源平合戦において平家一門と下関壇ノ浦に入水し給えり。そのご尊骸はここ小門海峡に流れ着き、中島組のいわし網に引き上げられしと伝う。
 その後、関門海峡に臨む阿弥陀寺境内(現阿弥陀寺町赤間神宮)に陵を築き、天皇殿を建立せり。すなわち、この小門の地は先帝祭御神幸祭お旅所として『先帝祭上臈参拝』の翌日(五月四日)中島家の子孫賑々しく御神幸祭の行列に奉迎して、厳粛なる祭事が執行され、今に絶ゆることなし。
 當地伊崎町に中島家と称するあり、傳う云う是れ正しく平家の遺裔にして、代々名を四郎太夫と称せり。先帝會には古来、先ずこの四郎太夫参拝し、次に女郎の参拝焼香するを常とす。
 若し中島四郎太夫にして、参拝せざる間は、何人も之を為することを得ざる今もこれ然りを、以って其の由緒深きを知るべきなり。
     中島家 赤間神宮 建立


當王城山ハ寿永ノ昔安徳帝ノ蹕ヲ駐メ給ヒシ遺蹟ニシテ平家ノ後裔ト傳フル中島氏亦此附近ニ住ス明治十七年此地ヲ赤間宮神駐庫所ト定メ毎春神幸アリ今回新ニ石柵ヲ巡ラシ神地ヲ保護シ併セテ考古ノ史跡ヲ明ニセントス工作ナル茲ニ碑ヲ建テ無窮ニ傳フト云爾


【伊崎厳島神社】伊崎町1丁目7-23

  伊崎厳島神社 御由緒記
一.住所  下関市伊崎町一丁目七番地二三号
二.御祭神 三女神 市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)
          多紀理比売命 (たぎりひめのみこと)
          多岐都比売命 (たきつひめのみこと)
三.建立  寛保元年(西暦一七四一)九月吉曜日
      厳島大明神三社・本殿一宇並びに拝殿を新建立奉る。
      当社神主 三十五世 市津 宮太夫
                藤原 安夫
      庄屋   鴻池屋 七左衛門
      庄屋   新居屋 弥一左衛門
四.寛保元年(一七四一)九月吉曜日の棟札
        (中略)
 其れ当社の本縁を尋ね奉れば、当に時五百余年の昔、源氏・平家火乱の折、官軍いくさに負け、京都没落して西海に浮かび、船中祈誓の為に芸州厳島大明神を兵船に勧請し奉る。讃州八嶋に寄り、長州段の浦(現・下関市壇の浦)に至り合戦に負けて軍破れる。密かにこの神体を当浦の磯岩に奉り、而して逃げ出す・時に文治二年(一一八六)の事なり。
 浦の翁、海上に一神の祠あるを見るや、金光貴重かつ異香既に近辺に満ちて神託して曰く「厳島也」と。
 衆人之を異とし、小社を構えその中に請安す。
五.伊崎浦の御神輿
 当、伊崎浦の御神輿は亀ケ浦崎町・中之町・北之町と御三体在わし、その中御一体の御神幸は毎年順に従い行わし由なるが、御神輿舁く若者全員真っ裸の勇ましき姿にて御幣持ちたるが先頭に立ち、力強き太鼓の響きと共に「チョーサァ、チョーサァ」の掛け声威勢良く。先ず海中にて禊を致し、町内を舁き巡りたるものなり。明治十四・五年(一八八一・一八八二)頃より繻子襟に模様色々の襦袢を着け、縞のまわしを締めこみ足袋跣足を小縄にて結び。服装こそ変われども景気良く伊崎浦は勿論、出川(現・了円寺付近)から竹崎。豊前田辺辺りまでも御神輿舁きて進出したものなり。
 当今の姿の御神幸となりたるは、明治三十二・三年(一八九九・一九〇〇)の頃合いならん。
 御神幸は、夏越祭(七月十七日)例祭(十月十一日)にて年二回の奉仕なり。
 明治二十三年(一八九〇)九月吉祥日に、天保十一年(一八四〇)山中月州の画いた裸御神輿の絵(五尺×四尺)を、当浦・中之町の若者中、宿老役の中島屋國太郎・関屋勧三郎の両名が奉寄進されたが、惜しくも昭和二十五年(一九五〇)四月三十日の伊崎町大火の際、神社もろとも炎上した。
 (注)昭和二十五年(一九五〇)四月三十日     神社炎上
    昭和三十六年(一九六一)六月十日      神社復興
    昭和三十八年(一九六三)十一月十七日    社務所復興
    平成三年  (一九九一)九月十四・二十七日 再度の台風被害
    平成四年  (一九九二)八月二十二日    神社・社務所災害復興
六.例祭 十月十・十一日
七.法被姿の御神輿
 五項で述べたように天保十一年(一八四〇)山中月州の筆になる「裸御神輿」の絵は、当厳島神社のもので、神社には亀ケ崎町・中之町・北之町と三体があった。
 御巡幸は一体ずつ順次行われ、奉持の若者は裸で太鼓を打ち鳴らし「チョーサァ、チョーサァ」の掛け声勇ましく練り歩いたものである。
 明治十四・十五年(一八八一・一八八二)頃からは繻子襟の襦袢に縞のまわし、足袋跣足に小縄を結んだが、明治三十二年(一八九九)頃から現在の法被姿となった。
     平成八年七月吉日 (有)平田テント奉納


【鈴ヶ森稲荷神社】伊崎町1丁目7-23

   鈴ヶ森稲荷神社 御由緒記
一.住所  下関市伊崎町一丁目七番地二三号 鎮座
二.御祭神 宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)又は倉稲魂神とも書く。
       五穀豊穣・商売繁盛・海上安全・家内安全の神
三.由緒
 寿永の昔、畏くも安徳天皇西海に行幸し給いまして、平家は小門海峡のほとり王城山に立て籠られしとき祭祀されしを、武運拙く壇之浦の一戦に儚くも急流の花と散り失せられました。
 その翌年の文治二年(一一八六)十月十七日厳島神社境内末社として。現在の茶臼山に御勧請申し上げ奉斎せるものなり。
四.鈴鹿森(すずがもり)由緒の覚書
 鈴鹿森稲荷大明神の儀は、元文二年(一七三七)丙辰(ひのえたつ)九月十七日。西細江町の小倉屋長兵衛に乗り移り給い、五つの外の難病を真の心忘れず願い奉り候えば平癒され給う。
 それより諸人信心いたし十月二十七日より稲荷堂建立を思い立ち、お役人様へ御願い申し上げれば御免(御許し)の程。
 翌年正月より祈禱いたし四月までに建立成就仕り、この時より鈴ケ森稲荷大明神といわれ給うなり。
五.当時のお役人様など名前の記録
  ・竹崎浦 御在番  牧   四郎兵衛  ・赤間関 御在番 中川  清衛門
  ・竹崎  役人   橋本  平七    ・伊崎  庄屋  鴻池  七左衛門
  ・伊崎  庄屋   新居屋 弥一左衛門 ・棟梁(王江町)     久三郎
  ・木挽(細江町)      徳兵衛   ・西細江町    小倉屋 長三郎
  ・西細江町     小倉屋 長兵衛
 元文五年(一七四〇)五月
     平成八年七月吉日 (有)平田テント奉納


嚴眞道秀賣女之命


【紅葉稲荷神社】豊前田町1丁目4-3

  紅葉稲荷神社ご由緒
     鎮座地・下関市豊前田町一丁目四の三
一.ご祭神 宇迦之御魂命 (伏見本社神)
      八重事代主命 (恵比須神)
      大綿津見命  (龍神)
      大物主之命  (金比羅神)
二.ご由緒
 源流は往古長門国長府藩毛利甲州守細元公の客家老細川宮内正源広道家の鎮守の神として長府姥ケ懐に奉祀されていたものを、享保十六年一時右神祠を神宮司地内に遷し、越えて寛保元年八月細川家所領の豊前田紅葉谷の現在地に遷座し、細川家鎮守の神として奉祀す。
 寛政八年には式年の大祭が執行され、細川家より代理人として玄藩太夫参詣し亀山社人菱形数馬祭主となり祭事一切を終了し、同年豊前田町年寄大木七郎兵衛鍵預りを仰付けられ、以後豊前田町並びに周辺町民の崇敬神として尊崇される。
 明治八年八月豊前田町民の協力奉仕によって祠を神社に神社造りに改築し落成を祝う神事大祭が行われ豊前田町民との結びつきは益々深まってきたが、その後豊前田町に大火が重なったため、大正十五年四月境内地内高台の現在地に移転改築することとなり厄除け並びに商売繁昌を願う町民の絶大な協賛を得て現在のような貴重な社殿が造営され盛大な落成遷座祭が執り行われた。
 その後大火に見舞われることもなくいよいよ豊前田町や周辺の町の守護神又商売繁昌の神として崇敬を高めている。
三.ご神徳 家内安全。商売繁昌・海上安全。交通安全。学問勧奨
附記
 当社境内にそびえる銀杏の大木は下関市指定「保存樹木」となっています。
 又、本殿背後の幽すいな森。参道周辺の紅葉、桜並木一木一草に至るまで参詣する人々に俗塵を離れて心から安らぎを与えてくれます。お互この貴重な財産を大切にしましょう。


  保存樹木
 この樹木は下関市環境保全条例により指定された保存樹木です。
 この貴重な財産ょ市民みんなで大切に守っていきましょう。
(樹種)イチョウ       (所有者)紅葉稲荷神社
(指定番号)下都公第51-27号  (指定年月日)昭和51年3月10日
       下関市長


【大歳神社】竹崎町1丁目13-284

義経必勝祈願の地・奇兵隊旗揚げの地・本州最西端守護
  大歳神社
御祭神 木花咲耶姫神(このはなさくやひめのかみ) 大歳神(おおとしのかみ) 御歳神(みとしのかみ) 若歳神(わかとしのかみ)
祭日 歳旦祭 一月一日
   節分祭 二月三日
   例大祭 四月十三日
   夏越祭 七月二十四日・二十五日
   秋祭  十月十七日
  (御斎祭 旧正月十三日・十四日)
   月次祭(つきなみさい)
 毎月一日・週五日 朝六時半 参列自由 ※元旦を除く
由緒
寿永四年(一一八五年)、平家追討の任務を受けた源義経(みなもとのよしつね)は、壇ノ浦(だんのうら)の合戦に望んで武運の守護神と仰ぐ富士浅間(ふじせんげん)の大神の御神助(ごしんじょ)()い、平家が布陣を整える彦島を望む有明山(JR下関駅東口付近)に小松を植え、篝火(かがりび)()き、二日二夜(七日七夜とも云われる)の斎戒沐浴(さいかいもくよく)をして戦捷祈願(せんしょうきがん)をこめた。
 その後、祈念を注いだ桑の弓矢をもって平知盛(たいらのとももり)率いる平家軍に開戦の矢文を射込んだ。
 驚いた平家軍は急遽、壇ノ浦に軍船を進め一戦を挑んだが、待機していた源範頼(のりより)の軍勢と義経軍との挟み撃ちに合い、()え無く滅亡したと云う。
 翌年の文治(ぶんじ)二年(一一八六年)、四軒の漁民が義経の祈願の有様を畏敬して、神祠(しんし)(まつ)ったことが大歳神社の起源とされる。
 爾来(じらい)、武運長久の神としての御神威(ごしんい)光輝(こうき)()し、文久(ぶんきゅう)三年(一八六三年)、馬関攘夷戦(ばかんじょういせん)に際しては、高杉晋作(たかすぎしんさく)の唱導により奇兵隊(きへいたい)が氏子・白石正一郎(しらいししょういちろう)宅にて結成され、維新回天(いしんかいてん)の大業に勇名を()せた。その時奇兵隊旗揚げの軍旗は大歳神社に奉納(ほうのう)された。翌元治(げんじ)元年(一九六四年)折しも四国連合艦隊との交戦となったが、正一郎は攘夷成就(じょういじょうじゅ)祈請(はせい)して大鳥居を奉納した。(鳥居横詳細文有)その後下関の発展とともに昭和十五年(一九四〇年)関門鉄道トンネル工事の際、社地が鉄道路線敷地に接収され現在の高台に遷座(せんざ)されたが、御神威(ごしんい)はいよいよ高く本州最西端の鎮護の神と仰がれている。
 (こと)に、下関において源氏(げんじ)(ゆかり)のある唯一(ゆいいつ)のお(やしろ)であることから、古来より勝運(しょううん)の神として(あが)められ、現在は心願成就(しんがんじょうじゅ)のお社としても広く知られている。
摂末社 五社稲荷神社  祭日 春秋の午の日
    蛭子・八坂神社 祭日 十月十日
顕彰祭 七卿顕彰祭   祭日 三月二十七日
祈願各種
 奉祭 必勝祈願 厄除開運 交通安全 厄除開運 子授 安産 初宮詣
 社業隆昌 商売繁盛 地鎮祭 家祓 方位除 他 各種相談承ります
受付 083-223-0104
          奉納 高松日出子


【櫻山神社】上新地町2丁目6-22


市指定記念物(史跡)櫻山招魂場
 櫻山招魂場は、奇兵隊の嘆願により、元治元年(1864)5月に尊王攘夷に倒れた隊士らを身分の区別なく慰霊する施設として創設され、翌年の慶応元年8月に招魂祭が挙行された。のちに全国に設けられる招魂社の先がけであり、幕末維新における奇兵隊、ひいては長州藩の思想理念を象徴する史跡である。
 現在の招魂場には、吉田松陰をはじめ391基の招魂碑が整然と立ち並ぶ。その初期の姿は、招魂碑が社殿をコま字状に囲む形態であったが明治40年代前半には神社の拝殿裏に整然と集約配置された。その後も数度の改変を経て今に至っており、現在の配置形態からは、史料や石碑の色合いにより一つ前の配置形態(昭和34年)を読み解くことができる。また、吉田松陰の碑は戦前のある時点で、他と区別すべく一段高く最前列中央に据えられ、その左右には松下村塾四天王と称される高杉晋作、久坂玄端、入江久一、吉田稔磨が配され、吉田松陰に対する当時の時代背景が映し出される。
 櫻山招魂場は、幕末から近代にかけての戦死者の慰霊・追悼・顕彰のあり方などを明らかにするうえでも、大きな意味を持つ。
※招魂祭 尊皇のもとに戦死した者を慰霊し、変革成就を誓う祭祀。その起源は、文久二年(1862)に京都霊山(りょうぜん)で在京各藩有志により行われたことら始まるとされる。


  保存樹木
 この樹木は下関市環境保全条例により指定された保存樹木です。
 この貴重な財産ょ市民みんなで大切に守っていきましょう。
(樹種)シイノキ       (所有者)桜山神社
(指定番号)下都公第51-24号  (指定年月日)昭和51年3月10日
       下関市長


  保存樹木
 この樹木は下関市環境保全条例により指定された保存樹木です。
 この貴重な財産ょ市民みんなで大切に守っていきましょう。
(樹種)保存樹生垣74m     (所有者)桜山神社
(指定番号)下都公第53~31号 (指定年月日)昭和53年3月10日
       下関市長


  七卿史跡
維新回天発祥地
  櫻山招魂場を視察
 文久三年(一八六三)八月十八日政変により三条実朝等七卿は京都妙法院をあとに西下し長州へと向ふ。
 よく元治元年(一八六四)三月二十六日馬関砲台巡視発程の途上 錦小路頼徳卿は病を発し二十九日彦島巡視の予定を延べ同日晴八ツ時五卿方招魂場あり 帰路鋳造場へ立ち寄る。
 頼徳卿は馬関にて静養中遂に客舎にて逝く 悼惜何ぞ堪へんや
     櫻山神社


  明治天皇勅宣
 長門国桜山招魂場ほ弔し給へる勅宣 汝等曩に乾鋼の不振皇威の不宣を憂へ尽忠致死人をして感奮興起せしむ 朕今巡行追感殊に深し依て侍従番長高島昭光と遺し汝等の墓を弔し且金幣を賜ふ宣す
  明治五年六月十二日


 以下、その他二日間に撮影した写真です。このエリア(西日本)のヤブカラシは2倍体なので、黒い実がついていました。


【参考】2019.10.9
 ヤブカラシ Cayratia japonica
 ノアサガオ Ipomoea indica
 キイロヒメノウゼンカズラ Tecomaria capensis ‘Aurea’
 ツルマンネングサ Sedum sarmentosum
 ショウジョウソウ Euphorbia heterophylla
 パステルフラワー Pseuderanthemum variabile
 まんなおし:今浦町5-16
 風の予言者(竹崎公園)
 海峡ゆめタワー
 細江カトリック教会
 山口銀行旧本店
 はい!からっと横丁
 しものせき海響館
 唐戸市場
 くじらさんありがとう碑
 恋人灯台
 ガス灯
 G-girls(看板):豊前田町2丁目1-19


 金比羅公園(下関)で見つけたキマダラカメムシは、小倉、長崎地方に分布すると原色昆虫大圖鑑III(1976)に記載されています。

【参考】2019.10.10
 スダジイ Castanopsis sieboldii
 地蔵尊:上新地2丁目2
 了圓寺:大平町10-20
 六連島方面を望む(金比羅公園より)
 キマダラカメムシ Erthesina fullo
 髙杉東行終焉地碑
 白石正一郎旧邸跡


【風の予言者】竹崎公園:竹崎町1丁目17
 風の予言者:制作者 濱野邦昭 平成21年8月20個建立 志士の社推進実行委員会
荒ぶる風
そよぐ風
耳を傾け
真実を求めて駆ける
われらは風の予言者

ここ下関の地に
風の予言者
高杉晋作と奇兵隊が
屹然と立つ

新たなる旅立ち
我等は時代を揺り動かした
彼等の明日への志を
いまへつなぐ


   ガス灯
 ガス灯は、ガスを燃やすときに出る光を灯火(ともしび)とし、文明開化を象徴するものでした。
 日本で最初にガス灯が灯ったのは、横浜で明治5年(1872年)10月31日のことでした。日本の都市ガス事業の始まりとなったこの日は、現在「ガスの記念日」となっております。
 やがて、仄か(ほのか)に揺れるガス灯の美しさは、市民の心を和ませ親しみをもって迎えられるようになりました。
 大正14年(1915年)2月18日に前身の下関瓦斯がガス事業を開始し、ほんるん創立100周年を迎えました。これを記念し、当時のガス灯をそのままに再現しました。
     平成27年(2015年)12月
     寄贈 山口合同ガス株式会社


  高杉晋作終焉之地
 高杉晋作(号・東行)は天保十年(一八三九)八月二十日、長州藩高杉小忠太の嫡男として萩城下に生まれ、藩校明倫館に学ぶ傍ら、松下村塾で吉田松陰に師事して志操を養いました。
 文久三年(一八六三)六月、攘夷の決行で外国艦に砲撃された下関を防御するために来関し、直ちに奇兵隊を結成しました。奇兵隊は「志」があれば武士以外の者でも入隊を許した画期的な軍隊でした。元治元年(一八六四)八月には、欧米列強との下関戦争の戦後処理にあたり、同年十二月には長府功山寺で挙兵して藩論を倒幕へと導きました。
 慶応二年(一八六六)六月からの四堺戦争では、奇兵隊などの諸隊を率いて幕府軍を小倉口で撃退しましたが、既に病に侵されており、慶応三年(一八六七)四月十四日、新地の庄屋林算九郎邸の離れ家で没しました。二十七年と八月の短い生涯てせした。
 以外は奇兵隊陣屋近くの吉田清水山に運ばれ、葬儀は白石正一郎が祭主となって神式で行われました。
 子の碑は大正十五年(一九二六)五月に再建されたもので、碑銘は書家としても著名であった長州藩出身の貴族院議員野村素介(のむらもとすけ)素軒(そけん))の揮毫です。
          下関教育委員会
 平成二十六年(二〇一四)十二月、白石家(正一郎末孫)からの御寄附を原資として、この地に環境整備を実施しました。


高杉晋作
 奇兵隊結成の地
長州藩を明治維新へと推し進めたのは奇兵隊であるが、さらに明治維新を解明する鍵が奇兵隊にあるともいわれている。奇兵隊は文久三年六月、この地の回船問屋白石正一郎家で結成された。正一郎は結成と同時に入隊し、高杉晋作を援けた。
年令も、身分もまったく違う二人のかたい結びつきが奇兵隊をささえたということができる。
          題字 山根寛作畫


白石正一郎
文化九年(一八一二)三月七日、この地に生まれ、明治十三年(一八八〇)八月三十一日、六十九歳で世を去った。
正一郎は、回船問屋小倉屋の主人として家業にたずさわるかたわら、国学に深い関心を持ち、四十三歳の頃国学者鈴木重胤の門下に入って、尊王攘夷論の熱心な信奉者となった。また「橘園」の号を持つ歌人でもある。
彼の残した日記は、明治維新研究にとって第一級の貴重な資料といわれるその中には、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)のいわゆる維新の三傑をはじめ、坂本龍馬、梅田雲浜など志士四百人余の名を数えることができる。また、明治天皇の叔父中山忠光卿、三条実朝卿等七卿も白石家に滞在している。
文久三年(一八六三)六月、白石家で奇兵隊が結成されたことは、あまりにも有名であり、以来、彼も奇兵隊員として、また商人として高杉晋作と親交を深めるとともに奇兵隊を援助した。
このあたりに白石家浜門があって、海へ通じており、志士たちはここから出入した。
白石家の海へ降りる門は新しい時代へ向かう黎明の門だったといえる。
          中国電力株式会社


夏の七草2019

 夏はもう終わりの筈ですが、気がつくと夏の七草全7種を撮影できていました。


 シロザ:(白藜、Chenopodium acuminatum var. album
 イノコヅチ:(猪子槌、Achyranthes bidentata var. japonica
 イヌビユ:(犬莧、Amaranthus blitum)
 スベリヒユ:(滑莧、Portulaca oleracea
 シロツメクサ:(白詰草、Trifolium repens
 ヒメジョオン:(姫女菀、Erigeron annuus
 ツユクサ:(露草、Commelina communis


夏の七草2016 夏の七草2012

三浦の社を巡って

 今日は三崎口を起点として城ヶ島方面を歩いてみました。これで、横須賀以南のGoogleMapに載っているようなメジャーな社は概ね撮影できました。次は文献調査ですが、こちらはなかなか捗りません。
  訪問済みの神社、等
【主な経路】
 三崎口駅-原妙義神社-稲荷神社-宮川神明社-三浦三峯神社-(向ヶ崎)諏訪神社-(向ヶ崎)龍神社-(晴海)龍神社-櫻稲荷神社-日枝神社-稲荷社-城ヶ島海南神社-楫の三郎山神社-洲乃御前神社-東岡城辺稲荷神社-三崎口駅


【原妙義神社】三浦市三崎町六合196

 原妙義神社由来
群馬県甘楽郡の妙義神社から御分霊、この地に鎮座されたと伝えられているが何時の時代かは本社にも記録が無く、この里の古老に聞いても定かでない。しかし境内のお清水鉢には日露戦争(明治三七年~三八年)に従軍し、無事凱旋した原の里人が奉納した旨が記され、さらに銀杏の木の大きさから推察すると鎮座はそれよりかなり以前のことと思われる。社前に居住する織部氏所有の敷地に社殿を建立、以後同氏は代々神社をお守りしてまいりましたが、近年織部氏の御奇特により原区に寄贈されました。毎年九月の祭司は古くから三崎海南神社宮司が執行、管理運営等については原稲荷神社の総代会が行っています。妙義さま(当地ではこのように親しくお呼びしている)は、開運、商売繁盛の神、火伏の神、縁結の神、農耕の神、学業の神として崇められ、御神木の銀杏の木の皮の一部をお守りとして受験する子供に持たせると合格するご利益があると言われ、御祭神である学問の神様、菅原道真公の御遺徳と伝えられる。
本社、群馬県妙義神社の御祭神は、日本武尊、豊受大神、菅原道真公、権代納言長親卿
創建は宣化天皇の二年(今から一四〇〇余年前)
         平成二十二年十一月
   原妙義神社


【原稲荷神社】三浦市原町10

(説明版通り、字句修正せず)
     原稲荷神社由来
原区の氏神様として古くより住民の深く信仰するところであるが、その創建は江戸時代とも又はそれ以前ともいわれているか定かではない。唯、境内に奉納されている。眷属(お狐様)には元治元年(一八六四)年を刻み込まれた年号を読み取れることができる。
祭神は「宇迦之御魂大神」「須佐之男命」の二柱を祀る。
三浦市郷社海南神社との所縁は、遠く貞観六年(八六四)ごろ藤原資盈、盈渡姫と家臣が三崎に漂着した時、海岸に藻を拾いに来ていた原部落の者が藤原資盈(すけみつ)主従を助けて案内したと云う故事があったことから海南神社の祭礼には、原区の氏子が雨の面、風の面をかぶって神輿渡御の道案内の先頭に立つ「謂われ」だと、伝えられている。(黒塗りが雨の面、朱塗りが風の面)三崎郷土史参考
明治四十二年三月十二日政令により郷社海南神社に合祀されたが、或る日稲荷大明神が原区の古老の夢枕にたたれ、原のお社に帰りたい旨のお告げがあったということで昭和二十七年区民の総意によってもとの境内地に再建した。その後本殿の老朽化により平成十四年七月新築したお社が現在の原稲荷神社である。
毎年九月三日が例祭日であるが、近年種々の都合により九月第一日曜日に海南神社宮司によって祭詞奏上が行われ、原区芸能保存会の祭り囃子の和太鼓、獅子舞が奉納される。
四年毎の大祭には神輿、山車が区内を練り、歩き、各所で祭詞を奏上獅子舞を舞いながら家内安全五穀豊穣商売繁盛の祈願を行う行事がある。
         原稲荷神社 社務所
          三浦市原三番十三番地


【宮川神明社】三浦市宮川町17-46


【三浦三峯神社】三浦市岬陽町20-3


【(向ヶ崎)諏訪神社】三浦市3


【(向ヶ崎)龍神社】向ヶ崎町8


【(晴海)龍神社】晴海町8


【櫻稲荷神社】三浦市晴海町18


【(晴海)日枝神社】三浦市晴海町19-13


【(向ヶ崎)稲荷社】向ケ崎町17


【城ヶ島海南神社】三崎町城ヶ島408


     城ヶ島海南神社
 明治中頃の資料を見ると「三崎海南神社の分霊なり、元亀(一五七〇~一五七二)以前、村民は毎月三日三崎海南神社に詣りを例とす。然るに烈風暴風に際し、渡航甚だ難しい故に、分霊を勧請して村社と定むと云う。」と書かれており、三崎の海南神社を分霊したことが分かります。(祭神は)藤原資盈公(ふじわらすけみつこう)、相殿に右大将源頼朝公(うだいしょうみなもとよりともこう)楫三郎公(かじのさぶろうこう)
 遊ヶ崎海岸(宮ヶ崎)に鎮座されていましたが、暴風で破損され明治十一年、三崎を望む現在地に遷したと言われています。
 明治の中頃まで、海南神社の祭礼は七月十八日に行われ、船祭りの形をとり、花暮が年番のときには、城ヶ島からも御座船を出し、御船唄を唄いながら。神輿の海上渡御が行われていました。この御船唄は、保存会によって歌い継がれ、祭礼などで披露されています。
 現在は、毎年七月十七日が例祭日で神事・御神楽の奉納を行っていますが、神輿渡御は五年に一度七月十七日、十八日に行っています。
     平成二十三年五月吉日     城ヶ島海南神社総代


【楫の三郎山神社】三崎町城ヶ島670


  (かじ)の三郎山
 この楫の三郎山は、対岸の三崎にある海南神社の際神藤原資盈公が貞観六年(八六四年)故あって九州博多を出航し、途中暴風にあい漂流の末、三崎に着岸されました。このとき、御座船の楫とり役を司っていた家臣三郎をこの山に祀り、楫の三郎山と呼ぶようになったと伝えられています。
 また資盈公が「わが住むべき地があるか」と問われたので、三郎がそのとっていた楫で占い、楫が落ちた所に鎮座、これが神号になったとも伝えられています。
 大正初年頃までは、この山に主の大蛇がすんでいるから上るとたたりがあるとの言い伝えがあり。誰一人登ったことがなかったと言われています。
 今では、航海の安全と大漁を祈願する漁業関係者の信仰が厚く毎月七日、十七日、二十七日に多くの人々が参拝に訪れています。
          三浦市


【洲乃御前神社】三崎町城ヶ島安房崎
  安房崎と洲の御前【注:誤記はルビで修正】
 安房の国といえば当地より望見する南房総の一帯をいいますが、その安房に向く岬という意味から安房崎の地名がついたといわれております。
 海のかなたにあこがれる人々の心は昔も今も変わりありませんが、往時この岬に立って海越しに安房の国を眺めた人の想いはどのようであったでしょうか。
 洲の前御前社は三崎の海南神社の祭神藤原資盈の家臣四郎を祀ったといわれていますが、この祭神は、石を噛み砕き鉄を爪で切るほどの勇猛大剛なので、始め洲荒御前と称したといわれます。
 境内には、源頼朝が洲の御前社参詣の折に催した宴に使った揚子(楊枝?)を挿したのが育って周囲三メートル余にもなった「びゃくーん(びゃくしん)」の大樹がありましたが、貞観三年(一六八六)四月台風の日、自然発火して焼失したと伝えられています。
 安房崎の「はな」は海中に突出した磯のため浅瀬が多く、航行する船舶の難所であったため昭和三十七年現在ある白亜のスマートな無人灯台が設置されました。
          三浦市


【出世稲荷社/鬼王権現社】三浦市三崎1丁目10


【東岡城辺稲荷神社】三浦市城山町1-14


 以下、本日撮影のその他の写真です。


【参考】
 ユウゲショウ Oenothera rosea
 地蔵尊:三浦市初声町下宮田215-4
 タンキリマメ Rhynchosia volubilis
 夫婦地蔵(3基)と地蔵尊
 六十六部巡拝祠:三浦市三崎町六合12-1
 オオヤマフスマ Arenaria lateriflora
 ツルレイシ(ニガウリ) Momordica charantia var. pavel
 青首大根 Raphanus sativus var. longipinnatus
 アレチウリ Sicyos angulatus
 ホテイアオイ Eichhornia crassipes
 ハナセンナ Cassia corymbosa
 ヒメマツバボタン Portulaca pilosa
 神奈川県水産技術センター
 にじいろさかな号
 島の娘:小川清彦作
 大島桜(おおしまざくら)Cerasus speciosa
 トビ Milvus migrans
 ミヤコグサ Lotus japonicus
 ハマエノコロ Setaria viridis
 ソナレムグラ Leptopetalum strigulosum
 ハマエンドウ Lathyrus japonicus
 地蔵尊:城ヶ島灯台公園
 城ヶ島灯台
 ツルボ Barnardia japonica
 スカシユリ Lilium maculatum
 メドハギ Lespedeza cuneata
 馬の背
 ハマゴウ Vitex rotundifolia
 ワレモコウ Sanguisorba officinalis
 ワダン Crepidiastrum platyphyllum
 安房崎灯台
 鋸山 遠望
 シロダモ Neolitsea sericea
 北原白秋詩碑
 道祖神(?)(ごはん亭茶屋)
 ノブドウ Ampelopsis glandulosa var. heterophylla
 庚申塔(3基):東岡城辺稲荷社
 庚申塔群(6基)、地蔵尊:三崎町小網代
 富山(とみさん) 遠望
 コマツヨイグサ Oenothera laciniata


     誌
慶安元年烽火台トシテ始マリ延寶六年篝火台ニ改メ 明治三年洋式灯臺ヲ創設 大正十二年大震災ニ倒壊 同十五年改築完成ス
茲ニ八十年ヲ記念シ碑ヲ建テ感謝ノ徴衷ヲ表ス
  昭和二十四年七月九日
     三崎町


慶応二年江戸条約により端を発し洋式灯台の建設が始まりました。この城ケ崎灯台も明治三年十一月初めて一条の光を放ってより、油、ガス、電気とその発展の過程において時代毎に新しい技術を吸収し独創的な開発改良を重ねて現在に至っております。その間、関東大震災、太平洋戦争と破壊的な打撃を受け、その歩んで来た道は決して平坦なものではありませんでした。
 由緒あるこの灯台も平成二年十一月にし百二十年と言う歴史を刻みましたがこのむ間幾多の船人達の命と貴重な財貨を人知れず救って来た功績を永く顕彰し、その陰には黙々と守って来た代々灯台職員各位の苦労に感謝すると共に、みの年を節目として無人となるため島民有志一同会い集い感謝の念を後世に伝えるべく石碑に託しここに建立するものである。
  平成三年十月五日
     城ヶ島観光協会


   北原白秋詩碑
雨はふるふる 城ヶ島の磯に
  利休ねずみの 雨がふる
雨は真珠か 夜明の露か
  それとも私の 忍び泣き
舟はゆくゆく通り矢のはなを
  濡れて帆あげた 主の舟
舟は櫓でやる 櫓は唄でやる
  唄は船頭さんの心意気
雨はふるふる 日はうずぐもる
  舟はゆくゆく 帆がかすむ


Kitahara Hakishu Memorial Monument inscribed with Poem
Jougashima no Ame (Rain Over Jougashima)
The rain is falling, falling, over the rocky shores of jougashima.
Tha rain, grayish greened, is falling.
The rain id falling like parles oe like mist at predawn.
Or like my tears on my cheek.
A boat is going, going, passing the tip of Toriya.
You put up the sail in the mist.
Oh, a boat goes with an oar, an oar the terryman pulls singing a song.
The song comes out of his heart.
The rain id falling, Falling, and the sky is covered bu light clouds.
The boat is going down, down, and the sail is being lost in the haze.


大正二年(一九一三年)五月、白秋は家族とともに東京から三崎に移り向ヶ崎に新居を構えます。大正三年(一九一四年)三月まで十ヵ月ほどの三崎時代ではありましたが、この間、多くの作品が残されています。三浦三崎には、市内各所に白秋の足跡があり、まさに白秋詩魂のふるさとということができます。「城ヶ島の雨」は、大正二年に白秋が船唄として作詩し、これに梁田貞が作曲してできた作品です。この詩碑は、白秋の筆跡を彫り、昭和二十四年(一九四九年)七月、ここから五十メートル東の磯に建てられ、のち現在地に移されました。
          三浦市


Hakushu moved from Tokyo to Misaki, and established his new home at Mukougasaki in May of 1913. Although he lived in Misaki only for 10 months until March of 1914, a lot of works ware made during this period. It is able to remark that Miura Misaki is the homeland of Hakushu’s poetic sentiment when you look to the marks which he left in various parts of the city. 「Rain Over Jougashima」 is a song whose lyric Hakushu wrote in 1913 as a sailor’s song and Tadashi Yanada set this poem to music. Hakushu’s handwriting was craved in this Memorial Monument which was built at the shore that located 50 meters to the east from here July of 1949. Later it was removed here.
          Miura City

南区・中区の霊場拾遺

 これまでに撮影していなかった中区と南区の社などを訪ねました。
【清水ヶ丘教会】南区南太田1丁目37-10


【(元長者町)水天宮】南区西中町4丁目


【稲荷社】南区浦舟町5丁目


【日本キリスト教会横浜海岸教会】


【横濱媽祖廟】中区山下町136


【末日聖徒イエス・キリスト教会 山手ワード】

 1901年9月1日の朝、末日聖徒イエス・キリスト教会4人の宣教師は謙遜な心をもって集い、「真理を宣言し、主の目的を成就するため」、日本を奉献した。ヒーバー・J・グラント、ルイス・A・ケルチ、ホレス・S・エンサイン、アルマ・O・テーラーの各長老は、横浜の、この地にほど近い人目につかない場所へ歩いて行き、小さな森の中でともにひざまづいた。十二使徒定員会会員で日本伝道部の部長でもあったグラント長老は、そこで奉献の祈りをささげた。
 その祈りについて、テーラー長老は次のように記している。「彼の舌は緩められ、御霊が豊かに宿った。御霊の力があまりにも強かったために、彼の口から言葉が出るたび、わたしたちの心は内に燃え、神のみ使いたちが近くにいるのを感じたほどであった。」
 この碑は、日本各地の忠実な協会員によね一世紀にわたる献身を記念するものであり、イエス・キリストの福音がこの偉大な国の人々に今後も祝福をもたらし続けるという希望の灯としてここに立つ。
          2001年9月1日


【諏訪神社】中区諏訪町13


【琴平神社】中区和田山1-35

  琴平神社由緒
御祭神 金山彦命
    大物主命
由緒
 当神社は、小田原北條家に属せし、橋本伊賀守がその守護神として奉斎し、正親町天皇の御代天正四年(室町時代)に創建された神社と言われている。
 天徳寺の持神社であった琴平神社が。明治政府の神仏分離政策に基づき、お寺より離れて、神社として祭祀を行う事と成った。
 大正十二年九月の関東大震災で総欅権現造りの社殿を始め、社務所・石鳥居・六十九段の石段等が倒壊したが、昭和三年の昭和天皇御大典を記念して、社殿・社務所を再建し、更に昭和六年に木造鋼板張の鳥居及び堅石造りの石段をも復活させて、旧来の神社の姿に蘇った。
 その御神徳は顕著にして、本牧・根岸の地元は基より、遠くか房総方面からも参拝者が有り、特に漁業関係者の信仰が厚かった。
 しかし乍ら、昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲に依り、社殿を含む一切の建物、工作物が消失し、更には終戦後、進駐軍が境内地を含む附近一帯を接収した為に、神社の再建が出来ず、仮に中区西之谷に鎮座する北方皇大神宮に、奉斎して祭祀を行っていた。
 平成元年に接収解除に伴なう横浜市の区画整理事業も終了し、戦前の鎮座地(中区本牧字天徳寺七〇八番地)が山頂公園計画地の内に含まれている為、その近くの現在地に換地され、平成三年五月に四十五年振りに、社殿・社務所等を再建して、仮鎮座地の北方皇大神宮より遷座して現在に至っている。
 一、例祭日
    春の大祭 五月十日
    秋の大祭 十月十日
 一、鎮座地  横浜市中区和田山一番地の五


【吾妻神社】中区本牧原29-18

吾妻神社
 本牧は江戸時代から漁業が盛んな街で江戸日本橋新肴場と呼ばれる魚市場へ鮮魚を卸していました。吾妻神社は地域の漁業関係者からの信仰も厚く、現在も残る御影石造りの石玉垣に刻まれた名前からねその様子がうかがえます。
御由緒
 創建年代は不明ですが江戸時代の古文書に本牧本郷村原地区の鎮守として紹介されています。かつては吾妻権現社、吾妻明神社とも呼ばれていました。
 横浜大空襲により消失した御神体の背面には文和三年(一三五四年)正月十七日祠基謹平重広と銘記してあったと伝えられることから新田義貞の家臣篠塚伊賀守重広が勧請したとの説があります。また、木更津の吾妻社の御神体が波に漂っていたところを当時の漁師吉太夫が網ですくい上げ天和三年(一九八二年)に社殿を建てて祀った、との説もあります。
御祭神 日本武尊
例祭 一月十七日 七月十七日
御利益 子どもの神・疳の虫・病気平癒・安産・海上安全・大漁満足
境内社 嬬恋稲荷社
          令和元年五月
           吾妻神社総代 奉納


【本牧神社】中区本牧和田19-1

  本牧神社本殿遷座に際し
 本牧神社(旧称・本牧十二天社)は、旧来、本牧岬の先端(本牧十二天一番地)に張り出した出島の中に鎮座し、巨古木蒼然たる杜に囲まれ、鳥居の脚元には波頭打ち寄せる風光明媚な鎮守様でありました。
 その様子は江戸名所図会にも「本牧塙 十二天社」として描かれ、江戸湾を往来する廻船からは航路安全、地元民からは守護神と崇められ、本牧十二天の地に八百年以上も鎮座してあつい信仰を受けていたのです。
 しかし、先の大戦の終戦直後の昭和二十一年、ひの本牧地区は二十三万坪に及ぶ進駐軍の強制接収に遭い、以来、平成五年までの四十七年間、神社は本牧町二丁目に仮遷座を余儀なくされ、多くの氏子共々、苦難の時期を過ごしておりました。
 伝記には、建久二年(西暦一一九二年)、源頼朝公が鎌倉幕府を開くにあたり、旗門(北東の方角)守護を祈念して平安時代から存せる神殿に朱塗厨子を奉納した、とございます。
 また、鎌倉将軍維康親王より社領の寄進。中頃。両菅領よりも同様に社領寄進。天正年間には徳川家康公の関東御入国に際し、高十二石免御朱印の下置、以来、徳川十五代将軍より御代々頂戴-とあり、方除け、厄除けにご神徳が顕然(あらたか)として、武家や庶民からあつい信仰を受けてきたのです。
 また、室町時代の永録九年(西暦一五六六)から四百年以上も地元住民に受け継がれて来た当神社の「お馬流し」神事は、「ハマの奇祭」として神奈川県指定無形民俗文化財、県民俗芸能五十選であり、毎年八月上旬に現在も斎行され続け。強度の祭りとして保持されております。
 米軍の接収解除とともに、返還地域一帯は横浜市による区画整理事業が施行されました。産業道路の直線整形、消防署の建設などの公共事業計画に伴い、当神社の社有地は従前地の「本牧十二天一番地」ではなく、この「本牧和田」の新天地に換地されました。
 この新社地は、表通りに続く前面も、後背地の丘も公園であり、境内地全面が南向きの雛壇形状という、鎮守様をお祀りするのに絶好の境内地であります。
 四十七年前、仮遷座を忍ばれておられた大神様に、氏子崇敬者の創意による赤誠を捧げ、浄財を募って建立されたのがこの新神殿でございます。
 権現造りの神殿は、総銅板葺きで、唐破風と千鳥破風の二重破風、屋根坪は百坪を超して横浜最大を誇ります。本牧地区住民の敬神の念のあつさ、郷土愛の深さを如実に表すとともに、広く慕われるご神威、ご神徳の賜物でございます。
 本牧地区の目覚ましい再開発とともに、大神様に新しいご社殿、すがすがしい聖域の境内にご鎮座いただくことは、更なる御神徳の発揚をたまわり、私達が祖先から連綿と受け継いで来た「郷土・本牧」の住民一同の「心の寄りどころ」として、のた、明日を担う子供達には幼き日の懐かしいふるさとの思い出となる、と強く関心致しております。
 氏子崇敬者の皆様の、弥栄の御発展とご隆昌を祈念申し上げますとともに、本門神社のご神威を弥増しに増すために、今後も展開される神社の諸事業に、更なる強いお力添えを賜りますよう、衷心より重ねてお願い申し上げる次第です。
               再拝
  平成五年十月吉日
     本牧神社復興奉賛会
     本牧神社氏子総代会
     本牧神社々務所


木造祭礼船が復興しました
 当社の例祭に行われる「お馬流し」は、永録九年(一五六六年)から四百年以上受け継がれております。「お馬さま」は茅(カヤ)で作られ、馬頭亀体をしており、旧本牧六ヶ村にちなんで毎年六体が羽鳥家の当主により作られます。この「お馬さま」は一年間の本牧中のあらゆる災厄を背負っていただき、東京湾沖合に流す神事が「お馬流し」です。
 平成二十五年、氏子、崇敬者の皆さまのご支援を得て、木造祭礼船が修理・復興され、五十年ぶりにその勇姿を本牧の海に浮かべることができました。埋め立て前までは、三~四十名の若衆が乗り込み、お馬さまを流したあとは、岸に向かって力いっぱいの競漕が行われ、その勇壮な姿に本牧中が大いに沸き立ったものです。
 只今は、お馬流しの当日、本牧漁港では修理。復興のなった木造祭礼船によるかつての勇壮な姿を、皆さまにお見せする工夫をいたしております。
「お馬流し」


本牧神社 年間祭典神事
  1月 1日  歳旦祭
  1月 3日  元始祭
  2月上旬  宇氣の稲荷初午祭
  2月中旬  祈年祭
  2月下旬  本牧天神社例祭
  5月 5日  本牧水天宮例祭
  6月下旬  夏越大祓式
  8月初旬  例大祭 お馬迎え式
       お馬送り式 お馬流し
  9月上旬  八王子大神例祭
 10月15日  熊野速玉社例祭
 11月23日  新嘗祭
       宇氣の稲荷社例祭
 12月31日  年越大祓式
 毎月1日、15日 月次祭 午前8時30分斎行(どなたでもご参列できます)


   本牧神社御祭神
主祭神 大日霊女命(おおひるめのみこと)(天照大御神(あおてらすおおみかみ))
 相殿 須佐能男命(すさのおのみこと)
    大山津見命(おおやのつみのみこと)
    木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
摂社
■正一位宇気の稲荷社  「宇気」は「豊受」の「ウケ」で、五穀豊穣をつかさどる「保食の稲荷大明神」の意。また「宇気」は「有卦」てあり、「有卦に入る」という言葉のように、陰陽道で「吉兆」を啓示し≪素晴らしい人物や金運にめぐり逢える≫とも言われる。気学では、「宇」は「家の屋根のひさし」を意味し、「宇気」は「家に《気》が満ち満ちているさま」を具現し、商売繁盛・社業繁栄・五穀豊穣・開運招福にご神徳あらたかと伝えられる。
■本牧天神社  学問の神様といわれる「菅原道真」公をまつり、横浜の名園「本牧三渓園」に間門より移築されている「間門天神」と同様、京都の北野天満宮よりご分霊をいただいている。特に受験生などに合格祈願。学業成就のご神徳を慕われている。
■本牧水天宮  横浜には珍しい水天宮は、安産の守り神として名高い。懐妊五カ月目の戌の日に参拝し、「壽」と書いた岩田帯を締め、安産のうちにすこやかな赤児を授かるように祈念する。
■縁切り熊野神社  速玉之男神(はやたまのをのかみ)をまつる。日本書紀によれば、イザナギノミコトが黄泉国の醜さを嫌ってイザナミノミコトに対し族離れ(うからはなれ)(離縁宣言)をなされたとき、振り払った衣の裾からお生まれになった神。「悪しき縁を断ち、けがれを祓う」ところから、転じて「良縁にめぐり逢い、相整う」という。
阿夫利神社(あふりじんじゃ)  大山阿夫利神社より分霊を受け、大山祇神(おおやまずみのかみ)をまつる。森林・山岳の神であると共に、大山が、相模湾、東京湾の漁師に好漁場を知らせる目安(山アテ)であることから、大漁満足、航海安全のご神徳で知られる。
■若宮八幡宮  「若宮」とは本宮のご分霊を奉斎しているの意。京都・石清水八幡宮より受けている。誉田別命(ほんだわけのみこと)(應神天皇)、比賣神(ひめがみ)息長帯姫命(おさながたらしひめのみこと)(神功皇后)を併せのつり共に軍神、武勇の神として源氏をはじめ、その流れを汲む武将(新田・足利・戦国大名の武田・佐竹・里見・小笠原・南部、徳川・池田・蜂須賀等)に崇拝されてきた。


【宇気の稲荷社】本牧神社境内社

   宇気の稲荷社
 稲荷大明神(宇賀御霊命=うがのみたまのみこと)は五穀豊穣、商売繁昌、社業繁栄、開運招福にご神徳あらたかといわれる。
 宇気(うけ)は、豊受(とようけ)の「ウケ」。「豊」は物事が満ち足りているさまを表す美称。「ウ」は発語、「ケ」は元々、百千草の生命力を崇めた語で、それが万物に生命の存在を認める日本人の生命観となり、のちに五穀豊穣などの稲荷信仰へと受け継がれた。 また、「宇気」は有卦(うけ)であり、「有卦に入る」という言葉があるように、陰陽道においては吉祥(きっしょう=めでたいしるし)の連綿、続現を示し、《素晴らしい人物や隆昌運、金運に次々とめくり逢える》といわれる。
 気学では、「宇」は「家の屋根(ひさし)を意味し、」「宇気」は「家に《気》が充ちているさま」を具現することから、この宇気の稲荷社には、祠(ほこら)に覆殿(おおいでん)を付けた。
 感情にあたっては、本牧神社の主祭神である天照皇大御神(あまてらします・すめおおみかみ)の悠久の御璽(みしるし)、大御稜威を拝受して帰浜、相殿に奉鎮した。
  平成十六年甲申年吉日  奉納


【熊野速玉社】本牧神社境内社

縁切り 縁結び
 縁の神 熊野速玉社
 室町時代より本牧十二天社(本牧神社の旧称)の境内社として祀られていた六社のうちの一社。速玉之男神を祀る。和歌山県新宮市にある熊野速玉大社より勧進された。御神紋は三本足の八咫烏。
 日本書紀によれば、速玉之男神は伊邪那岐命が黄泉国の醜さを嫌って、伊邪那美命に対し族離れ(別離宣言)をなされたとき、振り払った衣の裾からお生まれになった神。「悪しき縁を断ち、汚れを祓う」といわれ、転じて「良縁に巡り逢い。相整う」という。
 傍らの双胴の絡み合う木は「榎」で、榎は「縁の木」(ゑんの気)といわれ、心深く念じながらぐるりと根元を右に廻れば、さらに絡み合い、「良縁」が深まり相整う。左に廻れば絡みを解いて悪縁との「縁切り」が叶い、新しき「ゑにし(縁)を期すことが出来るという。」


【稲荷社】中区根岸町1丁目18


【稲荷社】中区根岸町2丁目46


【御嶽神社】中区根岸町2丁目113


【子育地蔵尊(大聖院)】根岸山大聖院覺王寺:磯子区東町9−6


【浜マーケットの小島家が閉店】

2015年1月24日撮影
 先月通りかかったときには営業していたのですが……。